第37話 消えたゆびわ
指輪が、鳴らない。
その事実だけが、朔夜の世界から音を奪っていた。
救護結界の灯りが目の前で揺れている。誰かが名前を呼んでいる。かがりの声。透羽の声。救護班の短い指示。A級退魔師たちが残滓を封じるために霊符を走らせる音。展望階の割れたガラスが風でかすかに鳴る音。
全部、聞こえているはずだった。
けれど、遠い。
水の底から聞いているみたいだった。
朔夜の耳には、鳴らない指輪の沈黙だけが響いていた。
左手薬指。
そこに、指輪はある。
あるのに、何も返ってこない。
さっきまで、陽鞠の指輪と触れるたびに鳴っていた。ちり、と小さく、馬鹿みたいに頼りない音。けれど、あの音があれば、陽鞠がそこにいるとわかった。手を伸ばせば触れられる。名前を呼べば返事がある。金眼が白く揺れても、陽鞠は戻ってくる。
その音が消えた。
熱もない。
何もない。
指輪は、ただの冷たい金属になっていた。
「……陽鞠」
声が喉から漏れた。
掠れていた。
自分の声ではないみたいだった。
返事はない。
指輪も鳴らない。
陽鞠の声もない。
生きて待ってて。
最後に聞こえた言葉だけが、頭蓋の内側へこびりついている。
待てるはずがない。
生きていろと言われた。
待っていろとは言われていない。
だから行く。
そう思った瞬間、身体が動こうとした。
だが、頭が割れるように痛んだ。
視界が白く弾ける。
起き上がろうとしただけで、後頭部から首筋へ鋭い痛みが走り、胃の底がひっくり返りそうになった。救護結界が軋み、頭部固定の術式が警告音を立てる。
「綴喜、動くな!」
かがりの声が飛んだ。
朔夜は無視した。
身体を起こそうとする。
誰かが肩を押さえる。
救護班か。
A級退魔師か。
どうでもいい。
陽鞠がいない。
それ以外のことに意味がない。
「離せ」
低い声が出た。
冷え切った声。
普段の余裕も、皮肉も、眠そうな怠さも、全部剥がれ落ちていた。残っているのは、黒く冷えた怒りだけだった。
「離せ」
「綴喜さん、頭部を強打しています。今動けば」
「離せ」
同じ言葉しか出ない。
他の言葉を選ぶ余裕がなかった。
銀髪が顔へ落ちている。
血で濡れた髪が頬に張りつき、視界の端を赤く染めていた。頭の傷からまだ熱いものが滲んでいるのがわかる。けれど、それさえ遠い。痛みはある。吐き気もある。視界も揺れる。
それでも、陽鞠がいないことの方が痛い。
「陽鞠を返せ」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
消えた玻月へ。
黒い印へ。
白い光へ。
自分を押さえている全員へ。
左手を強く握る。
指輪が掌へ食い込む。
冷たい。
冷たい。
冷たい。
怒りで霊力が爆ぜた。
黒銀の霊力が、担架結界の内側で渦を巻く。救護班の清浄灯が揺れ、床に残っていた黒い残滓が震えた。焼き払われたはずの妖気が、細い煙のように立ち上がる。
その霧が、朔夜へ集まってきた。
床の隙間から。
割れたガラスの影から。
霊符で焼け焦げた黒い五芒星の跡から。
小さな妖の残骸が、這うように集まってくる。
顔のない影。
腕だけの影。
獣の頭だけを残した黒い塊。
それらが朔夜の霊力に引かれ、担架結界の周囲へ寄ってきた。
そして、ひれ伏すように身を低くした。
朔夜の喉が、ひゅ、と鳴った。
まただ。
また、こいつらは。
朔夜の内側で、何かが軋んだ。
従え。
命じろ。
集めろ。
声ではない。
言葉でもない。
ただ、魂の奥から湧き上がる圧のようなものが、黒い残骸へ向かって伸びようとする。
自分のものではない。
そう言いたい。
そう言い切りたい。
だが、その圧は自分の内側から来ている。
背後に、また黒い影が立ち上がる気配があった。
妖たちがひれ伏す中心にいるもの。
頭領の影。
見えないはずなのに、見える。
自分の背後にいる。
自分の中から立ち上がっている。
朔夜は奥歯を噛みしめた。
血の味がした。
「違う」
低く呟く。
黒い残骸が震える。
ひれ伏したまま、朔夜の声を待っている。
「違う」
もう一度。
今度は、はっきり。
「俺は、俺だ」
指輪は鳴らない。
陽鞠の声もない。
