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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第23話 赤いリボンの少女


 退魔学園の旧演習場には、夕方の光が斜めに差していた。


 かつて上級生の実戦訓練に使われていた場所で、今はほとんど使われていない。古い結界柱が四隅に立ち、地面には削れた跡がいくつも残っている。中央の石畳はところどころ割れ、雨水が溜まった跡が黒く染みになっていた。


 その日は、風が冷たかった。


 雲の流れが速く、空の色は薄い橙から灰色へ変わり始めている。結界柱の札が風で小さく鳴り、旧演習場の周囲に張られた立入制限の縄がかすかに揺れていた。


 陽鞠は弓を背負い、朔夜の隣に立っていた。


 右手薬指の指輪が、夕方の光を受けて小さく光る。左手首の浄化符はまだ残っている。玻月に触れられた痕は薄くなってきたが、完全には消えていない。見た目にはほとんどわからない。けれど、陽鞠自身にはまだわかる。


 気持ち悪さは、前よりずっと薄い。


 朔夜が何度も確認してくれたから。


 触っていいか、抱きしめていいか、キスしていいか。


 いちいち聞かれることが、こんなに安心になるのだと初めて知った。人間、当たり前を丁寧にされるとちょっと泣きそうになる。面倒な生き物だ。


 それでも、玻月の名前が出るだけで胸の奥は冷える。


 今日、二人が旧演習場にいるのは、その玻月に関する報告のためだった。


 かがりから、協会側のS級退魔師である御影堂玻月が学園敷地内近くに来ていると連絡が入った。理由は、先日の鏡妖の残滓について補足があるとのこと。陽鞠としては会いたくなかった。ものすごく会いたくなかった。廊下の床になってやり過ごしたいくらい会いたくなかった。


