表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/50

第37話 消えたゆびわ


 指輪が、鳴らない。


 その事実だけが、朔夜の世界から音を奪っていた。


 救護結界の灯りが目の前で揺れている。誰かが名前を呼んでいる。かがりの声。透羽の声。救護班の短い指示。A級退魔師たちが残滓を封じるために霊符を走らせる音。展望階の割れたガラスが風でかすかに鳴る音。


 全部、聞こえているはずだった。


 けれど、遠い。


 水の底から聞いているみたいだった。


 朔夜の耳には、鳴らない指輪の沈黙だけが響いていた。


 左手薬指。


 そこに、指輪はある。


 あるのに、何も返ってこない。


 さっきまで、陽鞠の指輪と触れるたびに鳴っていた。ちり、と小さく、馬鹿みたいに頼りない音。けれど、あの音があれば、陽鞠がそこにいるとわかった。手を伸ばせば触れられる。名前を呼べば返事がある。金眼が白く揺れても、陽鞠は戻ってくる。


 その音が消えた。


 熱もない。


 何もない。


 指輪は、ただの冷たい金属になっていた。


「……陽鞠」


 声が喉から漏れた。


 掠れていた。


 自分の声ではないみたいだった。


 返事はない。


 指輪も鳴らない。


 陽鞠の声もない。


 生きて待ってて。


 最後に聞こえた言葉だけが、頭蓋の内側へこびりついている。


 待てるはずがない。


 生きていろと言われた。


 待っていろとは言われていない。


 だから行く。


 そう思った瞬間、身体が動こうとした。


 だが、頭が割れるように痛んだ。


 視界が白く弾ける。


 起き上がろうとしただけで、後頭部から首筋へ鋭い痛みが走り、胃の底がひっくり返りそうになった。救護結界が軋み、頭部固定の術式が警告音を立てる。


「綴喜、動くな!」


 かがりの声が飛んだ。


 朔夜は無視した。


 身体を起こそうとする。


 誰かが肩を押さえる。


 救護班か。


 A級退魔師か。


 どうでもいい。


 陽鞠がいない。


 それ以外のことに意味がない。


「離せ」


 低い声が出た。


 冷え切った声。


 普段の余裕も、皮肉も、眠そうな怠さも、全部剥がれ落ちていた。残っているのは、黒く冷えた怒りだけだった。


「離せ」


「綴喜さん、頭部を強打しています。今動けば」


「離せ」


 同じ言葉しか出ない。


 他の言葉を選ぶ余裕がなかった。


 銀髪が顔へ落ちている。


 血で濡れた髪が頬に張りつき、視界の端を赤く染めていた。頭の傷からまだ熱いものが滲んでいるのがわかる。けれど、それさえ遠い。痛みはある。吐き気もある。視界も揺れる。


