第41話 護符の電流
水の結界が、ゆっくりと離れた。
完全に消えたわけではない。顔の周囲に薄い膜として残り、いつでも再び口と鼻を塞げる距離で揺れている。けれど、今は呼吸ができた。
陽鞠は、壊れた喉で息を吸った。
「っ、は……は、ぁ……!」
空気が肺へ入る。
それだけで痛かった。
喉の奥は、水に擦られ、叫びで裂け、焼けるように熱い。息を吸うたび、冷たい刃を飲み込んでいるようだった。肺も痛む。少し前まで水を吸い込みかけていたせいで、呼吸のたびに胸の奥がぎゅっと縮む。
それでも、空気がある。
空気があるだけで、まだ考えられる。
陽鞠は、黒い五芒星の中心に縛られたまま、荒く息を繰り返した。目の端から落ちた水が、こめかみを伝って石床へ落ちる。髪は濡れ、制服の襟も胸元も冷たい。身体は震えていた。寒さだけではない。恐怖と酸欠と怒りで、筋肉が勝手に細かく震えている。
それでも、右手薬指には、ほんのわずかな熱の記憶が残っていた。
朔夜の指輪が、熱を持った気がした。
錯覚かもしれない。
水の苦しさで意識が薄れ、都合のいい幻を見ただけかもしれない。
けれど、陽鞠はそれを掴んだ。
朔夜は生きている。
必ず来る。
だから、自分も戻る。
玻月は五芒星の外側に立っていた。
白手袋の指先に、水滴ひとつ付いていない。陽鞠を水の結界で追い詰めた男とは思えないほど、姿勢は乱れていなかった。紫紺の瞳は静かで、陽鞠の呼吸の乱れ、金眼の発光、指先の動きまで見逃さないように向けられている。
その目が、嫌だった。
苦しんでいる相手を見ているのに、そこに迷いがない。
陽鞠は掠れた声で言った。
「……見ないで」
喉が痛む。
声はひどく濁っていた。
玻月は答えず、袖の内側から何かを取り出した。
護符だった。
長方形の薄い札。
古い和紙のように見えるが、表面には黒い墨と銀色の細線が重ねて描かれている。中心には、小さな黒い五芒星。周囲には、雷紋に似た術式。だが、ただの雷撃符ではない。
陽鞠の背筋が冷えた。
あの護符は、攻撃用ではない。
流すためのものだ。
身体へ。
霊力へ。
結界術式へ。
玻月が護符を一枚、空中へ放った。
護符は落ちない。
陽鞠の頭上で止まり、白い糸のひとつへ吸い寄せられるように浮いた。続いて二枚目、三枚目、四枚目。五枚の護符が、黒い五芒星の各頂点と陽鞠の身体を結ぶように配置される。
胸の上。
右手首。
左手首。
右足首。
左足首。
拘束結界に重なる位置。
陽鞠は息を呑んだ。
「やめて」
声が小さかった。
でも、はっきり拒んだ。
「やめてください」
玻月は、手を止めなかった。
「君の結界は、痛みに対してどう反応する」
「やめろ!」
陽鞠は叫んだつもりだった。
しかし、壊れた喉から出た声は、かすれて割れた。儀式場の石壁にぶつかる前に、弱く崩れる。それでも、拒絶だった。
玻月はその拒絶を聞いた上で、白手袋の指先を下ろした。
護符が光った。
次の瞬間、電流が走った。
「――ッッッ!!」
声にならなかった。
身体が、石床から跳ねた。
手首と足首を縛る拘束結界があるから、実際には大きく動けない。けれど、筋肉が一斉に縮み、背骨が反り、肩が跳ね、顎が勝手に食いしばられた。胸の中で心臓が殴られたように跳ねる。指先から肘へ、足首から膝へ、背中から首へ、白く焼ける痛みが走った。
痛い、という言葉では足りなかった。
刃で切られる痛みではない。
殴られる痛みでもない。
身体の内側にある細い線を、全部同時に引き千切られるような痛み。筋肉が自分の意思と関係なく硬直し、息が詰まり、目の前が白く弾ける。
