第47話 霊糸の鞭
黒い五芒星は、歪んでいた。
中心に縛られた陽鞠の右手薬指で、指輪がまだかすかに光っている。強い光ではない。黒い拘束結界に何重にも遮られ、白い糸に押し潰され、それでも消えずに残る金色。
遠くで朔夜が呼んでいる。
声は聞こえない。
けれど、名前を呼ばれた感覚がある。
陽鞠。
それだけで、白く剥がされかけた魂が、肉体へ戻ろうとした。
自分の名前。
自分の身体。
自分の意思。
篠宮陽鞠。
朔夜の隣に帰る退魔師。
神の子ではない。
扉ではない。
器ではない。
その言葉を、陽鞠は何度も胸の中で繰り返していた。
喉はもう声を出すためのものではなく、痛みを通す管のようになっていた。水の結界に塞がれ、電流で叫び、霊糸で絞められ続けた喉は、息を吸うだけで裂けるように痛む。首には霊糸の跡が残り、目は充血し、瞳孔は開ききったまま戻らない。視界は白く霞み、黒い五芒星も、石柱も、玻月の輪郭も、水底から見上げているように揺れている。
身体は、もう自分の形を保つだけで精一杯だった。
濡れ、汚れた制服。
冷え切った手足。
何度も制御を奪われ、痙攣し、排出を止められなかった身体。
そのすべてが、石床の冷たさと異臭の中に沈んでいる。
それでも、陽鞠の指先は黒い線へ触れていた。
覚えた術式がある。
水の結界の循環。
護符の電流の戻り口。
霊糸と白い糸の接続部。
黒い五芒星が魂を引く時、一度外周へ流す癖。
玻月の術式の折り目。
正面から受けず、斜め下へ逸らす。
霊力を横へ逃がし、戻る寸前で別の線へ重ねる。
補正の前に、必ず半拍の遅れが出る。
痛みの中で、陽鞠はそれを覚えた。
忘れない。
忘れたら、本当にただ壊されただけになる。
玻月が、五芒星の外側で白手袋の指を動かした。
黒い長衣の裾が、地下の冷気に揺れる。
「仕上げだ」
その声は、低く静かだった。
陽鞠の身体が、反射的に強張る。
もう嫌だ。
痛いのは嫌だ。
これ以上は嫌だ。
そう思うのは、弱さではなかった。
当たり前の恐怖だった。
陽鞠は十八歳の少女だ。強い退魔師でも、S級特待生でも、痛みに無限に耐えられるわけではない。怖いものは怖い。痛いものは痛い。呼吸を奪われれば苦しい。身体の制御を奪われれば恐ろしい。魂を剥がされれば、存在そのものが悲鳴を上げる。
それでも、目を逸らさない。
玻月の袖口から、霊糸が現れた。
今度の霊糸は、首を締めていたものより太く見えた。実際には髪の毛ほど細い糸が何本も束ねられている。一本一本に銀色の雷紋が絡み、黒い護符の欠片が小さく貼りついている。さらに、糸の周囲には透明な結界膜が巻かれていた。
霊糸。
護符。
結界。
三つを重ねた鞭。
陽鞠は息を呑んだ。
玻月の手にあるそれは、ただ打つためのものではない。
触れた場所から、痛みを肉体へ流し、霊力経路を乱し、魂の表面まで傷を届かせるための術具だった。
玻月が手首を振った。
霊糸の鞭が、空気を裂いた。
音は遅れて来た。
ひゅ、と細い音。
次の瞬間、陽鞠の胸に光の線が走った。
「――ッ!!」
声が出なかった。
一拍遅れて、痛みが来た。
「ぎゃああああああああああああッ!!」
叫びが地下儀式場に反響した。
胸の上を、焼けるような線が横切っている。皮膚が裂けたわけではない。血が噴き出したわけでもない。だが、霊的な傷が走った。身体の表面ではなく、その下を通る霊力の膜を切りつけられた感覚だった。
痛みは、皮膚に留まらない。
胸の奥へ届く。
心臓の近くを、冷たい雷が擦ったような痛み。
陽鞠の結界術が乱れ、金色の膜が胸元で跳ねた。白い光が混じりかけ、黒い五芒星がそれを吸おうとする。
玻月は続けた。
二度目の鞭。
腹。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
陽鞠の身体が跳ねた。
腹部を横切った霊糸が、護符の電流を流し込む。内臓を直接掴まれたような衝撃に、身体が勝手に折れようとする。だが、拘束が許さない。背中は石床へ押しつけられ、腹だけが痙攣する。