 だが、情報は必要だった。


 黒い五芒星。


 声、鈴、鏡。


 古いものと現代の器。


 そして、廃駅に関する新しい妖反応。


 何かが動いている。


 それを無視できない。


 だから、場所を旧演習場にした。開けている。視界が通る。かがりも近くの校舎で待機している。更紗と透羽にも位置情報を共有してある。朔夜も隣にいる。


 一人ではない。


 陽鞠は自分に言い聞かせた。


 旧演習場の入口に、黒い長衣が現れた。


 御影堂玻月だった。


 濡羽色の長い髪を低く結び、片耳には古い銀の耳飾り。黒い長衣の裾が風に揺れる。白手袋は相変わらず白く、夕方の薄暗い光の中でそこだけが浮いて見えた。


 下唇の端には、まだかすかな傷が残っていた。


 陽鞠が噛んだ痕だ。


 それを見た瞬間、陽鞠の胸に怒りが戻る。


 後悔はない。


 反撃したことを、後悔していない。


 朔夜の気配が冷えた。


 彼は陽鞠の半歩前に立つ。完全に隠すわけではない。だが、玻月の視線が直接届きにくい位置だった。


「用件を言え」


 朔夜の声は低い。


 玻月は薄く笑った。


「相変わらずだな」


「余計なことを言うな」


「では、要件だけ言おう。次の反応地点は廃駅だ」


 陽鞠は眉を寄せた。


「廃駅?」


「市北西部、旧白瀬駅。十年以上前に廃線となった路線の駅舎だ。自然発生の妖がいる」


「なぜ知ってるんですか」


「確認した」


 玻月は当然のように答えた。


 陽鞠の背筋が冷える。


「確認しただけですか」


「そうだ」


「何かしたんじゃないんですか」


 玻月の紫紺の瞳が、陽鞠へ向く。


 朔夜が一歩ずれる。


 遮る。


 玻月はそれを見て、少しだけ口元を動かした。


「信用がない」


「あると思う方が怖いです」


「もっともだ」


「そこで納得するの、本当に腹立つ」


 陽鞠は吐き捨てるように言った。


 玻月は怒らない。


 怒らないから、余計に不快だった。


「廃駅の妖は、通常より誘導性が強い。近づく者に『帰れ』と囁き、足元へ切符の形をした霊符もどきを貼る。強い霊力に反応するだろう」


「私たちを行かせる気ですか」


「君たちなら、反応を見るには適している」


 陽鞠の指が弓へ伸びた。


 朔夜の刀にも、霊力が流れる。


「また観察ですか」


 陽鞠の声は冷たい。


「あなたの言うことって、全部それ。妖がいる。危険がある。人が巻き込まれるかもしれない。そういう話なのに、あなたは反応を見ることばかり言う」


 玻月は静かに見ている。


「私は観察対象じゃありません」


「知っている」


「知ってるなら、言い方を変えてください」


「努力しよう」


「絶対しない顔」


 朔夜が低く言った。


「話は終わりだ。情報だけ置いて消えろ」


 玻月は、少しだけ肩をすくめた。


 その時だった。


 旧演習場の上空から、何かが落ちてきた。


 いや、正確には、落ちてきたのではない。


 跳んできた。


 風を裂く音がした。


 薄い藤色の影が、夕方の空を横切る。


 陽鞠が顔を上げる。


 朔夜も刀へ手をかけた。


 玻月だけが、わずかに目を伏せた。


 まるで、来るとわかっていたように。


「玻月ぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」


 少女の声が、旧演習場いっぱいに響いた。


 次の瞬間、淡い藤色の髪の少女が、一直線に玻月へ飛び込んだ。


 飛び蹴りだった。


 見事な飛び蹴りだった。


 人間の身体能力としては明らかにおかしい高さと速度。細い身体が風を切り、赤いリボンがひらりと揺れる。白い脚が一直線に伸び、靴底が玻月の横腹へめり込んだ。


 どごんっ。


 旧演習場に、鈍い音が響いた。


 玻月の身体が横へ吹き飛ぶ。


 黒い長衣が大きく翻り、彼は石畳の上を数メートル滑った。白手袋の指が地面をかすめ、なんとか体勢を整えかける。


 だが、少女は止まらなかった。


「また陽鞠ちゃんか!!!」


 叫びながら着地する。


 淡い藤色の髪が肩のあたりで揺れた。硝子のような水色の瞳は、夕方の光を受けて透き通るように輝いている。肌は白く、表情は明るい。明るすぎる。嵐が満面の笑顔で突っ込んできたような明るさだった。


 首元には、赤いリボン。


 鮮やかな赤。


 不思議なほど目を引く赤だった。


 少女はひらりと身を翻し、吹き飛んだ玻月へさらに詰める。


「嫌がる女の子に何してんだあんたは!!!!」


 陽鞠は固まった。


 朔夜も固まった。


 玻月は起き上がりかけた姿勢のまま、片手をついた。


「結衣子」


「男だからってなにしてもいいんか!!!?」


 少女、結衣子は聞いていない。


 まったく聞いていない。


 勢いだけで世界を殴り倒している。


「ふざけるな!この浮気野郎が!!!!!」


 浮気野郎。


 その単語が、旧演習場の空気を奇妙な角度へねじ曲げた。


 陽鞠は目を見開く。


「浮気……?」


 朔夜が無言で陽鞠の前に立ったまま、ちらりと玻月を見る。


 その目には、警戒と怒りと、ほんの少しの困惑が混じっていた。無理もない。敵かもしれない男が突然飛び蹴りを食らい、浮気野郎呼ばわりされているのだ。退魔師の訓練にもこういう状況は載っていない。載っていたら嫌すぎる。