陽鞠の喉から、遅れて悲鳴が出た。
「ああああああああああああああっ!!」
年相応の、取り繕う余裕のない悲鳴だった。
強い退魔師の声ではない。
S級特待生の声でもない。
痛みに身体を奪われた、十八歳の少女の絶叫だった。
玻月は止めない。
二度目の電流が走る。
「ぎ、あああああああああああッ!!」
今度は声が壊れた。
喉が水で傷ついたまま叫んだせいで、途中から濁った。悲鳴が割れ、獣の咆哮のような音に変わる。自分の口から出ているとは思えない、低く濁った声。理性が形を保てず、痛みだけが喉を突き破って出ていく。
身体がまた跳ねた。
拘束結界がぎしりと鳴る。
背中が石床へ打ちつけられ、肩甲骨に鈍い衝撃が走った。濡れた髪が床に張りつき、頭が横へ揺れる。歯がぶつかり、舌を噛みかけた。唇の端が切れ、血の味がする。
電流は皮膚の表面だけを走らない。
霊力の経路へ入り込んでくる。
陽鞠の結界術が、勝手に乱れた。
普段なら、薄い膜を何層にも重ね、敵だけを弾き、味方を通す。細い線を読み、必要な場所だけを守る。それが陽鞠の結界だった。
だが、今は無理だった。
電流が走るたび、霊力の線が痙攣する。
金色の膜が、勝手に膨らむ。
白い光が混じりかける。
手首の拘束を弾こうとして、すぐ黒い五芒星に吸われる。
胸の前に結界が出かけ、電流に破れて散る。
指先へ集めようとした霊力が、肘で乱れ、肩で跳ね、喉の奥で白く焦げる。
結界術が、身体と一緒に痙攣している。
陽鞠は恐怖した。
痛みそのものよりも、自分の術が自分のものではなくなっていく感覚が怖かった。
自分の結界なのに。
自分の意思で守るための力なのに。
痛みに引きずられ、勝手に広がり、勝手に壊れ、白い光に近づいていく。
「や、め……っ」
掠れた声。
玻月は止めなかった。
三度目の電流。
陽鞠の身体が、さらに激しく跳ねた。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
悲鳴はもう整っていなかった。
喉が壊れる。
声帯が裂けそうに痛い。
それでも、叫びは止まらない。痛みが声を引きずり出す。人の言葉ではなく、喉を焼かれた獣の咆哮に近い音が、黒い五芒星の中心で反響した。
視界が白黒に明滅する。
身体の奥が勝手に収縮し、下腹部に嫌な痺れが走った。
陽鞠はそれに気づいた瞬間、血の気が引いた。
やめて。
いやだ。
そう思うより先に、次の電流が走った。
身体が制御を失った。
下着の中に、温かい感覚が広がった。
濡れた。
制服の下で、足の間に熱が広がり、すぐ地下の冷たさに奪われていく。
陽鞠の目が見開かれた。
恥ずかしさではなかった。
その余裕すらなかった。
恐怖だった。
身体が、自分の意思から引き剥がされていく恐怖。
痛みによって、筋肉も呼吸も声も、排泄の制御さえ奪われる。その事実が、陽鞠の心を叩いた。自分が壊されている。尊厳を削られている。人として扱われていない。
玻月の目は変わらない。
そこに笑みはなかった。
いやらしい視線もなかった。
だからこそ余計に冷たかった。
失禁すら、彼にとっては反応のひとつでしかない。
肉体が限界へ達した証。
魂を浮上させるための条件。
それだけ。
陽鞠は、涙が滲むのを感じた。
悔しい。
怖い。
痛い。
許せない。
それでも、玻月の見たいものにはなりたくない。
自分は、反応ではない。
実験体ではない。
器ではない。
「私は……」
声にならない。
喉が壊れている。
呼吸も乱れている。
