第25話 陽鞠の金眼
川沿いの地下歩道は、夜になると冷たかった。
昼間なら自転車と通行人が行き交う場所だ。住宅街と駅前を繋ぐ短い地下通路で、古い蛍光灯が天井に並び、壁には色褪せた防犯ポスターと落書きが残っている。だが、夜の十時を過ぎると人通りは途端に途絶える。川から流れ込む湿った風が階段を下り、コンクリートの壁に溜まった冷えと混ざって、肌に薄くまとわりついた。
床には水が滲んでいた。
雨は降っていない。
それなのに、地下歩道の中央にだけ薄い水膜が張っている。蛍光灯の光がそこへ映り、白く揺れていた。水の表面には、小さな黒い点がいくつも浮かんでいる。
切符の欠片。
廃駅で見た黒い切符に似ていた。
陽鞠は階段の途中で足を止めた。
背中の弓が熱を帯びる。腰の日本刀の鞘にも、薄く霊力が走った。右手薬指の指輪が、かすかに熱を持つ。
隣で朔夜が低く言った。
「廃駅の残りか」
「似てる。でも、違う」
「どう違う」
「切符じゃなくて、影の欠片みたい。廃駅の妖核から剥がれたものに、別の霊気が絡んでる」
「また黒い五芒星か」
「まだ見えない。でも、いる」
陽鞠の金色の瞳が、地下歩道の奥を見据える。
通路の中央に、黒い影が立っていた。
人の形には近い。
けれど、人ではない。
廃駅の妖のような切符の束ではなく、影そのものが濡れて固まったような姿だった。表面には薄い紙片のようなものが何枚も貼りつき、その隙間から白い光が漏れている。顔の位置には何もない。穴さえない。ただ、白くぼやけた面がある。
その面が、陽鞠の方を向いた。
胸の奥で、嫌な音がした。
「……白い」
陽鞠は呟いた。
廃駅では黒い切符だった。
カラオケでは黒い喉だった。
神社では鈴の奥の黒い印だった。
なのに、今目の前にいる妖は、ところどころ白く光っている。
白い光。
夢の中の光に、少しだけ似ていた。
嫌だ。
そう思った瞬間、妖の身体が震えた。
地下歩道の蛍光灯が一斉に明滅する。壁に貼られたポスターの文字が滲み、床の水面に白い光が走った。黒い欠片が水の中で集まり、妖の足元から細い腕のように伸びてくる。
既に現場には、数名の退魔師がいた。
先着していたA級の男性退魔師が二人、B級の補助班が三人。地下歩道の両側には避難結界が張られ、一般人は近づけないようになっている。澄庭かがりも地上側で指揮を取っていた。更紗と透羽は学園で解析待機。
陽鞠と朔夜は、応援として呼ばれた。
表向きは、強い霊力を持つ妖への対処。
しかし、実際には違う。
この妖は、二人を待っていた。
陽鞠にはそう感じられた。
「篠宮、綴喜!」
先着のA級退魔師が叫ぶ。
「妖は通路内の水を媒介に動く! 接近時に白い光を出す。浴びると一瞬意識が飛ぶ!」
「白い光……」
陽鞠の手が、わずかに強張る。
朔夜がその変化に気づいた。
「陽鞠」
「平気」
「本当に?」
「……怖いけど、動ける」
正直に言う。
朔夜の黒い瞳が、少しだけ柔らかくなった。
「俺が前」
「うん。私は水路を切る」
「無理するな」
「する時は言う」
「言え」
「うん」
二人は階段を下りた。
地下歩道の空気が、さらに冷える。
水膜の上に足を置く前に、陽鞠は足元へ薄い結界を張った。靴底が直接水に触れないよう、金色の膜を一枚挟む。朔夜の足元にも同じ膜を置く。先着の退魔師たちの足元にも、順に補助膜を広げた。
味方を守るため。
いつものように。
陽鞠の結界は、水面の上に淡く広がっていく。
妖が、それを見た。
白くぼやけた顔が、陽鞠の金眼へ向く。
次の瞬間、妖の胸部に黒い五芒星が浮かび上がった。
沈んでいた印が、表へ出る。
黒い線の中央から、白い光が漏れている。
陽鞠の息が止まりかけた。
黒い五芒星と、白い光。
その組み合わせが、夢の中で見た何かを無理やり引っ張り上げようとする。
矢。
血の味。
誰かを失う感覚。
白い光の中で、倒れた手。
陽鞠は唇を噛みそうになり、やめた。
違う。
ここは夢ではない。
地下歩道だ。
任務中だ。
朔夜がいる。
