第24話 朔夜の魂
廃駅へ向かう道は、夜になると急に細く見えた。
市の北西部。新しい住宅街から外れ、街灯の間隔が広くなり、舗装の端に草が伸び始めるあたりに、その廃線跡は残っていた。かつて電車が通っていた線路は、途中から雑草に埋もれ、黒く濡れた鉄の筋だけが月明かりを受けて鈍く光っている。
雨は降っていない。
けれど、地面は湿っていた。
数日前の雨が、線路脇の土と枕木にまだ残っている。歩くたびに、靴底の下で柔らかい泥が小さく鳴った。風は冷たく、線路沿いの草を低く揺らしている。遠くの国道を走る車の音が、ここまで来ると別の世界の音のように聞こえた。
陽鞠は背中の弓を確かめた。
腰の日本刀も、指で鞘の位置を調整する。右手薬指の指輪が、月明かりを受けて淡く光った。隣を歩く朔夜の左手薬指にも、同じ光がある。
朔夜は無言だった。
銀髪の襟足が夜風で揺れている。黒い瞳は線路の先を見ていた。制服の上に黒いコートを羽織っているが、襟元は相変わらず少し緩い。片手は刀の近く。もう片方の手は、陽鞠のすぐそばにある。
触れてはいない。
けれど、必要ならすぐ手を取れる距離。
陽鞠はそれに気づき、少しだけ息を吐いた。
「寒い?」
朔夜が聞いた。
「少し」
「手」
「今は平気」
「平気?」
「本当に平気」
陽鞠がそう言うと、朔夜は無理に手を取らなかった。
そのことが、まだ少し胸に温かい。
あれ以来、朔夜は以前よりさらに確認するようになった。
触るか。
手を握るか。
抱きしめるか。
キスしていいか。
前から優しかった。
でも、今はそれがもっと明確になっている。陽鞠が選べるように、逃げ道を残してくれる。大事にされることと、壊れ物扱いされることは違う。朔夜はその違いを、少し不器用なくらい真剣に守っていた。
陽鞠はそれが嬉しくて、少し悔しい。
悔しい理由は、自分でもよくわからない。
人間の感情は、夜道の雑草より絡まる。刈っても刈っても伸びる。面倒すぎる。
「朔夜」
「何」
「今日の任務、気をつけようね」
「ああ」
「御影堂さんが言ってた場所だから」
「さん付け」
「……御影堂が言ってた場所だから」
「よし」
「今それ大事?」
「大事」
朔夜の声はいつも通りだった。
でも、警戒は強い。
廃駅の妖。
切符。
帰れという声。
強い霊力への反応。
玻月が持ってきた情報は、腹立たしいほど具体的だった。しかもその情報を信じるなら、この場所は二人を呼び込むための罠に近い。
それでも来た。
なぜなら、近隣の見回りをしていた退魔師が、廃駅周辺で意識を失いかけたからだ。命に別状はなかったが、足元に黒い切符のような霊符が貼りついていたという。切符には行き先も名前もなく、ただ黒い五芒星の線が沈むように刻まれていた。
放置できない。
罠だとしても。
陽鞠は線路の先を見た。
廃駅が見えてくる。
小さな駅舎。
傾いた屋根。
読めなくなった駅名標。
壊れた自動改札の跡。
ホームには草が伸び、ベンチは片側が崩れている。駅舎の窓硝子は割れており、黒い穴のように内部を覗かせていた。
その奥から、声がした。
「かえれ」
低い声。
人の声にも聞こえた。
線路の向こうからでも、駅舎の内側からでもなく、足元の土の下から響くような声だった。
陽鞠は足を止めた。
朔夜が半歩前に出る。
「来たな」
「うん」
「声、聞こえたか」
「聞こえた。帰れ、って」
「帰るか」
「帰らない」
「だろうな」
朔夜の手が刀へ伸びる。
陽鞠は弓を外した。
廃駅の入口に、金色の結界を置く。一般人が迷い込まないよう封鎖し、内部の霊気が外へ漏れすぎないよう薄い膜を張る。駅舎全体へ強く張りすぎると、妖が奥へ逃げる可能性がある。逃がさず、閉じ込めすぎず、外へ被害を出さない程度に。
