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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第26話 押し込められた結界


 古い水族館跡は、夜になると海の底に沈んだ建物のように見えた。


 市の南側、埋立地の端に残された施設だった。十数年前に閉館し、今は再開発の予定だけが何度も立ち消えになっている。正面玄関のガラスは板で塞がれ、色褪せたイルカの看板は錆びた支柱に斜めにぶら下がっていた。外壁には潮風で白く乾いた跡が残り、入口周辺のタイルはひび割れている。


 中へ入ると、古い水の匂いがした。


 海水の名残。


 苔。


 濡れたコンクリート。


 錆びた鉄。


 誰もいないはずなのに、館内の奥から水が揺れるような音が聞こえる。


 陽鞠は懐中灯を使わなかった。


 指先に霊力を灯し、薄い金色の光を作る。通路の壁には、かつて展示の説明板があったらしい跡が残っていた。文字は剥げ、魚の写真は退色して、目だけが白く残っている。足元には割れたアクリル板の破片が散らばり、踏めば乾いた音を立てそうだった。


 隣で、朔夜が刀へ手を置いたまま歩いている。


 銀髪が暗がりに薄く光る。黒いコートの裾が揺れ、左手薬指の指輪が陽鞠の霊力光を拾って一瞬だけきらめいた。


「水族館で妖」


 陽鞠が小さく言った。


「出そうではある」


「出そうとか言わないで。出てるから来てるんだけど」


「魚か」


「魚だったらまだいいけど」


「いいのか」


「形がわかるから」


 陽鞠は通路の奥を見た。


 気配は、展示ホールの方から来ている。


 閉館後も撤去されなかった巨大水槽があるらしい。通報内容では、夜になると水がないはずの水槽の中で影が泳ぎ、ガラス越しに人の手形が増えていくという。さらに前日、管理会社の職員が下見に入り、誰もいない展示ホールで「こちらへお入りください」という館内放送を聞いた。


 自然発生の妖。


 それ自体は珍しくない。


 だが、問題はその霊力反応だった。


 黒い五芒星に近い波形。


 そして、白い光の残滓。


 先日、地下歩道で遭遇した妖と、わずかに似ている。


 陽鞠は無意識に自分の目元へ触れかけ、途中で止めた。


 金眼が白く光りかけた感覚は、まだ完全には消えていない。あの日、結界が勝手に広がり、味方まで弾きそうになった。朔夜が名前を呼んでくれなければ、自分はどこまで広がっていたのか。


 考えたくない。


 でも、考えないわけにはいかない。


 朔夜が陽鞠の横顔を見た。


「目、大丈夫か」


「うん」


「本当に?」


「怖いけど、今は大丈夫」


「白い光が出たら」


「言う。自分で抑えきれないと思ったら、すぐ言う」


「俺は呼ぶ」


「うん。名前、呼んで」


 朔夜は頷いた。


 その短いやりとりだけで、陽鞠の胸は少し落ち着いた。


 奥へ進む。


 展示ホールに出ると、空気が一気に開けた。


 天井は高く、吹き抜けになっている。中央に巨大水槽があり、周囲を回るように通路が作られていた。水槽には水がほとんど残っていない。底に薄く濁った水が溜まっているだけだ。けれど、ガラスの向こう側では、暗い影がゆらゆらと泳いでいる。


 魚ではない。


 人の手のようなものが、何本も水槽の内側を這っている。


 指が長い。


 掌が平たく、爪がない。


 手の形だけをした黒い影が、ガラスの内側からこちらを叩く。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 音は小さいのに、やけに耳に残った。


