第40話 水底の金眼
水の音が、頭の内側で鳴っていた。
ごぼ、と小さく泡が潰れる音。
耳元ではなく、喉の奥で聞こえる音だった。自分の呼吸が水に阻まれ、漏れた息が膜の内側で潰れている。声にならない。息にもならない。ただ、小さな泡だけが、陽鞠の頬を冷たく撫でて消えていく。
顔に張りついた水の結界は、まだ剥がれない。
頬。
唇。
鼻。
顎。
皮膚の輪郭をなぞるように密着し、逃げ道を一つずつ塞いでいる。先ほど、陽鞠は指輪の反応を真似た霊力の輪で、ほんの一筋だけ隙間を作った。そこから吸い込んだ空気は、肺に痛みを残して消えた。
今はもう、その隙間もない。
玻月が構造を組み替えた。
水の圧は、さらに細かくなっている。厚い水塊に沈められているのではなく、薄く透明な水膜が顔へ張りついているだけ。なのに、その薄さが残酷だった。目の前には空気がある。玻月の黒い長衣も、白手袋も、地下儀式場の石柱も見える。
空気はそこにある。
ほんの数寸先に。
けれど、届かない。
陽鞠の胸が、空気を求めて勝手に跳ねた。
喉が開こうとする。
彼女は歯を食いしばる。
吸うな。
吸ったら水が入る。
そうわかっていても、身体は生きようとする。肺が縮み、肋骨の奥が焼ける。水は冷たいのに、胸の内側は熱く痛む。頭の奥がじんじんと痺れ、視界の端から少しずつ黒が滲んできた。
意識が、遠のきかけている。
だめ。
陽鞠は右手の指先を石床へ押し当てた。
爪の先が割れそうに痛む。だが、その痛みが自分をここへ引き戻す。冷たい水。肺の痛み。喉の苦しさ。玻月の視線。それらに呑まれそうになるたび、指先の痛みに意識を繋いだ。
読む。
水ではなく、結界を見る。
この圧がどこから来ているのか。
どの線が顔へ張りつく水を保ち、どの線が陽鞠の霊力を吸い、どの線が白い糸へ繋がっているのか。
黒い五芒星の中心で、陽鞠は拘束されている。
手首と足首には、黒い霊力の輪。
胸元には、五本に増えた白い糸。
顔には水の結界。
そして床の下には、地下霊脈へ沈む黒い線がある。
全てが繋がっていた。
呼吸を奪うためだけではない。
苦しませるためだけでもない。
水で陽鞠の意識を揺らし、金眼を刺激し、魂の奥を浮かび上がらせるための結界。
水底へ沈めるのではなく、魂だけを水面へ浮かせようとしている。
陽鞠は、それを指先で理解した。
理解した瞬間、恐怖がさらに深くなる。
自分の中の何かが、ほんとうに引きずり出されかけている。
朔夜の声で戻っていた場所。
私は私だと叫んで閉じていた奥。
そこが、今、呼吸の苦しさで緩みかけている。
玻月の声が聞こえた。
「限界が近い」
陽鞠は睨もうとした。
しかし、水膜の中で視界が揺れる。
玻月の輪郭が二重に見えた。濡羽色の髪も、紫紺の瞳も、水越しに歪む。地下儀式場の白い光が水の膜に反射し、目の中でちらちらと割れた。
「呼吸が奪われると、肉体は抵抗する。だが、君の霊力は肉体より先に魂を守ろうとする」
黙れ。
そう言いたかった。
口を開けば水が入る。
叫びは水に潰れる。
それでも、喉の奥で音が震えた。
「……ん、」
声にならない。
水泡が生まれて消える。
玻月はそれを見ていた。
観察する目。
拒絶を拒絶として受け止めない目。
陽鞠が苦しんでいることを知った上で、その苦しみから何が引き出されるかを見ている目。
嫌悪が、意識の奥に火を灯した。
陽鞠は左手の指先を動かした。
先ほど見つけた、儀式場全体を回している中心の流れ。
そこへ届けば、構造を狂わせられるかもしれない。
だが、指が思うように動かない。
手首は拘束され、指先は冷え、痺れている。爪の先に集める霊力も、弱い。肺が空気を求める苦しさで、集中が削られていく。
それでも、止めない。
陽鞠は指先に、ごく細い金色の霊力を通した。
水の圧が強くなる。
玻月が気づいたのかもしれない。
顔に張りつく水膜が、唇の形へさらに深く入り込んだ。口を閉じているのに、隙間へ冷たい水が滲んでくる。歯の隙間を通り、舌の上に乗る。喉へ落ちそうになる。
陽鞠は必死に喉を締めた。
苦しい。
喉が裂けそうに苦しい。
胸の奥で肺が暴れている。
吸え。
吸え。
吸え。