細い調整。
指先に霊力を通すと、夜気が少しだけ震えた。
廃駅のホームへ入る。
足元に、黒い切符が落ちていた。
一枚。
二枚。
枕木の上、ホームの端、壊れたベンチの下。
どれも濡れた紙のように黒く、表面には文字がない。ただ、触れてはいけない気配がした。陽鞠はそれらを踏まないように進みながら、薄い結界で周囲を囲う。
「朔夜、切符に触らないで」
「わかってる」
「足元に貼りつくタイプかも」
「面倒だな」
「廃駅で切符の妖とか、性格悪い」
「作ったやつが悪い」
「それはそう」
ホームの奥で、黒い影が揺れた。
最初は、駅名標の影に見えた。
だが、すぐに違うとわかる。
影は立ち上がった。
人の輪郭に近い。
けれど、人ではない。
身体の表面には無数の黒い切符が貼りつき、風もないのにぺらぺらと揺れている。腕は長く、指先は紙の端のように薄い。顔の位置には空洞があり、そこだけが改札口の穴のようにぽっかり開いていた。
その奥で、赤黒い核が脈打っている。
黒い五芒星は、まだ表面に出ていない。
でも、いる。
沈んでいる。
陽鞠の金色の瞳がそれを捉えた。
「核の奥に印」
「斬れるか」
「表に出さないと無理。沈んでる」
「どう出す」
「霊力に反応するなら、近づけば出る」
「俺たちが餌か」
「嫌な言い方だけど、たぶん」
妖が顔の穴を陽鞠たちへ向けた。
「かえれ」
声が濃くなる。
「かえれ」
足元の黒い切符が、ざわりと動いた。
その一枚が、陽鞠の靴へ向かって滑る。紙のくせに、水の上を泳ぐ虫のように速い。陽鞠は結界を床に差し込んだ。金色の膜が切符の動きを止める。
切符の表面に、黒い五芒星の線が一瞬浮いた。
じゅ、と音を立てて煙が上がる。
朔夜が踏み込んだ。
刀が低く走り、切符を斬る。
紙を裂く軽い音ではない。
湿った肉を裂くような、不快な感触が響いた。
「切符も妖の一部だな」
「うん。核と繋がってる」
「全部斬るか」
「それだと核に逃げられる。先に本体」
妖がホームの端を蹴った。
黒い切符が一斉に舞い上がる。
夜の中で、紙吹雪のように。
だが美しくはない。
紙の一枚一枚が薄い刃になり、陽鞠と朔夜へ降り注いだ。
陽鞠は上へ結界を張る。
丸く受けるのではなく、斜めに流す。
切符の刃は金色の膜に触れ、勢いをずらされて線路へ落ちる。落ちた切符はすぐに黒い霧となり、また本体へ戻ろうとする。朔夜がそこへ霊符を投げた。霊符が空中で燃え、黒い霧を焼く。
妖がまた声を出す。
「かえれ」
その声に、ホーム全体が揺れた。
陽鞠の足元へ、見えない圧がかかる。
帰れ。
戻れ。
ここではない場所へ。
その声は、ただの音ではない。
記憶を掘る。
心の奥にある帰りたい場所を探り、そこへ引っ張る。
陽鞠の胸の奥で、白い光が一瞬揺れた。
矢。
血の味。
誰かを失う感覚。
帰る場所。
戻れない場所。
陽鞠は奥歯を噛んだ。
「っ……」
朔夜が気づく。
「陽鞠」
「大丈夫。声がちょっと入っただけ」
「下がれ」
「嫌。朔夜も気をつけて。この声、記憶に触る」
「ああ」
朔夜は妖へ視線を戻した。
その瞬間、妖の赤黒い核が強く脈打った。
朔夜の霊力に反応したのか。
あるいは、朔夜の奥にある何かへ触れたのか。
陽鞠にはわからなかった。
ただ、妖の動きが変わった。
黒い切符の身体が、ぴたりと止まる。
攻撃のためではない。
警戒でもない。
妖が、朔夜を見た。
顔の穴の奥で、赤黒い核が震える。
黒い五芒星が、核の奥から浮かびかける。
朔夜の刀を握る手が、わずかに止まった。
「何だ」
彼が低く呟く。
妖の身体が沈んだ。
片膝をつくように。
