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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第39話 水の結界


 最初の水音は、ひどく静かだった。


 ぽたり、と。


 地下の儀式場のどこかで、水滴が落ちたのだと思った。古い石天井から染み出した地下水。閉じ込められた空間に似合う、湿った音。陽鞠はそう判断しかけた。


 けれど、違った。


 水音は頭上からではなく、胸の上から聞こえた。


 黒い五芒星の中心。陽鞠の胸元で止まっていた白い糸の先端。その光の周囲に、透明な膜が生まれていた。水面のように薄く、丸く、呼吸のたびにかすかに震えている。


 陽鞠は息を止めた。


 冷たい予感が、背骨を這い上がる。


「何を……」


 言葉の途中で、白い糸が水へ変わった。


 透明な水が、空中にふくらむ。


 落ちない。


 流れない。


 重力を無視して、陽鞠の胸の上に丸く広がり、ゆっくり顔の方へ伸びてくる。水の表面には、細い黒い線が浮いていた。黒い五芒星の一部。玻月の折り畳まれた結界術式。さらに奥に、白い光が混じっている。


 ただの水ではない。


 水の形をした結界。


 呼吸を奪うために作られた檻。


 陽鞠は反射的に首を動かそうとした。


 動かない。


 手首と足首を縛る黒い拘束結界が、ぎり、と締まった。肩の周囲にも、見えない輪がかかる。頭を左右へ振ることさえ、ほんの少ししか許されない。


 水が近づく。


 頬に触れた。


「っ……!」


 冷たい。


 想像していたより、ずっと冷たい。


 氷水のような温度ではない。もっと嫌な冷たさだった。皮膚の上だけを冷やすのではなく、触れた部分から体温を抜いていく。頬に張りつき、顎へ伝い、唇の端を濡らす。水なのに、流れ落ちない。薄い膜のように皮膚へ吸いついてくる。


 陽鞠は唇を固く閉じた。


 鼻で息をしようとする。


 次の瞬間、水の結界が鼻を覆った。


 呼吸が止まる。


 鼻孔に冷たい水が入りかけ、陽鞠は喉を硬くした。息を吸ってはいけない。吸えば入る。肺へ入る。そうわかっているのに、身体は空気を求める。


 玻月は、五芒星の外側に立っていた。


 白手袋の指先を、空中でほんの少し動かしている。顔に激しい感情はない。焦りも、怒りも、喜びもない。ただ、陽鞠の反応を静かに見ている。


 その視線が、何より気持ち悪かった。


「やめ……」


 言葉を出そうとして、口が開いた。


 その一瞬を待っていたように、水が唇の内側へ入り込んだ。


「んっ……!」


 陽鞠は喉を閉じる。


 水が舌を押さえ、口の中を満たそうとする。冷たさが歯の裏に触れ、喉の奥へ迫る。息を吐こうとすると、水が泡を作って逃げ場を塞ぐ。叫ぼうとした声は、水に潰れた。


 玻月の声が遠く聞こえる。


「暴れれば、さらに密着する」


 陽鞠は睨んだ。


 睨むことしかできなかった。


 口を開けば水が入る。


 鼻は塞がれている。


 水の結界は顔全体に薄く張りつき、目の下、頬、唇、顎へ膜のようにまとわりついている。厚い水塊に沈められているわけではない。だからこそ、なお悪かった。あと少しで空気に触れられる。目の前の空間には空気がある。なのに、水の膜が、そのわずかな距離を奪っている。


