第45話 五芒星の上
鉄扉の向こうで、黒銀の霊力が爆ぜた。
遠い。
厚い石と、古い封印と、黒い五芒星の結界を隔てているのに、陽鞠にはそれがわかった。
朔夜が来ている。
あの黒銀の霊力。
刃のように冷えて、それでも奥に熱を持った気配。
妖を従わせず、命じず、自分の刀で道を斬っている朔夜の気配。
右手薬指の指輪が、かすかに熱を持った。
ちり、と鳴りそうで、鳴らない。
反応はまだ切られている。
それでも、熱だけが戻っている。
陽鞠は、霊糸に締められた首で、途切れ途切れに息をした。
「……さ、く……」
呼びきれない。
喉は壊れている。
水で塞がれ、電流で叫ばされ、霊糸で何時間も絞められた喉は、もう普通の声を出せない。空気を吸うたびに、ひゅう、と潰れた音が鳴る。首にはまだ霊糸の輪があり、完全には緩んでいない。少し空気を通す程度に調整されているだけだ。
息をすることすら、許可された行為のようだった。
それが、腹立たしかった。
生きている。
だが、生かされているわけではない。
陽鞠は自分で生きている。
そう思おうとした瞬間、黒い五芒星が大きく脈打った。
床が鳴る。
地下儀式場全体が、低く震えた。
五つの角に立つ石柱の古い霊符が、一斉に黒く焦げる。護符の雷紋は消え、霊糸は首に残ったまま、今度は胸の上に垂れた白い糸が強く光り始めた。
玻月が、五芒星の外側から中央を見ていた。
白手袋の指先が、ゆっくり下がる。
その動きに合わせ、床の黒い線が陽鞠の身体へ向かって伸びた。
拘束ではない。
水でもない。
電流でもない。
霊糸でもない。
それよりもっと深い場所へ届く圧だった。
黒い五芒星の線が、陽鞠の身体を通り抜け、魂へ触れようとしている。
陽鞠は、息を呑もうとして、喉を鳴らした。
「っ……」
痛みは、すぐには来なかった。
それが逆に怖かった。
水の冷たさも、電流の焼ける痛みも、首を絞められる苦しさもない。身体そのものは、今まで受けた痛みで震えている。手足は拘束され、喉は壊れ、服は濡れ汚れ、筋肉は痙攣し続けている。
だが、今始まったものは、肉体の痛みではなかった。
自分が、自分から剥がされる。
そんな感覚だった。
最初に、名前が遠くなった。
篠宮陽鞠。
さっきまで必死に握っていた四文字が、白い霧の向こうへ滑っていく。
違う。
そう思った時には、次に声が遠くなった。
朔夜に呼ばれた声。
かがりに呼ばれた声。
友達や教師や依頼人が呼んだ声。
それらが、黒い五芒星の線に沿って剥がされていく。
記憶を奪われているのではない。
もっと嫌だった。
記憶はある。
だが、それが自分のものだと感じる力が薄れていく。
任務前の長いキス。
朔夜の手の温度。
血に濡れた銀髪。
生きて待ってて、と叫んだ自分。
全部見える。
全部わかる。
なのに、それらを見ている「私」が、少しずつ浮かされていく。
「あ……」
陽鞠の喉から声が漏れた。
壊れた声。
細く、かすれ、すぐに途切れた。
黒い五芒星がさらに脈打つ。
白い糸が胸元の薄い金色の膜へ触れた。
その瞬間、陽鞠は悲鳴を上げた。
「ぎ、ああああああああああああああッ!!」
それは、身体のどこかを傷つけられた痛みではなかった。
骨でも肉でも皮膚でもない。
自分という存在の縁に爪をかけられ、無理やりめくられる痛みだった。紙を剥がすように。布を裂くように。だけど、剥がされているのは皮膚ではなく、陽鞠という輪郭そのものだった。
痛い。
痛いのに、どこが痛いのかわからない。
胸が痛いわけではない。
頭が痛いわけでもない。
でも、全てが痛い。
存在が痛い。
陽鞠は、拘束の中でのたうった。
手首が引きつり、足首が跳ね、背中が石床に擦れる。霊糸が首に残っているせいで、叫ぶたびに喉が潰れ、声は途中で獣の咆哮のように濁った。
「ん、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!もぉ、 や、だ……やだ、やだぁ゛ッ!」