「陽鞠!」
朔夜の声で、意識が戻る。
妖が動いていた。
水面を蹴るというより、水そのものを滑るように進んでくる。足音はしない。かわりに、床の水膜が細かく震え、壁に反射した蛍光灯の白い光が妖の身体へ吸い込まれていく。
A級退魔師が霊符を投げた。
符は妖の正面で燃え上がる。
しかし、白い光が符を包んだ瞬間、火が消えた。
「術式を飲むぞ!」
別の退魔師が叫ぶ。
「正面から撃つな!」
朔夜が前へ出る。
銀の刀が抜かれた。
妖の腕が伸びる。濡れた影のような腕。その先には、白い光の膜が張っていた。朔夜の刀がその腕を斬る直前、陽鞠が結界を差し込む。
正面からではない。
腕の軌道をずらすための斜めの膜。
金色の結界に触れた腕は横へ滑り、朔夜の刀の射線へ入る。朔夜がすぐに刃を返し、白い膜の外側ではなく、黒い影の芯を斬った。
腕が落ちる。
床へ落ちる前に、陽鞠が封じる。
水面に触れれば再生する。
それを読んでいた。
「いい!」
A級退魔師が声を上げる。
「篠宮、そのまま水を切れ!」
「はい!」
陽鞠は左手を広げた。
地下歩道の床全体に広がる水膜へ、細い結界の線を走らせる。完全に水を消すのではなく、妖の霊力が通る経路だけを切る。水と霊気を選別する作業。廃屋の雨水を封じた時に近いが、今回は白い光が混じっているぶん難しい。
白い光が、結界へ触れる。
じり、と指先が焼けるように痛んだ。
「っ……」
陽鞠は息を詰める。
結界が勝手に震えた。
自分の霊力なのに、思ったより強く広がろうとする。
おかしい。
いつもなら、自分で幅も厚みも調整できる。薄膜、射線、足場、遮断、選別。用途に応じて変えられる。それが陽鞠の強さだった。
なのに、今は結界が膨らもうとしている。
水膜を切るだけでいいのに、通路全体を覆おうとしている。
妖だけではなく、味方ごと。
陽鞠は慌てて抑えた。
「待って……!」
金色の瞳の奥が熱くなる。
いつもの金ではない。
もっと白い。
光が、目の奥から滲む。
視界の端が白く霞んだ。
陽鞠の結界が、地下歩道の壁へ一気に広がった。
金色に白が混じった膜。
それは美しいと言えば、美しかった。
だが、危険だった。
膜が広がった瞬間、近くにいたB級退魔師の身体が弾かれかけた。味方を通す選別が、一瞬だけ外れたのだ。
「うわっ!」
青年退魔師が足を取られる。
陽鞠は息を呑み、結界を引き戻そうとした。
だが、引き戻せない。
広がる。
勝手に。
守るための結界が、押し返す力になっていく。
味方まで。
「篠宮、結界が!」
A級退魔師の声。
陽鞠の胸が冷える。
違う。
違う。
弾きたいわけじゃない。
守りたいだけ。
止めたい。
でも、白い光が目の奥を押し広げる。
金眼が、白く光りかけている。
地下歩道の水面に映った自分の目が見えた。
金色の瞳の中心が、白く燃えている。
陽鞠は喉を震わせた。
「やだ……」
夢の白い光が蘇る。
矢。
血。
誰かを失う。
白い光の中で、全部が消える。
今も同じことが起きるのか。
自分の結界が、味方を弾くのか。
朔夜まで。
「陽鞠!」
朔夜の声が聞こえた。
彼は妖の腕を斬りながら、こちらへ戻ろうとしている。
だが、結界が邪魔をする。
陽鞠の結界が、朔夜を弾きかけた。
その瞬間、陽鞠の中で恐怖が爆ぜた。
「だめ!」
叫ぶ。
結界がさらに揺れる。
制御しようとするほど、白い光が強まる。
妖が笑ったような気配がした。
顔のない白い面が、陽鞠を見ている。
黒い五芒星が脈打つ。
まるで、これを待っていたみたいに。
陽鞠の結界が広がり、地下歩道の中央にいた味方を外へ押し出そうとする。守るためではなく、排除するように。
違う。
味方だ。
朔夜だ。
弾いちゃだめ。
陽鞠は両手で自分の胸元を掴んだ。
息がうまく吸えない。
目が熱い。
白い光が視界を埋める。
「私は……」
声が出ない。
喉が詰まる。
誰かが、どこかで呼んでいる気がする。
神の子。
白い光。
金眼。
失ったもの。
条件。
観察対象。
違う。
