表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

46/50

第44話 出てくるな


 霊糸は、まだ首にあった。


 何時間も締められ続けた喉は、もう自分のものではないようだった。痛みは鋭さを通り越し、熱と痺れと冷たさが混ざった鈍い塊になっている。空気を吸おうとするたび、喉の奥が潰れた笛のように鳴った。


 ひゅ、と。


 かすれた音がする。


 それが自分の呼吸だと、陽鞠はすぐに理解できなかった。


 視界は白く濁っている。


 黒い五芒星の線も、地下の石柱も、玻月の黒い長衣も、輪郭だけが水に沈んだように揺れていた。目は乾いているのに涙が止まらず、充血した視界の奥で金眼が熱を持っている。


 いや、金ではなくなりかけていた。


 白い。


 白に近い光が、瞳の奥で膨らんでいる。


 陽鞠は、それが自分ではないとわかった。


 自分の中にある。


 でも、自分ではない。


 神の子。


 そう呼ばれたもの。


 昔から、周囲が勝手に陽鞠へ貼りつけてきた名前。金眼を見て、霊力を見て、精密結界を見て、人ではなく特別な器のように扱うための名前。


 その奥に、本当に何かがあるのだとしたら。


 今、それが出てこようとしている。


 陽鞠の喉から、壊れた音が漏れた。


「……っ、ぁ……」


 声にならない。


 霊糸が締まっている。


 空気が足りない。


 喉は潰れ、声帯は傷つき、水と電流と窒息で酷使された身体は、もう限界を越えていた。指先は冷え、手足は拘束の中で小刻みに震え、身体の下には汚れと冷たさが広がっている。


 命が、遠ざかっている。


 そう感じた。


 死ぬ、と思ったわけではない。


 もっと奇妙だった。


 身体の内側から、自分が剥がれていく。


 篠宮陽鞠という輪郭が薄くなり、代わりに白い何かが浮かび上がってくる。誰かが、内側から目を開けようとしている。陽鞠の口で息をし、陽鞠の目で世界を見て、陽鞠の手で結界を張ろうとしている。


