第22話 玻月の記憶
夜の廃駅には、音がなかった。
正確には、音そのものはある。
雨上がりの雫が錆びた屋根の端から落ちる音。線路に溜まった水が、風に揺れて小さく波立つ音。遠くの国道を走る車の低い振動。古い駅舎の壁板が湿気を含んで、時折かすかに軋む音。
だが、それらはすべて、音になりきる前に闇へ吸われていた。
人の声がない。
電車の音もない。
改札を抜ける足音も、券売機の電子音も、ホームに流れる案内放送もない。
廃駅は、かつて音で満ちていた場所の抜け殻だった。
御影堂玻月は、崩れかけた改札口を越えてホームへ出た。
黒い長衣の裾が、湿った床の上をすれすれで揺れる。濡羽色の長い髪は低く結ばれ、片耳の古い銀の耳飾りが暗がりの中で鈍く光った。白手袋は、夜の廃駅では異様なほど白く見える。闇の中で、そこだけが人のものではないように浮いていた。
足音はほとんどしなかった。
玻月は、誰もいないホームの中央で足を止めた。
崩れたベンチ。
剥がれた時刻表。
読めなくなった駅名標。
線路の向こうには雑草が伸び、雨粒を乗せた葉が月明かりを鈍く返している。ホームの端にある古い鏡には、割れ目が走っていた。夜の闇と、玻月の黒い姿だけが歪んで映っている。
その鏡の下に、妖がいた。
小さい。
まだ形になりきっていない。
線路に落ちた切符、誰も来ないホーム、待ち続けた気配、忘れられた足音。そうしたものが寄り集まって生まれた、下級の妖だった。外見は黒い布の塊に近い。人の頭ほどの大きさで、濡れた切符の束のようなものが身体を覆っている。中央には、まだ柔らかい妖核がある。
本来なら、人を襲うほどの力はない。
夜に迷い込んだ者の足元へ古い切符を散らし、改札の向こうから「まだ来ない」と囁く程度のものだっただろう。悪戯に近い。怖がらせはするが、命を奪うほどではない。
自然発生した妖。
人の恐怖と寂しさの残滓から生まれた、弱い存在。
玻月はそれを見下ろした。
妖は震えていた。
退魔師の気配に怯えている。
自分が祓われるものだと、ぼんやり理解しているのかもしれない。黒い切符のような身体を縮め、ホームの影へ潜ろうとしている。だが、玻月が白手袋の指先を少し動かしただけで、妖の動きは止まった。
霊糸。
目に見えないほど細い糸が、妖核の周囲を縛っていた。
妖は逃げられない。
玻月は膝をつく。
白手袋の指先が、妖核のすぐ上で止まった。
「怯えるな」
静かな声だった。
優しさはない。
だが、怒りもない。
「今夜は、祓いに来たわけではない」
妖が小さく震える。
濡れた切符の端が、かさ、と鳴った。
玻月は懐から一枚の黒い符を取り出した。
普通の退魔符とは違う。
紙ではないように見える。薄い布にも、古い皮にも似ていた。黒い地に、さらに黒い線が描かれている。光を吸い込むような線。五つの角を持つ星の形。
黒い五芒星。
それは、符の表面で生きているようにかすかに脈打っていた。
玻月はそれを妖核の上へ置いた。
妖が暴れようとする。
だが、霊糸が締まる。
逃げられない。
白手袋の指が、黒い符の中央を押さえた。
瞬間、ホームの空気が重くなる。
雨上がりの冷えた匂いが、別のものへ変わった。焦げた霊符、古い血、湿った土、まだ口にされていない願い。そうしたものが混ざったような匂い。夜の廃駅に、見えない圧が降りる。
黒い五芒星が、妖核へ沈み始めた。
まず、角のひとつが核の表面へ食い込む。
柔らかな赤黒い核が、黒い線を拒むように震えた。だが、線は止まらない。水に墨が落ちるように、黒が核の内側へ広がっていく。妖核の霊力循環が乱れる。弱く、細く、怯えた流れが、無理やり捻じ曲げられた。
玻月は表情を変えなかった。
白手袋の指先に、黒い光が絡む。
術式を押し込む。
妖核の奥へ。
逃げ道を塞ぐ。
恐怖を増やす。
寂しさを飢えへ変える。
待つだけだった性質を、追いかける性質へ変える。
囁くだけだった声を、人を呼び寄せる声へ変える。
駅に残った「まだ来ない」という気配を、「来い」「戻れ」「ここへ落ちろ」という強制へ変える。
妖が震えた。
その震えは、怯えから苦痛へ変わっていく。
