第43話 霊糸の首
護符の光が、消えた。
黒い五芒星の各頂点に浮かんでいた五枚の護符は、焼け焦げたように縁を丸め、静かに宙で揺れていた。完全に役目を終えたわけではない。まだ銀色の雷紋は残り、陽鞠の身体へ向かう経路も切れていない。ただ、玻月はその痛みを一度止めた。
止めた、というだけだった。
終わったわけではない。
陽鞠は、黒い五芒星の中心で、荒い息を繰り返していた。
喉は壊れていた。水の結界で塞がれ、叫びで裂け、電流の痛みで何度も悲鳴を絞り出した喉は、呼吸をするだけで焼けるように痛い。胸も痛む。肺は水を拒んだ後の重さを残し、吸い込んだ空気は冷たく、錆びた刃のように内側を擦った。
身体は震えている。
寒さだけではない。
痛みの余韻。
恐怖。
筋肉がまだ電流の記憶を忘れられず、手足が小刻みに痙攣している。濡れ、汚れた制服は肌に張りつき、下半身の冷たさは考えたくなくても消えない。自分の身体が自分のものではなくなったような感覚が、ずっと残っていた。
それでも、陽鞠の指先は石床に触れていた。
右手の爪先。
左足の先。
痛みの中で残した金色の棘。
護符の術式の戻り口。
主護符の半拍の遅れ。
覚えている。
水の結界の循環も、護符の電流経路も、黒い五芒星の流れも、全部、痛みごと覚えた。
まだ動けない。
まだ壊せない。
でも、ただ苦しんでいただけではない。
陽鞠は、壊されながら読んでいた。
戻るために。
朔夜のところへ帰るために。
「まだ、目が折れない」
玻月の声がした。
陽鞠は顔を上げようとした。
首が重い。
水で濡れた金髪が頬に張りつき、瞼も重く、視界は涙と汗と水で滲んでいた。それでも、玻月を睨む。
喉から出た声は、掠れてほとんど音にならなかった。
「……見るな」
玻月は答えなかった。
黒い長衣の裾が、地下の冷えた空気の中で静かに揺れる。白手袋の指先が、護符ではなく、自分の袖口へ向かった。
そこから取り出したのは、糸だった。
いや、糸に見えた。
肉眼ではほとんど見えない。地下儀式場の白い霊光を受けた時だけ、細く銀色に光る。髪の毛よりも細い。蜘蛛の糸よりも冷たい。だが、その一本一本に、黒い五芒星の欠片と、玻月の術式が編み込まれているのがわかった。
霊糸。
陽鞠の背筋が冷えた。
玻月が指を動かす。
霊糸が、音もなく伸びた。
陽鞠は反射的に身を捩ろうとした。だが、手首と足首の拘束結界が動きを封じる。肩の周囲にも黒い輪がかかり、背中は石床へ押しつけられる。
逃げられない。
霊糸が首に触れた。
最初は、冷たい線だった。
首筋に、ひやりとした感触。
次の瞬間、その線が輪になった。
喉の前。
首の左右。
うなじの下。
霊糸が何本も重なり、陽鞠の首を取り囲む。
陽鞠の喉が、恐怖で細く鳴った。
「や……」
声は最後まで出なかった。
霊糸が締まった。
「――ッ」
喉が塞がれた。
水の時とは違う。
口と鼻を塞がれる苦しさではない。
首そのものを細い線で絞られる。喉の奥が押し潰され、空気の通り道が細くなる。頸動脈のあたりに冷たい圧がかかり、頭の奥へ血が上る感覚があった。
陽鞠は口を開いた。
息を吸おうとする。
入らない。
喉が狭い。
空気が途中で止まる。
壊れた喉から、ひゅ、と情けない音が漏れた。
霊糸がさらに締まる。
首の皮膚に食い込むほどではない。血を流さない。だが、内側の通り道だけを確実に狭めていく。まるで、玻月はどこを締めれば死なずに苦しむかを正確に知っているようだった。
陽鞠の目が見開かれる。
息。
息が。
吸えない。
胸が勝手に大きく動く。
しかし、空気は入ってこない。
喉の奥で潰れた音だけが鳴る。
「あ……っ、か……」
声にならない。
口が開いたまま閉じられない。
酸素を求めて、身体が勝手に口をぱくぱくと開閉する。水の結界の名残がまだ口元に残っていたせいで、小さな泡が唇の端から出た。泡はすぐに弾け、顎を濡らす。
玻月は霊糸を握る手を緩めなかった。
「呼吸が途切れると、魂は肉体から浮きやすくなる」
陽鞠は睨もうとした。
だが、目の焦点が合わない。
視界が揺れる。
喉に巻きついた霊糸の圧が、少しずつ強まる。首の奥に痛みが走り、耳の中で鼓動が響き始めた。目の血管が熱い。圧が上がる。白目の部分にじわじわと赤い筋が走る感覚があった。
瞳孔が開いていく。
光を調整する余裕がない。
地下儀式場の白い霊光が眩しい。