涙が溢れる。
もう、恥も整った強がりも残っていなかった。
十八歳の少女としての恐怖が、むき出しになっていた。
嫌だ。
剥がさないで。
私は私でいたい。
朔夜のところへ戻る。
戻ると約束した。
その約束まで、白い糸が遠ざけようとする。
陽鞠は首を振ろうとしたが、霊糸がそれを許さない。喉が締まり、呼吸が引っかかる。胸の奥で酸素が足りない恐怖が再び立ち上がり、その上から魂を剥がされる苦しさが覆いかぶさる。
身体が痙攣した。
膀胱も腸も、もう何度も制御を奪われていた。
それでも、五芒星の抽出が始まった瞬間、残っていたわずかな制御まで崩れた。
下腹部が勝手に強張り、すぐに弛む。
止められない。
尿がまた漏れた。
止めようとしても止まらない。
身体が命の危機を感じ、排出の制御など後回しにしている。腹の奥が痙攣し、便もまた汚れの中へ押し出された。冷えた石床の上で、濡れと異臭が広がっていく。
陽鞠は泣いた。
痛いからだけではない。
怖いからだけでもない。
自分が自分でいられる場所を、ひとつずつ奪われていくのが、あまりにも恐ろしかった。
呼吸を奪われた。
声を壊された。
身体の制御を奪われた。
そして今、名前まで剥がされようとしている。
それでも、陽鞠は壊れた喉で叫んだ。
「わた、し……っ、私は……!」
白い糸が胸の奥へさらに入ろうとする。
黒い五芒星が回転するように脈打つ。
視界が白くなり、地下儀式場の輪郭が消えかける。
別の景色が見えた。
白い場所。
古い声。
人々が頭を垂れる気配。
神の子。
そう呼ばれる響き。
陽鞠のものではない記憶のようなものが、魂の奥から浮かび上がろうとする。
出てくるな。
出てくるな。
私は、それじゃない。
陽鞠は、拘束の中で背中を反らした。
悲鳴が喉から裂ける。
「出て、くるなぁ゛ぁ゛ッ!!」
黒い五芒星の光が強まる。
白い糸が、陽鞠の叫びごと魂を引こうとする。
玻月は、五芒星の外側でそれを見ていた。
静かに。
冷静に。
水の時よりも、電流の時よりも、霊糸の時よりも、彼の目は深くなっている。
成功が近い。
彼はそう感じていた。
陽鞠の魂が肉体の縁まで浮いている。
神の子と呼ばれたものが、表面へ出かかっている。
そして陽鞠自身が、それを拒んでいる。
拒むほど、境界ははっきりする。
篠宮陽鞠と、その奥にあるもの。
二つの輪郭が分かれる。
分かれた瞬間、引ける。
玻月は、白手袋の指先をわずかに上げた。
黒い五芒星の角に立つ五本の石柱が、順に光る。
一角。
二角。
三角。
四角。
五角。
全てが陽鞠の胸元へ向かって白い糸を伸ばす。
陽鞠の身体が跳ねた。
「いやあああああああああああああッ!!」
叫びは、途中で潰れる。
喉が壊れている。
それでも声は出た。
声というより、魂が裂ける音だった。
陽鞠は、手首を引き千切る勢いで動こうとした。拘束結界が皮膚に触れないまま、骨の内側を押さえつける。逃げられない。足も動かない。首には霊糸。胸には白い糸。床には黒い五芒星。
全てが、陽鞠を中心に組まれている。
自分のための儀式場。
その事実が、吐き気がするほど嫌だった。
陽鞠は泣きながら、石床へ爪を立てた。
右手の指先。
まだ動く。
左足の爪先。
まだ残っている。
水の結界の継ぎ目。
護符の戻り口。
霊糸と白い糸の接続部。
全部覚えた。
そして今、黒い五芒星そのものの流れが見えている。
魂を引く時、黒い五芒星は中心へ向かって全てを吸うわけではない。
一度、外周へ広げる。
陽鞠の魂の輪郭を外へ浮かせ、そこから白い糸で引く。
つまり、中心から外周へ向かう一瞬がある。
その一瞬なら。
自分の霊力を外へ出せるかもしれない。
救援へ。
朔夜へ。
指輪へ。
陽鞠は、壊れかけた意識でそれを掴んだ。
ただ引き剥がされるだけでは終わらない。
成功が近いと思うなら、そこに隙がある。
玻月が引こうとする瞬間、黒い五芒星は一度、陽鞠を外へ開く。
