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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第24話 朔夜の魂




 廃駅へ向かう道は、夜になると急に細く見えた。


 市の北西部。新しい住宅街から外れ、街灯の間隔が広くなり、舗装の端に草が伸び始めるあたりに、その廃線跡は残っていた。かつて電車が通っていた線路は、途中から雑草に埋もれ、黒く濡れた鉄の筋だけが月明かりを受けて鈍く光っている。


 雨は降っていない。


 けれど、地面は湿っていた。


 数日前の雨が、線路脇の土と枕木にまだ残っている。歩くたびに、靴底の下で柔らかい泥が小さく鳴った。風は冷たく、線路沿いの草を低く揺らしている。遠くの国道を走る車の音が、ここまで来ると別の世界の音のように聞こえた。


 陽鞠は背中の弓を確かめた。


 腰の日本刀も、指で鞘の位置を調整する。右手薬指の指輪が、月明かりを受けて淡く光った。隣を歩く朔夜の左手薬指にも、同じ光がある。


 朔夜は無言だった。


 銀髪の襟足が夜風で揺れている。黒い瞳は線路の先を見ていた。制服の上に黒いコートを羽織っているが、襟元は相変わらず少し緩い。片手は刀の近く。もう片方の手は、陽鞠のすぐそばにある。


 触れてはいない。


 けれど、必要ならすぐ手を取れる距離。


 陽鞠はそれに気づき、少しだけ息を吐いた。


「寒い?」


 朔夜が聞いた。


「少し」


「手」


「今は平気」


「平気?」


「本当に平気」


 陽鞠がそう言うと、朔夜は無理に手を取らなかった。


 そのことが、まだ少し胸に温かい。


 あれ以来、朔夜は以前よりさらに確認するようになった。


 触るか。


 手を握るか。


 抱きしめるか。


 キスしていいか。


 前から優しかった。


 でも、今はそれがもっと明確になっている。陽鞠が選べるように、逃げ道を残してくれる。大事にされることと、壊れ物扱いされることは違う。朔夜はその違いを、少し不器用なくらい真剣に守っていた。


 陽鞠はそれが嬉しくて、少し悔しい。


 悔しい理由は、自分でもよくわからない。


 人間の感情は、夜道の雑草より絡まる。刈っても刈っても伸びる。面倒すぎる。


「朔夜」


「何」


「今日の任務、気をつけようね」


「ああ」


「御影堂さんが言ってた場所だから」


「さん付け」


「……御影堂が言ってた場所だから」


「よし」


「今それ大事?」


「大事」


 朔夜の声はいつも通りだった。


 でも、警戒は強い。


 廃駅の妖。


 切符。


 帰れという声。


 強い霊力への反応。


 玻月が持ってきた情報は、腹立たしいほど具体的だった。しかもその情報を信じるなら、この場所は二人を呼び込むための罠に近い。


 それでも来た。


 なぜなら、近隣の見回りをしていた退魔師が、廃駅周辺で意識を失いかけたからだ。命に別状はなかったが、足元に黒い切符のような霊符が貼りついていたという。切符には行き先も名前もなく、ただ黒い五芒星の線が沈むように刻まれていた。


 放置できない。


 罠だとしても。


 陽鞠は線路の先を見た。


 廃駅が見えてくる。


 小さな駅舎。


 傾いた屋根。


 読めなくなった駅名標。


 壊れた自動改札の跡。


 ホームには草が伸び、ベンチは片側が崩れている。駅舎の窓硝子は割れており、黒い穴のように内部を覗かせていた。


 その奥から、声がした。


「かえれ」


 低い声。


 人の声にも聞こえた。


 線路の向こうからでも、駅舎の内側からでもなく、足元の土の下から響くような声だった。


 陽鞠は足を止めた。


 朔夜が半歩前に出る。


「来たな」


「うん」


「声、聞こえたか」


「聞こえた。帰れ、って」


「帰るか」


「帰らない」


「だろうな」


 朔夜の手が刀へ伸びる。


 陽鞠は弓を外した。


 廃駅の入口に、金色の結界を置く。一般人が迷い込まないよう封鎖し、内部の霊気が外へ漏れすぎないよう薄い膜を張る。駅舎全体へ強く張りすぎると、妖が奥へ逃げる可能性がある。逃がさず、閉じ込めすぎず、外へ被害を出さない程度に。