でも、目を閉じられない。
酸素を求める身体が、瞼を閉じる余裕すら奪っている。
口は開いたまま。
喉から、途切れ途切れの音が漏れる。
「っ、か……は、ぁ……っ、ぐ……」
息ではない。
声でもない。
絞られた喉を、無理やり空気が通ろうとして潰れる音。
陽鞠は首を動かそうとした。
霊糸がさらに締まる。
喉の奥が、焼けるように痛い。
水の結界で傷ついた喉に、霊糸の圧が重なる。咳をしたい。水の名残を吐き出したい。だが、咳をする空気がない。
胸が、内側から破裂しそうだった。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
陽鞠の身体が痙攣した。
手首の拘束がぎしりと鳴る。
足先が跳ねる。
背中が石床で震える。
酸素が足りない。
脳が警告を出している。
身体が暴れている。
それでも、霊糸は一定の圧で首を締め続ける。
一瞬だけ締めて終わりではない。
長い。
あまりにも長い。
時間の感覚が壊れる。
一分なのか、十分なのか、もっと長いのか、わからない。霊糸は完全には殺さない。ほんのわずかな空気だけを通し、陽鞠の意識を消し切らない程度に保つ。その状態が続く。
何度も、何度も。
締める。
少しだけ緩める。
また締める。
陽鞠が気を失いかけるたび、玻月は圧をほんの少し変えた。完全に落ちる直前で、わずかな空気を入れる。意識が戻りかけると、また締める。
それが続いた。
何時間も。
地下儀式場に、陽鞠の壊れた呼吸音だけが響いていた。
途中から、彼女の喉はまともな悲鳴を出せなくなった。
苦しさが限界へ達すると、喉の奥から途切れ途切れの咆哮が漏れた。
「ぐ、ぁ……あ゛……が、ぁ゛……ッ」
人の声ではなかった。
獣が罠にかかり、喉を締められながら吠えるような音。整った悲鳴ではない。息が足りず、声帯も傷つき、途中で切れ、泡と唾液に絡んで潰れる。口元から小さな泡が出て、顎を伝い、濡れた制服へ落ちる。
目は充血していた。
白目には赤い筋が広がり、瞳孔は開きっぱなしだった。焦点は合わず、玻月の姿も、石柱も、黒い五芒星も、白い糸も、全部が白くぼやけていく。
視界が白くなる。
縁からではなく、中心から白く抜ける。
魂の奥へ通じる白い光と、酸素不足で薄れていく視界が重なり、どこまでが身体の限界で、どこからが儀式の干渉なのかわからなくなった。
陽鞠は、それが怖かった。
自分が消えていく。
肉体から剥がされる。
篠宮陽鞠という輪郭が、白い霧に溶かされていく。
嫌だ。
嫌だ。
私は。
私は。
言葉にしようとした。
しかし、喉が絞られている。
声は出ない。
出るのは、途切れた獣のような咆哮と、泡だけだった。
身体の痙攣が強くなる。
背中が跳ねる。
指が硬直する。
脚が震える。
何度も電流で制御を奪われた身体は、窒息の恐怖にさらに壊れていった。下腹部が勝手に弛み、すでに汚れていた衣服の中へ、また尿が漏れた。腹の奥が痙攣し、便も抑えきれなかった。胃がひっくり返るように痙攣し、喉が締められたまま胃液が逆流しかける。
吐き出す空気がない。
口元の水と泡と胃液が混ざり、喉の奥が焼けた。
地下儀式場の空気に、異臭が広がった。
尿の匂い。
便の匂い。
胃液の酸い匂い。
血と水と汗の匂い。
それらが、冷えた石の匂いと混ざり、逃げ場のない空間を満たす。
陽鞠は、自分が人としての形を壊されていく感覚に、涙を流した。
涙もすぐに水と唾液と泡に混じる。
恥ずかしい、という感情は遠くなっていた。
それよりも、命が危ない。
本当に死ぬ。
そう身体が叫んでいる。
このままでは、自分の魂が肉体から剥がれる。
玻月は、それを待っている。
霊糸を操る白手袋が、わずかに震えた。
陽鞠の胸の上に垂れていた白い糸が、強く光る。
黒い五芒星が脈打つ。
玻月の紫紺の瞳が、わずかに深くなる。
「出かかっている」
静かな声。
その言葉が、酸素の足りない陽鞠の意識へ冷たく刺さった。
「君の魂が、肉体の縁まで浮いている」
陽鞠は、反射的に首を振ろうとした。
霊糸が食い込むように締まり、喉から壊れた音が漏れる。
「が、ぁ゛……ッ、か……は……!」
「水よりも、電流よりも、首は早い」
玻月が言った。
「肉体が死を感じると、魂は逃げようとする」
違う。
違う。
逃げない。
私は逃げない。
陽鞠は、必死に右手の指先を動かした。