濡れた切符の束のような身体が膨らみ、内側から黒い腕のようなものが伸びる。小さかった妖の輪郭が歪み、ホームの影へ広がった。割れた駅名標の文字が、黒く滲む。線路に溜まった水が、静かに逆流するように震えた。
黒い五芒星は、妖核の中へ完全に沈んだ。
表面からは一度消える。
だが、核の奥で脈打ち続けている。
玻月は妖核から指を離さなかった。
まだ終わりではない。
印は沈めただけでは足りない。
妖の性質に合わせて、回路を作る必要がある。
廃駅。
待つ場所。
帰る場所。
失われた音が残る場所。
ならば、この妖に与えるべき凶暴性は、飢えではない。
追跡。
誘導。
呼び戻し。
誰かを、ここへ向かわせる力。
玻月の指先が、妖核の中で黒い線を組み替える。
妖はもう、ただの下級妖ではなくなっていた。
ホームの影が伸びる。
黒い切符が床へ散る。
その一枚一枚に、薄い文字が浮かぶ。
名前ではない。
行き先でもない。
ただ、同じ言葉が滲んでいた。
帰れ。
帰れ。
帰れ。
玻月の紫紺の瞳に、その文字が映る。
その瞬間だった。
耳の奥で、声がした。
現在の廃駅のものではない。
妖の声でもない。
もっと古く、もっと深い場所に沈んでいた声。
記憶の底から、白い指で水面を撫でるように浮かび上がる声。
『失ったものを取り戻せる』
玻月の指が、ほんのわずかに止まった。
夜の廃駅の空気が、遠のく。
代わりに、白い光が視界の奥に滲んだ。
雪のような白ではない。
清らかな白でもない。
何もかもを覆い隠す、冷たい白。
その中に、赤があった。
血の色。
床に広がる赤。
手のひらについた赤。
誰かの髪に絡んだ赤。
玻月は息をしなかった。
記憶の中で、誰かが倒れている。
顔は見えない。
見てはいけない。
見れば、何かが壊れる。
だが、そこにいることだけはわかる。
白い光の中で、赤いリボンが揺れていた。
細く。
頼りなく。
ほどけかけた命の印のように。
玻月の胸の奥で、古い痛みが動いた。
痛みというより、穴だった。
塞がらない穴。
何を詰めても埋まらず、何年経っても形を変えない空白。
その穴の縁を、声がなぞる。
『失ったものを取り戻せる』
取り戻せる。
その言葉は、甘くなかった。
救いにも聞こえなかった。
むしろ、毒に近かった。
だが、毒だとわかっていても、人は喉が焼けるほど渇いていれば飲む。実に愚かで、実に人間的だ。玻月がまだ人間と呼べるのかは、別の話だが。
白い光の中で、誰かの声が泣いていた。
違う。
泣いていたのは、自分だったのかもしれない。
あるいは、泣くことすらできなかったのかもしれない。
記憶は、いつも肝心なところで欠ける。
欠けた部分に、声が入り込む。
『失ったものを取り戻せる』
玻月の紫紺の瞳が、暗い廃駅へ戻った。
白い光は消えている。
赤も、リボンも、倒れた誰かも、今ここにはない。
目の前にあるのは、黒い五芒星を沈められた妖核だけだ。
妖は苦しげに震えている。
だが、その苦しみの奥で、凶暴性が育っていた。
黒い切符がホーム全体へ散り、床の影へ染み込む。改札の奥、階段、駅舎の壁、線路。妖の霊気が伸びていく。誘導の経路ができる。誰かが近づけば、切符が足元へ貼りつき、声が耳元で囁くだろう。
帰れ。
ここへ。
戻れ。
玻月はゆっくり立ち上がった。
白手袋の指先には、黒い光が少しだけ残っていた。
彼はそれを見た。
そして、指を軽く振る。
黒い光は消えた。
何事もなかったかのように。
だが、妖核の中では、黒い五芒星が脈打ち続けている。
玻月は割れた鏡のような駅の窓へ視線を向けた。
そこに映った自分の顔は、ひどく静かだった。
唇には薄い笑みがある。
目は笑っていない。
いつもの顔。
けれど、下唇の端には、まだ浅い傷が残っていた。
篠宮陽鞠に噛まれた痕。
白手袋の指先が、そこへ触れかける。
触れずに止まる。
あの金色の瞳。
拒絶。
怒り。
噛みついた時の迷いのなさ。
自分の境界を奪われまいとする、強い反応。
玻月は目を細めた。
陽鞠の結界は、似ている。
何に似ているのかを、彼はまだ言わない。
