第44話 出てくるな
霊糸は、まだ首にあった。
何時間も締められ続けた喉は、もう自分のものではないようだった。痛みは鋭さを通り越し、熱と痺れと冷たさが混ざった鈍い塊になっている。空気を吸おうとするたび、喉の奥が潰れた笛のように鳴った。
ひゅ、と。
かすれた音がする。
それが自分の呼吸だと、陽鞠はすぐに理解できなかった。
視界は白く濁っている。
黒い五芒星の線も、地下の石柱も、玻月の黒い長衣も、輪郭だけが水に沈んだように揺れていた。目は乾いているのに涙が止まらず、充血した視界の奥で金眼が熱を持っている。
いや、金ではなくなりかけていた。
白い。
白に近い光が、瞳の奥で膨らんでいる。
陽鞠は、それが自分ではないとわかった。
自分の中にある。
でも、自分ではない。
神の子。
そう呼ばれたもの。
昔から、周囲が勝手に陽鞠へ貼りつけてきた名前。金眼を見て、霊力を見て、精密結界を見て、人ではなく特別な器のように扱うための名前。
その奥に、本当に何かがあるのだとしたら。
今、それが出てこようとしている。
陽鞠の喉から、壊れた音が漏れた。
「……っ、ぁ……」
声にならない。
霊糸が締まっている。
空気が足りない。
喉は潰れ、声帯は傷つき、水と電流と窒息で酷使された身体は、もう限界を越えていた。指先は冷え、手足は拘束の中で小刻みに震え、身体の下には汚れと冷たさが広がっている。
命が、遠ざかっている。
そう感じた。
死ぬ、と思ったわけではない。
もっと奇妙だった。
身体の内側から、自分が剥がれていく。
篠宮陽鞠という輪郭が薄くなり、代わりに白い何かが浮かび上がってくる。誰かが、内側から目を開けようとしている。陽鞠の口で息をし、陽鞠の目で世界を見て、陽鞠の手で結界を張ろうとしている。
違う。
これは私じゃない。
出てくるな。
胸の上に垂れた白い糸が、強く震えた。
黒い五芒星の中心が、低く脈打つ。
玻月が、白手袋の指先を動かした。
霊糸の圧が、わずかに変わる。
完全に締めるのではない。
落ちかけた意識を肉体へ繋ぎ止め、魂だけを浮かせるような、嫌な調整だった。死なせない。けれど、死に近づける。玻月はその細い線の上に陽鞠を置いている。
人の命で綱渡りをするなど、まともな神経ならまずやらない。まともではないから、やるのだろう。実に人間社会は退魔師免許の審査が甘い。
「見えてきた」
玻月の声がした。
静かな声。
陽鞠の状態を見て、動揺する気配はない。
「君の奥にあるものが、表層へ近づいている」
陽鞠は睨んだ。
睨めているのかもわからない。
焦点は合わない。瞳孔は開き、眩しい白い霊光が目の奥に刺さっている。それでも、玻月を見る。
違う。
お前のために出てくるんじゃない。
私は出さない。
喉が鳴った。
「……で、」
壊れた声。
霊糸に潰され、息の足りない声。
「で、て……」
玻月の目が、わずかに細くなる。
陽鞠は、血と泡の混じる唇を震わせた。
「出て、くるな……」
霊糸が締まった。
喉が潰れる。
声が途切れる。
胸が空気を求めて跳ねた。
身体が痙攣し、背中が石床へ打ちつけられる。黒い五芒星の線が、白く光る。胸の上の糸が、陽鞠の内側へさらに入り込もうとした。
その瞬間、白い景色が開いた。
どこか遠い場所。
音のない空間。
人の声ではない何かが、陽鞠を呼んでいる。
篠宮陽鞠ではない名前で。
それを聞いた瞬間、陽鞠の中の白いものが動いた。
表へ出ようとする。
死にかけた肉体を越え、苦痛で壊れた喉を越え、金眼の奥から現れようとする。
陽鞠は、全身の残った力をかき集めた。
出てくるな。
出てくるな。
私を押しのけるな。
私の身体だ。
私の名前だ。
私の声だ。
私の朔夜だ。
「出て……くるなぁ゛……ッ!」
叫びは、もう人の声ではなかった。
