第38話 黒い五芒星の儀式場
最初に戻ってきたのは、冷たさだった。
背中が冷たい。
頬も冷たい。
指先は痺れ、喉の奥は乾いていた。身体の内側に、長い階段を落ちた後のような嫌な浮遊感が残っている。どこかへ引きずり込まれた。結界の中を折り畳まれ、白い光に呑まれ、朔夜の声が遠ざかった。
陽鞠は目を開けた。
暗い天井が見えた。
石造りの天井だった。古い地下施設のように、分厚い石材が何層にも組まれている。隙間には黒い苔のようなものが入り込み、ところどころから白い霊光が脈打っていた。灯りはない。けれど、床から漏れる不気味な光で、周囲はぼんやりと見える。
陽鞠は息を吸った。
肺に入った空気は冷たく、湿っていて、古い水と土と鉄の匂いがした。
身体を起こそうとした瞬間、手首が動かなかった。
「っ……!」
霊力の輪。
金属ではない。
陽鞠の手首と足首の周囲に、黒い線で編まれた拘束結界が絡んでいる。直接肌へ触れているわけではないのに、動こうとすると骨の内側を押さえられるような痛みが走った。
腹の底から嫌悪が込み上げる。
まただ。
また、勝手に。
陽鞠は歯を食いしばり、手首へ霊力を集めた。
しかし、金色の霊力が輪郭を作る前に、拘束結界の黒い線が脈打った。黒い五芒星の印が手首の近くに浮かび、陽鞠の霊力を横へ流す。正面から押し返すと、力が結界の奥へ吸われてしまう。
玻月の折り畳み方に似ている。
だが、それだけではない。
奥に白い光が混じっている。
触れた瞬間、金眼の奥がちり、と熱くなった。
陽鞠はすぐに霊力を引いた。
息を整える。
焦るな。
まず状況を見ろ。
自分に言い聞かせ、ゆっくり視線を下へ向けた。
そこで、呼吸が止まりかけた。
自分は、黒い五芒星の上に横たえられていた。
床一面に刻まれた巨大な印。
黒い線は石床に彫られているのではなく、染み込んでいる。血ではない。墨でもない。妖核の奥で見た黒い五芒星と同じ、霊力そのものを腐らせたような色。五つの角は円形の儀式場の端まで伸び、各頂点には古い柱が立っていた。
柱には、無数の霊符が貼られている。
退魔協会の現代式ではない。
もっと古い。
文字は読めない。けれど、ところどころ黒く焼け、貼られているというより封じ込めるために押し潰されているようだった。柱の下には割れた石器、錆びた鎖、硝子片のような透明な欠片が散らばっている。
中央。
黒い五芒星の中心に、陽鞠がいる。
見上げる天井からは、細い白い糸のような光が垂れていた。その先端は陽鞠の胸の上で止まっている。触れてはいない。けれど、陽鞠が息を吸うたび、その白い糸はわずかに震えた。
魂の奥へ、降りてこようとしている。
そう直感した。
陽鞠は右手を動かそうとした。
指輪。
右手薬指の指輪は、まだある。
しかし、冷たい。
氷のように。
触れ合う相手がいないからではない。
反応そのものが断たれている。
朔夜の指輪へ繋がる熱が、どこにもない。
「朔夜……」
声が掠れた。
返事はない。
当たり前だ。
ここに朔夜はいない。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
「朔夜」
指輪は鳴らない。
陽鞠は唇を噛んだ。
最後に見た朔夜の姿が、頭から離れない。
血に濡れた銀髪。
青白い顔。
救護班とかがりに押さえられながら、こちらへ手を伸ばす黒い瞳。
半狂乱になりかけて、それでも陽鞠の「生きて」という言葉で踏みとどまってくれた。
生きて。
待ってて。
絶対戻るから。
言った。
言ったのだから、戻らなければならない。
こんな黒い印の上で、勝手に何かを引き出されている場合ではない。
陽鞠はもう一度、拘束結界を読もうとした。