なら、その開きかけた場所から、金色を刺す。
陽鞠は、右手薬指の指輪を思い出した。
冷たい。
反応は弱い。
でも、朔夜は近づいている。
鉄扉の向こうにいる。
指輪は、一瞬でも熱を持った。
そこへ届け。
陽鞠は、のたうちながらも指先へ霊力を集めた。
金。
白ではない。
神の子の白ではない。
篠宮陽鞠の金。
金色の針を、黒い五芒星の外周へ向かう流れに乗せる。
白い糸が魂を引く。
存在の縁が剥がされる。
陽鞠は絶叫した。
「わたしは、わたしだあああああああああッ!!」
その声は、泣き声だった。
咆哮だった。
懇願だった。
拒絶だった。
壊れた喉から血の味を滲ませながら、それでも自分の名前へしがみつく声だった。
「篠宮陽鞠! 私は、篠宮陽鞠! 朔夜の、隣に……帰る……!」
白い糸が、陽鞠の胸の奥へ食い込む。
魂の縁が引かれる。
身体が跳ねる。
汚れた石床の上で、陽鞠は苦痛にのたうち、涙を流し、声を壊し、それでも右手の指先を止めなかった。
金色の針が、黒い五芒星の外周へ届く。
ほんの一瞬。
外へ出た。
その瞬間、指輪が熱を持った。
*
鉄扉の前で、朔夜の左手が燃えるように熱くなった。
「陽鞠!」
朔夜が叫んだ。
頭の傷が痛む。
視界が揺れる。
だが、関係ない。
指輪が、今までで一番強く熱を持っている。
熱だけではない。
陽鞠の叫びが、かすかに伝わる。
言葉にはならない。
でも、わかる。
私は私だ。
朔夜の隣に帰る。
その意思が、焼けるように指へ流れ込んだ。
朔夜の中の黒い魂が、激しく反応した。
鉄扉の周囲に潜んでいた妖たちが、一斉に朔夜へ向かってひれ伏そうとする。黒い五芒星の残滓が壁から剥がれ、影となって集まる。彼の背後に、頭領の影が立ち上がる。
扉を開けたいのか。
なら、命じればいい。
妖たちが扉を壊す。
黒い影が道を開く。
陽鞠へ届く。
一瞬、その誘惑が朔夜の中を貫いた。
だが、同じ熱の中に、陽鞠の叫びがあった。
私は私だ。
朔夜の隣に帰る。
それなら、朔夜も応えなければならない。
妖の頭領としてではない。
綴喜朔夜として。
「俺は俺だ」
朔夜は低く言った。
妖たちの膝が止まる。
「俺は、綴喜朔夜だ」
刀を構える。
頭の奥が痛む。
血の匂いがまだ鼻に残っている。
それでも、刃はぶれない。
「陽鞠を助けるのは、俺だ」
黒銀の霊力が刀へ集まる。
妖たちは従う前に斬られた。
影が砕け、黒い五芒星の残滓が散る。かがりの結界がそれを封じ、透羽が扉の術式を叫ぶ。
「中央の黒線! そこに玻月の折り目がある!」
「見えてる」
朔夜は踏み込んだ。
左手の指輪が、燃えるように熱い。
陽鞠の金色が、そこにある。
刀が、鉄扉の中央へ落ちた。
*
地下儀式場で、黒い五芒星が大きく揺れた。
玻月の目が、初めて明確に鉄扉の方へ向く。
外から干渉が来ている。
黒銀の霊力。
綴喜朔夜。
陽鞠の金色の針が、五芒星の外周から外へ出たことで、座標の一部が開いたのだ。
玻月は、成功が近いと感じていた。
だが、同時に、このままでは割り込まれるとも理解した。
白手袋の指先が動く。
黒い五芒星の抽出が強まる。
「もう少しだ」
静かな声。
陽鞠の魂の縁が、さらに引かれる。
陽鞠は、息も絶え絶えに泣いた。
のたうつ力ももうほとんど残っていない。
それでも、目だけは閉じない。
充血し、涙に濡れ、金と白がせめぎ合う目で、玻月を睨む。
「出て……くるな……」
白い魂が浮く。
陽鞠はそれを押さえ込む。
「私は……私だ……」
黒い五芒星が引く。
朔夜の指輪が熱を返す。
「私は……篠宮、陽鞠……」
鉄扉の向こうで、黒銀の斬撃がさらに近づく。
玻月は、陽鞠の胸元へ伸びる白い糸を見た。
あと少し。
彼は冷静にそう感じていた。
あと少しで、魂は引き出せる。
その寸前で、陽鞠は壊れた声を絞り出した。
「朔夜の隣に、帰る……!」
金色の光が、黒い五芒星の中心で細く燃えた。