 細い調整。


 指先に霊力を通すと、夜気が少しだけ震えた。


 廃駅のホームへ入る。


 足元に、黒い切符が落ちていた。


 一枚。


 二枚。


 枕木の上、ホームの端、壊れたベンチの下。


 どれも濡れた紙のように黒く、表面には文字がない。ただ、触れてはいけない気配がした。陽鞠はそれらを踏まないように進みながら、薄い結界で周囲を囲う。


「朔夜、切符に触らないで」


「わかってる」


「足元に貼りつくタイプかも」


「面倒だな」


「廃駅で切符の妖とか、性格悪い」


「作ったやつが悪い」


「それはそう」


 ホームの奥で、黒い影が揺れた。


 最初は、駅名標の影に見えた。


 だが、すぐに違うとわかる。


 影は立ち上がった。


 人の輪郭に近い。


 けれど、人ではない。


 身体の表面には無数の黒い切符が貼りつき、風もないのにぺらぺらと揺れている。腕は長く、指先は紙の端のように薄い。顔の位置には空洞があり、そこだけが改札口の穴のようにぽっかり開いていた。


 その奥で、赤黒い核が脈打っている。


 黒い五芒星は、まだ表面に出ていない。


 でも、いる。


 沈んでいる。


 陽鞠の金色の瞳がそれを捉えた。


「核の奥に印」


「斬れるか」


「表に出さないと無理。沈んでる」


「どう出す」


「霊力に反応するなら、近づけば出る」


「俺たちが餌か」


「嫌な言い方だけど、たぶん」


 妖が顔の穴を陽鞠たちへ向けた。


「かえれ」


 声が濃くなる。


「かえれ」


 足元の黒い切符が、ざわりと動いた。


 その一枚が、陽鞠の靴へ向かって滑る。紙のくせに、水の上を泳ぐ虫のように速い。陽鞠は結界を床に差し込んだ。金色の膜が切符の動きを止める。


 切符の表面に、黒い五芒星の線が一瞬浮いた。


 じゅ、と音を立てて煙が上がる。


 朔夜が踏み込んだ。


 刀が低く走り、切符を斬る。


 紙を裂く軽い音ではない。


 湿った肉を裂くような、不快な感触が響いた。


「切符も妖の一部だな」


「うん。核と繋がってる」


「全部斬るか」


「それだと核に逃げられる。先に本体」


 妖がホームの端を蹴った。


 黒い切符が一斉に舞い上がる。


 夜の中で、紙吹雪のように。


 だが美しくはない。


 紙の一枚一枚が薄い刃になり、陽鞠と朔夜へ降り注いだ。


 陽鞠は上へ結界を張る。


 丸く受けるのではなく、斜めに流す。


 切符の刃は金色の膜に触れ、勢いをずらされて線路へ落ちる。落ちた切符はすぐに黒い霧となり、また本体へ戻ろうとする。朔夜がそこへ霊符を投げた。霊符が空中で燃え、黒い霧を焼く。