黒い切符でできた脚が折れ、ホームの石畳へ触れる。長い腕が床へ垂れ、顔の穴が朔夜へ向く。まるで、命令を待つように。
陽鞠は息を止めた。
妖が膝をついた。
凶暴化妖が。
朔夜の霊力に。
一瞬だけ、従いかけた。
ホームの空気が凍った。
朔夜自身も、動けなかった。
「……なんだ、今の」
声がかすれていた。
陽鞠は朔夜の横顔を見た。
いつもの冷静さがない。
黒い瞳が揺れている。
自分の霊力に何が起きたのかわからない顔。
妖がなぜ膝をついたのか、理解できずにいる顔。
その動揺は、刃より危うかった。
妖の核が、再び脈打つ。
黒い五芒星が完全に浮かび上がった。
今度は従属ではない。
暴走。
従いかけた反動のように、妖の霊力が一気に跳ね上がる。黒い切符がホーム全体から舞い上がり、刃の雨となって朔夜へ向かった。
「朔夜!」
陽鞠が叫ぶ。
朔夜の反応が一瞬遅れた。
ほんの一瞬。
だが、戦闘ではそれで十分危険だ。
陽鞠は朔夜の前へ結界を張る。
厚くではない。
斜めに、何層も。
切符の刃を受け流し、朔夜の周囲から逸らす。黒い紙片が結界に触れて、火花のような黒と金の光が散った。いくつかは結界を削り、陽鞠の指先へ反動が返る。
痛い。
だが止める。
「朔夜、こっち見て!」
陽鞠の声で、朔夜が我に返った。
黒い瞳が彼女へ向く。
陽鞠は左手を伸ばした。
戦闘中だ。
危ない。
でも、今必要だった。
「手!」
朔夜は一瞬だけ迷った。
その一瞬で、陽鞠は自分から彼の手を掴んだ。
右手ではなく、左手。
朔夜の指輪がある手。
陽鞠の右手薬指の指輪と、朔夜の左手薬指の指輪が触れる。
ちり、と鳴った。
その音が、夜の廃駅に澄んで響く。
次の瞬間、二つの指輪が熱を持った。
「っ」
陽鞠の指が震える。
熱い。
燃えるほどではない。
けれど、内側から光るような熱。
朔夜も同じ感覚を覚えたのか、わずかに息を呑んだ。二人の霊力が指輪を通して重なる。妖の核がそれに反応し、黒い五芒星がさらに脈打った。
だが、陽鞠は手を離さなかった。
「朔夜」
彼女は、はっきり言った。
「今の朔夜は朔夜だ」
朔夜の表情が揺れる。
「でも、あいつ」
「妖が何をしたかなんて知らない。朔夜の霊力に何を見たのかも、まだわからない」
陽鞠は彼の手を強く握る。
指輪が熱い。
それでも離さない。
「でも、今ここにいる朔夜は、私の隣にいる朔夜でしょ」
黒い切符が再び襲ってくる。
陽鞠は空いた左手で結界を張る。
片手では精度が落ちる。
それでも、朔夜の手は離さない。
「私に任務前のキスをねだって、結界が下手で、すぐ嫉妬して、可愛いって言いすぎる朔夜でしょ!」
「今それを言うか」
朔夜の声が、ほんの少し戻った。
「言うよ! 戻ってきてほしいから!」
陽鞠は息を吸う。
「今の朔夜は朔夜だ。妖が膝をついても、黒い印が反応しても、誰かが何かを仕込んでても、朔夜は朔夜」
指輪の熱が、少しずつ霊力へ変わる。
陽鞠の金色。
朔夜の黒銀。
二つが混ざりすぎず、重なりすぎず、互いの輪郭を残したまま響く。
朔夜の手の震えが止まった。
彼は目を閉じる。
一度だけ、深く息を吸った。
そして、開く。
黒い瞳に、いつもの鋭さが戻っていた。
「陽鞠」
「何」
「手、離すな」
「離さない」
「三秒だけ、前に出る」
「足場作る」
「核は?」
「膝をついた時、核の下に印の根が出た。あれが従属っぽい動きの原因かもしれない。根を切れば、核が露出する」
「わかった」
「朔夜」
「何」
「今度は妖を従わせるんじゃなくて、斬るんだよ」
朔夜の口元がわずかに動いた。
「当然だ」
陽鞠は彼の手を離した。
完全に離したわけではない。