「水槽の妖」


 陽鞠は弓を外した。


「核は?」


「底。濁った水の中。黒い五芒星は……沈んでる。まだ表に出てない」


「またか」


「うん」


 水槽のガラスに、白い光が走った。


 陽鞠の肩がわずかに強張る。


 朔夜がすぐ気づく。


「陽鞠」


「大丈夫。まだ」


 その時、館内放送のスピーカーがざらついた。


 古いノイズ。


 長く使われていない機械が、無理やり息を吹き返すような音。


『本日は、ご来館いただき、ありがとうございます』


 女の声だった。


 明るく、作られた案内の声。


 しかし、その奥に濡れた影が混じっている。


『まもなく、深海の展示が始まります。足元にご注意のうえ、前へお進みください』


 陽鞠は顔をしかめた。


「誘導系」


「廃駅と似てるな」


「うん。でも、今度は帰れじゃなくて、入れって言ってる」


 水槽の中の影が一斉に動いた。


 黒い手がガラスへ集まる。


 そして、ガラスの内側から白い光がじわりと広がった。


 妖が来る。


 陽鞠は結界を張った。


 水槽と通路の間に、金色の薄膜を三層。


 一層目は物理的な破片を止める。


 二層目は霊力の波を受け流す。


 三層目は白い光の干渉を遮る。


 地下歩道での感覚を忘れないよう、広がりすぎないように、味方まで弾かないように、必要なところだけへ細く集中する。


 朔夜が半歩前へ出る。


「割れるか」


「割れる。でも、割れたら水槽の底の水が媒介になって広がる」


「先に水を切る?」


「うん。私が底の水路を封じる。朔夜はガラスが割れた瞬間に出てくる腕を落として」


「わかった」


 陽鞠は左手を水槽へ向けた。


 ガラス越しに、底の濁った水へ結界を伸ばす。普通ならガラスが障害になる。だが、妖の霊気がガラスの細かな傷に染み込んでいる。そこを逆に利用し、霊力の糸を中へ差し込む。


 水の底。


 黒い五芒星の沈んだ核。


 そこへ触れないよう、水路だけを切る。


 難しい。


 だが、できる。


 そう思った瞬間だった。


 水槽の向こう側に、黒い長衣の影が映った。


 陽鞠の息が止まる。


 朔夜も気づいた。


 水槽のガラスに映った姿。


 濡羽色の髪。


 白手袋。


 御影堂玻月。


 だが、背後を振り返っても、そこにはいない。


 映り込みだけ。


 違う。


 映り込みではない。


 ガラスの向こう、妖のいる水槽の内側に、玻月の姿があった。


「何で……!」


 陽鞠が言うより早く、白手袋の指が動いた。


 水槽の内側から、玻月がこちらへ手を伸ばす。


 ガラスが割れる。


 音はしなかった。


 ただ、空間が薄く裂けた。


 水槽のガラスではなく、陽鞠の目の前の空気が裂けた。そこから白手袋の指先が現れる。結界をすり抜けるように。


 陽鞠は即座に後退した。


 だが、足元に水の影が絡んだ。


 ほんの一瞬。


 それだけで十分だった。


 玻月の白手袋が、陽鞠の結界の継ぎ目へ触れる。


「篠宮陽鞠」


 静かな声。


「今日は、狭くする」


 次の瞬間、陽鞠の周囲の空間が折りたたまれた。


「陽鞠!」


 朔夜の叫びが遠くなる。


 視界が歪む。


 展示ホールの広い空間が、急に押し潰される。水槽も、通路も、朔夜も、遠ざかる。陽鞠の周囲に、透明な箱のような結界が生まれた。四方は狭く、腕を伸ばせば触れそうな距離。天井も低い。床も硬い。


 狭い。


 息が詰まる。


 外には朔夜が見える。


 だが、音が歪んでいる。


 ガラス越しのように遠い。


 陽鞠は弓を構えようとした。


 しかし、狭すぎる。


 弓を引くための幅がない。


 腕を上げようとしただけで、肘が結界壁へぶつかった。金色の霊力が弾かれ、指先に痺れが走る。


 目の前に、玻月がいた。


 黒い長衣。


 白手袋。


 紫紺の瞳。


 先ほど水槽の内側にいたはずの男が、今は狭い結界の中で陽鞠と向かい合っている。


 距離が近い。


 近すぎる。


 陽鞠の喉が一瞬、強張った。


 だが、すぐに怒りが勝った。


「離れて」


「ここでは難しい」


「あなたが作ったんでしょう」


「そうだ」


「なら、壊します」


「やってみるといい」


 玻月の声は穏やかだった。


 それが腹立たしい。


 陽鞠は足元へ霊力を流した。


 狭い結界の内側から、構造を読む。


 玻月の結界は、見た目ほど単純ではなかった。透明な壁に見えるが、実際には何層もの霊力が折り畳まれている。外からの力を逃がす層、内側の霊力を圧縮する層、術者の位置を曖昧にする層。薄い。だが、恐ろしく密度が高い。