 妖がまた声を出す。


「かえれ」


 その声に、ホーム全体が揺れた。


 陽鞠の足元へ、見えない圧がかかる。


 帰れ。


 戻れ。


 ここではない場所へ。


 その声は、ただの音ではない。


 記憶を掘る。


 心の奥にある帰りたい場所を探り、そこへ引っ張る。


 陽鞠の胸の奥で、白い光が一瞬揺れた。


 矢。


 血の味。


 誰かを失う感覚。


 帰る場所。


 戻れない場所。


 陽鞠は奥歯を噛んだ。


「っ……」


 朔夜が気づく。


「陽鞠」


「大丈夫。声がちょっと入っただけ」


「下がれ」


「嫌。朔夜も気をつけて。この声、記憶に触る」


「ああ」


 朔夜は妖へ視線を戻した。


 その瞬間、妖の赤黒い核が強く脈打った。


 朔夜の霊力に反応したのか。


 あるいは、朔夜の奥にある何かへ触れたのか。


 陽鞠にはわからなかった。


 ただ、妖の動きが変わった。


 黒い切符の身体が、ぴたりと止まる。


 攻撃のためではない。


 警戒でもない。


 妖が、朔夜を見た。


 顔の穴の奥で、赤黒い核が震える。


 黒い五芒星が、核の奥から浮かびかける。


 朔夜の刀を握る手が、わずかに止まった。


「何だ」


 彼が低く呟く。


 妖の身体が沈んだ。


 片膝をつくように。


 黒い切符でできた脚が折れ、ホームの石畳へ触れる。長い腕が床へ垂れ、顔の穴が朔夜へ向く。まるで、命令を待つように。


 陽鞠は息を止めた。


 妖が膝をついた。


 凶暴化妖が。


 朔夜の霊力に。


 一瞬だけ、従いかけた。


 ホームの空気が凍った。


 朔夜自身も、動けなかった。


「……なんだ、今の」


 声がかすれていた。


 陽鞠は朔夜の横顔を見た。


 いつもの冷静さがない。


 黒い瞳が揺れている。


 自分の霊力に何が起きたのかわからない顔。


 妖がなぜ膝をついたのか、理解できずにいる顔。


 その動揺は、刃より危うかった。


 妖の核が、再び脈打つ。


 黒い五芒星が完全に浮かび上がった。


 今度は従属ではない。


 暴走。


 従いかけた反動のように、妖の霊力が一気に跳ね上がる。黒い切符がホーム全体から舞い上がり、刃の雨となって朔夜へ向かった。


「朔夜!」


 陽鞠が叫ぶ。


 朔夜の反応が一瞬遅れた。


 ほんの一瞬。


 だが、戦闘ではそれで十分危険だ。


 陽鞠は朔夜の前へ結界を張る。


 厚くではない。


 斜めに、何層も。


 切符の刃を受け流し、朔夜の周囲から逸らす。黒い紙片が結界に触れて、火花のような黒と金の光が散った。いくつかは結界を削り、陽鞠の指先へ反動が返る。


 痛い。


 だが止める。


「朔夜、こっち見て!」


 陽鞠の声で、朔夜が我に返った。


 黒い瞳が彼女へ向く。


 陽鞠は左手を伸ばした。


 戦闘中だ。


 危ない。


 でも、今必要だった。


「手!」


 朔夜は一瞬だけ迷った。


 その一瞬で、陽鞠は自分から彼の手を掴んだ。


 右手ではなく、左手。


 朔夜の指輪がある手。


 陽鞠の右手薬指の指輪と、朔夜の左手薬指の指輪が触れる。


 ちり、と鳴った。


 その音が、夜の廃駅に澄んで響く。


 次の瞬間、二つの指輪が熱を持った。


「っ」


 陽鞠の指が震える。


 熱い。


 燃えるほどではない。


 けれど、内側から光るような熱。


 朔夜も同じ感覚を覚えたのか、わずかに息を呑んだ。二人の霊力が指輪を通して重なる。妖の核がそれに反応し、黒い五芒星がさらに脈打った。


 だが、陽鞠は手を離さなかった。


「朔夜」


 彼女は、はっきり言った。


「今の朔夜は朔夜だ」


 朔夜の表情が揺れる。


「でも、あいつ」


「妖が何をしたかなんて知らない。朔夜の霊力に何を見たのかも、まだわからない」


 陽鞠は彼の手を強く握る。


 指輪が熱い。


 それでも離さない。


「でも、今ここにいる朔夜は、私の隣にいる朔夜でしょ」


 黒い切符が再び襲ってくる。


 陽鞠は空いた左手で結界を張る。


 片手では精度が落ちる。


 それでも、朔夜の手は離さない。


「私に任務前のキスをねだって、結界が下手で、すぐ嫉妬して、可愛いって言いすぎる朔夜でしょ!」


「今それを言うか」


 朔夜の声が、ほんの少し戻った。


「言うよ! 戻ってきてほしいから!」


 陽鞠は息を吸う。


「今の朔夜は朔夜だ。妖が膝をついても、黒い印が反応しても、誰かが何かを仕込んでても、朔夜は朔夜」


 指輪の熱が、少しずつ霊力へ変わる。


 陽鞠の金色。


 朔夜の黒銀。


 二つが混ざりすぎず、重なりすぎず、互いの輪郭を残したまま響く。


 朔夜の手の震えが止まった。


 彼は目を閉じる。


 一度だけ、深く息を吸った。


 そして、開く。


 黒い瞳に、いつもの鋭さが戻っていた。


「陽鞠」


「何」


「手、離すな」


「離さない」


「三秒だけ、前に出る」


「足場作る」


「核は?」


「膝をついた時、核の下に印の根が出た。あれが従属っぽい動きの原因かもしれない。根を切れば、核が露出する」


「わかった」


「朔夜」


「何」


「今度は妖を従わせるんじゃなくて、斬るんだよ」


 朔夜の口元がわずかに動いた。


「当然だ」


 陽鞠は彼の手を離した。


 完全に離したわけではない。


 指先だけ、最後に触れる。


 指輪の熱が残る。


 朔夜が前へ出た。


 妖が再び動く。


 先ほどの膝をつくような動きはもうない。暴走した凶暴化妖として、黒い切符を撒き散らし、ホームの影を伸ばし、朔夜を引きずり込もうとする。


 だが、朔夜はもう揺れなかった。


 刀が抜かれる。


 銀の刃が月光を受ける。


 黒い切符の刃が四方から襲う。陽鞠が結界で軌道をずらす。上から降る刃は左へ。床から這う切符は足元の膜で止める。背後から伸びる黒い腕は、斜めの結界で朔夜の刀の前へ流す。