指先だけ、最後に触れる。
指輪の熱が残る。
朔夜が前へ出た。
妖が再び動く。
先ほどの膝をつくような動きはもうない。暴走した凶暴化妖として、黒い切符を撒き散らし、ホームの影を伸ばし、朔夜を引きずり込もうとする。
だが、朔夜はもう揺れなかった。
刀が抜かれる。
銀の刃が月光を受ける。
黒い切符の刃が四方から襲う。陽鞠が結界で軌道をずらす。上から降る刃は左へ。床から這う切符は足元の膜で止める。背後から伸びる黒い腕は、斜めの結界で朔夜の刀の前へ流す。
朔夜はそれを斬る。
一枚。
二枚。
十枚。
切符の束が霧になって散る。
妖の核が暴れる。
「かえれ」
「かえれ」
「かえれ」
声が重なる。
今度は朔夜の耳元へ集中した。
帰れ。
戻れ。
膝をつけ。
その声に、朔夜の眉がわずかに動く。
陽鞠は叫んだ。
「聞かないで!」
「ああ」
「朔夜は、私の隣!」
「ああ!」
朔夜の足元に、陽鞠が足場結界を置く。
彼はそれを踏んだ。
迷いなく。
妖が膝をついた時のような奇妙な静止を、今度は朔夜自身が斬るように前へ出る。長い身体が低く沈み、刀が斜めに構えられる。
陽鞠は矢を番えた。
核の下。
黒い五芒星から伸びる根。
妖の動きを一瞬だけ従わせた、奇妙な黒い線。
そこを狙う。
しかし、廃駅の空気が邪魔をする。
黒い切符が矢の射線へ入り込む。足元から「かえれ」と声が湧く。陽鞠の頭の奥で、白い光がまた揺れかける。
違う。
今は、夢ではない。
ここは廃駅。
隣には朔夜がいる。
陽鞠は目を見開く。
「私は私だ」
小さく言う。
弓を引く。
「朔夜は朔夜だ」
矢を放つ。
金色の矢は、まっすぐには飛ばない。
一枚目の射線結界で右へ曲がる。二枚目で低く沈む。三枚目で黒い切符の隙間を抜ける。妖が慌てて核を隠そうとするが、朔夜が前へ出て黒い腕を斬り落とした。
矢が、黒い根へ刺さる。
根が焼ける。
妖が悲鳴を上げた。
その声は、今までの「帰れ」とは違う。
命令を失った声。
ただの妖の悲鳴。
「朔夜!」
陽鞠が叫ぶ。
「今!」
朔夜の刀が入った。
銀の刃が、妖の腹部の空洞へ吸い込まれるように進む。黒い切符が刃を止めようとする。陽鞠は刀の背へ結界を重ねた。金色の薄膜が刃を支え、黒い五芒星の残線を押し返す。
妖核が露出する。
赤黒い光。
その奥で、黒い五芒星が最後に一度だけ脈打った。
朔夜の霊力に、また反応しかける。
膝をつけ。
従え。
そんな言葉にならない圧が、空気に滲んだ。
朔夜の黒い瞳が冷える。
「俺に命令するな」
低く言った。
「俺は、陽鞠の隣にいる」
刀が振り抜かれた。
核が割れる。
黒い五芒星が、中心から裂けた。
音はなかった。
ただ、廃駅全体の空気が一気に軽くなる。黒い切符が力を失い、ホームへばらばらと落ちた。落ちた瞬間、それらはただの古い紙片のように色を失い、灰となって崩れる。
妖の身体も、ほどけていった。
人の輪郭は崩れ、黒い切符の束へ戻り、最後には夜の風に散る。
ホームには、読めない駅名標と、壊れたベンチと、月明かりだけが残った。
陽鞠は結界を解いた。
指先が痛い。
膝も少し笑っている。
だが、今はそれより朔夜だった。
「朔夜!」
彼女は駆け寄った。
朔夜は刀を下げたまま、割れた妖核のあった場所を見ていた。
表情が戻りきっていない。
戦闘は終わった。
でも、あの一瞬が残っている。
妖が膝をついたような動き。
自分の霊力に従いかけた異常。
朔夜の指が、刀の柄を握ったまま強張っていた。
陽鞠はその手に触れようとして、止まった。
「触っていい?」
聞いた。
朔夜の黒い瞳が、陽鞠へ向く。
少しだけ遅れて、彼は頷いた。
「ああ」
陽鞠は彼の左手を取った。