 呼吸できない。


 陽鞠の胸が、ひくりと跳ねた。


 身体が空気を求めて勝手に動こうとする。


 拘束が軋む。


 黒い線が手首に食い込むように締まり、霊力を吸い上げる。陽鞠は金色の結界を出そうとした。顔の水を弾くだけでいい。ほんの一瞬だけでも空気を。


 だが、水の膜に金色の霊力が触れた瞬間、白い光が混じった。


 金眼の奥が痛む。


 水の結界は、陽鞠の霊力を受けると膨らむ。正面から弾こうとすれば、その力を使ってさらに顔へ密着する構造だった。


 水が皮膚に張り付く。


 頬の輪郭に沿って、口元の形に沿って、鼻筋を押し潰すように。


 圧が強くなる。


 肺が、内側から絞られる。


 吸いたい。


 吸ってはいけない。


 でも、吸いたい。


 身体の本能が、陽鞠の意思を押し退けようとする。


 視界の端に、黒い点が散った。


 苦しい。


 苦しい。


 苦しい。


 喉が勝手に震え、閉じた唇の隙間から泡が漏れた。水の中で弾けた泡が、頬に冷たく触れる。声にならない悲鳴が、水の膜の中で潰れた。


 朔夜。


 名前が胸の奥で跳ねる。


 呼びたい。


 でも、声は出ない。


 指輪は鳴らない。


 右手薬指の指輪は冷え切ったまま、黒い拘束結界の中で動かない。朔夜へ届かない。熱も返らない。声も届かない。


 陽鞠の金眼が、熱を持った。


 恐怖で、怒りで、肺が空気を欲しがる痛みで、魂の奥がまた白く揺れかける。


 だめ。


 白くなるな。


 開くな。


 玻月は、それを待っている。


 この水は、ただ苦しめるためだけのものではない。陽鞠が呼吸を奪われ、朔夜を呼べず、指輪も鳴らず、極限まで追い詰められた時、金眼がどう反応するかを見ている。


 肺が焼ける。


 水は冷たいのに、胸の内側は熱い。


 吸えない時間が長くなるほど、身体の奥で熱が暴れる。心臓が強く打ち、耳の内側で鼓動が響いた。目の前の玻月の輪郭が歪む。黒い長衣が水越しに揺れ、紫紺の瞳だけが冷たく見える。


 陽鞠は、必死に右手の指先を動かした。


 拘束されていても、指先だけなら少し動く。


 ほんの少し。


 爪の先が、石床に触れた。


 冷たい石。


 黒い五芒星の線。


 濡れたようにぬめる霊力。


 陽鞠は、そこへ意識を集中した。


 呼吸ではなく。


 苦しさではなく。


 水の冷たさでもなく。


 指先。


 結界の構造。


 読む。


 読め。


 水の膜は、顔に密着している。だが、本体は胸元の白い糸から伸びている。手首の拘束結界と、床の黒い五芒星を経由し、水の圧を調整している。玻月の術式は外側。水を形にしている。黒い五芒星は力の循環。白い光は奥へ触れる針。