身体が命令してくる。
だが、陽鞠は指先を見る。
いや、見ることすらできない。水で視界が歪んでいる。だから、感覚だけでたどる。
黒い五芒星の線。
その下に隠された白い空白。
その周囲を取り巻く玻月の折り畳み術式。
正面から壊すのは無理。
なら、詰まらせる。
吸わせる。
流れを一瞬だけ逆へ返す。
水の結界は、陽鞠の霊力を吸って圧を増す。なら、吸われる霊力の中に、戻ってくる形を混ぜる。
指輪の輪。
触れ合う音。
ちり、と鳴る、小さな響き。
今は切られている。
朔夜には届かない。
でも、陽鞠の中には残っている。
任務前、朔夜と交わした長いキス。
腰を支える手。
顎に触れる指。
続けるかと聞く声。
離れないという約束。
生きて待っててと叫んだ時の、朔夜の目。
全部、陽鞠の中にある。
玻月には奪えない。
陽鞠は、その記憶を霊力の輪にした。
細く、弱く、でも途切れない輪。
黒い線がそれを吸う。
水の圧が増す。
顔が潰されそうになる。
しかし、吸われた金色の輪は、黒い五芒星の流れの中でひっかかった。完全な詰まりではない。ほんの小さな抵抗。水底に沈められた小石のようなもの。
それだけでも、流れは乱れた。
水膜の表面が波打つ。
鼻の横に、針の穴ほどの隙間ができる。
陽鞠は必死に息を吸おうとした。
だが、間に合わなかった。
玻月の白手袋の指先が動く。
隙間が閉じる。
水が逆に流れ込み、陽鞠の鼻と口を塞いだ。
「――っ!」
今度こそ、水が喉へ入った。
少量。
けれど、身体は激しく拒絶した。
咳き込もうとする。
咳き込めない。
水膜が口元を塞ぎ、吐き出すための空間を与えない。喉の奥が焼けるように痛み、胸が痙攣する。肺へ冷たいものが落ちた感覚に、全身が震えた。
目の前が白く弾ける。
金眼が、熱を持った。
それは金ではなく、白に近かった。
陽鞠の瞳の奥で、白い輪が広がりかける。地下儀式場の五芒星がそれに反応し、床の黒い線が強く脈打った。胸の上に垂れた白い糸が震え、陽鞠の魂の奥へ近づく。
玻月の声が、静かに落ちた。
「浮上している」
陽鞠の意識は半分、水の底に沈みかけていた。
音が遠い。
身体が重い。
指先の感覚も薄れている。
だが、その言葉だけは聞こえた。
「君の魂が、浮上している」
違う。
陽鞠はそう思った。
違う。
浮上なんかじゃない。
勝手に引きずり出されているだけだ。
私が選んだんじゃない。
私が望んだんじゃない。
私は。
私は。
誰だ。
一瞬、その問いが脳裏を掠めた。
その瞬間、白い光がさらに強くなった。
金眼の奥で、知らない景色が開きかける。
白い場所。
遠い声。
誰かが名前ではない何かで呼んでいる。
篠宮陽鞠ではない呼び方で。
魂の奥に沈んでいた、知らない響きが浮かび上がろうとする。
陽鞠の背筋が凍った。
いや。
違う。
それは私じゃない。
たとえ私の奥にあったとしても、今の私を押し流していいものじゃない。
私は。
篠宮。
陽鞠。
朔夜が呼んだ名前。
自分で選び取ってきた名前。
白い光がさらに強くなる。
胸の上の白い糸が、金色の薄膜を貫こうとした。
水の膜が顔へ張りつき、呼吸を完全に奪う。
肺が悲鳴を上げる。
喉は焼け、胸は裂けそうで、意識はぷつりと切れかける。
それでも、陽鞠は指先を動かした。
最後の力で、右手薬指の指輪へ触れようとした。
拘束されていて、指輪そのものには届かない。
でも、指先を曲げる。
薬指を動かす。
冷たい指輪が、ほんの少しだけ皮膚に食い込む。
朔夜。
音は鳴らない。
反応もない。
でも、そこにある。
指輪はまだある。
朔夜との約束は、切られていない。
反応を切られただけ。
約束まで切られていない。
陽鞠は、喉の奥から声を引きずり出した。
水に塞がれている。
息がない。
普通なら声など出ない。
それでも、出した。
喉を壊すように。
水を押し割るように。
自分の名前を水底へ叩きつけるように。
「わ、たし、は……!」
声は潰れた。
水泡になり、膜の内側で弾ける。
喉が裂けるように痛い。
水がさらに入りかける。
それでも止めない。
「わたしは、わたしだぁぁぁっ!」
叫びは、きれいな声ではなかった。