手首の黒線。
足首の黒線。
胸の上に垂れる白い糸。
五芒星の外周。
柱。
床の下へ伸びる霊脈。
どれも繋がっている。
ただ陽鞠を縛るための結界ではない。
儀式場そのものが、陽鞠の中へ手を伸ばす形になっている。
黒い五芒星は器。
白い光は針。
玻月の術式に似た黒い層は、その二つを制御するための枠。
そして、その奥に、解析室で見た白い空白のようなものがある。
名前のない術式。
それが、この場全体に沈んでいる。
陽鞠の背筋に冷たいものが走った。
ここは、ただの地下施設ではない。
黒い印の奥へ繋がる場所。
儀式場だ。
「目覚めたか」
声がした。
低く、静かで、腹立たしいほど落ち着いた声。
陽鞠は顔だけを横へ向けた。
黒い長衣の男が、五芒星の外側に立っていた。
御影堂玻月。
白手袋は、やはり汚れていない。濡羽色の髪は低く結ばれ、紫紺の瞳は地下の白い光を受けて暗く光っている。彼の背後には、古い石段があった。上へ続く階段ではなく、さらに下へ降りるための階段に見える。
陽鞠は睨んだ。
「最低」
最初に出た言葉が、それだった。
玻月は、ほんのわずかに目を細めた。
「そうだな」
「認めれば済むと思ってるんですか」
「済むとは思っていない」
「なら、何でこんなことをするの」
「必要だから」
「あなたの必要なんて知りません」
声を出すたび、喉が痛んだ。
だが、陽鞠は視線を逸らさなかった。
寝転がされた状態。
手足を縛られた状態。
不利だ。
圧倒的に。
それでも、目だけは逸らしたくない。
玻月は、五芒星の線を踏まない位置に立っている。まるで、そこから先が特別な領域だと知っているように。白手袋の指先が、空中の霊力線を軽くなぞった。
陽鞠の手首の拘束が、わずかに締まる。
「っ……」
「暴れない方がいい」
「黙って」
「力を入れれば、五芒星が君の霊力を吸う。金眼にも負担がかかる」
「親切みたいに言わないで」
「事実だ」
「事実を言えば許されると思うなって、結衣子ちゃんにも言われませんでした?」
玻月の表情が、わずかに止まった。
陽鞠はその反応を見逃さなかった。
ほんの一瞬。
結衣子の名前に、彼は反応した。
だが、すぐに消える。
「彼女は関係ない」
「本当に?」
「関係ない」
「あなたがそう言う時ほど、関係ありそう」
玻月は答えなかった。
陽鞠は唇を引き結ぶ。
結衣子。
泪を見た時、一瞬凍った表情。
赤いリボン。
玻月の過剰な沈黙。
まだわからないことばかりだ。
けれど、今はそこを突いている余裕はない。
まず、逃げる。
朔夜のところへ戻る。
そのために、目の前の男から情報を引き出す。
「朔夜は」
陽鞠は低く聞いた。
「生きていますよね」
玻月は、少しだけ間を置いた。
「生きている」
陽鞠の胸が、痛いほど鳴った。
全身の力が抜けそうになる。
でも、抜かない。
玻月の言葉をそのまま信じるわけにはいかない。
「頭の傷は」
「重いが、すぐ死ぬ傷ではない」
「あなたが言うと安心できません」
「それでも、事実だ」
「朔夜に何かしたら、絶対に許さない」
「もうしている」
陽鞠の怒りが跳ねた。
手首の拘束が軋む。
金色の霊力が一瞬走り、黒い線に吸われる。
金眼の奥が痛んだ。
玻月は静かに見ていた。
「怒りで動くな」
「あなたに言われたくない」
「君の霊力は、今この場と繋がっている。大きく揺れれば、奥が開く」
「開かない」
「君が決められる範囲を越えた場所がある」
「勝手に決めないで!」
陽鞠の声が儀式場に響いた。
柱に貼られた古い霊符が、かさ、と震える。
黒い五芒星が、薄く脈打った。
胸の上の白い糸が、少しだけ近づく。
陽鞠は息を呑み、必死に霊力を抑えた。
