第42話 金色は折れない
護符は、まだ光っていた。
黒い五芒星の各頂点に浮かぶ五枚の護符。胸元、両手首、両足首へ向かって張られた見えない線。銀色の雷紋が、薄い和紙の表面で脈打つたび、陽鞠の身体は次の痛みを予感して強張った。
逃げられない。
身構えても、逃げられない。
わかっていても、身体は勝手に恐怖する。
筋肉が縮み、喉がひくつき、濡れた制服の布が肌に張りついた。水の結界で濡れた髪は頬に貼りつき、壊れた喉は呼吸のたびにひりついている。口の中には血と水の味が残り、胸の奥はまだ重い。
そして、下半身の冷たさが、意識の片隅にまとわりついていた。
電流で身体の制御を奪われた時、止められなかった。
その後も、強い痙攣が来るたび、身体は勝手に反応した。自分の意思とは関係なく、温かい感覚が漏れ、すぐ地下の冷気に奪われていく。制服の下が汚れていることも、脚の間が冷えていくこともわかっている。
恥ずかしさではない。
恐怖だった。
自分の身体なのに、自分の言うことを聞かない。
呼吸も、声も、筋肉も、排泄の制御さえ、痛みに奪われる。
人としての輪郭を、少しずつ剥がされていくようだった。
玻月はそれを見ていた。
欲や嘲りではなく、観察として。
だからこそ、陽鞠は吐き気がするほど嫌だった。
彼にとって、陽鞠の悲鳴も、痙攣も、涙も、失禁も、ただの反応でしかない。肉体が限界に近づき、魂の防御が緩むかどうかを見るための材料。
そんなものになってたまるか。
陽鞠は、爪の先を石床へ押し当てた。
右手の指先は、まだ動く。
震えている。
電流の余韻で細かく痙攣し、狙った場所へ触れることすら難しい。爪の先は割れ、血が滲んでいる。だが、そこに意識を集めると、痛みの波に呑まれきらずに済んだ。
読む。
護符の術式を。
痛みの経路を。
玻月の折り目を。
次の電流が来た。
五枚の護符のうち、胸元の護符が先に光る。
そこから右手首へ。
左足首へ。
斜めに身体を貫く経路。
陽鞠は読んでいた。
わかっていても、止められない。
電流が身体へ落ちる。
「ぎ、あああああああああああッ!!」
叫びが喉を裂いた。
水で傷ついた喉は、もうまともな声を出せない。途中で声が割れ、濁り、獣が喉を焼かれて吠えるような音に変わる。身体が跳ねる。背中が石床に打ちつけられる。手首と足首の拘束が食い込み、肩が引き攣る。
痛みが全身を走る。
皮膚ではない。
筋肉の奥。
骨の周り。
霊力の通り道。
そこへ直接、白く焼ける線が叩き込まれる。
陽鞠の結界術が乱れた。
金色の膜が胸元で膨らみ、すぐに弾ける。右手首の周囲で小さな結界が生まれ、黒い五芒星に吸われる。足元に出ようとした補助結界が、電流の経路に巻き込まれて歪む。
痛みに引きずられ、術が勝手に跳ねる。
それが怖い。
自分の力なのに、自分の意思より先に暴れようとする。
白い光が、金眼の奥に滲みかけた。
だめ。
陽鞠は歯を食いしばる。
舌を噛まないよう必死に奥歯で堪えながら、右手の指先を黒い線へ刺した。
痛みの経路は読めている。
胸元から右手首、左足首へ。
戻りは左足首から床の外周へ逃げ、黒い五芒星を一周して胸元へ戻る。
そこに、玻月の癖がある。
斜め下へ一度折る。
正面から受けず、逸らす。
なら、その折り目に棘を残す。
陽鞠は、電流の痛みに身体を跳ねさせられながら、爪の先へ金色の霊力を集めた。
細く。
細く。
針より細く。
棘より鋭く。
黒い線の折り目へ、金色の小さな異物を刺す。
護符の術式が、わずかに乱れた。
ほんの少し。
痛みが止まるほどではない。
拘束が解けるほどでもない。
だが、戻りの流れがわずかに詰まる。
胸元の護符が一拍だけ遅れた。
玻月の目が細くなった。
「また残したな」
陽鞠は答えなかった。
答えるための喉がない。
呼吸をするだけで精一杯だった。
だが、目は逸らさない。
濡れた睫毛の下で、金眼が震えている。白く光りかけるたび、陽鞠は自分の名前を思い出す。
篠宮陽鞠。
篠宮陽鞠。
私は私だ。
護符が、また光る。
今度は左手首と右足首。
第二経路。
わかっている。
わかっていても、怖い。
身体が先に怯える。腹の底が冷え、下半身の感覚がまた崩れそうになる。もう何度目かわからない失禁の気配に、陽鞠の目に涙が滲んだ。
いやだ。
いやだ。
やめて。
そう思った瞬間、電流が落ちた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