刀を持っていない方の手。
指輪が触れる。
さっきほどではないが、まだ熱を持っていた。
じんわりと。
内側に火種が残っているように。
「熱いね」
陽鞠が言う。
「ああ」
「痛い?」
「痛くはない」
「怖い?」
朔夜はすぐには答えなかった。
夜風がホームを抜ける。
壊れた駅名標が、かすかに揺れた。
「……わからない」
朔夜は言った。
「妖が、俺に従うような動きをした。俺の霊力に、何かが反応した」
「うん」
「一瞬、命令できる気がした」
陽鞠の胸が冷える。
朔夜の声は、低く、嫌悪を含んでいた。
「そう思った自分が、気持ち悪い」
「朔夜」
「俺は、何だ」
その言葉は、陽鞠が夢を見た朝に言った言葉に似ていた。
私、何なのかな。
白い光に揺れた朝。
朔夜はその時、迷わず言ってくれた。
お前は陽鞠だと。
今度は、陽鞠の番だった。
彼女は朔夜の手を強く握った。
「朔夜は朔夜だよ」
はっきり言う。
「妖が膝をついたからって、朔夜が妖を従わせる何かになったわけじゃない。命令できる気がしたからって、命令したわけじゃない」
「でも」
「でもじゃない」
陽鞠は一歩近づく。
金色の瞳が、朔夜の黒い瞳をまっすぐ見上げた。
「今の朔夜は、私の声で戻ってきた。妖を従わせるんじゃなくて、斬った。私の隣にいるって言った」
指輪の熱が、少し強くなる。
まるで、その言葉に反応したみたいに。
「それが今の朔夜でしょ」
朔夜は黙っていた。
陽鞠は続ける。
「過去に何があっても、魂の奥に何があっても、黒い印が何を見ても。今ここにいる朔夜は、綴喜朔夜。私の隣にいる退魔師。私の彼氏。結界が下手で、でもちゃんと覚えようとしてくれる人」
「最後」
「大事」
陽鞠はわざと、少しだけ笑った。
「私に可愛いって言いすぎる人」
「事実だ」
「任務前のキスを忘れてるってすぐ言う人」
「大事だ」
「カラオケで歌がうまくて悔しい人」
「悔しかったのか」
「まだ悔しい」
朔夜の表情が、少しだけ緩む。
ほんの少し。
でも戻ってきた。
陽鞠はその変化を見逃さなかった。
「ほら」
「何」
「朔夜だ」
朔夜は長く息を吐いた。
それから、陽鞠の手を握り返す。
強すぎない。
でも、確かに。
「陽鞠」
「何」
「今、触ってていいか」
その確認が、こんな状況でもちゃんと出てくる。
陽鞠は胸がきゅっとなった。
「うん」
「抱きしめても」
「うん」
「強くしていい?」
「少し強くなら」
「わかった」
朔夜は陽鞠を抱きしめた。
廃駅のホームで。
黒い切符が灰になった後で。
妖が膝をついた異様な記憶が残る場所で。
朔夜の腕が、陽鞠を包む。
陽鞠も彼の背中に腕を回した。弓が邪魔にならないように位置をずらし、彼のコートを掴む。朔夜の身体は少し冷えていた。けれど、腕の中の温度は確かだった。
「怖かった?」
陽鞠が聞く。
「少し」
「うん」
「でも、お前がいた」
「うん」
「戻った」
「うん」
「陽鞠が、今の俺は俺だって言った」
「何度でも言うよ」
陽鞠は朔夜の胸元に額を寄せた。
「朔夜は朔夜。今の朔夜が好き」
朔夜の腕に、少しだけ力が入った。
「それ、俺の台詞だろ」
「今日は私の番」
「ずるい」
「いつも言われてるから」
「もっと言う」
「対抗しないで」
少しだけ笑えた。
夜の廃駅に、二人の小さな声が落ちる。
けれど、不穏は消えない。
陽鞠は朔夜の背中越しに、妖核が割れた場所を見た。黒い五芒星は消えた。だが、あの反応は残っている。
凶暴化妖が、朔夜の霊力に従いかけた。
膝をつくような動きをした。
それは偶然ではない。
ただの錯覚でもない。
何かが、朔夜の魂の奥を叩いた。
でも、今は答えを出さない。