玻月が見ている。
観察している。
こちらの怒りも、恐怖も、抵抗も、全部。
それがわかるだけで、吐き気がする。
「見るな」
陽鞠は低く言った。
「私を測るな。私の中を覗こうとするな」
玻月は否定しない。
それが、何より腹立たしかった。
「君の中の魂を引き出す」
静かに、玻月は告げた。
儀式場の空気が、さらに冷える。
陽鞠の耳が、一瞬、言葉を拒んだ。
魂を引き出す。
自分の内側。
名前より深い場所。
記憶より奥。
朔夜の声で戻ってきた場所。
それを、引き出す。
許可もなく。
陽鞠という人間を、器か扉のように扱って。
彼女の奥へ手を入れ、取り出すと。
陽鞠は、ゆっくり息を吸った。
恐怖はある。
どうしようもなくある。
でも、それより先に嫌悪が立った。
そして、怒りが燃えた。
「誰の魂を」
陽鞠は聞いた。
玻月は答えない。
「私の中にあるもの、とか、魂、とか、そういう言い方ばっかり」
陽鞠は玻月を睨む。
「私は、篠宮陽鞠です」
黒い五芒星が、脈打つ。
白い糸が、陽鞠の胸元で震える。
彼女はそれを見ず、玻月だけを睨んだ。
「私の中に何があろうと、それを勝手に引き出していい理由にはならない」
玻月の紫紺の瞳が細くなる。
「それが君自身を壊すとしても?」
「あなたに壊されるよりましです」
「君は知らない」
「知らなくても決められることはある」
「何を」
「あなたには渡さない」
陽鞠ははっきり言った。
「私の魂も、金眼も、結界も、朔夜への気持ちも、全部。あなたには渡さない」
玻月は黙っていた。
地下の空気が重い。
五芒星の黒い線が、ゆっくり脈打っている。まるで、陽鞠の言葉を聞いているように。
玻月は、静かに一歩近づいた。
五芒星の外周ぎりぎり。
そこより内側にはまだ入らない。
「綴喜朔夜は、君を介して戻る」
陽鞠の眉が動く。
「君は、彼を介して開く」
「開かないって言ってる」
「すでに開きかけた」
「戻した」
「だから、もう一度開く」
陽鞠は奥歯を噛んだ。
あの展望階で、確かに暴走しかけた。
朔夜の血を見て、金眼が光り、精密結界が勝手に白く広がった。救護班まで弾きかけた。玻月はそれを待っていた。狙いの中心が陽鞠だと示した。
そして今、彼はその続きをしようとしている。
朔夜を傷つけたことで開きかけた奥を、今度はこの儀式場で引き出そうとしている。
「最低」
陽鞠はもう一度言った。
玻月は何も返さない。
「朔夜を傷つけて、私を怒らせて、金眼を暴走させて、それで足りないから攫って、今度は魂を引き出す?」
声が震える。
「どこまで人を物扱いすれば気が済むんですか」
「物ではない」
「物扱いしてる!」
陽鞠の叫びに、拘束結界がまた締まった。
痛みが走る。
それでも、陽鞠は黙らなかった。
「私が嫌だって言ってるのが聞こえないんですか!」
「聞こえている」
「ならやめて!」
「やめられない」
「だから最低だって言ってるの!」
金眼が熱を持つ。
陽鞠はすぐに自分の名前を掴む。
篠宮陽鞠。
篠宮陽鞠。
私は私だ。
白い糸が胸元で揺れる。
奥へ入ろうとしてくる。
陽鞠は歯を食いしばり、睨み上げた。
「私は私だ」
声は掠れていた。
でも、はっきりしていた。
「神の子じゃない。扉じゃない。器じゃない。あなたの欲しいものじゃない」
玻月の表情が、わずかに変わる。
陽鞠は続けた。
「私は、篠宮陽鞠だ」
黒い五芒星が、強く脈打った。
白い糸が、一瞬だけ弾かれる。
陽鞠の金色の霊力が、胸元から薄く広がった。拘束結界までは壊せない。けれど、白い糸の侵入を拒む膜が生まれる。
玻月の目に、興味が宿る。
その視線が嫌だった。
陽鞠は睨んだまま言う。
「見るな」
「君は、拒絶するほど奥が光る」
