↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/50

第47話 霊糸の鞭


 黒い五芒星は、歪んでいた。


 中心に縛られた陽鞠の右手薬指で、指輪がまだかすかに光っている。強い光ではない。黒い拘束結界に何重にも遮られ、白い糸に押し潰され、それでも消えずに残る金色。


 遠くで朔夜が呼んでいる。


 声は聞こえない。


 けれど、名前を呼ばれた感覚がある。


 陽鞠。


 それだけで、白く剥がされかけた魂が、肉体へ戻ろうとした。


 自分の名前。


 自分の身体。


 自分の意思。


 篠宮陽鞠。


 朔夜の隣に帰る退魔師。


 神の子ではない。


 扉ではない。


 器ではない。


 その言葉を、陽鞠は何度も胸の中で繰り返していた。


 喉はもう声を出すためのものではなく、痛みを通す管のようになっていた。水の結界に塞がれ、電流で叫び、霊糸で絞められ続けた喉は、息を吸うだけで裂けるように痛む。首には霊糸の跡が残り、目は充血し、瞳孔は開ききったまま戻らない。視界は白く霞み、黒い五芒星も、石柱も、玻月の輪郭も、水底から見上げているように揺れている。


 身体は、もう自分の形を保つだけで精一杯だった。


 濡れ、汚れた制服。


 冷え切った手足。


 何度も制御を奪われ、痙攣し、排出を止められなかった身体。


 そのすべてが、石床の冷たさと異臭の中に沈んでいる。


 それでも、陽鞠の指先は黒い線へ触れていた。


 覚えた術式がある。


 水の結界の循環。


 護符の電流の戻り口。


 霊糸と白い糸の接続部。


 黒い五芒星が魂を引く時、一度外周へ流す癖。


 玻月の術式の折り目。


 正面から受けず、斜め下へ逸らす。


 霊力を横へ逃がし、戻る寸前で別の線へ重ねる。


 補正の前に、必ず半拍の遅れが出る。


 痛みの中で、陽鞠はそれを覚えた。


 忘れない。


 忘れたら、本当にただ壊されただけになる。


 玻月が、五芒星の外側で白手袋の指を動かした。


 黒い長衣の裾が、地下の冷気に揺れる。


「仕上げだ」


 その声は、低く静かだった。


 陽鞠の身体が、反射的に強張る。


 もう嫌だ。


 痛いのは嫌だ。


 これ以上は嫌だ。


 そう思うのは、弱さではなかった。


 当たり前の恐怖だった。


 陽鞠は十八歳の少女だ。強い退魔師でも、S級特待生でも、痛みに無限に耐えられるわけではない。怖いものは怖い。痛いものは痛い。呼吸を奪われれば苦しい。身体の制御を奪われれば恐ろしい。魂を剥がされれば、存在そのものが悲鳴を上げる。


 それでも、目を逸らさない。


 玻月の袖口から、霊糸が現れた。


 今度の霊糸は、首を締めていたものより太く見えた。実際には髪の毛ほど細い糸が何本も束ねられている。一本一本に銀色の雷紋が絡み、黒い護符の欠片が小さく貼りついている。さらに、糸の周囲には透明な結界膜が巻かれていた。


 霊糸。


 護符。


 結界。


 三つを重ねた鞭。


 陽鞠は息を呑んだ。


 玻月の手にあるそれは、ただ打つためのものではない。


 触れた場所から、痛みを肉体へ流し、霊力経路を乱し、魂の表面まで傷を届かせるための術具だった。


 玻月が手首を振った。


 霊糸の鞭が、空気を裂いた。


 音は遅れて来た。


 ひゅ、と細い音。


 次の瞬間、陽鞠の胸に光の線が走った。


「――ッ!!」


 声が出なかった。


 一拍遅れて、痛みが来た。


「ぎゃああああああああああああッ!!」


 叫びが地下儀式場に反響した。


 胸の上を、焼けるような線が横切っている。皮膚が裂けたわけではない。血が噴き出したわけでもない。だが、霊的な傷が走った。身体の表面ではなく、その下を通る霊力の膜を切りつけられた感覚だった。


 痛みは、皮膚に留まらない。


 胸の奥へ届く。


 心臓の近くを、冷たい雷が擦ったような痛み。


 陽鞠の結界術が乱れ、金色の膜が胸元で跳ねた。白い光が混じりかけ、黒い五芒星がそれを吸おうとする。


 玻月は続けた。


 二度目の鞭。


 腹。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 陽鞠の身体が跳ねた。


 腹部を横切った霊糸が、護符の電流を流し込む。内臓を直接掴まれたような衝撃に、身体が勝手に折れようとする。だが、拘束が許さない。背中は石床へ押しつけられ、腹だけが痙攣する。