それでも、言うしかなかった。
陽鞠が何度も言ってくれた。
今の朔夜は朔夜。
私の隣にいる男。
妖が膝をついても、朔夜は朔夜。
今、陽鞠はいない。
だから、自分で言う。
「俺は俺だ」
黒銀の霊力が、一瞬だけ引き締まった。
ひれ伏していた残骸の一部が、びくりと跳ねる。
命令を拒まれたように。
朔夜は息を荒くしたまま、冷たい指輪を握り続けた。
「俺は、綴喜朔夜」
声が掠れる。
頭が痛い。
吐き気がする。
視界の端が黒く揺れる。
それでも言葉を止めない。
「陽鞠の隣にいる男だ」
その言葉に、自分自身がしがみつく。
陽鞠がいない。
指輪が鳴らない。
それでも、隣に戻る。
戻らなければならない。
背後の影が揺れる。
妖の残骸がひれ伏したまま、黒い五芒星の欠片を明滅させる。まるで、朔夜の言葉を否定するように。お前は違う。お前はもっと別のものだ。群れの前に立つものだ。そう囁くように。
朔夜は歯を食いしばる。
「黙れ」
黒い残骸が震えた。
「俺に従うな」
霊力が刃のように冷える。
「俺を見るな」
担架結界の内側から、黒銀の霊力が細く伸びた。
命令ではない。
支配でもない。
拒絶。
朔夜は手を伸ばせない。刀も握れない。頭を固定され、動けば傷が悪化する。だから、霊力だけを細く研いだ。
ひれ伏す残骸へ向けて。
「俺は、お前らの頭領じゃない」
黒銀の霊力が走る。
妖の残骸が裂けた。
一つ、二つ、三つ。
ひれ伏していた影が、声もなく砕ける。黒い五芒星の欠片が火花のように散り、かがりの結界がそれをすぐに封じた。
かがりが低く言う。
「戻っているな」
「……戻ってる」
朔夜は答えた。
自分に言い聞かせるように。
「戻ってる。だから離せ」
「それとこれとは別だ」
「陽鞠を助けに行く」
「今のお前は歩くな」
「歩ける」
「立ち上がった瞬間に倒れる」
「倒れても這う」
「這っている間に篠宮が遠ざかる」
その言葉に、朔夜の喉が詰まった。
かがりは、そこを逃がさなかった。
「動くな。動かずに追う方法を選べ」
「……」
「怒りで身体を起こすな。頭を使え」
「頭を打ったんだが」
「皮肉が出るならまだ生きてるな」
朔夜は笑わなかった。
笑えるはずがなかった。
それでも、かがりの声は届いた。
動かずに追う方法。
座標。
残滓。
指輪反応の切断痕。
透羽が拾っていると言っていた。
更紗が解析する。
かがりが指揮を取る。
朔夜が暴れれば、霊力が乱れる。
座標が消える。
陽鞠の居場所が遠ざかる。
その事実が、朔夜の怒りを無理やり押し潰した。
胸の中で暴れるものは消えない。
今すぐ立て。
走れ。
斬れ。
玻月を殺せ。
陽鞠を取り返せ。
その衝動が全身を内側から掻きむしる。
それでも、身体を起こさない。
指輪を握る。
冷たい。
鳴らない。
その沈黙が、また恐怖を呼ぶ。
陽鞠が遠い。
反応がない。
どこにいるかわからない。
傷つけられているかもしれない。
また狭い結界に押し込められているかもしれない。
金眼を見られている。
魂を見られている。
触るな。
見るな。
欲しがるな。
朔夜の呼吸が荒くなる。
救護班がすぐに声をかけた。
「綴喜さん、呼吸を合わせて。意識を保って」
「陽鞠は」
「追跡中です」
「どこだ」
「透羽さんが座標を絞っています」
「遅い」
「焦れば乱れます」
「わかってる」
わかっている。
わかっているのに、全身が理解を拒んでいる。
陽鞠がいない。
それだけで、朔夜の中の何かが壊れようとしていた。
普段なら、どれだけ怒っても一枚残っている余裕があった。皮肉を言う余白。相手の動きを見る冷静さ。陽鞠が無茶をした時に、呆れながら手を伸ばす余裕。
今はない。
余裕なんて、どこにもない。
銀髪は乱れ、血で頬に張りついている。黒い瞳は冷え切り、視界のすべてから色が消えていた。世界は、陽鞠がいるかいないかの二種類に分かれている。
そして今、陽鞠はいない。
なら、この世界には価値がない。
そう思いかけて、朔夜は歯を食いしばった。
「違う」
自分で言う。
「陽鞠が戻る場所を、なくすな」
かがりが黙ってこちらを見た。
朔夜は目を閉じそうになり、無理やり開いた。
陽鞠は言った。
