第46話 百鬼夜行の影
鉄扉は、まだ開かなかった。
朔夜の刀は、確かに中央の黒線を捉えた。黒銀の霊力を乗せた刃は、封鎖扉の表面に刻まれた黒い五芒星へ深く食い込んだ。金属が悲鳴を上げ、古い封印札が何枚も焼け落ちる。扉の奥から白い光が漏れ、地下通路の湿った壁を不気味に照らした。
だが、割れない。
黒い五芒星の線は、刃に裂かれながらもすぐに別の線で傷を塞ぐ。まるで生きているようだった。いや、生きているのではない。何かに生かされている。奥の儀式場から流れ込む白い糸と、壁に染み込んだ古い霊脈が、扉を内側から縫い直している。
朔夜は奥歯を噛んだ。
頭が痛い。
頭蓋の内側を、鈍器で何度も叩かれているようだった。展望階で打った傷が、斬撃のたびに脈打つ。視界の端が暗く沈み、足元がわずかに揺れる。かがりの結界がなければ、膝から崩れていたかもしれない。
それでも、刀を下ろさない。
左手薬指の指輪が熱い。
陽鞠が、向こうにいる。
黒い五芒星の上で。
何かに魂を引かれながら。
それでも、自分の名前を手放さずにいる。
その熱が、朔夜の指へ、腕へ、胸へ走っている。
「もう一度だ」
朔夜が低く言った。
透羽が端末を睨みながら叫ぶ。
「待って! 扉が自己修復してる。次に同じ場所を斬っても塞がれる!」
「なら、塞がれる前に斬る」
「そういう力技で全部済ませようとしない!」
「今さらだろ」
「頭打ってるくせに口だけは元気なの腹立つな!」
かがりが短く割って入る。
「透羽、折り目は」
「中央だけじゃない。五芒星の五角全部が連動してる。一本斬ると他の四本が補修する。全角を同時にずらせば、内側の白い糸が一瞬露出する」
「一瞬でいい」
朔夜は刀を構え直した。
かがりが彼の横に立つ。
「お前の頭は一撃ごとに悪化している」
「元から悪かったみたいな言い方をするな」
「今は冗談で済ませられる状態ではない」
「わかってる」
朔夜は扉を睨んだ。
「でも、陽鞠の方が危ない」
その一言で、通路の空気が変わった。
誰も否定できなかった。
左手の指輪が、また熱を持つ。
今度の熱は鋭い。
陽鞠の叫びが、熱の形になって伝わる。
私は私だ。
朔夜の隣に帰る。
その意思が、燃えるように届く。
朔夜の胸の奥で、黒い何かが大きく揺れた。
妖たちが、また集まり始める。
通路の奥、排水溝の隙間、割れた壁、封印札の裏。そこから黒い影が這い出してくる。今までの小さな残骸だけではない。もっと大きい。古い妖の影。鬼の角のようなもの、狐の尾のようなもの、鳥の骨めいた翼、濡れた髪の塊、片腕だけの異形、面を被った子どものような影。
それらが、朔夜の霊力に引かれて集まる。
一体。
二体。
十体。
数が増える。
通路の壁から、床から、暗がりから、黒い影が湧き上がる。
まるで夜そのものが行列を作るように。
百鬼夜行。
その言葉が、誰かの口から漏れかけた。
朔夜の背後に、巨大な黒い影が立ち上がった。
それは、これまで何度も見えかけた頭領の影より濃かった。朔夜の背丈を遥かに越え、地下通路の天井へ届きそうなほど大きい。形は曖昧なのに、無数の妖を従えるものだとわかってしまう。影の内側には、鬼も狐も鳥も蛇も、名のない怪異も、古い怨念も、全部が混ざっているようだった。
妖たちが、膝をつきかけた。
通路の左右で、黒い影が一斉に頭を垂れる。
従おうとしている。
朔夜へ。
いや、朔夜の背後に立つ百鬼夜行の影へ。
かがりの表情が鋭くなる。
「綴喜!」
朔夜は聞いていた。
聞こえていた。
しかし、足元から伸びる黒い霊力の圧が、胸の奥を揺らしている。
命じれば、扉を壊せる。
妖たちは従う。
ひれ伏し、道を開き、黒い五芒星を食い破るかもしれない。
陽鞠へ早く届くかもしれない。
それは誘惑だった。
優しい顔をしていない。