 朔夜はそれを斬る。


 一枚。


 二枚。


 十枚。


 切符の束が霧になって散る。


 妖の核が暴れる。


「かえれ」


「かえれ」


「かえれ」


 声が重なる。


 今度は朔夜の耳元へ集中した。


 帰れ。


 戻れ。


 膝をつけ。


 その声に、朔夜の眉がわずかに動く。


 陽鞠は叫んだ。


「聞かないで!」


「ああ」


「朔夜は、私の隣!」


「ああ!」


 朔夜の足元に、陽鞠が足場結界を置く。


 彼はそれを踏んだ。


 迷いなく。


 妖が膝をついた時のような奇妙な静止を、今度は朔夜自身が斬るように前へ出る。長い身体が低く沈み、刀が斜めに構えられる。


 陽鞠は矢を番えた。


 核の下。


 黒い五芒星から伸びる根。


 妖の動きを一瞬だけ従わせた、奇妙な黒い線。


 そこを狙う。


 しかし、廃駅の空気が邪魔をする。


 黒い切符が矢の射線へ入り込む。足元から「かえれ」と声が湧く。陽鞠の頭の奥で、白い光がまた揺れかける。


 違う。


 今は、夢ではない。


 ここは廃駅。


 隣には朔夜がいる。


 陽鞠は目を見開く。


「私は私だ」


 小さく言う。


 弓を引く。


「朔夜は朔夜だ」


 矢を放つ。


 金色の矢は、まっすぐには飛ばない。


 一枚目の射線結界で右へ曲がる。二枚目で低く沈む。三枚目で黒い切符の隙間を抜ける。妖が慌てて核を隠そうとするが、朔夜が前へ出て黒い腕を斬り落とした。


 矢が、黒い根へ刺さる。


 根が焼ける。


 妖が悲鳴を上げた。


 その声は、今までの「帰れ」とは違う。


 命令を失った声。


 ただの妖の悲鳴。


「朔夜!」


 陽鞠が叫ぶ。


「今!」


 朔夜の刀が入った。


 銀の刃が、妖の腹部の空洞へ吸い込まれるように進む。黒い切符が刃を止めようとする。陽鞠は刀の背へ結界を重ねた。金色の薄膜が刃を支え、黒い五芒星の残線を押し返す。


 妖核が露出する。


 赤黒い光。


 その奥で、黒い五芒星が最後に一度だけ脈打った。


 朔夜の霊力に、また反応しかける。


 膝をつけ。


 従え。


 そんな言葉にならない圧が、空気に滲んだ。


 朔夜の黒い瞳が冷える。


「俺に命令するな」


 低く言った。


「俺は、陽鞠の隣にいる」


 刀が振り抜かれた。


 核が割れる。


 黒い五芒星が、中心から裂けた。


 音はなかった。


 ただ、廃駅全体の空気が一気に軽くなる。黒い切符が力を失い、ホームへばらばらと落ちた。落ちた瞬間、それらはただの古い紙片のように色を失い、灰となって崩れる。


 妖の身体も、ほどけていった。


 人の輪郭は崩れ、黒い切符の束へ戻り、最後には夜の風に散る。


 ホームには、読めない駅名標と、壊れたベンチと、月明かりだけが残った。


 陽鞠は結界を解いた。


 指先が痛い。


 膝も少し笑っている。


 だが、今はそれより朔夜だった。


「朔夜!」


 彼女は駆け寄った。


 朔夜は刀を下げたまま、割れた妖核のあった場所を見ていた。


 表情が戻りきっていない。


 戦闘は終わった。


 でも、あの一瞬が残っている。


 妖が膝をついたような動き。


 自分の霊力に従いかけた異常。


 朔夜の指が、刀の柄を握ったまま強張っていた。


 陽鞠はその手に触れようとして、止まった。


「触っていい?」


 聞いた。


 朔夜の黒い瞳が、陽鞠へ向く。


 少しだけ遅れて、彼は頷いた。


「ああ」


 陽鞠は彼の左手を取った。


 刀を持っていない方の手。


 指輪が触れる。


 さっきほどではないが、まだ熱を持っていた。


 じんわりと。


 内側に火種が残っているように。


「熱いね」


 陽鞠が言う。


「ああ」


「痛い?」


「痛くはない」


「怖い?」


 朔夜はすぐには答えなかった。


 夜風がホームを抜ける。


 壊れた駅名標が、かすかに揺れた。


「……わからない」


 朔夜は言った。


「妖が、俺に従うような動きをした。俺の霊力に、何かが反応した」


「うん」


「一瞬、命令できる気がした」


 陽鞠の胸が冷える。


 朔夜の声は、低く、嫌悪を含んでいた。


「そう思った自分が、気持ち悪い」


「朔夜」


「俺は、何だ」


 その言葉は、陽鞠が夢を見た朝に言った言葉に似ていた。


 私、何なのかな。


 白い光に揺れた朝。


 朔夜はその時、迷わず言ってくれた。


 お前は陽鞠だと。


 今度は、陽鞠の番だった。


 彼女は朔夜の手を強く握った。


「朔夜は朔夜だよ」


 はっきり言う。


「妖が膝をついたからって、朔夜が妖を従わせる何かになったわけじゃない。命令できる気がしたからって、命令したわけじゃない」


「でも」


「でもじゃない」


 陽鞠は一歩近づく。


 金色の瞳が、朔夜の黒い瞳をまっすぐ見上げた。


「今の朔夜は、私の声で戻ってきた。妖を従わせるんじゃなくて、斬った。私の隣にいるって言った」


 指輪の熱が、少し強くなる。


 まるで、その言葉に反応したみたいに。


「それが今の朔夜でしょ」


 朔夜は黙っていた。


 陽鞠は続ける。


「過去に何があっても、魂の奥に何があっても、黒い印が何を見ても。今ここにいる朔夜は、綴喜朔夜。私の隣にいる退魔師。私の彼氏。結界が下手で、でもちゃんと覚えようとしてくれる人」