違う。
違う。
陽鞠は奥歯を噛んだ。
「私は、私だ……!」
声は震えていた。
それでも、言った。
「私は……神の子じゃない。誰かの記憶でもない。白い光でもない……!」
結界の膜が、びりびりと軋む。
味方を押し出していた力が、一瞬だけ弱まる。
朔夜がその隙を逃さなかった。
彼は自分へ向かってくる白金の結界に、刀では触れなかった。
斬らない。
陽鞠の結界を斬らない。
代わりに、左手を伸ばした。
指輪のある手。
「陽鞠!」
名前を呼んだ。
強く。
まっすぐ。
「篠宮陽鞠!」
その声が、白い光の中へ届いた。
陽鞠の肩が震える。
名前。
自分の名前。
神の子ではなく。
誰かの器ではなく。
条件でもなく。
篠宮陽鞠。
「陽鞠、俺を見ろ!」
朔夜の声が続く。
「お前は陽鞠だ! 俺の隣にいる退魔師だ!」
視界の白が揺れた。
黒い瞳が見える。
銀髪。
左手の指輪。
朔夜が、結界に弾かれそうになりながら、それでも手を伸ばしている。
陽鞠は叫んだ。
「朔夜!」
自分も手を伸ばした。
結界の膜が二人の間で軋む。
まるで、陽鞠自身が朔夜を拒んでいるようだった。
嫌だ。
違う。
拒む相手を間違えるな。
私は朔夜を弾きたいんじゃない。
守りたい。
隣にいたい。
陽鞠は必死に結界を内側から掴んだ。
霊力の流れを自分の手元へ引き戻す。
暴れる白い光を、金色の輪郭の中へ押し込める。
痛い。
目の奥が焼ける。
指先の傷が開く。
左手首の浄化符の下も熱を持つ。
それでも、引き戻す。
「私は私だ!」
陽鞠はもう一度叫んだ。
「篠宮陽鞠だ!」
その瞬間、二人の指が触れた。
指輪同士がぶつかる。
ちりん、と鳴った。
いつもより澄んだ音だった。
地下歩道の冷たい空気を裂くように。
その音と同時に、二つの指輪が熱を持つ。
朔夜の黒銀の霊力が、陽鞠の手へ流れ込む。
陽鞠の金色の霊力が、それに応える。
混ざりきらない。
飲み込まれない。
互いの輪郭を残したまま、繋がる。
白く広がっていた結界の端に、金色の線が戻った。
陽鞠の金眼の中心で暴れていた白い光が、少しずつ引いていく。
完全には消えない。
でも、金色の中へ収まっていく。
陽鞠は息を吐いた。
結界が、味方を弾く力を失う。
白金の膜は一度大きく震え、それから陽鞠の意志に従うように形を変えた。広がりすぎた膜が折りたたまれ、地下歩道の中央へ集まる。味方を押し出すのではなく、妖だけを囲む形へ。
A級退魔師が叫ぶ。
「戻った!」
「篠宮、制御できるか!」
陽鞠は朔夜の手を握ったまま、息を吸った。
「できます!」
声は少し掠れていた。
でも、はっきりしていた。
「味方を通します! 妖だけ封じます!」
結界が再構築される。
今度は、陽鞠の意志で。
金色の薄膜が、地下歩道の床と壁と天井へ走る。味方の霊力を認識し、通す。妖の霊力を遮る。白い光だけを内側へ閉じ込める。
朔夜が陽鞠を見た。
「行けるか」
「うん」
「無理なら」
「言う。でも今は行ける」
「わかった」
朔夜は手を離そうとした。
陽鞠が指先だけ少し強く握る。
「あと一秒」
朔夜は止まった。
「ああ」
その一秒で、陽鞠は自分の呼吸を整えた。
白い光はまだ怖い。
目の奥に残っている。
でも、自分のものではない何かに飲まれる感覚は薄れた。
朔夜の声がある。
名前がある。
指輪の熱がある。
「もう大丈夫」
陽鞠が言う。
「本当に?」
「怖いけど、私でいられる」
朔夜の黒い瞳が、少しだけ揺れる。
「なら、斬る」
「うん。私が道を作る」
二人は手を離した。
妖が白い光を強める。
黒い五芒星が、核の表面で激しく脈打つ。陽鞠の暴走を引き起こせなかったことに怒っているようだった。地下歩道の水膜が逆立ち、白い光が刃の形を取る。
B級退魔師たちは後方へ下がる。
A級退魔師二人が左右から霊符を構えた。
「篠宮、綴喜、合わせる!」
「はい!」
陽鞠は弓を構えた。
指先は痛い。
目も熱い。
だが、狙いは見える。
妖の胸部。
黒い五芒星の中央。