「褒めるな」
「褒めてはいない」
「じゃあ何」
「確認している」
「それが嫌だって言ってるんです!」
陽鞠は必死に手首を動かした。
拘束結界が軋む。
黒い線が霊力を吸う。
金眼が焼けるように痛い。
だが、陽鞠は霊力を細く絞った。広げない。爆ぜさせない。吸われるなら、吸われる前に形を変える。黒い線を正面から押すのではなく、隙間を探す。
玻月が教えたようなやり方ではない。
あの男に教わったのではない。
自分で見て、自分で盗んで、自分の拒絶の形に変える。
右手首の拘束に、金色の細い針を一本通す。
黒い線が反応する。
吸おうとする。
陽鞠は針を途中で三つに割った。
一本は吸わせる。
一本は逃がす。
一本は結界の継ぎ目へ刺す。
手首の拘束が、ほんの少し緩んだ。
玻月の目が細くなる。
「今ので読むか」
「黙ってて」
陽鞠は息を荒くしながら、さらに霊力を絞る。
いける。
完全に壊すのは無理でも、片手だけなら動かせるかもしれない。
だが、次の瞬間、五芒星の柱がひとつ光った。
古い霊符が黒く燃え、床の線が脈打つ。
陽鞠の右手首の拘束が、再び締まった。
「っ……!」
痛みが走る。
玻月が白手袋の指先を下げていた。
柱へ繋がる霊力線を動かしたのだ。
「いい抵抗だ」
「やめろって言ってるでしょ!」
「だから、慎重に封じる」
「封じるな!」
陽鞠は肩で息をする。
悔しい。
あと少しだった。
ほんの少し動きそうだった。
でも、玻月は見ている。
読んでいる。
陽鞠の抵抗を、また材料にしている。
儀式場の床が、低く鳴った。
黒い五芒星の五つの角から、白い光が立ち上る。細い柱のような光。天井まで伸び、そこから糸のように中央へ垂れてくる。
陽鞠の胸の上にあった一本の白い糸が、五本に増えた。
全てが、彼女の魂へ向かっている。
陽鞠は息を呑む。
玻月が静かに言う。
「始める」
「嫌だ」
「すぐには引き出さない。君が壊れれば意味がない」
「優しさみたいに言わないで」
「段階を踏む」
「嫌だって言ってる!」
陽鞠の声が震える。
恐怖で。
怒りで。
それでも、目は逸らさない。
「私は、同意してない」
玻月は少し黙った。
「そうだな」
「だったらやめて」
「できない」
「あなた、本当に最低」
「知っている」
会話が噛み合わない。
あまりにも噛み合わない。
相手は、陽鞠の嫌悪を理解している。
理解した上で止めない。
それが一番怖かった。
陽鞠の奥で、金眼が熱を持つ。
白い糸が胸元へ近づく。
触れたら、何かが引き出される。
自分ではない何か。
でも、自分の奥にある何か。
陽鞠は目を閉じかけ、すぐに開いた。
閉じるな。
眠るな。
流されるな。
朔夜は生きている。
血を流している。
きっと、指輪の反応が消えて苦しんでいる。
それでも、生きて待っているはずだ。
陽鞠が言ったから。
生きて待ってて、と。
なら、陽鞠も戻る。
「朔夜」
小さく呼んだ。
指輪は鳴らない。
熱もない。
でも、呼ぶ。
「朔夜、私は戻る」
玻月が見ている。
白い糸が震える。
陽鞠はそれを睨み返すように、さらに強く言った。
「私は私だ」
白い糸の先端が、金色の薄膜に触れた。
痛みが走る。
胸の奥を針で引っかかれるような痛み。
陽鞠は悲鳴を噛み殺した。
唇に血の味が滲む。
それでも、言葉を繰り返す。
「私は、私だ」
玻月の紫紺の瞳が、白い光の中で静かに揺れた。
儀式場の黒い五芒星が、ゆっくりと回り始めるように脈打つ。
魂を引き出すための儀式が、始まろうとしていた。
陽鞠は、拘束されたまま、金眼を燃やして玻月を睨んだ。
「私は、篠宮陽鞠だ」
その声だけは、黒い五芒星の中心で折れなかった。