「最後」


「大事」


 陽鞠はわざと、少しだけ笑った。


「私に可愛いって言いすぎる人」


「事実だ」


「任務前のキスを忘れてるってすぐ言う人」


「大事だ」


「カラオケで歌がうまくて悔しい人」


「悔しかったのか」


「まだ悔しい」


 朔夜の表情が、少しだけ緩む。


 ほんの少し。


 でも戻ってきた。


 陽鞠はその変化を見逃さなかった。


「ほら」


「何」


「朔夜だ」


 朔夜は長く息を吐いた。


 それから、陽鞠の手を握り返す。


 強すぎない。


 でも、確かに。


「陽鞠」


「何」


「今、触ってていいか」


 その確認が、こんな状況でもちゃんと出てくる。


 陽鞠は胸がきゅっとなった。


「うん」


「抱きしめても」


「うん」


「強くしていい?」


「少し強くなら」


「わかった」


 朔夜は陽鞠を抱きしめた。


 廃駅のホームで。


 黒い切符が灰になった後で。


 妖が膝をついた異様な記憶が残る場所で。


 朔夜の腕が、陽鞠を包む。


 陽鞠も彼の背中に腕を回した。弓が邪魔にならないように位置をずらし、彼のコートを掴む。朔夜の身体は少し冷えていた。けれど、腕の中の温度は確かだった。


「怖かった?」


 陽鞠が聞く。


「少し」


「うん」


「でも、お前がいた」


「うん」


「戻った」


「うん」


「陽鞠が、今の俺は俺だって言った」


「何度でも言うよ」


 陽鞠は朔夜の胸元に額を寄せた。


「朔夜は朔夜。今の朔夜が好き」


 朔夜の腕に、少しだけ力が入った。


「それ、俺の台詞だろ」


「今日は私の番」


「ずるい」


「いつも言われてるから」


「もっと言う」


「対抗しないで」


 少しだけ笑えた。


 夜の廃駅に、二人の小さな声が落ちる。


 けれど、不穏は消えない。


 陽鞠は朔夜の背中越しに、妖核が割れた場所を見た。黒い五芒星は消えた。だが、あの反応は残っている。


 凶暴化妖が、朔夜の霊力に従いかけた。


 膝をつくような動きをした。


 それは偶然ではない。


 ただの錯覚でもない。


 何かが、朔夜の魂の奥を叩いた。


 でも、今は答えを出さない。


 出せない。


 出すより先に、朔夜をここへ戻す方が大事だった。


「指輪、まだ熱いね」


 陽鞠が呟く。


 朔夜が少し離れ、手元を見る。


 二人の指輪は、月明かりの中で淡く光っていた。熱は少しずつ引いているが、完全には消えていない。


「反応したな」


「うん」


「黒い印に?」


「それもあるかも。でも、私たちにも」


 陽鞠は指輪を見つめた。


「朔夜が揺れた時、これが熱くなった。私が手を握った時、もっと熱くなった」


「繋いだ?」


「たぶん。引き戻したのかも」


 朔夜は黙る。


 その表情はまだ少し暗い。


 陽鞠は彼の手を握ったまま言った。


「怖いものじゃないといいね」


「怖いものでも」


「うん?」


「お前と繋がるなら、悪いだけじゃない」


 陽鞠の顔が少し赤くなる。


「そういうこと、急に言う」


「本当だから」


「……うん」


 廃駅の外で、風が草を揺らした。