喉から濁った咆哮が出た。
身体が大きく跳ねる。
腰が浮き、拘束で引き戻され、背中がまた石床へ叩きつけられる。手足の指が勝手に強張り、爪が床を引っ掻く。息が止まり、喉の奥が痙攣し、涙がこぼれた。
また、身体が制御を失った。
止められない。
温かい感覚が漏れ、濡れた衣服の内側で広がっていく。すぐに冷える。冷たさが脚を伝い、陽鞠の心をさらに削る。
でも、陽鞠は指先を止めなかった。
泣きながら。
喉を壊しながら。
身体を跳ねさせられながら。
左手首側の経路へ、金色の細い糸を絡ませる。
痛みに耐えるためではない。
覚えるために。
護符の術式は、五枚でひとつではなかった。
胸元の護符が主。
両手首の護符が霊力経路を乱す。
両足首の護符が身体の制御を奪う。
そして、黒い五芒星が痛みを循環させ、白い糸へ流し込んでいる。
つまり、電流そのものが目的ではない。
痛みによって陽鞠の結界術を乱し、乱れた結界の奥から魂の反応を拾う。
水で呼吸を奪い。
電流で身体を奪い。
金眼を白く浮かせる。
そのための護符。
陽鞠は、涙でぼやける視界の中、玻月を睨んだ。
この男は、手を抜かない。
なら、こちらも諦めない。
読んで、覚えて、壊す。
今すぐでなくても。
朔夜が来た時に。
自分が動ける一瞬が来た時に。
この護符のどこを狂わせればいいか、必ず覚えておく。
玻月の白手袋の指先が、空中でわずかに動いた。
五枚の護符が同時に震える。
陽鞠は息を呑んだ。
全経路。
また。
身体が、来る痛みを予感して震えた。
心が折れそうになる。
もう嫌だ。
痛い。
怖い。
喉が壊れている。
身体は汚れて、冷えて、震えている。
朔夜の指輪も、今は鳴らない。
なのに、まだ続く。
人間は、痛みが続くだけで簡単に世界が狭くなる。意地も誇りも、大層な覚悟も、電流ひとつで剥がれそうになる。自分がこんなに脆いのだと、嫌でも思い知らされる。
でも。
それでも。
陽鞠は、朔夜の顔を思い出した。
血で濡れた銀髪。
黒い瞳。
半狂乱になりかけながら、それでも陽鞠の「生きて」に止まってくれた顔。
戻ると言った。
だから、戻る。
護符が光った。
電流が落ちる。
全身が白く焼かれる。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
絶叫は、人の声と獣の声の境目を失っていた。
喉が裂ける。
胸が跳ねる。
背骨が反る。
指が強張る。
足が痙攣する。
視界が白く飛ぶ。
金眼の光が、白へ近づく。
胸の上の白い糸が、陽鞠の奥へ降りようとする。
玻月が静かに言う。
「浮上する」
陽鞠は、その言葉を痛みの中で聞いた。
浮上などしない。
私は沈まない。
私は流されない。
私は。
「わた、し……」
声が壊れている。
電流の余韻で舌が回らない。
それでも、言う。
「わたしは……わたし、だ……!」
言葉と同時に、陽鞠は右手の指先を最後の経路へ刺した。
胸元の護符。
主護符。
直接触れれば、電流が跳ね返る。
だから、触れない。
床の黒い線を通して、主護符へ戻る寸前の流れへ金色の小さな輪を置く。
指輪の輪。
朔夜との音。
ちり、と鳴る形。
それを極小にして、術式の戻り口へ残す。
電流が戻る。
金色の輪に触れる。
護符の銀線が、一瞬だけ震えた。
胸元の護符の光が、半拍遅れた。
白い糸が陽鞠の胸元で止まる。
玻月の指先が、今度は明確に止まった。
陽鞠は、痛みでぼろぼろになった喉から、笑いとも咳ともつかない息を漏らした。
笑いたかったわけではない。
ただ、まだ読めるとわかった。
まだ壊れていないとわかった。
それが息になって漏れただけだった。
「……覚えた」
声はほとんど聞こえないほど掠れていた。
玻月の目が、陽鞠を捉える。
「何を」
陽鞠は答えない。
答えてやるものか。
胸元の護符。
戻り口。
斜め下の折り目。
右手首の棘。
左足首の残し針。
主護符の半拍遅れ。
全部覚えた。
自分の身体に刻まれた痛みごと。
自分の悲鳴ごと。
自分の涙ごと。
全部、反撃の準備に変える。
玻月が白手袋の指先を動かした。
護符が補正される。
金色の輪が潰され、棘が焼かれ、残し針が消される。
それでも、陽鞠の中には残った。
構造は見えた。
次は、もっと早く刺せる。
次は、もっと深く狂わせられる。
玻月は、陽鞠を見下ろした。
「苦痛の中で術式を覚えるか」
陽鞠は息を荒くする。
喉が痛くて、まともに話せない。