 なら、正面から弾いてはいけない。


 水そのものを押してはいけない。


 押せば、吸われる。


 密着する。


 では、どこを触る。


 指先が、黒い線の端をなぞる。


 爪が石に擦れ、痛みが走る。


 陽鞠はそれでも止めなかった。


 意識が遠くなる。


 肺が空気を求める。


 喉が勝手に動きそうになる。


 水を飲むな。


 耐えろ。


 読め。


 黒い五芒星の線は、完全な直線ではなかった。


 細かく折れている。


 玻月の結界術式に似た折り畳み。


 霊力を横へ流し、中心に戻し、また外周へ逃がす。その途中に、ごく小さな継ぎ目がある。水の膜を保つための供給線と、陽鞠の霊力を吸う線が重なる場所。


 そこなら。


 そこを詰まらせれば。


 ほんの一瞬、水の膜が緩むかもしれない。


 陽鞠は金色の霊力を出そうとした。


 だが、胸が限界だった。


 身体が勝手に息を吸おうとする。


 喉が開きかける。


 水が入る。


 陽鞠は歯を食いしばり、首の奥を締めた。苦しさに目が見開かれる。涙が滲んだ。水の膜の内側で涙と水が混じり、視界がさらにぼやける。


 いやだ。


 こんなところで、こんなふうに、玻月の見たい反応になんてなりたくない。


 私は私だ。


 叫びたい。


 けれど、声は水の中で潰れる。


 だから、指先で言う。


 陽鞠は爪の先に、ごく細い霊力を集めた。


 大きく出さない。


 弾かない。


 押さない。


 針より細く。


 髪の毛より細く。


 金色の霊力を、黒い線の継ぎ目へ差し込む。


 黒い五芒星が反応する。


 吸おうとする。


 陽鞠は、その霊力を途中でわざと折った。


 玻月の結界に似た折り方。


 水族館跡で見た、狭い結界。


 訓練林で見た銀糸の逃げ方。


 展望階で見た、指輪反応を切る白い刃。


 全部、見ていた。


 全部、嫌だった。


 だからこそ、覚えている。


 金色の針が、黒い線の継ぎ目に引っかかった。


 水の膜が、一瞬だけ震えた。


 圧がわずかに緩む。


 陽鞠は、その瞬間を逃さなかった。


 口を閉じたまま、鼻の横にできたわずかな隙間へ、ほんの少しだけ空気を吸い込む。


 水が一緒に入った。


 鼻の奥が焼けるように痛い。


 咳き込みたい。


 でも、咳をすれば水を飲む。


 陽鞠は喉を押さえつけるように耐えた。


 わずかな空気が肺へ入る。


 足りない。


 全然足りない。


 でも、意識が少し戻った。


 玻月が一歩近づいた。


「読んだか」


 陽鞠は、水の膜越しに睨む。


 返事はしない。


 できない。


 したくもない。


 玻月の白手袋の指先が動く。


 水の膜の構造が、変わった。


 さっき陽鞠が見つけた継ぎ目が、閉じられていく。別の経路へ水の圧が流れ、霊力を吸う線も組み替えられる。


 読まれた。


 陽鞠の抵抗を見て、玻月が調整した。


 腹立たしいほど早い。


 水の膜が再び密着する。


 鼻のわずかな隙間が消えた。


 今度の圧は、さらに細かい。


 皮膚の凹凸まで埋めるように、顔へ張りつく。頬骨の下、唇の端、鼻の脇。逃げ道を一つずつ潰すような圧だった。水なのに、重い布を押し当てられているようだった。


 陽鞠の胸が、また苦しさで跳ねる。


 水が口の中へ滲む。


 叫びが喉の奥で潰れる。


 朔夜。


 朔夜。


 朔夜。


 指輪は鳴らない。


 それでも、心の中で呼ぶ。


 朔夜は生きている。


 きっと怒っている。


 きっと指輪が鳴らないことに、壊れそうになっている。


 でも、生きている。


 なら、陽鞠も戻る。


 この水ごときで終われない。


 玻月のために、魂を開いてたまるか。


 陽鞠は、もう一度指先を動かした。


 今度は右手ではなく、左手の薬指側。


 黒い拘束結界に邪魔され、ほとんど動かない。だが、爪の先がわずかに床へ届く。石床ではなく、五芒星の中心に近い黒い線へ。


 そこには、先ほどとは違う冷たさがあった。


 水の結界へ繋がる線ではない。


 胸の白い糸へ繋がる線。


 魂を引き出すための針。


 触れた瞬間、金眼の奥が強く痛んだ。


 危ない。


 でも、そこに構造の本筋がある。


 水の結界は責めではなく、前段階。


 呼吸を奪い、意識を揺らし、金眼を反応させ、魂の防御を緩めるための圧。


 なら、水だけを破っても終わらない。


 本筋の白い糸を読まなければ、また別の結界が来る。


 陽鞠は苦しさで震えながら、左手の指先へ細い霊力を集めた。


 白い糸へ直接触れない。


 触れたら入られる。