 玻月は立ち上がろうとした。


 だが、結衣子の方が速かった。


 彼女は玻月の胸倉を両手で掴み上げる。細い腕なのに、力がおかしい。玻月の身体がぐいっと持ち上がり、黒い長衣の襟元が引き寄せられた。


「まずさ!!!!!」


 結衣子は叫んだ。


 そして、激しく揺さぶった。


 がくがくがくがくっ。


 玻月の長い髪が揺れる。


 銀の耳飾りがぶらぶら振れる。


 白手袋の手が、結衣子の腕を押さえようとして、微妙に失敗している。


「そのいかれた脳みそでよく考えてみて!!?あんたには私という可愛い可愛い彼女がいるよね!!?」


「結衣子、落ち着け」


「落ち着けるかぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 がくんがくんがくんっ。


 揺さぶりがさらに激しくなる。


 玻月の身体が石畳の上で半分浮いた。どうなっているのか。物理法則が泣いている。もう泣きすぎて声も出ない。


「そぉれが他の子を気にかけたどころかキス!!!」


 陽鞠は顔が一気に赤くなった。


「いや、あれはキスじゃ」


 言いかけて止まる。


 説明したくない。


 どう説明しても地獄だ。


 朔夜の気配がまた低く冷える。


 結衣子は陽鞠の方を一瞬見た。


 硝子のような水色の瞳が、驚くほど澄んでいた。


「陽鞠ちゃんは悪くないよ!! 全ッッッ然悪くない!! 被害者!! 超被害者!! 百対ゼロでこいつが悪い!!」


「え、あ、はい……」


「ごめんねぇぇぇぇぇ!!! うちの玻月がほんっとごめんねぇぇぇぇぇ!!!」


 明るい。


 声が大きい。


 勢いがすごい。


 でも、言っていることは妙にまともだった。


 嫌がる女の子に何をしている。


 男だからって何をしてもいいのか。


 陽鞠は、その言葉に少しだけ胸が熱くなった。


 見知らぬ少女なのに。


 突然飛び蹴りしてきたのに。


 この子は、陽鞠が嫌だったことを、ちゃんと嫌なこととして扱っている。


 それだけで、少し救われる。


 ただし状況はめちゃくちゃである。救いと混乱が同時に来ると、人間の脳は処理落ちする。


 結衣子は再び玻月へ向き直った。


「浮気なんですけど!!?私浮気反対派なんですけど!ワンナイトでも許さないんですけど!」


「話が飛躍している」


「飛躍させたのはあんたの行動でしょーが!!」


 どがっ。


 胸倉を掴んだまま、膝で軽く玻月の腹を小突いた。


 軽く。


 たぶん本人としては軽く。


 玻月の身体が少し沈んだので、軽くなかった。


「お前の彼女は誰!!?」


「……結衣子」


「声が小さい!!!!!」


「結衣子だ」


「別れるんか!!?私たち!!いや別れないから!!!!」


「自分で答えている」


「答えさせる姿勢が足りないんだよ!!」


 陽鞠は完全に困惑していた。


 朔夜も困惑していた。


 さっきまで玻月に対して刀を抜くかどうかの緊張があったのに、今はその男が胸倉を掴まれて恋人らしき少女に説教されている。情報量が多すぎる。妖でももう少し順番を守る。


 結衣子の赤いリボンが揺れた。


 不思議なことに、あれだけ激しく動いているのに、リボンはほどけない。結び目はきれいなまま、首元に収まっている。布の赤だけが、夕暮れの光の中で妙にはっきりしていた。


 陽鞠はその赤を見て、なぜか胸の奥が小さくざわついた。


 どこかで見たような。


 いや、見ていない。


 夢の中の赤。


 白い光の中で揺れた赤。


 違う。


 考えすぎだ。


 陽鞠が息を整えようとした時、結衣子がさらに叫んだ。


「私以外を見る目なんてほじくり返して食べちゃおっか!!?」


 陽鞠は硬直した。


 朔夜も硬直した。


 玻月はさすがに眉をひそめた。


「物騒だ」


「物騒にさせてるのは誰!!」


「私だな」


「反省の弁が軽い!!!」


「重く言えばいいのか」