それでも、陽鞠は舌を動かした。
「わた、し……」
言葉の途中で、電流がまた走る。
身体が跳ねる。
歯が鳴る。
金眼が白く光りかける。
胸の上の白い糸が近づく。
玻月が静かに言った。
「痛みへの反応で、金眼が開く。だが、君はまだ戻そうとする」
陽鞠は、玻月を睨もうとした。
だが、目の焦点が合わない。
水で濡れ、涙で滲み、痛みで視界が揺れている。それでも、紫紺の瞳だけは見えた。観察者の目。手を抜かない目。
玻月は、本当に手を抜いていなかった。
殺さないぎりぎり。
壊し切らないぎりぎり。
しかし、優しさではない。
壊れれば意味がないから、壊し切らないだけ。
陽鞠から魂を引き出すために、必要な限界を選んでいる。
その理解が、痛みの中で冷たく光った。
なら、読む。
やられるだけでは終わらない。
痛みが来るなら、その痛みがどこから来るか読む。
護符がどの順番で光るか。
電流がどの経路を通るか。
身体を跳ねさせるだけのものか、霊力の経路へ干渉するものか。
どの護符が命令を出し、どの護符が流れを戻し、どの護符が金眼へ圧をかけているのか。
陽鞠は、右手の指先に意識を集めた。
また指先。
水の時と同じ。
呼吸が奪われても、痛みで身体が跳ねても、指先だけは読むために残す。
護符の電流が次に来る前に、床の黒い線をなぞる。指先は震えている。電流の余韻で筋肉が勝手に痙攣し、爪が石床にかちかちと当たる。狙った場所へ触れるのも難しい。
それでも、触れた。
黒い五芒星の線のうち、右手首へ繋がる部分。
そこに護符の術式が重なっている。
護符は五枚。
しかし、同時に全部が電流を流しているわけではない。
胸元の護符が起点。
右手首と左足首が第一経路。
左手首と右足首が第二経路。
斜めに交差させている。
身体を物理的に跳ねさせるためではない。
霊力の中心を横切り、陽鞠の結界術式を乱すための経路。
痛みで悲鳴を引き出し、身体の制御を奪い、同時に金眼の奥へ白い糸を通しやすくしている。
陽鞠は息を荒くした。
読める。
読める。
痛みで頭が割れそうなのに、読める。
それが怖くもあった。
自分の術師としての目は、まだ死んでいない。
玻月が見ているのも、それなのかもしれない。
苦しめば苦しむほど、陽鞠の金眼と結界術は奥へ届く。
魂が浮上する。
そう判断されている。
なら、その判断を逆手に取る。
次の電流が来る。
護符が光った。
胸元。
右手首。
左足首。
陽鞠は来る方向を読んだ。
止められない。
避けられない。
痛みは来る。
だから、受ける経路を少しだけずらす。
右手首に残した金色の細い針を、護符の電流経路の端へ差し込む。正面から遮断すれば、黒い五芒星に吸われる。だから、遮断ではなく、揺らす。
電流が走った。
「ぎぃ、あああああああああッ!!」
陽鞠の身体が跳ねる。
痛みは消えない。
むしろ、全身を焼くように走った。背中が反り、指が硬直し、足首の拘束へ爪先が引っ張られる。喉から壊れた叫びが出る。
だが、右手首の経路だけ、ほんの一瞬遅れた。
電流が胸へ戻る時に、わずかなズレが生まれた。
陽鞠はそれを掴んだ。
痛みの中で。
意識が白く飛びかける中で。
右手の指先を動かし、遅れた経路へ金色の霊力を絡ませる。
護符の術式の一部が見えた。
雷紋の表層。
下に重ねられた黒い五芒星の補助線。
さらにその奥に、玻月の手による折り畳みの結び目。
結び目。
そこだ。
陽鞠は目を見開いた。
護符自体は古いものではない。
玻月が調整している。