何時間も繰り返された窒息で、感覚はほとんどなかった。指先は冷え、痺れ、爪の感触すら遠い。けれど、動かす。少しでいい。石床に触れる。
黒い五芒星の線。
霊糸へ繋がる経路。
首を締める術式の戻り口。
水の結界と護符の電流と同じように、必ず構造がある。
読む。
読め。
苦しくても。
死にかけても。
玻月の見たいものになるな。
右手の指先が、石床を掻いた。
血が滲む。
その痛みで、ほんの少し意識が戻る。
霊糸は首に巻きついているが、本体は玻月の指先だけではない。床の五芒星、胸の白い糸、首に巻かれた霊糸が三角に繋がっている。喉を締める圧は、玻月の手で調整されている。だが、魂を浮かせる引きは、胸の白い糸から来ている。
なら、霊糸だけを切っても、次が来る。
首の圧を一瞬緩めるには、霊糸と白い糸の接続を乱すしかない。
陽鞠は指先に、金色の霊力を集めようとした。
集まらない。
酸素がない。
頭が働かない。
金眼は白くなりかけ、意識は遠い。
それでも、ほんの少しだけ、金を作る。
白ではない。
金。
朔夜が呼ぶ色。
自分の色。
陽鞠は、右手薬指の指輪を思い出した。
指輪は冷たい。
反応は途切れている。
でも、前に一瞬だけ熱を持った。
朔夜がいる。
朔夜は来る。
だから、魂を出してはいけない。
肉体から離れてはいけない。
ここにいろ。
篠宮陽鞠でいろ。
陽鞠は、壊れた喉で音を出そうとした。
霊糸が締まっている。
声は出ない。
それでも、喉の奥が震える。
「……わ、」
潰れた音。
泡が出る。
玻月がわずかに眉を動かした。
陽鞠は、目を見開いたまま、必死に声を絞った。
「わ、た……し……」
霊糸が締まる。
声が途切れる。
喉から獣のような咆哮が漏れる。
「ぐ、ぁ゛……ッ、あ゛……!」
それでも、続ける。
水の時も、電流の時も、叫んだ。
だから、今も。
首を締められていても。
泡が出ても。
目が充血して、瞳孔が開いたままでも。
身体が痙攣し、異臭に満ちた儀式場で命が剥がれかけていても。
言う。
「わたし、は……」
霊糸がわずかに緩んだ。
玻月が緩めたのではない。
陽鞠の指先が、黒い線の継ぎ目へ金色の小さな輪を刺し込んだのだ。
水の時に使った、指輪の輪。
護符の時に使った、戻り口の遅れ。
それを、霊糸と白い糸の接続部へ残す。
接続が、一瞬だけ詰まった。
霊糸の圧が緩む。
空気が入る。
ほんのわずかに。
陽鞠は、壊れた喉を裂くように叫んだ。
「私は、私だぁ゛ぁ゛ぁ゛ッ!!」
声は、綺麗ではなかった。
途中で濁り、血の味を含み、泡に潰れ、獣の咆哮のように地下へ響いた。それでも、言葉だった。
篠宮陽鞠の言葉だった。
金眼が白から金へ戻りかける。
白い糸が胸元で弾かれる。
霊糸がさらに一瞬緩む。
陽鞠は激しく咳き込んだ。
空気が入る。
喉が焼ける。
胃液と水と唾液が混じり、咳と一緒に口元から零れる。胸が痛い。肺が悲鳴を上げる。それでも、空気が入った。
玻月の目が、鋭く細くなった。
「この状態でも戻すか」
陽鞠は答えられない。
咳き込み、涙を流し、身体を震わせるだけで精一杯だった。
だが、右手の指先はまだ黒い線に触れている。
霊糸の接続部。
白い糸の引き。
戻り口の位置。
覚えた。
痛みと窒息と恐怖の中で、またひとつ覚えた。
玻月が白手袋の指先を動かす。
霊糸が、再び締まりかける。
陽鞠の身体が恐怖で強張る。
しかし、その瞬間。
遠くで、指輪が熱を持った。
ほんの一瞬。
陽鞠の右手薬指に、小さな熱が灯る。
朔夜。
陽鞠は息を呑んだ。
霊糸が再び喉へかかる。
それでも、今度は完全な孤独ではなかった。
朔夜が、近づいている。
どこかで、あの指輪が熱を持っている。
陽鞠は泣きながら、金眼を開いた。
白ではない。
金で。
玻月は、陽鞠の魂が再び肉体の奥へ沈み直したことを感じ取った。
出かかっていた。
確かに、出かかっていた。
だが、戻った。
霊糸に首を締められ、何時間もの窒息で命の縁まで追い込まれてなお、陽鞠は自分の名前を掴んだ。
玻月は、初めてわずかに息を吐いた。
「……厄介だな」
陽鞠は、壊れた喉で笑うこともできない。
ただ、掠れた息の中で、もう一度だけ言った。
「私は……私だ……」
霊糸の輪は、まだ首にあった。
儀式場の異臭も、冷たさも、身体の震えも、消えていない。
命の危機は終わっていない。
それでも、金眼は折れていなかった。