そこから白い光が漏れ出している。印が陽鞠の金眼へ干渉していたのなら、そこを封じればいい。
ただし、正面から矢を撃てば白い光に飲まれる。
だから、結界で回す。
陽鞠は射線結界を五枚置いた。
一枚目は床すれすれ。
二枚目は右壁。
三枚目は天井。
四枚目は左壁。
五枚目は妖の背後。
矢をまっすぐ撃たない。
妖の白い面に見せない。
背後から、黒い五芒星の縁を刺す。
「朔夜、正面」
「任せろ」
「白い光、浴びないで」
「陽鞠の結界を信じる」
「信じすぎないで。今回はちょっと怖い」
「それでも信じる」
「……もう」
陽鞠の胸が少し熱くなる。
朔夜が前へ出た。
妖が白い光を放つ。
視界を焼くような光。
A級退魔師たちが霊符を左右から投げる。符は白い光に触れる前に、陽鞠の結界で角度を変えられ、光の縁を削るように燃えた。白い光がわずかに乱れる。
朔夜はその乱れを見て踏み込んだ。
陽鞠が彼の前に薄い金色の膜を張る。
白い光を完全に防ぐのではない。
目と意識へ入り込む成分だけを遮る膜。
朔夜の刀が、妖の腕を切り落とす。
腕が水膜へ落ちようとする。
陽鞠が床の結界を閉じ、水への接続を断つ。
B級退魔師が後方から拘束札を投げた。
今度は陽鞠の結界が味方を弾かない。
拘束札はまっすぐ妖の足元へ届き、黒い影を縫い止める。
「今!」
A級退魔師が叫ぶ。
陽鞠は矢を放った。
矢は床すれすれに走り、一枚目の結界で右へ跳ねた。右壁で角度を変え、天井へ。天井で反射するように左壁へ飛び、最後に妖の背後へ回り込む。金色の軌跡が地下歩道の中で鋭い星形を描いた。
妖は前しか見ていない。
白い面は朔夜を見ている。
背後から来る矢に気づくのが遅れた。
矢が、黒い五芒星の縁へ刺さる。
白い光が弾けた。
陽鞠の目の奥が、再び熱くなる。
「っ……!」
だが、今度は飲まれない。
陽鞠は自分の名前を握るように、霊力を絞った。
「私は、私だ」
小さく呟く。
矢が印の縁を焼く。
朔夜が正面から踏み込む。
「陽鞠!」
「朔夜!」
呼び合う。
それだけで、二人の指輪がまた小さく鳴った。
ちり。
熱が走る。
朔夜の刀が、白い光の割れ目へ入った。
銀の刃に、陽鞠の金色の補助膜が重なる。黒い五芒星が抵抗する。白い光が膨らもうとする。だが、今度は陽鞠の結界がそれを内側へ押さえ込む。
暴走ではない。
制御。
彼女自身の意志で、白い光を金色の膜の中へ閉じる。
「斬って!」
陽鞠が叫ぶ。
朔夜の刀が振り抜かれた。
妖核が割れる。
黒い五芒星が中心から裂け、白い光が一瞬だけ地下歩道全体を照らした。
陽鞠は目を閉じなかった。
白い光を見た。
怖いまま。
飲まれないように。
自分の名前を握ったまま。
光はすぐに消えた。
妖の身体が崩れる。
濡れた影が水へ戻る前に、A級退魔師たちの霊符が残滓を焼いた。B級退魔師たちが後方の封鎖結界を強める。陽鞠は最後の力で水膜全体を薄く包み、黒い欠片が外へ逃げないよう封じた。
静けさが戻る。
蛍光灯の明滅が止まり、地下歩道はいつもの薄暗さに戻った。
水膜には、もう白い光は映っていない。
陽鞠は弓を下ろした。
膝から力が抜けそうになる。
朔夜がすぐに支えた。
「触る」
確認というより、宣言に近かった。
だが、陽鞠は頷いた。
「うん」
朔夜の腕が背中を支える。
陽鞠は彼のコートを掴んだ。
「……ごめん」
「何が」
「味方、弾きそうになった」
「弾いてない」
「弾きそうだった」
「戻した」
「朔夜まで」
「弾かれてない」
「でも」
「陽鞠」
朔夜の声が少し強くなる。
「戻した」
陽鞠は唇を結ぶ。
朔夜は続けた。
「暴走しかけた。でも、戻した。自分で名前を言って、戻ってきた」
「朔夜が呼んでくれたから」
「呼んだら戻ってきたのは陽鞠だ」
その言葉に、胸が詰まる。
陽鞠は彼の袖を握った。
「怖かった」
「ああ」
「金眼が、白くなった気がした。私じゃないものが広がる感じがした」
「ああ」
「守るための結界なのに、みんなを押し出しそうになった」