「そういう問題じゃない!!!」


 がくがくがくがくっ。


 再び激しい揺さぶり。


 玻月の首が危ない。


 いや、玻月なら大丈夫なのかもしれない。だが見ている側の心臓が大丈夫ではない。


「手をつなぐことも許さないの知ってるよね!!それがキス!!?ふざけんなっつーの!!」


「キスでは」


「唇に近づいたら全部アウト!!! 本人が嫌がってたら百万倍アウト!!! 常識!!!」


 またまともなことを言う。


 勢いは異常なのに、倫理は妙に正しい。


 陽鞠は返す言葉を失った。


 玻月は少しだけ目を伏せた。


 結衣子の声は明るい。


 怒っているのに、よく通る。


 しかし、その明るさの奥に、ほんの一瞬だけ冷たいものがあった。


 陽鞠はそれに気づいた。


 水色の瞳。


 硝子のような瞳。


 光を反射しているのに、奥の温度が読めない。


 笑っている。


 怒っている。


 騒いでいる。


 でも、その奥が妙に静かだった。


 違和感。


 小さな棘のような違和感が、陽鞠の中に残る。


 結衣子は玻月の胸倉を掴んだまま、顔をぐいっと近づけた。


「そんなにキスがしたいならわたしがしてやるわ!!!」


「結衣子、ここは」


「黙らっしゃい!!!!」


 次の瞬間、結衣子は玻月の襟元を引き寄せ、その唇を奪った。


 勢いがすごかった。


 玻月が受け止める前に、完全に主導権を奪っていた。胸倉を掴んだまま、逃げ道を塞ぎ、赤いリボンを揺らしながら、彼女は玻月へ容赦なく口づける。


「んっ……」


 玻月の喉から、短い息が漏れた。


 陽鞠は目を見開いた。


 朔夜が反射的に陽鞠の目を隠そうとして、途中で止まった。隠すべきなのか、隠したら逆に失礼なのか、彼ですら一瞬判断に迷ったらしい。珍しい。朔夜の思考が現実に追いついていない。


 結衣子は止まらなかった。


 ちゅ、と軽い音で終わるようなものではない。


 くちゅ、と湿った音がして、玻月の呼吸が乱れる。結衣子が角度を変えるたび、ぴちゃ、ちゅく、と水音が響いた。旧演習場の夕暮れの中で、やけに生々しい音だった。


 玻月は完全に受け側だった。


 白手袋の手が、結衣子の肩に触れかける。


 だが押し返せない。


 いや、押し返す気がないのかもしれない。


 結衣子の勢いに押され、背中が結界柱へ近づく。結衣子は胸倉を掴んだまま、逃がさない。小柄な身体なのに、玻月の方が壁際へ追い込まれている。どうなっているのか。体格差という概念が職務放棄している。


「ん、……結衣、子……」


 玻月が息の間に名前を呼ぶ。


 結衣子は一度だけ唇を離した。


 玻月の唇が濡れている。


 切れた痕はもうほとんど塞がっているはずなのに、赤みが増していた。


 結衣子はにっこり笑った。


「喋る余裕あんの?」


「場所を」


「場所? 浮気説教に場所選べる立場だと思ってる?」


「説教では」


「制裁ですぅ!!!!」


 再びキス。


 今度はさらに深かった。


 くちゅ、ぴちゃ、と湿った音が続く。


 玻月の呼吸が乱れる。


「っ、ん……」


 低く漏れた声に、陽鞠の顔が真っ赤になった。


 朔夜も、耳まで赤くはならないが、明らかに視線の置き場に困っている。陽鞠の前に立とうとして、しかし目の前の光景をどう分類すればいいのかわからず、珍しく固まっていた。


 陽鞠は朔夜の袖を掴んだ。


「朔夜」


「何」


「これ、見てていいの?」


「わからない」


「止めた方がいい?」


「玻月が本気で嫌なら止める」


「嫌そう?」


 二人は同時に玻月を見る。


 玻月は、確かに押されている。


 息も乱れている。


 喉から小さな声も漏れている。


 だが、本気で拒絶している時の動きではなかった。逃げるためなら、彼の技量ならいくらでも逃げられるはずだ。それをしていない。白手袋の手は結衣子の肩を押し返す寸前で止まり、結局、その背に触れるように落ちている。