 違う。


 これは私じゃない。


 出てくるな。


 胸の上に垂れた白い糸が、強く震えた。


 黒い五芒星の中心が、低く脈打つ。


 玻月が、白手袋の指先を動かした。


 霊糸の圧が、わずかに変わる。


 完全に締めるのではない。


 落ちかけた意識を肉体へ繋ぎ止め、魂だけを浮かせるような、嫌な調整だった。死なせない。けれど、死に近づける。玻月はその細い線の上に陽鞠を置いている。


 人の命で綱渡りをするなど、まともな神経ならまずやらない。まともではないから、やるのだろう。実に人間社会は退魔師免許の審査が甘い。


「見えてきた」


 玻月の声がした。


 静かな声。


 陽鞠の状態を見て、動揺する気配はない。


「君の奥にあるものが、表層へ近づいている」


 陽鞠は睨んだ。


 睨めているのかもわからない。


 焦点は合わない。瞳孔は開き、眩しい白い霊光が目の奥に刺さっている。それでも、玻月を見る。


 違う。


 お前のために出てくるんじゃない。


 私は出さない。


 喉が鳴った。


「……で、」


 壊れた声。


 霊糸に潰され、息の足りない声。


「で、て……」


 玻月の目が、わずかに細くなる。


 陽鞠は、血と泡の混じる唇を震わせた。


「出て、くるな……」


 霊糸が締まった。


 喉が潰れる。


 声が途切れる。


 胸が空気を求めて跳ねた。


 身体が痙攣し、背中が石床へ打ちつけられる。黒い五芒星の線が、白く光る。胸の上の糸が、陽鞠の内側へさらに入り込もうとした。


 その瞬間、白い景色が開いた。


 どこか遠い場所。


 音のない空間。


 人の声ではない何かが、陽鞠を呼んでいる。


 篠宮陽鞠ではない名前で。


 それを聞いた瞬間、陽鞠の中の白いものが動いた。


 表へ出ようとする。


 死にかけた肉体を越え、苦痛で壊れた喉を越え、金眼の奥から現れようとする。


 陽鞠は、全身の残った力をかき集めた。


 出てくるな。


 出てくるな。


 私を押しのけるな。


 私の身体だ。


 私の名前だ。


 私の声だ。


 私の朔夜だ。


「出て……くるなぁ゛……ッ!」


 叫びは、もう人の声ではなかった。


 喉が破れ、霊糸に潰され、空気を削り取られた獣の咆哮のようだった。途中で切れ、濁り、泡に潰れ、それでも地下儀式場の石壁へ叩きつけられた。


 白い糸が震える。


 黒い五芒星が軋む。


 玻月の紫紺の瞳が、初めてわずかに鋭さを増した。


「拒むか」


 陽鞠は、答えた。


 喉が壊れている。


 息もない。


 それでも答えた。


「私は……私だ……」


 霊糸がまた締まる。


「私は、私……」


 白い魂が浮上する。


「私は……篠宮、陽鞠……!」


 金眼の奥で、白に呑まれかけた光が、必死に金を取り戻す。


 細く。


 弱く。


 それでも、金だった。


 陽鞠は、右手薬指を動かそうとした。


 拘束でほとんど動かない。


 指輪の反応は途切れている。


 でも、そこにある。


 朔夜との約束は、そこにある。


 反応が切られただけだ。


 消えたわけではない。


 陽鞠は指輪の輪を思い出した。


 ちり、と鳴る音。


 朔夜の手。


 任務前の長いキス。


 生きて待っててと叫んだ時の、あの黒い目。


 そのすべてを、金眼の奥へ押し込む。


 白い魂が出てこようとする場所へ、陽鞠自身の記憶を叩き込む。


 出てくるな。


 私の上に立つな。


 私を消すな。


 私は私だ。


 篠宮陽鞠だ。


 その言葉を繰り返すたび、白い糸が弾かれる。


 霊糸が震える。


 玻月の指先が細く動いた。


 圧がまた増した。


 陽鞠の呼吸が途切れる。


 口が酸素を求めて開閉する。魚のように、情けなく、必死に。唇の端から泡が零れ、顎を伝う。目は開きっぱなしで、充血した白目に赤い筋が走り、瞳孔は開いたまま戻らない。


 それでも、陽鞠は白いものを押し返していた。


 玻月が低く言う。


「肉体が限界を迎えている。君の意思だけでは保たない」


 陽鞠は、喉の奥で笑いかけた。


 笑う余裕なんてない。


 でも、その言葉があまりにも腹立たしかった。


 意思だけでは保たない。


 それでも、今保っている。


 保っているのは誰だ。


 玻月ではない。


 神の子でもない。


 篠宮陽鞠だ。


「わた、し……は……」


 声が途切れる。


 霊糸が喉へ食い込むように締まる。


 意識が白く落ちかける。


「私だ……!」


 陽鞠は叫んだ。


 その瞬間、右手薬指の指輪に、ほんの一瞬だけ熱が戻った。


     *


 朔夜は、地下封鎖区域へ続く旧通路を走っていた。


 正確には、走らされていた。


 かがりの結界が身体を支え、透羽の端末が進路を示し、救護班が頭部へ応急固定術式を残している。普通なら動ける状態ではない。頭の傷はまだ痛む。銀髪には血の跡が残り、視界は走るたびに揺れた。