喉が破れ、霊糸に潰され、空気を削り取られた獣の咆哮のようだった。途中で切れ、濁り、泡に潰れ、それでも地下儀式場の石壁へ叩きつけられた。
白い糸が震える。
黒い五芒星が軋む。
玻月の紫紺の瞳が、初めてわずかに鋭さを増した。
「拒むか」
陽鞠は、答えた。
喉が壊れている。
息もない。
それでも答えた。
「私は……私だ……」
霊糸がまた締まる。
「私は、私……」
白い魂が浮上する。
「私は……篠宮、陽鞠……!」
金眼の奥で、白に呑まれかけた光が、必死に金を取り戻す。
細く。
弱く。
それでも、金だった。
陽鞠は、右手薬指を動かそうとした。
拘束でほとんど動かない。
指輪の反応は途切れている。
でも、そこにある。
朔夜との約束は、そこにある。
反応が切られただけだ。
消えたわけではない。
陽鞠は指輪の輪を思い出した。
ちり、と鳴る音。
朔夜の手。
任務前の長いキス。
生きて待っててと叫んだ時の、あの黒い目。
そのすべてを、金眼の奥へ押し込む。
白い魂が出てこようとする場所へ、陽鞠自身の記憶を叩き込む。
出てくるな。
私の上に立つな。
私を消すな。
私は私だ。
篠宮陽鞠だ。
その言葉を繰り返すたび、白い糸が弾かれる。
霊糸が震える。
玻月の指先が細く動いた。
圧がまた増した。
陽鞠の呼吸が途切れる。
口が酸素を求めて開閉する。魚のように、情けなく、必死に。唇の端から泡が零れ、顎を伝う。目は開きっぱなしで、充血した白目に赤い筋が走り、瞳孔は開いたまま戻らない。
それでも、陽鞠は白いものを押し返していた。
玻月が低く言う。
「肉体が限界を迎えている。君の意思だけでは保たない」
陽鞠は、喉の奥で笑いかけた。
笑う余裕なんてない。
でも、その言葉があまりにも腹立たしかった。
意思だけでは保たない。
それでも、今保っている。
保っているのは誰だ。
玻月ではない。
神の子でもない。
篠宮陽鞠だ。
「わた、し……は……」
声が途切れる。
霊糸が喉へ食い込むように締まる。
意識が白く落ちかける。
「私だ……!」
陽鞠は叫んだ。
その瞬間、右手薬指の指輪に、ほんの一瞬だけ熱が戻った。
*
朔夜は、地下封鎖区域へ続く旧通路を走っていた。
正確には、走らされていた。
かがりの結界が身体を支え、透羽の端末が進路を示し、救護班が頭部へ応急固定術式を残している。普通なら動ける状態ではない。頭の傷はまだ痛む。銀髪には血の跡が残り、視界は走るたびに揺れた。
それでも、足は止まらなかった。
左手薬指の指輪が、熱い。
先ほどから、断続的に熱を持つ。
だが、今の熱は違った。
痛みではない。
叫びだった。
声は聞こえない。
陽鞠の姿も見えない。
それでも、指輪越しに何かが伝わってきた。
出てくるな。
私は私だ。
篠宮陽鞠。
その必死の抵抗が、火のように朔夜の指へ流れ込んだ。
朔夜は歯を食いしばる。
「陽鞠……!」
通路の壁が、黒く脈打った。
古い地下霊脈の通路は、封鎖されていたはずだった。だが、今は黒い五芒星の残滓が壁や床に走り、割れたコンクリートの隙間から小さな妖が這い出している。
顔のない影。
獣の手足だけのもの。
古い怨念の塊。
それらが、朔夜の霊力に反応して集まってくる。
朔夜が近づくほど、妖たちは動きを止めた。
そして、ひれ伏そうとした。
通路の左右で、黒い影が頭を垂れる。
朔夜の背後に、また黒いものが立ち上がる感覚があった。
群れが従う。
道が開く。
命じれば、進める。
妖を使えば、玻月の結界の位置まで早く届くかもしれない。
その考えが、一瞬だけ頭を掠めた。
朔夜の中の魂が、それに反応した。
黒い影が濃くなる。
膝をつく妖たちへ、霊力の線が伸びかける。
従え。
道を作れ。
彼女のところへ連れて行け。
その誘惑は、甘くはなかった。
冷たく、暗く、必要そうな顔をしていた。