 その周囲。


 黒い五芒星が白い糸を支えている接合部を探る。


 指先が痺れる。


 皮膚の感覚が薄い。


 肺が限界を訴えている。


 視界が狭くなる。


 玻月の姿が、黒い影のように見える。


 音が遠い。


 水音だけが近い。


 自分の心臓の音と、水の膜の中で潰れる小さな泡の音。


 それでも、指先を止めない。


 黒い線の下に、白い空白のような層があった。


 術式なのに、線ではない。


 命令の形をしていない。


 願いのようで、呪いのようで、穴のようなもの。


 そこへ触れた瞬間、陽鞠の頭の奥に、知らない景色が一瞬だけ閃いた。


 白い場所。


 誰かの声。


 遠くで、何かが呼んでいる。


 陽鞠は即座に指を引こうとした。


 だが、水の圧が増す。


 呼吸が完全に塞がれる。


 身体が、反射で大きく息を吸おうとした。


 水が喉の奥へ入った。


「――っ!」


 叫びも咳も、水に潰れた。


 喉が焼ける。


 肺が拒絶する。


 身体が跳ねる。


 拘束結界が食い込み、手首と足首がきしむ。胸が苦しさで裂けそうになる。水を吐き出したいのに、吐き出す場所がない。顔に張りついた水の膜が、口元を塞ぎ、泡だけが細かく弾ける。


 苦しい。


 怖い。


 死ぬ。


 その言葉が一瞬、頭を掠めた。


 陽鞠は目を見開いた。


 違う。


 死なない。


 戻る。


 朔夜のところへ戻る。


 指輪の音を取り戻す。


 任務前の長いキスも、朔夜の低い声も、手の熱も、全部覚えている。


 こんな水で、消されない。


 陽鞠は、残った力で右手の指先をもう一度黒い線へ刺した。


 今度は、継ぎ目を壊すのではない。


 水の結界の圧を、わざと一部受け入れる。


 ほんの少し。


 吸わせる。


 そして、吸われた金色の霊力の中へ、小さな輪を作った。


 朔夜との指輪の音を思い出す。


 ちり。


 もう鳴らない音。


 でも、形は覚えている。


 小さな輪。


 触れ合う音。


 戻る約束。


 陽鞠は、その形を霊力にした。


 水の結界が、それを吸った。


 次の瞬間、吸い込んだ場所で霊力の輪が引っかかった。


 流れが詰まる。


 水の膜がわずかに波打つ。


 玻月の目が動いた。


 陽鞠は残った力を振り絞り、金色の輪を内側から弾いた。


 水の膜の左側に、小さな裂け目ができた。


 空気。


 ほんの一筋。


 陽鞠は咳き込みながら、必死に息を吸った。


 水も一緒に入り、喉が焼ける。


 しかし、空気が入った。


 肺が、痛みながら広がる。


 身体が震える。


 咳き込みたい。


 でも、まだ水の膜は残っている。


 陽鞠は肩を震わせ、喉の奥でくぐもった音を漏らした。


 その音は、言葉にはならない。


 それでも、意志だけはあった。


 私は私だ。


 声にはならない。


 だから、目で言う。


 水越しに、玻月を睨む。


 玻月は静かに陽鞠を見ていた。


「指輪の反応を、結界内で再現したか」


 陽鞠は答えない。


 息をするので精一杯だった。


 だが、右手の指先はまだ動いている。


 水の結界の継ぎ目。


 白い糸の接合部。


 黒い五芒星の循環。


 全部、少しずつ読む。


 苦しくても。


 叫びが水に潰れても。


 肺が塞がる感覚に身体が震えても。


 皮膚に張り付く水の圧で、顔の形ごと奪われそうでも。


 指先だけは止めない。


 玻月が一歩、五芒星の内側へ近づきかけた。


 陽鞠の金眼が、濡れたまま光る。


 金色だった。


 白ではない。


 苦しみで白く開きかけた奥を、陽鞠は必死に金へ引き戻している。


 玻月が、足を止めた。


 陽鞠は震える指先で、黒い線の下にある小さな継ぎ目をもうひとつ見つけた。


 そこは水の結界ではない。


 拘束結界でもない。


 儀式場全体を回している中心の流れ。


 もしそこへ届けば。


 すぐには逃げられなくても、構造を狂わせられるかもしれない。


 陽鞠は肺の痛みに耐えながら、爪の先を石床へ押し当てた。


 血が滲む。


 痛みが、逆に意識を繋いだ。


 水の膜は、まだ顔に張りついている。


 呼吸は細い。


 苦しさは消えない。


 でも、陽鞠の目は折れていなかった。


 水に潰された叫びの代わりに、指先が黒い五芒星をなぞる。


 私は私だ。


 帰る。


 朔夜のところへ。


 その意思だけが、水の結界の中で、消えずに残っていた。


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