それでも、唇を動かした。
「……戻る、から」
玻月は黙った。
「朔夜の、とこ……戻る、から……」
声は弱い。
身体は震えている。
制服は濡れ、汚れ、髪は頬に張りつき、喉は壊れ、涙は止まらない。
それでも、金眼は折れていなかった。
白に呑まれかけても、金へ戻る。
玻月の護符がどれだけ痛みを流しても、陽鞠はその痛みの中から術式を拾い上げる。
黒い五芒星の中心で、金色はまだ折れていなかった。
*
医療棟の空気が、突然震えた。
朔夜は、担架結界の上で目を見開いた。
左手薬指の指輪が、また熱を持った。
今度の熱は、前より鋭かった。
温かいというより、痛い。
指輪から、焼けたような痺れが指へ走り、手首へ、腕へ、胸へ伝わった。朔夜は息を呑む。頭の傷が痛み、視界が一瞬揺れる。それでも、左手を握りしめた。
「陽鞠……!」
声が掠れる。
救護班が顔を上げた。
「綴喜さん?」
「痛い」
朔夜は指輪を見た。
金色の微かな光が、指輪の内側で震えている。
熱だけではない。
痛みがある。
鋭く、断続的な痛み。
電流のような。
朔夜の黒い瞳が、一気に冷えた。
「陽鞠が痛がってる」
医療棟の空気が凍った。
かがりがすぐに近づく。
「指輪越しか」
「わからない。でも来てる」
朔夜の呼吸が荒くなる。
左手を握りしめる。
指輪の熱が、また跳ねた。
朔夜の身体が反射的に強張る。自分が痛いのではない。陽鞠の痛みの欠片が、切断されたはずの反応の隙間から漏れてきている。
かすかに。
途切れ途切れに。
それでも、確かに。
陽鞠が苦しんでいる。
朔夜の中で、黒いものが暴れた。
今すぐ行け。
殺せ。
斬れ。
取り返せ。
だが、同時に別の声がある。
陽鞠の声。
生きて待ってて。
そして、自分の声。
俺は俺だ。
朔夜は歯を食いしばった。
暴れるな。
霊力を乱すな。
座標を消すな。
助けるために動け。
壊れるためではなく。
「透羽」
朔夜は低く呼んだ。
解析端末の前にいた透羽が振り向く。
「今の指輪反応、拾ったか」
「拾ってる! 座標が濃くなった。地下封鎖区域でほぼ確定!」
「行く」
救護班が即座に止める。
「まだ無理です」
「行く」
かがりが朔夜を見た。
「立てるのか」
「立つ」
「倒れたら足手まといだ」
「倒れない」
「根拠は」
「陽鞠が痛がってる」
「それは根拠ではない」
「俺には根拠だ」
朔夜の黒い瞳は冷えていた。
だが、さっきのように半狂乱ではなかった。
怒りはある。
恐怖もある。
指輪越しに伝わる陽鞠の苦痛が、内側を焼いている。
それでも、霊力は一点へ絞られていた。
救うための形になっている。
かがりは数秒、朔夜を見た。
そして、短く言った。
「救護班、応急固定を戦闘移動用に切り替えろ」
「かがり先生!」
「完全許可ではない。私が同行する。綴喜、お前は単独で走るな。私の結界内で動け」
「わかった」
「嘘をついたら、その場で縛る」
「わかった」
朔夜は担架結界の上で、ゆっくり上体を起こした。
頭が割れるように痛む。
視界が揺れる。
吐き気が込み上げる。
それでも、倒れない。
左手の指輪が、また熱を持つ。
陽鞠の痛みが、かすかに伝わる。
そのたびに、朔夜の黒い瞳がさらに冷える。
しかし、背後に集まりかけた黒い影は、今度は膨らみきらなかった。
朔夜が押さえ込んでいる。
妖にひれ伏される何かではなく、陽鞠の隣へ戻る男として。
「俺は俺だ」
朔夜は低く呟いた。
かがりが聞いている。
透羽も聞いている。
救護班も。
だが、その言葉は自分へ向けたものだった。
「俺は、綴喜朔夜」
左手の指輪を握る。
熱い。
痛い。
けれど、その痛みは道になった。
「陽鞠を助けに行く」
透羽が端末を掲げた。
「案内する。地下封鎖区域、入口まで最短七分」
「五分で行く」
「頭打ってる人間が言う台詞じゃない」
「黙れ」
「黙らない。死ぬなよ」
「死なない」
朔夜は立ち上がった。
足元が揺れる。
かがりの結界が、すぐに支える。
それを屈辱と思う余裕はなかった。
支えでも何でも使う。
陽鞠を取り戻すためなら。
朔夜は医療棟の出口へ向かった。
銀髪は乱れ、血の跡はまだ残っている。
黒い瞳は冷え切っている。
左手薬指の指輪だけが、かすかに金色の熱を帯びていた。
その熱の向こうで、陽鞠がまだ折れていないことを、朔夜は知っていた。
だから、急ぐ。
必ず間に合う。
必ず助ける。
消えた音を、取り戻すために。