 力任せに押せば、押した分だけ内側へ圧が返る。


 陽鞠は奥歯を噛んだ。


「朔夜!」


 外へ叫ぶ。


 声が結界壁で潰れる。


 外の朔夜が動いた。


 刀を抜いている。


 黒銀の霊力が刃に絡む。


 朔夜が外から結界へ斬りかかった。


 銀の刃が、透明な壁へ入る。


 だが、触れる寸前で軌道が逸れた。


 刃は結界を掠めることさえなく、空を裂いた。朔夜の目が見開かれる。すぐに足を踏み替え、二撃目を入れる。今度は角度を変え、下から斬り上げる。


 それも逸れた。


 結界に当たらない。


 まるで結界そのものが、そこにあるようで、触れようとすると一寸だけ位置をずらすようだった。


 玻月は陽鞠の前で、ほとんど動かない。


 白手袋の指先を、ほんのわずかに動かしているだけだった。


 陽鞠は気づいた。


 朔夜の刀を避けているのではない。


 朔夜が斬ろうとする瞬間に、結界の面をずらしている。


 刃が来る位置を読み、触れる前に面を滑らせる。


 その操作を、玻月は中から片手で行っていた。


 妖のいる水槽を背後に残したまま。


 陽鞠を狭い結界へ閉じ込めたまま。


 片手で。


 余裕を崩さず。


「朔夜の刀を、見ないでずらしてる……?」


 陽鞠の声が掠れる。


「見ている」


 玻月が答えた。


「刀だけではなく、肩、肘、足、息、重心。彼は速いが、まだ直線的だ」


「勝手に分析しないで」


「分析しなければ、避けられない」


「避けてるんじゃない。触らせてもいない」


「よく見ている」


 褒め言葉の形。


 だが、やはり褒め言葉ではない。


 陽鞠は吐き気がするほど腹が立った。


 外で、朔夜が三撃目を放つ。


 今度はフェイントを入れた。


 刃を右へ見せ、左足を軸に回り込み、結界の端へ斜めに斬り込む。鋭い。速い。並の退魔師なら反応できない速度だった。


 だが、白手袋の指先が、ふっと動いた。


 結界の角が消える。


 朔夜の刀は、空を斬る。


 一ミリも触れない。


「っ……!」


 朔夜が歯を食いしばるのが見えた。


 怒りが、外からでもわかる。


 陽鞠は胸が締めつけられた。


「朔夜、無理に斬らないで!」


 叫ぶ。


 声はまた歪む。


 でも、朔夜には届いた。


 届いたが、彼は止まらなかった。


「陽鞠を出せ」


 朔夜の声が低く響いた。


 結界越しでも、怒りで震えているのがわかる。


 玻月は陽鞠を見たまま答えた。


「今の彼には難しい」


「俺に言え」


 朔夜がさらに踏み込む。


 刃が走る。


 今度は結界ではなく、玻月の位置を狙った斬撃に見えた。結界を破れば、その奥の玻月へ届く角度。朔夜の殺気が、展示ホールの空気を冷やす。


 しかし、その刃も触れない。


 結界の壁が、薄く波打つ。


 朔夜の斬撃は、玻月の肩どころか、結界の表面にも届かず流された。


 玻月の白手袋は、ほんの少しだけ揺れただけ。


 陽鞠は唇を噛んだ。


 悔しい。


 恐ろしい。


 強すぎる。


 玻月は本気を出していない。


 刀を抜いてすらいない。


 霊符も、霊糸も、呪詛も使っていない。


 ただ、結界を作り、その形をずらし、朔夜の刀を空振りさせている。


 陽鞠を内側に閉じ込めたまま。


「君の結界は、広げることに慣れすぎている」


 玻月が言った。


 陽鞠は睨んだ。


「黙って」


「広く守る。多層で覆う。味方を通し、敵を弾く。見事だ。だが、狭く押し込められた時、どうする?」


 結界の天井が、少し下がった。


 陽鞠の肩が強張る。


 狭い。


 息がしづらい。


 玻月は近づいていない。


 だが、結界そのものが近づいてくる。


 壁が、陽鞠の霊力を押し返す。


 力で押さえられそうになる。


「やめて」


「止めたいなら、止めろ」


 玻月の声は穏やかだった。


「君の結界は、拒絶する時に最も鋭くなる。ならば、拒絶してみせろ」


「あなたのために見せるものじゃない!」


 陽鞠は結界を張った。


 自分の周囲へ、金色の棘のような膜。


 玻月に触れさせないため。


 押し込んでくる透明な壁を弾くため。


 だが、玻月の結界は外から圧をかけるだけではなかった。陽鞠の金色の膜へ触れた瞬間、その力を吸うように形を変える。真正面から受け止めず、横へ流し、壁の奥へ逃がす。陽鞠の結界の棘が、透明な壁の中へ滑らされる。