 痛みで、また制御が崩れた。


 下腹部が勝手に強張り、すぐ弛む。すでに汚れ、冷えていた衣服の中へ、また尿が漏れた。腹の奥が痙攣し、便も抑えられない。止めようとしても止まらない。身体は生き延びるための最低限の反応だけを選び、陽鞠の意思など置き去りにしていく。


 陽鞠は泣いた。


 痛い。


 怖い。


 こんなの嫌だ。


 壊れた喉から、年相応の泣き叫びが出た。


「いや、やだ……やだぁっ、もう、やだぁああああああッ!!」


 その叫びにさえ、玻月は止まらない。


 三度目。


 背中。


 鞭が空中で曲がった。


 陽鞠は石床へ背を押しつけられている。普通なら背中へ当たるはずがない。だが、霊糸は結界の隙間を通り、石床と陽鞠の背中の間へ滑り込んだ。


 次の瞬間、背骨沿いに雷が走った。


「が、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 獣のような絶叫が出た。


 背中が反る。


 拘束が軋む。


 霊力経路が背骨に沿って乱れ、金色の結界が勝手に展開しかける。背中から肩、首、後頭部へ痛みが駆け上がり、目の奥が白く弾けた。


 胃が跳ねた。


 水の結界で飲み込んだ水。


 喉に残る胃液の酸味。


 電流と窒息で散々揺さぶられた身体が、今度の背中の痛みに耐えきれず、嘔吐した。


「っ、げ、ぇ……!」


 喉が壊れているせいで、吐くことさえ苦しかった。


 胃液と水と唾液が口から溢れ、顎を伝い、胸元へ落ちる。吐き出すたびに喉が焼け、首に残った霊糸の圧が咳を邪魔する。吐瀉物の酸い匂いが、すでに尿と便の匂いで満ちていた儀式場の空気へ混ざった。


 陽鞠は、吐きながら泣いた。


 それでも、右手の指先は石床を離さなかった。


 読む。


 読め。


 この鞭は、ただ振られていない。


 胸、腹、背中。


 順番に打つことで、陽鞠の霊力経路を三角に乱している。


 胸で結界中枢を叩く。


 腹で霊力の貯蔵を乱す。


 背中で結界の支柱を崩す。


 次は。


 次に来るなら。


 腕。


 脚。


 臀部。


 身体を支える経路。


 逃げるための経路。


 陽鞠は、涙と吐瀉物で滲む視界の中、玻月の手首を見た。


 白手袋の指先。


 動き。


 鞭の軌道。


 やはり、正面から来ない。


 玻月の癖。


 一度、斜め下へ落とす。


 そこから横へ逃がし、当たる直前に戻す。


 刀を逸らす時と同じ。


 結界刃をずらした時と同じ。


 見えている。


 痛くても。


 怖くても。


 見えている。


 四度目の鞭。


 右腕。


 霊糸が手首の拘束結界を避け、肘から肩へ走った。


「ぎぃいいいいいいいいッ!!」


 陽鞠の右腕が跳ねた。


 指が勝手に開き、爪が石床から離れかける。


 だが、陽鞠は必死に指を曲げた。


 離すな。


 読んでいる線を離すな。


 右腕の霊力経路が焼ける。結界を張るための精密な感覚が、痛みに塗り潰される。指先に集めていた金色の針が散りかける。


 陽鞠は泣きながら、それを繋ぎ直した。


 玻月の霊糸が右腕を打った瞬間、護符の電流がどう入ったか。


 外側から内側。


 肘で一度折れ、肩で戻る。


 戻り口は、胸元の護符ではなく、五芒星外周の第三角。


 覚えた。


 五度目。


 左腕。


 陽鞠は叫んだ。


 もう声は壊れている。


 悲鳴というより、喉から血を吐く獣の咆哮だった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 左腕を走った痛みが、金眼へ響く。


 白い光が瞳の奥で膨らむ。


 魂の縁がまた浮こうとする。


 玻月は、それを見ている。


 鞭の痛みが、肉体の悲鳴だけでなく、魂の表面へ傷をつけている。陽鞠という輪郭に、細い裂け目を作ろうとしている。そこから神の子と呼ばれたものを出そうとしている。


 陽鞠は、壊れた喉で呻いた。


「出て……くるな……!」


 六度目。


 右脚。


 霊糸が太腿から膝へ走る。


 脚が痙攣する。


 拘束された足首が暴れ、石床を蹴ることもできないまま震える。痛みが股関節へ食い込み、下腹部がまた制御を失った。尿が漏れ続ける。便も止められない。身体が命令を聞かない。異臭はさらに濃くなり、地下の冷えた空気の中にこもる。