生きて待ってて。
待つのは無理だ。
だが、生きる。
陽鞠が戻る場所を残す。
それが、今ここで朔夜ができる唯一のことだった。
指輪を握る。
鳴らない。
冷たい。
それでも、外さない。
「……陽鞠」
声が落ちる。
返事はない。
だが、呼ぶ。
「陽鞠」
何度でも呼ぶ。
届かなくても。
自分が壊れないために。
陽鞠が戻る場所を覚えているために。
「綴喜」
透羽の声が近づいた。
走ってきたのか、息が荒い。端末を両手で持ち、画面には複雑な霊波の線が表示されている。
「座標残滓、完全ではないけど掴んだ」
朔夜の目が、透羽へ向いた。
「どこだ」
「確定じゃない。だが、市内の地下霊脈に繋がってる。古い封鎖区域の方向だ」
古い封鎖区域。
解析室で聞いた場所。
黒い印の奥にある不明な術式が向かっているかもしれない場所。
玻月は、そこへ陽鞠を連れていったのか。
朔夜の霊力がまた荒れかける。
かがりが即座に結界を締めた。
「乱すな」
「……わかってる」
「お前が動ける状態になるまで、こちらで追跡を繋ぐ」
「俺も見る」
「今は治療が先だ」
「俺も見る」
朔夜の声は、冷えていた。
かがりは一瞬黙る。
「意識を保てるなら、医療棟で解析映像を見せる」
「今」
「移送後だ」
「今」
「綴喜」
「見せろ」
朔夜の黒い瞳が、透羽を射抜く。
透羽は顔をしかめた。
「見せたら霊力が跳ねる」
「抑える」
「信用できない」
「抑える」
「……本当に?」
「陽鞠の場所が遠ざかるなら、抑える」
その言葉に、透羽は押し黙った。
かがりが短く息を吐く。
「十秒だけだ。霊力が乱れたら即座に切る」
「いい」
透羽が端末を朔夜の視界に入る位置へ持ってくる。
画面には、黒い線と白い光の軌跡が重なっていた。展望階から伸びる歪んだ霊波。途中で何度も折れ、地下へ潜り、古い霊脈の流れへ沈んでいる。
その中に、金色のごく細い残滓があった。
陽鞠の霊力。
薄い。
途切れそうなほど細い。
でも、残っている。
朔夜の呼吸が止まった。
「……陽鞠」
生きている。
少なくとも、霊力痕はある。
完全に消えてはいない。
指輪は鳴らない。
反応は切られた。
でも、陽鞠の金色は、まだそこにある。
朔夜は目を閉じそうになるのを堪えた。
泣くような感覚が胸の奥を裂いた。
涙は出ない。
出す余裕もない。
ただ、冷え切っていた体の奥に、ほんのわずかに熱が戻った。
「追えるな」
朔夜が言う。
透羽は頷いた。
「追える可能性がある」
「可能性じゃない」
「今はそう言うしかない」
「追える」
朔夜は言い切った。
透羽は何か言いかけ、やめた。
かがりが静かに言う。
「追う。そのために、お前は倒れるな」
「倒れない」
「強がりだけでは動けない」
「知ってる」
「なら治療を受けろ」
「……受ける」
その言葉を口にするのに、全身を切り裂かれるような抵抗があった。
でも、言った。
陽鞠を助けるために。
生きて待つために。
戻る場所をなくさないために。
救護班が担架結界を動かし始める。
視界が揺れる。
頭が痛む。
吐き気がまた込み上げる。
それでも、朔夜は左手を握り続けた。
冷たい指輪。
消えた反応。
鳴らない音。
その沈黙を、忘れないために。
担架結界が展望階を離れる。
かがりが横につく。
透羽が端末を操作しながら並走する。
A級退魔師たちは残滓封鎖へ戻る。
床にひれ伏していた妖の残骸は、かがりの結界の中で焼かれていく。黒い影も、今は薄れていた。
だが、朔夜の中の影は消えていない。
怒りで暴れた魂の奥に、まだ黒いものがいる。
それが何なのか、まだわからない。
でも、今はひとつだけ決める。
その影に呑まれない。
妖に従わせない。
頭領などにならない。
陽鞠を助けるのは、化け物でも影でもない。
綴喜朔夜だ。
朔夜は、冷たい指輪を握りしめた。
「俺は俺だ」
声は小さかった。
だが、はっきりしていた。
「俺は、綴喜朔夜」
血で濡れた銀髪が、救護灯の中で揺れる。
黒い瞳は冷え切っている。
それでも、奥には消えない熱があった。
「陽鞠を、必ず助ける」
指輪は鳴らない。
でも、朔夜はその沈黙ごと握りしめた。
消えた音を、取り戻すために。