 刺さらない。


 弾けない。


 押し返せない。


 陽鞠の指先が震えた。


「くっ……!」


 結界の天井がさらに下がる。


 壁も近づく。


 陽鞠は膝をつきそうになった。


 朔夜が外で吠えるように叫んだ。


「陽鞠!」


 刀が結界へ叩きつけられる。


 だが、また逸れる。


 刃が空を切り、床のタイルを削った。火花が散る。朔夜はすぐに体勢を戻し、次の斬撃へ移る。速い。荒い。怒りで、さらに速くなっている。


 それでも、届かない。


 一度も。


 一ミリも。


 玻月にはもちろん、玻月の結界にすら触れない。


「朔夜、止まって!」


 陽鞠は叫んだ。


「止まらない!」


「怒りで斬ったら読まれる!」


 朔夜の刃が一瞬だけ止まる。


 陽鞠はその隙に息を吸った。


 自分で何とかする。


 外から斬れないなら、中から壊す。


 玻月の結界は、陽鞠の霊力を流している。なら、流される前に爆ぜさせる。押し返すのではなく、中心から破裂させる。


 以前、玻月の手を弾いた時の拒絶結界。


 あれを、もっと内側から。


 自分の皮膚のすぐ外側ではなく、胸の奥から結界の芯へ通す。


 怖い。


 制御を誤れば、自分ごと吹き飛ぶ。


 味方を弾くような広がり方をすれば、また朔夜を巻き込む。


 でも、やるしかない。


 陽鞠は目を閉じた。


 暗い。


 狭い。


 息苦しい。


 玻月の結界が圧をかけてくる。


 透明な壁が、身体の輪郭を押し潰そうとする。


 陽鞠はその圧の中心で、自分の名前を掴んだ。


 私は私だ。


 篠宮陽鞠。


 神の子ではない。


 観察対象ではない。


 押し込められるだけのものではない。


 陽鞠は目を開いた。


 金色の瞳が強く光る。


 白ではない。


 金だ。


 自分の意志で燃える金。


「私は、あんたの箱に入るために結界を覚えたんじゃない」


 低く言った。


 玻月の紫紺の瞳が、わずかに細くなる。


「そうだろうな」


「朔夜!」


 陽鞠は外へ叫ぶ。


「外から、次で合わせて!」


 朔夜の黒い瞳が、結界越しに陽鞠を見る。


 一瞬で意図が通じた。


「わかった」


 陽鞠は両手を胸の前で開いた。


 結界を張るのではない。


 自分の中へ集める。


 周囲へ広げず、内側へ。


 狭い空間の中で、金色の霊力が一点に凝縮する。圧が強すぎて、指先が裂けた。爪の横から血が滲む。呼吸が苦しい。結界壁がさらに近づき、肩を押す。


 玻月は動かない。


 止めない。


 見ている。


 試している。


 陽鞠はその視線ごと、怒りで焼いた。


「見るな」


 そして、結界を爆ぜさせた。


 音が消えた。


 次の瞬間、金色の光が狭い結界の内側で炸裂した。


 外へ広がらないよう、陽鞠は爆発の方向を絞った。上下左右ではなく、玻月の結界の継ぎ目だけを狙う。透明な壁の内側に、金色の亀裂が走る。


 同時に、外から朔夜が刀を振るった。


 今度の斬撃は、怒り任せではない。


 陽鞠が内側から作った亀裂。


 その一点だけを狙う。


 黒銀の霊力が刀にまとわりつき、刃が一直線に走る。


 玻月の白手袋が動いた。


 結界の面をずらそうとする。


 だが、内側から爆ぜた光が、ほんの一瞬だけ面の逃げ道を塞いだ。


 朔夜の刀が、初めて結界へ触れた。


 きん、と鋭い音がした。


 透明な壁に、細い傷が入る。


 割れたわけではない。