 結衣子の通常運転。


 玻月の受け入れ方も、どうやら通常運転。


 陽鞠は自分の顔がさらに熱くなるのを感じた。


「……大人って、すごいね」


 ぽつりと言った。


 朔夜が沈黙した。


 それから低く言う。


「俺たちは、まだ子どもかもしれない」


「今、それを知るの嫌すぎる」


「同感」


 目の前では、結衣子が三度目のキスへ入っていた。


 時間の感覚がおかしくなる。


 旧演習場の夕方は、いつの間にか夜へ変わっていった。かがりが途中で様子を見に来て、状況を見た瞬間、扉のように表情を閉じた。そして何も言わず、遠くの結界柱の陰へ退いた。教師にも処理できないものはある。人類、万能ではない。


 更紗と透羽からも端末に連絡が入った。


『今、何が起きてる?』


 陽鞠は返信できなかった。


 説明できない。


 どう説明すればいい。


 玻月が謎の赤いリボンの少女に飛び蹴りされ、胸倉を掴まれて、浮気説教の末、激しいキスで制裁されています。そんな報告文を送ったら、こちらの正気が疑われる。正気なのは世界の方かもしれないが。


 一時間が過ぎた。


 結衣子はまだ止まらない。


 もちろん、ずっと連続しているわけではない。


 時々唇を離し、玻月へ詰め寄る。


「誰の彼氏!?」


「……君の」


「声が低い!! やり直し!!」


「結衣子のだ」


「よろしい!!!」


 そしてまたキス。


 ちゅ、くちゅ、と音が続く。


 玻月の吐息が熱くなる。


「っ……は、結衣子、少し」


「少し何?」


「息を」


「息はしてる!!」


「私は」


「私もしてる!!!」


「君は強いな」


「彼女だからね!!!!」


 理屈になっていない。


 だが、結衣子の中では成立しているらしい。


 さらに三十分。


 陽鞠はもう、朔夜の袖を掴んだまま、赤い顔で地面を見ていた。見ないようにしても、音が聞こえる。湿った水音、玻月の押し殺した息、結衣子の明るい怒声。情報が耳から入ってくる。耳にも蓋が欲しい。人類の身体設計は詰めが甘い。


 朔夜も無言だった。


 ただ、陽鞠が困っているのを察して、彼女の肩へ上着をかけた。隠すというより、守るように。


「朔夜」


「何」


「私たちのキスって、普通だったんだね」


「……たぶん」


「朔夜、たまに長いって思ってたけど」


「反省する」


「いや、責めてるわけじゃなくて」


「俺はまだ理性がある」


「今それ言うと変な感じする」


「言ってから思った」


 二人は小声で話す。


 その間も、結衣子は玻月を逃がさない。


 赤いリボンは揺れている。


 不思議なほど、ほどけない。


 彼女の髪は淡い藤色で、夜の光の下では少し銀に近く見える。水色の瞳はきらきらしているのに、時々、光を通しすぎて中身が空っぽに見える瞬間があった。陽鞠はそれが気になった。


 こんなに騒がしく、こんなに感情豊かで、こんなに強烈なのに。


 ふとした一瞬だけ、彼女の輪郭が妙に軽い。


 体温が薄そうに見える。


 でも次の瞬間には、玻月の胸倉を掴んで叫んでいる。


「浮気は文化とか言ったら殺すからね!!?」


「言わない」


「当たり前だよ!! 言ったら口縫うよ!!」


「物騒だ」


「あんたの彼女だよ!!」


「そうだな」


「そうだなじゃなくて、可愛い可愛い彼女だよ!!」


「可愛い彼女だ」


「二回!!」


「可愛い可愛い彼女だ」


「よろしい!!!」


 そして、またキス。


 玻月の喉から、諦めたような息が漏れる。


「ん……っ、は……」


 その声に、陽鞠はまた真っ赤になった。


 朔夜が陽鞠の視界を少しだけ遮る。


「見なくていい」


「見てない!」


「耳まで赤い」


「聞こえるんだもん!」


「それは……そうだな」


 退魔師人生で、こんな困惑をするとは思わなかった。


 妖より強い少女が現れ、謎のS級退魔師を飛び蹴りし、浮気説教をして、二時間半にわたりキスで制圧する。これを誰が予想できる。予想できたらたぶん占い師ではなく危険人物だ。