 それでも、足は止まらなかった。


 左手薬指の指輪が、熱い。


 先ほどから、断続的に熱を持つ。


 だが、今の熱は違った。


 痛みではない。


 叫びだった。


 声は聞こえない。


 陽鞠の姿も見えない。


 それでも、指輪越しに何かが伝わってきた。


 出てくるな。


 私は私だ。


 篠宮陽鞠。


 その必死の抵抗が、火のように朔夜の指へ流れ込んだ。


 朔夜は歯を食いしばる。


「陽鞠……!」


 通路の壁が、黒く脈打った。


 古い地下霊脈の通路は、封鎖されていたはずだった。だが、今は黒い五芒星の残滓が壁や床に走り、割れたコンクリートの隙間から小さな妖が這い出している。


 顔のない影。


 獣の手足だけのもの。


 古い怨念の塊。


 それらが、朔夜の霊力に反応して集まってくる。


 朔夜が近づくほど、妖たちは動きを止めた。


 そして、ひれ伏そうとした。


 通路の左右で、黒い影が頭を垂れる。


 朔夜の背後に、また黒いものが立ち上がる感覚があった。


 群れが従う。


 道が開く。


 命じれば、進める。


 妖を使えば、玻月の結界の位置まで早く届くかもしれない。


 その考えが、一瞬だけ頭を掠めた。


 朔夜の中の魂が、それに反応した。


 黒い影が濃くなる。


 膝をつく妖たちへ、霊力の線が伸びかける。


 従え。


 道を作れ。


 彼女のところへ連れて行け。


 その誘惑は、甘くはなかった。


 冷たく、暗く、必要そうな顔をしていた。


 陽鞠を助けるためなら、何でも使えばいい。


 妖が従うなら、従わせればいい。


 命じればいい。


 頭領の影が、朔夜の背後で膨らむ。


 かがりが叫んだ。


「綴喜!」


 朔夜の足が止まる。


 いや、止めた。


 自分で。


 通路の妖たちは、ひれ伏しかけたまま震えている。


 朔夜は、左手の指輪を握った。


 熱い。


 陽鞠が抵抗している。


 陽鞠は、自分の中のものへ「出てくるな」と叫んでいる。


 なら、朔夜も同じだ。


 自分の中の黒いものへ。


 群れを従わせようとする魂へ。


 頭領の影へ。


 出てくるな。


 俺を押しのけるな。


 俺の身体で、俺の霊力で、俺の陽鞠を助けに行こうとするな。


 助けるのは、お前じゃない。


「俺は……」


 朔夜の声は低かった。


 通路に響く。


 ひれ伏しかけた妖たちが震える。


「俺は俺だ」


 黒い影が揺らぐ。


「俺は、綴喜朔夜だ」


 妖たちの膝が、床から浮く。


 従属の形が崩れる。


「お前らに命じない」


 朔夜は刀を抜いた。


 頭の傷が痛む。


 視界が揺れる。


 それでも、構える。


「俺は、斬る」


 刃が走った。


 黒銀の霊力が、通路を一直線に裂く。ひれ伏しかけた妖たちは、従う前に断たれた。黒い五芒星の残滓が散り、かがりの結界がそれを封じる。


 透羽が息を呑む。


「綴喜、座標反応が濃くなった! 今の指輪反応で、ほぼ奥の儀式場に絞れた!」


「どっちだ」


「左の旧排水路、その先の封鎖扉!」


 朔夜は走り出す。


 妖の群れがまた現れる。


 今度は膝をつく前に、朔夜が斬る。


 命じない。


 使わない。


 従わせない。


 自分の中の影がどれだけ騒いでも、朔夜は刀を選ぶ。


「俺は俺だ」


 走りながら繰り返す。


「俺は俺だ」


 指輪が熱い。


 陽鞠の声は聞こえない。


 だが、抵抗は伝わっている。


 出てくるな。


 私は私だ。


 その声なき叫びが、朔夜の中の黒い魂にも突き刺さっていた。


「陽鞠が踏みとどまってる」


 朔夜は息を吐く。


 血の味が喉に上がる。


「俺が呑まれてる場合じゃない」


 かがりが短く言った。


「そのまま保て」


「言われなくても」


「すぐ先だ」


 旧排水路の奥に、巨大な鉄扉が見えた。


 古い封印札が何重にも貼られている。


 しかし、その中央には黒い五芒星が浮かび、白い光が漏れていた。


 朔夜の指輪が、さらに熱を持つ。


 陽鞠がいる。


 この奥に。


 朔夜の黒い瞳が冷えた。


 だが、その奥には熱がある。


 影の熱ではない。


 怒りだけでもない。


 陽鞠へ戻るための熱。


「陽鞠」


 朔夜は刀を構えた。


「今行く」


     *


 地下儀式場で、陽鞠はまだ霊糸に首を締められていた。


 しかし、さっきとは違う。


 右手薬指の指輪が、かすかに熱い。


 遠くで、朔夜が近づいている。


 そう感じる。


 確証はない。


 でも、わかる。


 朔夜は来る。


 なら、自分も保つ。


 白い魂が、また浮かび上がろうとする。


 死の間際に近づいた肉体から、神の子と呼ばれたものが表へ出ようとする。


 陽鞠は、壊れた喉で叫んだ。


「出てくるな……!」


 霊糸が締まる。


 視界が白くなる。


 それでも。


「私は……私だ……!」


 金眼が白へ傾きかけ、ぎりぎりで金へ戻る。


「私は……篠宮陽鞠だ……!」


 玻月の白手袋が、わずかに止まった。


 彼は感じていた。


 魂は、確かに出かかっている。


 神の子と呼ばれたものは、すぐそこまで浮上している。


 だが、陽鞠自身がそれを押し返している。


 死の縁で。


 壊れた喉で。


 異臭に満ちた儀式場で。


 それでも、自分を譲らない。


 玻月は、静かに目を細めた。


「……来るか」


 遠くで、鉄扉が軋む音がした。


 陽鞠の金眼が揺れる。


 朔夜。


 声は出ない。


 でも、指輪が熱い。


 朔夜もまた、自分の中の魂へ抗っている。


 妖を従わせず、刀で斬っている。


 それがなぜかわかった。


 陽鞠は、霊糸に締められた喉で、最後にもう一度だけ息を絞った。


「私は……私……」


 そして、遠い鉄扉の向こうで、黒銀の霊力が爆ぜた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