痛みで、また制御が崩れた。
下腹部が勝手に強張り、すぐ弛む。すでに汚れ、冷えていた衣服の中へ、また尿が漏れた。腹の奥が痙攣し、便も抑えられない。止めようとしても止まらない。身体は生き延びるための最低限の反応だけを選び、陽鞠の意思など置き去りにしていく。
陽鞠は泣いた。
痛い。
怖い。
こんなの嫌だ。
壊れた喉から、年相応の泣き叫びが出た。
「いや、やだ……やだぁっ、もう、やだぁああああああッ!!」
その叫びにさえ、玻月は止まらない。
三度目。
背中。
鞭が空中で曲がった。
陽鞠は石床へ背を押しつけられている。普通なら背中へ当たるはずがない。だが、霊糸は結界の隙間を通り、石床と陽鞠の背中の間へ滑り込んだ。
次の瞬間、背骨沿いに雷が走った。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
獣のような絶叫が出た。
背中が反る。
拘束が軋む。
霊力経路が背骨に沿って乱れ、金色の結界が勝手に展開しかける。背中から肩、首、後頭部へ痛みが駆け上がり、目の奥が白く弾けた。
胃が跳ねた。
水の結界で飲み込んだ水。
喉に残る胃液の酸味。
電流と窒息で散々揺さぶられた身体が、今度の背中の痛みに耐えきれず、嘔吐した。
「っ、げ、ぇ……!」
喉が壊れているせいで、吐くことさえ苦しかった。
胃液と水と唾液が口から溢れ、顎を伝い、胸元へ落ちる。吐き出すたびに喉が焼け、首に残った霊糸の圧が咳を邪魔する。吐瀉物の酸い匂いが、すでに尿と便の匂いで満ちていた儀式場の空気へ混ざった。
陽鞠は、吐きながら泣いた。
それでも、右手の指先は石床を離さなかった。
読む。
読め。
この鞭は、ただ振られていない。
胸、腹、背中。
順番に打つことで、陽鞠の霊力経路を三角に乱している。
胸で結界中枢を叩く。
腹で霊力の貯蔵を乱す。
背中で結界の支柱を崩す。
次は。
次に来るなら。
腕。
脚。
臀部。
身体を支える経路。
逃げるための経路。
陽鞠は、涙と吐瀉物で滲む視界の中、玻月の手首を見た。
白手袋の指先。
動き。
鞭の軌道。
やはり、正面から来ない。
玻月の癖。
一度、斜め下へ落とす。
そこから横へ逃がし、当たる直前に戻す。
刀を逸らす時と同じ。
結界刃をずらした時と同じ。
見えている。
痛くても。
怖くても。
見えている。
四度目の鞭。
右腕。
霊糸が手首の拘束結界を避け、肘から肩へ走った。
「ぎぃいいいいいいいいッ!!」
陽鞠の右腕が跳ねた。
指が勝手に開き、爪が石床から離れかける。
だが、陽鞠は必死に指を曲げた。
離すな。
読んでいる線を離すな。
右腕の霊力経路が焼ける。結界を張るための精密な感覚が、痛みに塗り潰される。指先に集めていた金色の針が散りかける。
陽鞠は泣きながら、それを繋ぎ直した。
玻月の霊糸が右腕を打った瞬間、護符の電流がどう入ったか。
外側から内側。
肘で一度折れ、肩で戻る。
戻り口は、胸元の護符ではなく、五芒星外周の第三角。
覚えた。
五度目。
左腕。
陽鞠は叫んだ。
もう声は壊れている。
悲鳴というより、喉から血を吐く獣の咆哮だった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
左腕を走った痛みが、金眼へ響く。
白い光が瞳の奥で膨らむ。
魂の縁がまた浮こうとする。
玻月は、それを見ている。
鞭の痛みが、肉体の悲鳴だけでなく、魂の表面へ傷をつけている。陽鞠という輪郭に、細い裂け目を作ろうとしている。そこから神の子と呼ばれたものを出そうとしている。
陽鞠は、壊れた喉で呻いた。
「出て……くるな……!」
六度目。
右脚。
霊糸が太腿から膝へ走る。
脚が痙攣する。
拘束された足首が暴れ、石床を蹴ることもできないまま震える。痛みが股関節へ食い込み、下腹部がまた制御を失った。尿が漏れ続ける。便も止められない。身体が命令を聞かない。異臭はさらに濃くなり、地下の冷えた空気の中にこもる。