喉が潰れ、濁り、水に千切られた声だった。悲鳴にも、咆哮にも近かった。水膜の中で泡が爆ぜ、口元から白い気泡が乱れた。肺が限界を超え、身体が大きく震える。
だが、声は出た。
出してしまった。
黒い五芒星の中心で、陽鞠の金眼が強く光る。
白くなりかけた光の奥に、金が戻った。
細く。
苦しげに。
でも、確かに。
陽鞠の金色だった。
水の膜が一瞬だけ裂けた。
完全には消えない。
だが、口元に空気が触れた。
陽鞠は激しく咳き込んだ。
水が喉から押し出される。身体が跳ね、拘束結界が食い込む。胸が痛い。喉が焼ける。息を吸うたび、肺の奥が刺すように痛む。
それでも、空気が入った。
陽鞠は涙と水で滲む視界の中、玻月を睨んだ。
「私は……篠宮、陽鞠……!」
声は壊れていた。
掠れ、濁り、喉の奥に血の味が混じっている。
それでも、言葉は消えなかった。
儀式場の黒い五芒星が、大きく揺れた。
白い糸が一瞬、陽鞠の胸から弾かれる。
玻月の紫紺の瞳に、初めて明確な変化が走った。
驚きではない。
喜びでもない。
確信に近い何か。
「金眼が戻したか」
陽鞠は咳き込みながら、睨む。
答えない。
答えるための喉が痛い。
玻月は、ゆっくりと白手袋の手を下ろした。
「だが、浮上はした」
水膜はまだ完全には消えていない。
顔の周囲を漂い、いつでも再び塞げる形を保っている。陽鞠は肩で荒く息をする。吸うたびに喉が痛み、肺が水を拒んで咳を誘う。
意識はまだ危うい。
視界も揺れている。
だが、切れなかった。
白い光に呑まれかけて、戻した。
私は私だと叫んで、金を取り戻した。
その瞬間。
遠く離れた医療棟で、朔夜の指輪が熱を持った。
朔夜は担架結界の中で、目を見開いた。
頭部には固定術式。銀髪にはまだ血の跡。救護班が処置を続け、かがりと透羽が解析映像を睨んでいた。医療棟の灯りは白く、薬草と清浄符の匂いが濃い。
朔夜は、眠っていなかった。
眠れるはずがなかった。
左手薬指の指輪を握りしめ、冷え切った沈黙を睨むように耐えていた。
その指輪が、突然、熱を帯びた。
強くはない。
かすかに。
消えかけた火が、灰の下で一瞬だけ赤くなるような熱。
それでも、朔夜には十分だった。
「……陽鞠」
掠れた声が落ちる。
透羽が振り向く。
「綴喜?」
朔夜は左手を持ち上げようとして、痛みに顔を歪めた。だが、指輪だけは見た。そこには、ほんのわずかな金色の光があった。
ちり、と。
本当に小さな音がした。
鳴った。
鳴った。
朔夜の黒い瞳が大きく開く。
冷え切っていた奥に、熱が戻る。
「陽鞠が、生きてる」
かがりの目が鋭くなる。
「指輪か」
「熱い」
朔夜の声が震えた。
怒りではない。
恐怖でもない。
その奥から、かろうじて希望がこぼれた声だった。
「陽鞠が、戻した」
透羽が端末へ飛びつく。
「座標反応、来た! 金色の霊波、一瞬だけ復帰!」
医療棟の空気が動く。
かがりが叫ぶ。
「更紗に回せ! 今の反応を固定しろ!」
「やってる!」
朔夜は、指輪を握りしめた。
熱はすぐに弱まっていく。
また切られそうになる。
だが、一瞬でも鳴った。
陽鞠が呼んだ。
声は聞こえない。
どんな状況かもわからない。
それでも、朔夜にはわかった。
陽鞠は戻ろうとしている。
白い何かに呑まれず、自分の名前を掴んでいる。
朔夜は、歯を食いしばった。
「待ってろ」
声は低かった。
でも、もうさっきのように壊れかけてはいなかった。
「絶対に行く」
その頃、地下の儀式場で、陽鞠は荒く息をしながら、水膜の向こうの玻月を睨んでいた。
喉は痛い。
肺も痛い。
意識はまだ揺れている。
でも、右手薬指の指輪に、ほんの一瞬だけ熱が戻った気がした。
錯覚かもしれない。
弱すぎて、次の瞬間には消えそうな熱。
それでも、陽鞠は唇を震わせた。
「……朔夜」
声は掠れていた。
水に潰され、喉を痛めた声。
でも、玻月へ向ける声とは違った。
そこに、帰る場所があった。
陽鞠は、もう一度だけ息を吸う。
痛い。
苦しい。
それでも、吸う。
そして、壊れた喉で言った。
「私は……私だ」
黒い五芒星の上で、水底の金眼は、まだ完全には沈まなかった。