 二時間半が過ぎた頃。


 さすがに玻月が白手袋の手を上げた。


 軽く。


 降参の合図のように。


「……結衣子」


 声が少しかすれていた。


「何」


「降参だ」


「浮気は?」


「していない」


「陽鞠ちゃんは?」


「嫌がることをした。私が悪い」


 陽鞠は目を上げた。


 玻月が、自分で言った。


 私が悪い、と。


 その声にどこまで誠意があるのかは、まだわからない。けれど、さっきまでの軽い謝罪とは違う響きが少しだけあった。結衣子の胸倉制裁が効いたのかもしれない。恐ろしい。倫理教育に飛び蹴りと二時間半のキスを導入するのはさすがに世紀末だが。


 結衣子は玻月の顔をじっと見た。


 水色の瞳が、急に静かになる。


 ほんの一瞬。


 さっきまでの嵐のような明るさが、すっと消えた。


「ほんとに?」


「ああ」


「次やったら?」


「君が怒る」


「違う」


 結衣子の声が低くなった。


「陽鞠ちゃんが嫌がる」


 その一言に、陽鞠の胸が揺れた。


 玻月も黙った。


 結衣子は、にっと笑う。


 明るさが戻る。


「そこ間違えんな、この浮気野郎」


「……心得ておこう」


「心得るじゃない。覚えろ」


「覚えた」


「よし!」


 結衣子はぱっと手を離した。


 玻月の胸倉が解放される。


 彼は結界柱へ背を預け、少しだけ息を整えた。長い髪が肩へ落ち、唇は赤く、いつもの薄い笑みはほとんど消えている。珍しく余裕が削れていた。


 陽鞠はその姿を見て、少しだけ妙な気分になった。


 あの玻月が。


 いつも人を観察し、余裕を崩さず、強引に踏み込んでくる男が。


 この少女には振り回されている。


 完全に。


 しかも、受け入れている。


 結衣子はぱっと陽鞠の方へ振り返った。


 表情が一瞬で明るくなる。


「陽鞠ちゃん!」


「は、はい」


「ほんっっっとごめんね! 嫌だったよね!? うちの玻月、昔っからこういうとこあってさ! 頭いいのに大事なところで脳みそが崖から落ちるの!」


「崖から……」


「落ちたまま帰ってこないの!!」


「それは、困りますね……」


「困るの! だから私が定期的に蹴る!」


 定期的に蹴る。


 陽鞠は言葉を失った。


 朔夜も失っている。


 結衣子はそんな二人を見て、にこにこ笑う。


「私は玻璃園結衣子! 玻月の彼女! 可愛い可愛い彼女! 覚えてね!」


「篠宮陽鞠、です」


「知ってる!」


「知ってるんですか」


「うん! だって玻月が最近ずっと陽鞠ちゃん陽鞠ちゃん陽鞠ちゃん陽鞠ちゃんってうるさいから!」


 玻月が静かに目を閉じた。


「誇張だ」


「してない!」


「している」


「じゃあ三割引きで、ずっと陽鞠ちゃんってうるさい!」


「結局同じだ」


 結衣子は気にしない。


 陽鞠の顔は複雑だった。


 玻月が自分の名前を話題にしていた。


 嫌だ。


 ものすごく嫌だ。


 だが、結衣子が全力で怒ってくれたせいで、嫌悪が少し別の形になっている。混乱というか、脱力というか。感情の置き場が難しい。


 結衣子は次に朔夜を見た。


「で、そっちが朔夜くんだね!」


「……綴喜朔夜」


「陽鞠ちゃんの彼氏!」


 朔夜は一瞬、警戒を忘れて目を瞬いた。


「そうだ」


「いいね! 彼氏は嫌がる彼女を守るもの! でも彼女の怒りを奪わないもの! 君、ちゃんとわかってそう!」


 陽鞠は驚いた。


 朔夜も、ほんの少しだけ表情を変えた。