 陽鞠は泣き叫んだ。


「やだ、やだ、やだぁ゛ッ! もう、やめてぇ゛ッ!」


 泣き声は、途中で咆哮へ変わった。


 七度目。


 左脚。


 痛みが魂へ届いた。


 そうとしか言えなかった。


 脚を打たれたはずなのに、痛みは陽鞠という存在の底を叩いた。白い糸が胸元で震え、黒い五芒星が強く脈打つ。神の子の白い気配が、また表へ出ようとする。


 陽鞠は頭を振ろうとした。


 霊糸が首を締める。


 声が潰れる。


「私は……私……!」


 八度目。


 臀部。


 霊糸の鞭が背面へ回り込み、腰の下を打った。


 陽鞠の身体が、拘束の中で大きく跳ねた。


 羞恥ではなく、生命危機の痛みだった。


 身体の中心を支える霊力経路が叩かれ、腰から背骨へ、腹へ、胸へ、金眼へと痛みが駆け上がる。すでに汚れた衣服の中で、身体はさらに制御を失い、排出を止めることができない。痙攣のたびに、汚れと吐瀉物と汗と涙と水が混ざり、儀式場の異臭をさらに重くした。


 陽鞠は、自分が人として扱われていないことを、痛いほど理解した。


 でも、自分が人であることまで手放さない。


 どれだけ惨めでも。


 どれだけ汚れても。


 どれだけ叫びが獣の声に変わっても。


 自分は篠宮陽鞠だ。


 反応ではない。


 器ではない。


 魂を引き出すための道具ではない。


 玻月が、鞭を止めずに言った。


「仕上がってきた」


 その声は冷静だった。


「霊的な傷が、魂の表面に届いている」


 陽鞠は、涙で濡れた目を見開いた。


 やはり。


 これは、肉体を痛めるためだけではない。


 胸。


 腹。


 背中。


 腕。


 脚。


 臀部。


 全身の霊力経路を打ち、結界術を乱し、魂の輪郭へ傷をつける。


 魂を剥がす前に、表面へ細い裂け目を作っている。


 玻月は手を抜かない。


 必要だから、と言って。


 陽鞠は、指先を動かした。


 右手。


 左足。


 まだ残っている。


 玻月の鞭には、必ず三拍ある。


 構え。


 逸らし。


 戻し。


 当たる瞬間は戻しの後。


 電流が入るのは、その半拍後。


 魂へ痛みが届くのは、さらに半拍後。


 つまり、肉体へ当たった瞬間ではなく、電流が戻る直前に術式へ触れれば、魂への到達だけを逸らせる可能性がある。


 痛みは消せない。


 傷も防げない。


 でも、魂まで届く線を少し逸らせるかもしれない。


 陽鞠は、それを覚えた。


 玻月の術式の癖。


 斜め下への逃がし。


 半拍遅れる戻り。


 戻り口の前に入る銀色の雷紋。


 魂へ届く直前、一瞬だけ白い糸が開く。


 そこだ。


 そこを刺す。


 今は無理でも。


 朔夜が来た瞬間に。


 金色をそこへ刺す。


 九度目の鞭が来た。


 今度は胸から腹、背中へと一気に回る複合軌道。


 陽鞠の身体が、石床の上でのたうった。


「ぎゃああああああああああああッ!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」


 喉が裂ける。


 涙が飛ぶ。


 吐瀉物がまた口元から零れる。


 身体は排出を止められない。


 痙攣の中で、全身がばらばらになりそうだった。


 それでも、陽鞠は右手の指先を黒い線へ刺した。


 痛みが魂へ届く直前。


 白い糸が一瞬開く。


 そこへ、金色の小さな棘を残した。


 玻月の目が、明確に動いた。


「今のも覚えたか」


 陽鞠は答えない。


 答えられない。


 だが、泣き腫らした金眼で睨んだ。


 覚えた。


 全部覚えた。


 この痛みを忘れない。


 この術式を忘れない。


 この男の癖を忘れない。


 戻ったら、必ず壊す。


 朔夜の隣で。


 自分の意思で。


 十度目の鞭が、空気を裂いた。


 陽鞠は、泣きながら、叫びながら、それでも指先を動かした。


 金色は折れない。


 痛みで震え、恐怖で泣き、身体の制御を奪われても。


 陽鞠の中の金色は、まだ記憶していた。


 玻月の霊糸の鞭が、また彼女の魂へ届こうとする。


 その直前、遠くで黒銀の斬撃が、鉄扉をさらに深く裂いた。


 右手薬指の指輪が、強く光る。


 陽鞠は壊れた喉で、泣きながら叫んだ。


「朔夜……!」


 鞭が落ちる。


 痛みが走る。


 それでも、彼女はその術式の折り目を、またひとつ覚えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。