 もう「帰れ」という声は聞こえない。


 ただ、遠くの国道の音がかすかに戻ってきている。現実の音。人が生きている街の音。


 陽鞠は封印ケースを取り出し、妖核の残滓を回収した。黒い五芒星の破片はほとんど崩れていたが、沈んでいた印の根の一部が残っていた。更紗なら、何か拾えるかもしれない。透羽なら、この廃駅と他の発生地点の繋がりを調べるだろう。かがりは、二人を見て眉間に皺を寄せるに違いない。


 戻らなければならない。


 でも、その前に。


 陽鞠は朔夜を見た。


「朔夜」


「何」


「キスしていい?」


 朔夜が少し目を見開いた。


「陽鞠から?」


「今日は私が確認する日」


 陽鞠は少し照れながらも言った。


「嫌ならしない」


「嫌なわけない」


「じゃあ、額」


 朔夜は少し屈んだ。


 陽鞠は背伸びして、朔夜の額へ短くキスをした。


 銀髪が頬に触れる。


 廃駅の冷たい空気の中で、その額は少しだけ熱かった。


「戻ってきた確認」


 陽鞠が言う。


 朔夜の黒い瞳が、静かに揺れる。


「生きてる確認じゃなくて?」


「今日は、戻ってきた確認」


「もう一回」


「欲しがり」


「陽鞠だから」


「そればっかり」


 それでも、陽鞠はもう一度、額へキスをした。


 今度は少しだけ長く。


 朔夜は目を閉じた。


 その表情が、いつもより少し幼く見えて、陽鞠の胸が痛くなる。


 妖が膝をついた一瞬。


 朔夜自身が一番怖かったのかもしれない。


 自分の中に知らないものがある感覚。


 自分の霊力に、妖が従いかける異常。


 それでも彼は、陽鞠の声で戻ってきた。


 陽鞠はその事実を、ちゃんと覚えておこうと思った。


 朔夜が目を開ける。


「今の俺は」


「朔夜」


 陽鞠は即答した。


「何回でも言う。今の朔夜は朔夜」


 朔夜は、少しだけ笑った。


 夜の廃駅で、ようやく。


 その笑みを見て、陽鞠も笑った。


 二人は並んでホームを出る。


 足元には、もう黒い切符はない。


 線路沿いの草が風に揺れ、月明かりが濡れた枕木を照らしている。封鎖結界を解除すると、夜の空気がゆっくり流れ込んだ。


 朔夜が手を差し出す。


「手」


 陽鞠は少し笑う。


「今度は聞かないんだ?」


「聞いてる」


「そうだった」


 陽鞠はその手を取った。


 指輪が触れる。


 ちり、と鳴る。


 熱はまだ、ほんの少し残っていた。


 怖いものかもしれない。


 まだわからないものかもしれない。


 でも、今は二人を繋いだ熱でもあった。


 陽鞠はその音を聞きながら、朔夜の隣を歩いた。


 廃駅の闇が背後で小さくなっていく。


 帰れという声は、もうしない。


 代わりに、隣から朔夜の低い声がした。


「陽鞠」


「何」


「俺は俺だ」


「うん」


「お前の隣にいる」


「うん」


「それでいいか」


 陽鞠は手を握り返した。


「それがいい」


 指輪が、もう一度だけ熱を持った。


 今度は怖くなかった。




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