「ああ」
「でも、私、戻れた?」
朔夜は迷わず答えた。
「戻った」
「私だった?」
「陽鞠だった」
陽鞠の目が揺れる。
涙は出ない。
出ないけれど、胸の奥が痛い。
そこへ、先ほど弾かれかけたB級退魔師が近づいてきた。少し足を引きずっているが、大きな怪我はない。
陽鞠は顔を強張らせた。
「すみません、私」
「助かりました」
彼はそう言った。
陽鞠が目を瞬く。
「え」
「あのまま白い光を浴びてたら、たぶん全員意識を持っていかれてました。結界が少し弾いたのは怖かったですけど、最後はちゃんと通してくれた。助かりました」
「でも」
「次からもっと早く下がります。篠宮さんだけのせいじゃないです」
青年退魔師はそう言って、ぎこちなく笑った。
陽鞠の胸の奥が少しほどける。
A級退魔師も頷いた。
「制御を失いかけたのは事実だ。だが、戻したのも事実だ。報告にはそう書く」
「……はい」
「よく踏み止まった」
その言葉が、陽鞠の中へゆっくり落ちる。
踏み止まった。
失敗しかけた。
でも、踏み止まった。
その両方を、ちゃんと見てくれる人がいる。
陽鞠は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
任務後の処理は、いつもより慎重に進んだ。
白い光の残滓は、更紗へ送るために封印ケースへ回収した。透羽へは発生地点、廃駅との距離、地下水路との接続情報を共有する。かがりへは、陽鞠の金眼が白く光りかけたこと、結界が一時的に味方を弾きかけたこと、指輪の反応で制御が戻ったことを即座に報告した。
報告しながら、陽鞠の指はまだ少し震えていた。
でも、隠さなかった。
震えていることも含めて、報告した。
学園へ戻る前、地下歩道の出口で、陽鞠は夜空を見上げた。
外の空気は冷たい。
地下の湿った匂いが抜け、川沿いの風が頬に触れる。街灯の光は白いが、さっきのように怖くはなかった。人工の、ただの光だ。
朔夜が隣に立つ。
「手」
言われて、陽鞠は自分から右手を差し出した。
朔夜が握る。
指輪同士が触れた。
ちり。
今度は、静かな音だった。
熱はもうほとんど引いている。
ただ、少しだけ温かい。
「また鳴った」
陽鞠が言う。
「ああ」
「怖かったけど、助かった」
「ああ」
「この指輪、何なんだろうね」
「俺たちの」
朔夜は即答した。
陽鞠は少し笑った。
「そういう意味じゃなくて」
「まず、それが大事だろ」
「……うん」
確かにそうだ。
黒い印が反応しても。
白い光が干渉しても。
指輪が熱を持つ理由がまだわからなくても。
この指輪は、二人で選んだものだ。
誰かに条件として与えられたものではない。
陽鞠はその温度を確かめるように、指を少し曲げた。
「朔夜」
「何」
「また、名前呼んで」
朔夜は彼女を見る。
それから、まっすぐ言った。
「陽鞠」
胸の奥が温かくなる。
「もう一回」
「陽鞠」
「……うん」
「篠宮陽鞠」
陽鞠は目を閉じた。
その名前が、自分を繋ぎ止める。
神の子でもなく。
白い光でもなく。
誰かの記憶でもなく。
観察対象でもなく。
篠宮陽鞠。
朔夜の隣にいる退魔師。
「私は私だ」
小さく言う。
朔夜の手が、少しだけ強くなる。
「陽鞠だ」
「うん」
「俺の隣にいる」
「うん」
「今の陽鞠が好きだ」
陽鞠の顔が少し赤くなる。
「今それ言う」
「今だから言う」
「……ありがとう」
陽鞠は朔夜の手を握り返した。
川沿いの風が、二人の間を通り抜ける。
地下歩道の奥には、もう妖の気配はない。
だが、金眼の奥に残った白い光の記憶は消えていない。これからも、また揺れるかもしれない。結界が勝手に広がることもあるかもしれない。怖い。正直に、怖い。
でも、名前を呼ぶ声がある。
繋ぎ止める指輪がある。
自分で言える言葉がある。
私は私だ。
陽鞠はその言葉を胸の奥に置き、朔夜と並んで学園へ戻る道を歩き出した。
指輪がもう一度だけ、ちり、と鳴った。
その音は、白い光に飲まれなかった。