言ってはいけない。
言えば、すべてが崩れる。
あるいは、もう崩れているものに、名前がつくだけかもしれない。
ホームの奥で、妖がゆっくり形を変えた。
小さな切符の塊だったものは、今は人の輪郭に近づいている。だが、人ではない。身体の表面には無数の黒い切符が貼りつき、顔の位置には空いた改札口のような穴がある。その穴の奥で、赤黒い核が光っていた。
黒い五芒星は、まだ表へ出ていない。
沈んでいる。
奥に。
深く。
必要な時にだけ浮かぶ。
玻月はその状態を確認し、懐から細い霊符を三枚取り出した。
一枚はホームの端へ。
一枚は改札口の下へ。
一枚は駅名標の裏へ。
霊符は黒い光を吸い込み、すぐに見えなくなる。
これで、妖はすぐには動かない。
呼び水が必要だ。
強い霊力。
特に、あの二人の霊力。
金色の結界と、銀の刃。
二つが近づけば、沈めた印は目を覚ます。
妖は凶暴化し、廃駅全体が罠になる。
玻月はそこまで整えた。
手際は正確だった。
迷いはない。
だが、胸の奥では、先ほどの声がまだわずかに反響している。
『失ったものを取り戻せる』
取り戻す。
そのために、何を差し出したのか。
どこから戻れなくなったのか。
玻月はそれを考えない。
考えれば、手が止まる。
手が止まれば、何も残らない。
残らないことだけは、もう嫌というほど知っている。
失ったものは、黙っていても戻らない。
泣いても戻らない。
祈っても戻らない。
正しく生きても戻らない。
ならば、正しくない道を選ぶしかない。
そう思った夜があった。
そう思わせた声があった。
名を口にしてはいけない声。
白い光の奥から囁いた声。
玻月は目を閉じた。
廃駅の闇の中で、赤いリボンの残像が揺れる。
淡い藤色の髪。
硝子のような水色の瞳。
自分の名を呼ぶ声。
それらは、今ここにはない。
あるのは、取り戻せるという囁きと、そのために積み上げた黒い印だけだ。
ホームの端で、妖が小さく声を出した。
「かえ……れ」
歪んだ声だった。
まだ弱い。
だが、凶暴性は育っている。
玻月は目を開ける。
「まだだ」
静かに言った。
「君が呼ぶ相手は、まだ来ていない」
妖は震えた。
黒い切符が、ホームの床を這う。
その一枚が、玻月の足元へ近づきかける。
白手袋の指が動いた。
切符は一瞬で裂け、黒い霧となって消える。
「私を呼ぶな」
玻月の声は冷たかった。
「呼ぶべき相手を間違えるな」
妖は縮こまる。
恐怖ではなく、命令を刻まれた反応だった。
玻月は改札口へ向かって歩き出した。
背後で、廃駅が再び静かになる。
黒い五芒星を沈められた妖は、ホームの影へ溶けるように潜んだ。表面上は、何もいない。雨上がりの廃駅。誰も使わなくなったホーム。読めない時刻表。壊れたベンチ。
ただの廃墟。
だが、奥では印が脈打っている。
誰かが近づくのを待っている。
陽鞠と朔夜の霊力が届くのを待っている。
玻月は駅舎の出口で一度だけ立ち止まった。
夜の空には、雲の切れ間から細い月が見えていた。
月光は白い。
だが、記憶の中の白とは違う。
今夜の月は、ただ冷たいだけだ。
玻月は下唇の傷へ、今度こそ白手袋の指先を触れた。
噛みついた少女の怒りを思い出す。
金色の瞳。
「私の怒りを、私から取らないで」と言った声。
朔夜を止めながら、怒りを手放さなかった姿。
あれは、ただの強さではない。
ただの霊力でもない。
失われたものを取り戻すために必要な何かが、あの少女の中にある。
そう思った瞬間、胸の奥でまた声がした気がした。
『失ったものを取り戻せる』
玻月は目を細めた。
笑った。
けれど、その笑みはひどく薄かった。
「本当に、取り戻せるのなら」
呟きは、夜に沈む。
誰に向けたものでもない。
妖にも、声にも、過去にも、今は届かない。
玻月は再び歩き出した。
廃駅を背に、黒い長衣が夜へ溶けていく。
その背後で、ホームの奥から、低い声が一度だけ響いた。
「かえれ」
雨上がりの線路に、黒い切符が一枚落ちる。
そこには、行き先も名前も書かれていない。
ただ、黒い五芒星の線が、紙の奥深くに沈むように刻まれていた。