 破れたわけでもない。


 ただ、傷が入った。


 それだけ。


 だが、それだけで陽鞠は結界の隙間から転がり出るように外へ出た。


 朔夜がすぐに受け止める。


「陽鞠!」


「平気……!」


「血」


「指だけ」


 朔夜の腕が支える。


 陽鞠は息を荒くしながら、玻月を見た。


 狭い結界はまだ残っている。


 ただ、陽鞠のいた場所にひびが入っているだけだ。


 その向こうで、玻月が立っていた。


 服は乱れていない。


 髪もほとんど揺れていない。


 白手袋にも傷ひとつない。


 内側から陽鞠が爆ぜさせ、外から朔夜が斬った。


 それでも、玻月自身には一切届いていなかった。


 玻月は、透明な結界の内側からひびを見た。


 そして、薄く笑った。


「悪くない」


 その一言で、朔夜の霊力が冷え切った。


「お前……」


 低い声。


 陽鞠は朔夜の腕の中で、その怒りを感じた。


 黒銀の霊力が刃のように研がれていく。先ほどまでの焦りとは違う。陽鞠を閉じ込められた怒り。自分の刀が届かなかった屈辱。玻月がまだ余力を残している現実。その全部が、朔夜の中で鋭く一点へ集まっている。


 玻月は結界を解いた。


 透明な箱が、空気へ溶けるように消える。


 展示ホールの空間が戻る。


 巨大水槽の中で、黒い手が再びガラスを叩いた。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 妖はまだいる。


 戦闘はまだ終わっていない。


 それなのに、空気の中心は完全に玻月だった。


 彼がいるだけで、任務の重さが変わる。


 玻月は刀を抜いていない。


 霊符も構えていない。


 ただ、白手袋の指先を軽く曲げているだけ。


 それだけで、陽鞠と朔夜を翻弄した。


 陽鞠は肩で息をしながら、唇を噛んだ。


 悔しい。


 悔しいほど、遠い。


 朔夜は陽鞠をそっと後ろへ下がらせた。


「朔夜」


「下がってろ」


 声が低い。


 危ない。


 陽鞠にはわかった。


 この声の朔夜は、本気で斬る。


「待って」


「待たない」


「妖がまだ」


「そいつより先に、あいつだ」


 朔夜の黒い瞳が、玻月を捉える。


 玻月はその視線を受けても、余裕を崩さなかった。


「君は、怒るとさらに直線的になる」


「黙れ」


「事実だ」


「黙れ」


 朔夜の刀が、低く構えられる。


 黒銀の霊力が刃にまとわりつき、展示ホールの水気を一瞬で冷やした。床に薄く張っていた水膜が凍りかけ、割れたアクリル片が震える。


 陽鞠は息を呑んだ。


 止めなければ。


 でも、今の朔夜は止まらない。


 指先の血が、弓の握りに落ちる。


 痛みで意識が戻る。


「朔夜!」


 陽鞠が叫んだ。


 朔夜は振り返らない。


 玻月が白手袋の指先を、ほんの少しだけ上げた。


 その動きに、余裕がある。


 まだ本気ではない。


 それどころか、朔夜が斬りかかってくるのを待っている。


 水槽の中で、妖の黒い手がガラスを叩く音が強くなった。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 館内放送が、ざらついた声で言った。


『展示が、始まります』


 朔夜の足が、床を蹴った。


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