 この少女は、さっきのやりとりを見ていないはずだ。


 なのに、朔夜がどこで踏みとどまったのかを知っているような言い方をした。


 結衣子は笑っている。


 明るい。


 でも、水色の瞳が一瞬だけ硝子のように光った。


「陽鞠ちゃん、嫌だったら嫌って言っていいからね! 噛んでいいし、蹴っていいし、結界で爆破していい!」


「爆破はちょっと」


「加減は必要! でも拒むの大事!」


「……はい」


 陽鞠は小さく頷いた。


 結衣子の言葉は勢いが強すぎる。


 だが、その芯はまっすぐだった。


 嫌がる相手に何をしている。


 陽鞠は悪くない。


 拒むのは大事。


 その言葉が、妙に温かかった。


「ありがとうございます」


 陽鞠が言うと、結衣子はぱっと笑った。


「どういたしまして! あと玻月がまたやったら私に言って! 飛び蹴りするから!」


「それは……頼もしいです」


「でしょ!」


 玻月が低く言った。


「私を討伐対象にするな」


「してほしくないならまともに生きろ」


「努力する」


「努力じゃ足りない!!」


「覚えた」


「よろしい!」


 結衣子は満足そうに胸を張った。


 その仕草は明るく、年相応の少女のようだった。


 けれど、陽鞠の目はまた赤いリボンへ吸い寄せられた。


 リボンの端が、風に揺れている。


 赤い。


 鮮やかで。


 少しだけ、不自然な赤。


 陽鞠が見つめていることに気づいたのか、結衣子は首元のリボンへ指を触れた。


 その指先の動きが、一瞬だけ慎重だった。


 大切なものを確かめるように。


 壊れないか確認するように。


「これ?」


 結衣子が明るく聞く。


「あ、いえ。綺麗だなって」


「でしょ! お気に入り!」


 にこっと笑う。


 その笑顔には影がない。


 でも、その前の一瞬が残る。


 陽鞠は何も聞かなかった。


 聞いてはいけない気がした。


 玻月がようやく結界柱から離れた。


 結衣子がすぐに彼の横へ戻る。


 その距離感は近い。


 当然のように近い。


 玻月も、結衣子が袖を掴むのを拒まない。むしろ、彼女が転ばないようにわずかに手を添えた。あれだけ蹴られ、揺さぶられ、二時間半キスで制圧された相手への態度とは思えない。恋人というものは怖い。人間関係の闇鍋だ。


 結衣子は陽鞠たちへ手を振った。


「じゃあね、陽鞠ちゃん! 朔夜くん! また会おうね!」


「また……」


 陽鞠は少し迷った。


 玻月には会いたくない。


 でも、結衣子には少し会ってみたい気もする。


 非常に面倒な感情である。


「結衣子ちゃんには、また」


 陽鞠が言うと、結衣子は嬉しそうに笑った。


「やった! 友達予約!」


「予約制なんですか」


「今決めた!」


 明るい。


 本当に明るい。


 でも、夜の風の中で、その髪と瞳と赤いリボンが少しだけ現実から浮いて見えた。


 玻月は陽鞠を見ようとした。


 朔夜がすぐに遮る。


 玻月は、今度は何も言わなかった。


 結衣子が横から玻月の頬をぐいっと掴み、陽鞠ではなく自分の方へ向けたからだ。


「どこ見てんの?」


「……君だ」


「よろしい」


 玻月は小さく息を吐いた。


 結衣子は満足そうに頷き、そのまま玻月の手を引いて旧演習場の出口へ歩き出した。玻月が引かれていく。完全に引かれていく。あの御影堂玻月が。陽鞠は妙な感動すら覚えた。世界は広い。人類、まだ知らない奇観が多すぎる。