正しい顔もしていない。
ただ、必要な顔をしていた。
陽鞠を助けるためなら、この力を使え。
そう囁いてくる。
朔夜の左手が震えた。
指輪が熱い。
陽鞠が呼んでいる。
陽鞠が、自分の中の白いものへ「出てくるな」と叫んでいる。
なら、自分は。
朔夜は、強く目を閉じた。
頭の痛みが増す。
暗闇の中で、黒い影がさらに濃くなる。
妖たちの気配が膝をつく。
自分の奥で、誰かではない何かが立ち上がる。
群れを従わせるもの。
夜を歩くもの。
百鬼を連れる影。
それが自分なのか、自分ではないのか、まだわからない。
でも、今それに身体を渡したら、戻れなくなる。
陽鞠を助けに行くのが、綴喜朔夜ではなくなる。
それだけはだめだ。
朔夜は目を開けた。
黒い瞳は冷えている。
だが、その奥で、ひとつだけ熱が燃えていた。
「陽鞠」
名前を呼んだ。
低く。
通路の奥まで届くように。
自分の中の影へ聞かせるように。
「陽鞠」
もう一度。
膝をつきかけた妖たちが震える。
百鬼夜行の影が、背後で揺らぐ。
朔夜は左手の指輪を握りしめた。
「俺は、お前を助けに行く」
妖たちが頭を垂れようとする。
朔夜は刀を向けた。
「でも、お前らには命じない」
黒銀の霊力が刃へ集まる。
「俺は俺だ」
頭痛が激しくなる。
視界が揺れる。
それでも、言う。
「俺は、綴喜朔夜だ」
百鬼夜行の影が、背後で大きく揺れた。
それは怒ったようにも見えた。
笑ったようにも見えた。
だが、朔夜は振り返らない。
妖たちが完全に膝をつく前に、彼は踏み込んだ。
刀が走る。
膝をつきかけた妖を斬る。
従属の形を、斬る。
命令を待つ気配を、斬る。
黒い影が裂け、通路に黒い霧が散る。かがりの結界がそれを封じ、透羽が扉の五角へ印を飛ばす。
「今! 五角の補助線が浮いた!」
朔夜は、頭の痛みに耐えながら扉を睨んだ。
透羽の霊力標識が、五芒星の五つの角に淡い光を置く。
一角目。
二角目。
三角目。
四角目。
五角目。
同時に斬るには、普通の動きでは届かない。
だが、朔夜にはかがりの結界がある。
そして、陽鞠の指輪の熱がある。
朔夜は息を吸った。
肺に血の味が混じる。
「陽鞠」
また名前を呼ぶ。
「聞こえろ」
そして、刀を振った。
一撃ではない。
五つの軌道。
かがりの足場結界を踏み、身体を無理やり回し、刃を跳ねさせる。頭の傷が悲鳴を上げ、視界が白く飛びかける。それでも、朔夜は止まらない。
一角を斬る。
二角を斬る。
三角。
四角。
五角。
最後の斬撃が入った瞬間、扉の黒い五芒星が悲鳴のように軋んだ。
*
地下儀式場の中心で、陽鞠は、黒い五芒星に魂を引かれていた。
存在の縁が剥がされる。
篠宮陽鞠という名前が、白い霧の向こうへ遠ざかる。
神の子と呼ばれた魂が、表へ出ようとする。
そのたび、陽鞠は壊れた喉で叫んだ。
「出て……くるな……!」
声は掠れ、途切れ、喉の奥で血の味を伴って潰れる。それでも、叫ぶ。白い魂が浮上するたび、自分の名前を叩きつける。
「私は……私だ……!」
身体はもう限界だった。
霊糸は首に残り、呼吸は細い。手足は拘束され、濡れて汚れた衣服は冷たく、石床に広がる異臭が命の危機を物語っている。のたうつ力も弱くなっていた。身体が跳ねても、拘束の中で小さく痙攣するだけになっている。
それでも、金眼は閉じない。
白に呑まれかけながら、金を保っている。
玻月は、五芒星の外側で白手袋の指先を動かした。
「もう少しだ」
冷静な声だった。
成功が近い。
それを感じている声。
陽鞠は、その声へ怒りを覚えようとした。
だが、怒りさえ遠い。
自分が遠い。
名前が遠い。
朔夜が遠い。
その時だった。
どこか遠くから、声が届いた。
音ではない。
耳に聞こえたわけではない。
でも、確かに届いた。
陽鞠。
低い声。