陽鞠を助けるためなら、何でも使えばいい。
妖が従うなら、従わせればいい。
命じればいい。
頭領の影が、朔夜の背後で膨らむ。
かがりが叫んだ。
「綴喜!」
朔夜の足が止まる。
いや、止めた。
自分で。
通路の妖たちは、ひれ伏しかけたまま震えている。
朔夜は、左手の指輪を握った。
熱い。
陽鞠が抵抗している。
陽鞠は、自分の中のものへ「出てくるな」と叫んでいる。
なら、朔夜も同じだ。
自分の中の黒いものへ。
群れを従わせようとする魂へ。
頭領の影へ。
出てくるな。
俺を押しのけるな。
俺の身体で、俺の霊力で、俺の陽鞠を助けに行こうとするな。
助けるのは、お前じゃない。
「俺は……」
朔夜の声は低かった。
通路に響く。
ひれ伏しかけた妖たちが震える。
「俺は俺だ」
黒い影が揺らぐ。
「俺は、綴喜朔夜だ」
妖たちの膝が、床から浮く。
従属の形が崩れる。
「お前らに命じない」
朔夜は刀を抜いた。
頭の傷が痛む。
視界が揺れる。
それでも、構える。
「俺は、斬る」
刃が走った。
黒銀の霊力が、通路を一直線に裂く。ひれ伏しかけた妖たちは、従う前に断たれた。黒い五芒星の残滓が散り、かがりの結界がそれを封じる。
透羽が息を呑む。
「綴喜、座標反応が濃くなった! 今の指輪反応で、ほぼ奥の儀式場に絞れた!」
「どっちだ」
「左の旧排水路、その先の封鎖扉!」
朔夜は走り出す。
妖の群れがまた現れる。
今度は膝をつく前に、朔夜が斬る。
命じない。
使わない。
従わせない。
自分の中の影がどれだけ騒いでも、朔夜は刀を選ぶ。
「俺は俺だ」
走りながら繰り返す。
「俺は俺だ」
指輪が熱い。
陽鞠の声は聞こえない。
だが、抵抗は伝わっている。
出てくるな。
私は私だ。
その声なき叫びが、朔夜の中の黒い魂にも突き刺さっていた。
「陽鞠が踏みとどまってる」
朔夜は息を吐く。
血の味が喉に上がる。
「俺が呑まれてる場合じゃない」
かがりが短く言った。
「そのまま保て」
「言われなくても」
「すぐ先だ」
旧排水路の奥に、巨大な鉄扉が見えた。
古い封印札が何重にも貼られている。
しかし、その中央には黒い五芒星が浮かび、白い光が漏れていた。
朔夜の指輪が、さらに熱を持つ。
陽鞠がいる。
この奥に。
朔夜の黒い瞳が冷えた。
だが、その奥には熱がある。
影の熱ではない。
怒りだけでもない。
陽鞠へ戻るための熱。
「陽鞠」
朔夜は刀を構えた。
「今行く」
*
地下儀式場で、陽鞠はまだ霊糸に首を締められていた。
しかし、さっきとは違う。
右手薬指の指輪が、かすかに熱い。
遠くで、朔夜が近づいている。
そう感じる。
確証はない。
でも、わかる。
朔夜は来る。
なら、自分も保つ。
白い魂が、また浮かび上がろうとする。
死の間際に近づいた肉体から、神の子と呼ばれたものが表へ出ようとする。
陽鞠は、壊れた喉で叫んだ。
「出てくるな……!」
霊糸が締まる。
視界が白くなる。
それでも。
「私は……私だ……!」
金眼が白へ傾きかけ、ぎりぎりで金へ戻る。
「私は……篠宮陽鞠だ……!」
玻月の白手袋が、わずかに止まった。
彼は感じていた。
魂は、確かに出かかっている。
神の子と呼ばれたものは、すぐそこまで浮上している。
だが、陽鞠自身がそれを押し返している。
死の縁で。
壊れた喉で。
異臭に満ちた儀式場で。
それでも、自分を譲らない。
玻月は、静かに目を細めた。
「……来るか」
遠くで、鉄扉が軋む音がした。
陽鞠の金眼が揺れる。
朔夜。
声は出ない。
でも、指輪が熱い。
朔夜もまた、自分の中の魂へ抗っている。
妖を従わせず、刀で斬っている。
それがなぜかわかった。
陽鞠は、霊糸に締められた喉で、最後にもう一度だけ息を絞った。
「私は……私……」
そして、遠い鉄扉の向こうで、黒銀の霊力が爆ぜた。