 二人の姿が校舎の影へ消える直前、結衣子が振り返った。


 赤いリボンが揺れる。


「陽鞠ちゃん!」


「はい」


「嫌なことされたら、ちゃんと怒っていいからね!」


 陽鞠の胸が、ふっと温かくなった。


「はい」


「あと朔夜くん!」


「何」


「彼女大事にしろよ!」


「してる」


「もっと!」


「する」


「よし!」


 結衣子は満面の笑みで親指を立てた。


 そして今度こそ、玻月を引きずるようにして消えていった。


 旧演習場に、静けさが戻る。


 だが、さっきまでの静けさとは違う。


 飛び蹴りと怒声と二時間半のキスの余韻が残っている。余韻という言葉で処理していいのか怪しい。もはや災害の後である。


 陽鞠はしばらく黙っていた。


 朔夜も黙っていた。


 やがて、陽鞠がぽつりと言う。


「すごかったね」


「ああ」


「大人って、すごいね」


「二回目だな」


「だって、すごかったもん」


「俺たちはまだ子どもかもしれない」


「うん……」


 二人は同時に、なぜか少し赤くなった。


 カラオケで肩にもたれ、髪にキスされただけで照れていた自分たち。


 任務後のキスで長い短いと騒いでいた自分たち。


 それが突然、目の前で二時間半の制裁キスを見せられたのだ。比較対象が極端すぎる。教育に悪い。いや、何の教育かもわからない。


 陽鞠は朔夜の袖を軽く引いた。


「朔夜」


「何」


「私たちは、今まで通りでいいよね」


「当たり前だ」


 即答だった。


「俺は、陽鞠が嫌なことはしない」


「うん」


「キスも、陽鞠が嫌ならしない」


「うん」


「でも、陽鞠がいいならする」


「……うん」


「二時間半はしない」


「してもらったら困る!」


「しない」


「ほんとに?」


「今は」


「今は?」


 陽鞠が顔を赤くして睨む。


 朔夜の口元が少しだけ緩んだ。


「冗談」


「信じない」


「陽鞠が決める」


 その言葉に、陽鞠は少しだけ力を抜いた。


「うん」


 空はすっかり暗くなっていた。


 旧演習場の結界柱が淡く光り、風で札が鳴る。かがりが遠くから、ものすごく疲れた顔でこちらへ歩いてくるのが見えた。教師も大変だ。S級退魔師の恋愛事情まで現場処理する仕事ではなかったはずだ。多分。


 陽鞠はもう一度、結衣子が消えた方向を見た。


 淡い藤色の髪。


 硝子のような水色の瞳。


 赤いリボン。


 明るく、強く、めちゃくちゃで、優しい少女。


 けれど、どこか不思議な違和感を残す少女。


 正体はわからない。


 玻月との関係も、どこまで本当で、どこからがいつもの二人の調子なのか、まだ掴めない。


 ただ、ひとつだけわかった。


 御影堂玻月にも、容赦なく飛び蹴りを入れられる存在がいる。


 そしてその少女は、陽鞠が嫌だったことを、嫌だったのだとまっすぐ言ってくれた。


 陽鞠は息を吐いた。


 少しだけ、胸が軽かった。


 朔夜が隣で手を差し出す。


 陽鞠はその手を取った。


 指輪が触れる。


 ちり、と鳴る。


 その音は、さっきまでの混乱のあとでも、ちゃんと二人の音だった。


「行こう」


 陽鞠が言った。


「かがり先生、すごい顔してる」


「反省文か?」


「私たち何もしてないよ」


「目撃した」


「それで反省文は理不尽」


「でも、かがり先生だ」


「……あり得る」


 二人は並んで歩き出した。


 旧演習場の石畳には、まだ飛び蹴りで削れた跡が残っている。玻月が吹き飛んだ線も、うっすら見えた。結衣子の足跡は、なぜかほとんど残っていなかった。


 陽鞠はそれに気づき、少しだけ足を止める。


「陽鞠?」


「ううん。何でもない」


 まだ、何でもない。


 今は。


 陽鞠は朔夜の手を握り直し、かがりの待つ方へ歩いていった。


 背後で、夜風に揺れた札が、ちり、と小さく鳴った。


 それはほんの一瞬、赤いリボンが揺れた音に似ていた。


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