出せない。
出すより先に、朔夜をここへ戻す方が大事だった。
「指輪、まだ熱いね」
陽鞠が呟く。
朔夜が少し離れ、手元を見る。
二人の指輪は、月明かりの中で淡く光っていた。熱は少しずつ引いているが、完全には消えていない。
「反応したな」
「うん」
「黒い印に?」
「それもあるかも。でも、私たちにも」
陽鞠は指輪を見つめた。
「朔夜が揺れた時、これが熱くなった。私が手を握った時、もっと熱くなった」
「繋いだ?」
「たぶん。引き戻したのかも」
朔夜は黙る。
その表情はまだ少し暗い。
陽鞠は彼の手を握ったまま言った。
「怖いものじゃないといいね」
「怖いものでも」
「うん?」
「お前と繋がるなら、悪いだけじゃない」
陽鞠の顔が少し赤くなる。
「そういうこと、急に言う」
「本当だから」
「……うん」
廃駅の外で、風が草を揺らした。
もう「帰れ」という声は聞こえない。
ただ、遠くの国道の音がかすかに戻ってきている。現実の音。人が生きている街の音。
陽鞠は封印ケースを取り出し、妖核の残滓を回収した。黒い五芒星の破片はほとんど崩れていたが、沈んでいた印の根の一部が残っていた。更紗なら、何か拾えるかもしれない。透羽なら、この廃駅と他の発生地点の繋がりを調べるだろう。かがりは、二人を見て眉間に皺を寄せるに違いない。
戻らなければならない。
でも、その前に。
陽鞠は朔夜を見た。
「朔夜」
「何」
「キスしていい?」
朔夜が少し目を見開いた。
「陽鞠から?」
「今日は私が確認する日」
陽鞠は少し照れながらも言った。
「嫌ならしない」
「嫌なわけない」
「じゃあ、額」
朔夜は少し屈んだ。
陽鞠は背伸びして、朔夜の額へ短くキスをした。
銀髪が頬に触れる。
廃駅の冷たい空気の中で、その額は少しだけ熱かった。
「戻ってきた確認」
陽鞠が言う。
朔夜の黒い瞳が、静かに揺れる。
「生きてる確認じゃなくて?」
「今日は、戻ってきた確認」
「もう一回」
「欲しがり」
「陽鞠だから」
「そればっかり」
それでも、陽鞠はもう一度、額へキスをした。
今度は少しだけ長く。
朔夜は目を閉じた。
その表情が、いつもより少し幼く見えて、陽鞠の胸が痛くなる。
妖が膝をついた一瞬。
朔夜自身が一番怖かったのかもしれない。
自分の中に知らないものがある感覚。
自分の霊力に、妖が従いかける異常。
それでも彼は、陽鞠の声で戻ってきた。
陽鞠はその事実を、ちゃんと覚えておこうと思った。
朔夜が目を開ける。
「今の俺は」
「朔夜」
陽鞠は即答した。
「何回でも言う。今の朔夜は朔夜」
朔夜は、少しだけ笑った。
夜の廃駅で、ようやく。
その笑みを見て、陽鞠も笑った。
二人は並んでホームを出る。
足元には、もう黒い切符はない。
線路沿いの草が風に揺れ、月明かりが濡れた枕木を照らしている。封鎖結界を解除すると、夜の空気がゆっくり流れ込んだ。
朔夜が手を差し出す。
「手」
陽鞠は少し笑う。
「今度は聞かないんだ?」
「聞いてる」
「そうだった」
陽鞠はその手を取った。
指輪が触れる。
ちり、と鳴る。
熱はまだ、ほんの少し残っていた。
怖いものかもしれない。
まだわからないものかもしれない。
でも、今は二人を繋いだ熱でもあった。
陽鞠はその音を聞きながら、朔夜の隣を歩いた。
廃駅の闇が背後で小さくなっていく。
帰れという声は、もうしない。
代わりに、隣から朔夜の低い声がした。
「陽鞠」
「何」
「俺は俺だ」
「うん」
「お前の隣にいる」
「うん」
「それでいいか」
陽鞠は手を握り返した。
「それがいい」
指輪が、もう一度だけ熱を持った。
今度は怖くなかった。