銀髪の男の声。
世界で一番、戻りたい場所の声。
陽鞠の金眼が揺れた。
白くなりかけた光の奥に、金が一筋走る。
陽鞠は、泣きながら目を見開いた。
「……朔、夜……?」
喉は壊れている。
声はほとんど出ない。
だが、心の中で呼ぶ。
朔夜。
朔夜。
もう一度、遠くで声が響く。
陽鞠。
呼ばれている。
名前を呼ばれている。
篠宮陽鞠として。
神の子ではなく。
器ではなく。
扉ではなく。
陽鞠として。
右手薬指の指輪が、熱を持った。
今までの一瞬の熱とは違う。
はっきりと、光った。
金色の光が、冷え切っていた指輪の内側から滲み出す。黒い拘束結界の中で、指輪だけが震えた。
同時に、遠く離れた鉄扉の前で、朔夜の指輪も光った。
*
朔夜の左手薬指で、指輪が金色に光った。
通路の暗闇が、一瞬だけ金に照らされる。
百鬼夜行のような影が、背後で大きく揺れた。妖たちが膝をつきかけたまま、動きを止める。黒い影と金色の光が、朔夜の周囲でせめぎ合う。
朔夜は、指輪の光を見た。
陽鞠が応えた。
声は聞こえない。
だが、熱がある。
光がある。
繋がっている。
切られたはずの反応が、同時に灯っている。
「陽鞠!」
朔夜が叫んだ。
頭の痛みが視界を白く染める。
血がまた滲む感覚がある。
それでも、彼は刀を握り直した。
扉の五角が、同時に傷ついている。
補修が間に合っていない。
中央の白い糸が露出している。
透羽が叫ぶ。
「今なら中央が通る!」
かがりが結界を重ねる。
「綴喜、決めろ!」
朔夜は、背後の百鬼夜行の影へ意識を向けた。
出てくるな。
俺を押しのけるな。
陽鞠がそう叫んでいる。
なら、自分も同じだ。
「俺は俺だ」
朔夜は低く言った。
そして、刀を振り上げる。
「陽鞠を呼ぶのは、俺だ」
背後の影が唸るように揺れる。
妖たちが従おうとして膝を震わせる。
朔夜はそれを斬るように踏み込んだ。
「陽鞠!」
名前とともに、刃が落ちた。
黒銀の斬撃が、鉄扉の中央を叩き割った。
*
儀式場で、黒い五芒星が大きく震えた。
玻月の手元が止まる。
外からの干渉が、扉を越えて近づいている。
黒銀の霊力。
そして、金色の指輪反応。
二つが同時に儀式場の外周へ触れた。
陽鞠の右手薬指の指輪が、強く光る。
光は黒い拘束結界に阻まれながらも、消えなかった。朔夜の指輪の光と、遠くで響き合っている。
ちり、と。
小さな音がした。
消えていた音。
奪われていた音。
陽鞠は涙を流した。
呼吸は苦しい。
身体は痛い。
魂はまだ引かれている。
それでも、音が鳴った。
朔夜が呼んでいる。
自分も応えられる。
陽鞠は、壊れた喉で声を絞った。
「朔夜……!」
声にならないほど掠れていた。
でも、確かに呼んだ。
白い魂が表へ出ようとする。
陽鞠は金眼を強く開いた。
「出てくるな……!」
指輪が光る。
朔夜の声が遠くで響く。
陽鞠は叫んだ。
「私は、私だ……!」
黒い五芒星の中心で、金色の光が広がった。
玻月はその光を見た。
成功は近い。
確かに近い。
だが、同時に、最も厄介なものが繋がり直した。
綴喜朔夜と篠宮陽鞠。
二人の指輪。
切断したはずの反応が、魂の縁で再接続している。
玻月の紫紺の瞳が細くなる。
「ここで繋ぐか」
彼の声は、初めてわずかに硬かった。
陽鞠は、涙に濡れた金眼で玻月を睨んだ。
もうほとんど声は出ない。
それでも、唇を動かす。
「……私は、陽鞠」
指輪が光る。
「朔夜の隣に、帰る……」
鉄扉の向こうで、黒銀の霊力がさらに近づく。
百鬼夜行の影は、まだ朔夜の背後にいる。
神の子の白は、まだ陽鞠の奥で出ようとしている。
だが、その間に、二つの指輪の金色が灯った。
同時に。
同じ熱で。
同じ名前を呼ぶように。
地下儀式場の黒い五芒星が、初めて大きく歪んだ。