陽鞠は泣き叫んだ。
「やだ、やだ、やだぁ゛ッ! もう、やめてぇ゛ッ!」
泣き声は、途中で咆哮へ変わった。
七度目。
左脚。
痛みが魂へ届いた。
そうとしか言えなかった。
脚を打たれたはずなのに、痛みは陽鞠という存在の底を叩いた。白い糸が胸元で震え、黒い五芒星が強く脈打つ。神の子の白い気配が、また表へ出ようとする。
陽鞠は頭を振ろうとした。
霊糸が首を締める。
声が潰れる。
「私は……私……!」
八度目。
臀部。
霊糸の鞭が背面へ回り込み、腰の下を打った。
陽鞠の身体が、拘束の中で大きく跳ねた。
羞恥ではなく、生命危機の痛みだった。
身体の中心を支える霊力経路が叩かれ、腰から背骨へ、腹へ、胸へ、金眼へと痛みが駆け上がる。すでに汚れた衣服の中で、身体はさらに制御を失い、排出を止めることができない。痙攣のたびに、汚れと吐瀉物と汗と涙と水が混ざり、儀式場の異臭をさらに重くした。
陽鞠は、自分が人として扱われていないことを、痛いほど理解した。
でも、自分が人であることまで手放さない。
どれだけ惨めでも。
どれだけ汚れても。
どれだけ叫びが獣の声に変わっても。
自分は篠宮陽鞠だ。
反応ではない。
器ではない。
魂を引き出すための道具ではない。
玻月が、鞭を止めずに言った。
「仕上がってきた」
その声は冷静だった。
「霊的な傷が、魂の表面に届いている」
陽鞠は、涙で濡れた目を見開いた。
やはり。
これは、肉体を痛めるためだけではない。
胸。
腹。
背中。
腕。
脚。
臀部。
全身の霊力経路を打ち、結界術を乱し、魂の輪郭へ傷をつける。
魂を剥がす前に、表面へ細い裂け目を作っている。
玻月は手を抜かない。
必要だから、と言って。
陽鞠は、指先を動かした。
右手。
左足。
まだ残っている。
玻月の鞭には、必ず三拍ある。
構え。
逸らし。
戻し。
当たる瞬間は戻しの後。
電流が入るのは、その半拍後。
魂へ痛みが届くのは、さらに半拍後。
つまり、肉体へ当たった瞬間ではなく、電流が戻る直前に術式へ触れれば、魂への到達だけを逸らせる可能性がある。
痛みは消せない。
傷も防げない。
でも、魂まで届く線を少し逸らせるかもしれない。
陽鞠は、それを覚えた。
玻月の術式の癖。
斜め下への逃がし。
半拍遅れる戻り。
戻り口の前に入る銀色の雷紋。
魂へ届く直前、一瞬だけ白い糸が開く。
そこだ。
そこを刺す。
今は無理でも。
朔夜が来た瞬間に。
金色をそこへ刺す。
九度目の鞭が来た。
今度は胸から腹、背中へと一気に回る複合軌道。
陽鞠の身体が、石床の上でのたうった。
「ぎゃああああああああああああッ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
喉が裂ける。
涙が飛ぶ。
吐瀉物がまた口元から零れる。
身体は排出を止められない。
痙攣の中で、全身がばらばらになりそうだった。
それでも、陽鞠は右手の指先を黒い線へ刺した。
痛みが魂へ届く直前。
白い糸が一瞬開く。
そこへ、金色の小さな棘を残した。
玻月の目が、明確に動いた。
「今のも覚えたか」
陽鞠は答えない。
答えられない。
だが、泣き腫らした金眼で睨んだ。
覚えた。
全部覚えた。
この痛みを忘れない。
この術式を忘れない。
この男の癖を忘れない。
戻ったら、必ず壊す。
朔夜の隣で。
自分の意思で。
十度目の鞭が、空気を裂いた。
陽鞠は、泣きながら、叫びながら、それでも指先を動かした。
金色は折れない。
痛みで震え、恐怖で泣き、身体の制御を奪われても。
陽鞠の中の金色は、まだ記憶していた。
玻月の霊糸の鞭が、また彼女の魂へ届こうとする。
その直前、遠くで黒銀の斬撃が、鉄扉をさらに深く裂いた。
右手薬指の指輪が、強く光る。
陽鞠は壊れた喉で、泣きながら叫んだ。
「朔夜……!」
鞭が落ちる。
痛みが走る。
それでも、彼女はその術式の折り目を、またひとつ覚えた。