儀式場全体を動かす大きな術式とは別に、護符だけは彼の手が濃い。なら、そこには癖がある。水の結界とは違う、もっと鋭い癖。
霊力を横へ逃がす時、必ず一度、斜め下へ折る。
朔夜の刀を指先で逸らした時と似た動き。
陽鞠の結界刃を頬にも触れさせなかった時と同じ考え方。
正面から受けない。
逸らす。
なら、陽鞠も逸らす。
痛みは止められなくても、次の流れを別の場所へ逸らす。
白い糸から遠ざける。
金眼を開かせる方向ではなく、拘束結界の外周へ流す。
陽鞠は、壊れた喉で息を吸った。
吸うだけで痛い。
それでも、考える。
玻月がまた護符を光らせる。
今度は、左手首と右足首。
第二経路。
陽鞠は、そこへ細い金色の膜を置いた。
膜と言えないほど薄い。
針よりも弱い。
けれど、角度だけは持っている。
電流が走った。
痛みが来る。
身体が跳ねる。
悲鳴が喉を裂く。
「ぐ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
涙が飛ぶ。
顎が震える。
身体の下の濡れた感覚が冷えて、さらに惨めな寒さを呼ぶ。
でも、陽鞠は逃げなかった。
読んだ角度へ、電流を少しだけ流す。
護符の術式が一瞬だけ乱れた。
左足首の拘束結界が、ちり、と鳴る。
ほんのわずかに緩んだ。
玻月が動いた。
白手袋の指先が護符へ向く。
補正される。
陽鞠は、その前に足の指を動かした。
左足の爪先。
ほんの少し。
拘束が緩んだ瞬間に、床の黒い線へ触れる。
足先は指ほど繊細ではない。
それでも、触れればわかる。
左足首側の護符から外周へ流れる戻り線。
そこに金色の霊力を、極小の棘のように残す。
玻月の補正が入る。
拘束が締まる。
足はまた動かなくなる。
だが、棘は残った。
陽鞠は荒い息の中で、唇を震わせた。
小さな一手。
大きな突破にはならない。
でも、残した。
水の時と同じ。
読んで、残す。
自分がただ壊されるだけではない証を、術式の中へ刺していく。
玻月は陽鞠を見た。
「痛みの中で、まだ読むか」
陽鞠は答えられない。
喉が痛い。
声が出ない。
それでも、金眼で睨んだ。
金色だった。
白く開きかけた光を、必死に金へ戻している目。
玻月の指先が止まらない。
手を抜くつもりはないのだろう。
次の護符が光る。
今度は五枚すべて。
陽鞠の血の気が引いた。
全経路。
全身。
結界術式全体を乱す電流。
逃げられない。
陽鞠は歯を食いしばった。
来る。
来る。
なら、読む。
最後まで。
電流が落ちた。
白い痛みが、陽鞠の身体を貫いた。
叫びは、もう人の言葉ではなかった。
喉が裂けるような絶叫と、獣の咆哮が混ざった音が、地下の儀式場を満たした。
身体が跳ねる。
拘束が軋む。
金眼が白く光りかける。
結界術が乱れ、金色の膜が勝手に広がりかける。
だが、その中で、陽鞠の指先が動いた。
震えながら。
血を滲ませながら。
爪の先で、護符の術式の折り目をなぞる。
読め。
覚えろ。
朔夜のところへ戻るために。
この男の術式を、必ず壊すために。
痛みの中で、陽鞠は泣きながらも金眼を開いた。
白ではなく、金で。
そして、喉が壊れた声にならない声で、歯の間から絞り出した。
「わた、しは……わたし、だ……」
声はかすれていた。
血と水と涙に濡れ、ほとんど崩れていた。
それでも、玻月には聞こえた。
陽鞠自身にも聞こえた。
黒い五芒星の中心で、護符の電流に身体を跳ねさせられながら、それでも彼女は術式を読んでいた。
壊されるためではない。
戻るために。
朔夜の指輪の音を、もう一度鳴らすために。