 それでも、陽鞠がいないことの方が痛い。


「陽鞠を返せ」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからない。


 消えた玻月へ。


 黒い印へ。


 白い光へ。


 自分を押さえている全員へ。


 左手を強く握る。


 指輪が掌へ食い込む。


 冷たい。


 冷たい。


 冷たい。


 怒りで霊力が爆ぜた。


 黒銀の霊力が、担架結界の内側で渦を巻く。救護班の清浄灯が揺れ、床に残っていた黒い残滓が震えた。焼き払われたはずの妖気が、細い煙のように立ち上がる。


 その霧が、朔夜へ集まってきた。


 床の隙間から。


 割れたガラスの影から。


 霊符で焼け焦げた黒い五芒星の跡から。


 小さな妖の残骸が、這うように集まってくる。


 顔のない影。


 腕だけの影。


 獣の頭だけを残した黒い塊。


 それらが朔夜の霊力に引かれ、担架結界の周囲へ寄ってきた。


 そして、ひれ伏すように身を低くした。


 朔夜の喉が、ひゅ、と鳴った。


 まただ。


 また、こいつらは。


 朔夜の内側で、何かが軋んだ。


 従え。


 命じろ。


 集めろ。


 声ではない。


 言葉でもない。


 ただ、魂の奥から湧き上がる圧のようなものが、黒い残骸へ向かって伸びようとする。


 自分のものではない。


 そう言いたい。


 そう言い切りたい。


 だが、その圧は自分の内側から来ている。


 背後に、また黒い影が立ち上がる気配があった。


 妖たちがひれ伏す中心にいるもの。


 頭領の影。


 見えないはずなのに、見える。


 自分の背後にいる。


 自分の中から立ち上がっている。


 朔夜は奥歯を噛みしめた。


 血の味がした。


「違う」


 低く呟く。


 黒い残骸が震える。


 ひれ伏したまま、朔夜の声を待っている。


「違う」


 もう一度。


 今度は、はっきり。


「俺は、俺だ」


 指輪は鳴らない。


 陽鞠の声もない。


 それでも、言うしかなかった。


 陽鞠が何度も言ってくれた。


 今の朔夜は朔夜。


 私の隣にいる男。


 妖が膝をついても、朔夜は朔夜。


 今、陽鞠はいない。


 だから、自分で言う。


「俺は俺だ」


 黒銀の霊力が、一瞬だけ引き締まった。


 ひれ伏していた残骸の一部が、びくりと跳ねる。


 命令を拒まれたように。


 朔夜は息を荒くしたまま、冷たい指輪を握り続けた。


「俺は、綴喜朔夜」


 声が掠れる。


 頭が痛い。


 吐き気がする。


 視界の端が黒く揺れる。


 それでも言葉を止めない。


「陽鞠の隣にいる男だ」


 その言葉に、自分自身がしがみつく。


 陽鞠がいない。


 指輪が鳴らない。


 それでも、隣に戻る。


 戻らなければならない。


 背後の影が揺れる。


 妖の残骸がひれ伏したまま、黒い五芒星の欠片を明滅させる。まるで、朔夜の言葉を否定するように。お前は違う。お前はもっと別のものだ。群れの前に立つものだ。そう囁くように。


 朔夜は歯を食いしばる。


「黙れ」


 黒い残骸が震えた。


「俺に従うな」


 霊力が刃のように冷える。


「俺を見るな」


 担架結界の内側から、黒銀の霊力が細く伸びた。


 命令ではない。


 支配でもない。


 拒絶。


 朔夜は手を伸ばせない。刀も握れない。頭を固定され、動けば傷が悪化する。だから、霊力だけを細く研いだ。


 ひれ伏す残骸へ向けて。


「俺は、お前らの頭領じゃない」


 黒銀の霊力が走る。


 妖の残骸が裂けた。


 一つ、二つ、三つ。


 ひれ伏していた影が、声もなく砕ける。黒い五芒星の欠片が火花のように散り、かがりの結界がそれをすぐに封じた。


 かがりが低く言う。


「戻っているな」


「……戻ってる」


 朔夜は答えた。


 自分に言い聞かせるように。


「戻ってる。だから離せ」


「それとこれとは別だ」


「陽鞠を助けに行く」


「今のお前は歩くな」


「歩ける」


「立ち上がった瞬間に倒れる」


「倒れても這う」


「這っている間に篠宮が遠ざかる」


 その言葉に、朔夜の喉が詰まった。


 かがりは、そこを逃がさなかった。


「動くな。動かずに追う方法を選べ」


「……」


「怒りで身体を起こすな。頭を使え」


「頭を打ったんだが」


「皮肉が出るならまだ生きてるな」


 朔夜は笑わなかった。


 笑えるはずがなかった。


 それでも、かがりの声は届いた。


 動かずに追う方法。


 座標。


 残滓。


 指輪反応の切断痕。


 透羽が拾っていると言っていた。


 更紗が解析する。


 かがりが指揮を取る。


 朔夜が暴れれば、霊力が乱れる。


 座標が消える。


 陽鞠の居場所が遠ざかる。


 その事実が、朔夜の怒りを無理やり押し潰した。


 胸の中で暴れるものは消えない。


 今すぐ立て。


 走れ。


 斬れ。


 玻月を殺せ。


 陽鞠を取り返せ。


 その衝動が全身を内側から掻きむしる。


 それでも、身体を起こさない。


 指輪を握る。


 冷たい。


 鳴らない。


 その沈黙が、また恐怖を呼ぶ。


 陽鞠が遠い。


 反応がない。


 どこにいるかわからない。


 傷つけられているかもしれない。


 また狭い結界に押し込められているかもしれない。


 金眼を見られている。


 魂を見られている。


 触るな。


 見るな。


 欲しがるな。


 朔夜の呼吸が荒くなる。


 救護班がすぐに声をかけた。


「綴喜さん、呼吸を合わせて。意識を保って」


「陽鞠は」


「追跡中です」


「どこだ」


「透羽さんが座標を絞っています」


「遅い」


「焦れば乱れます」


「わかってる」


 わかっている。


 わかっているのに、全身が理解を拒んでいる。


 陽鞠がいない。


 それだけで、朔夜の中の何かが壊れようとしていた。


 普段なら、どれだけ怒っても一枚残っている余裕があった。皮肉を言う余白。相手の動きを見る冷静さ。陽鞠が無茶をした時に、呆れながら手を伸ばす余裕。


 今はない。


 余裕なんて、どこにもない。


 銀髪は乱れ、血で頬に張りついている。黒い瞳は冷え切り、視界のすべてから色が消えていた。世界は、陽鞠がいるかいないかの二種類に分かれている。


 そして今、陽鞠はいない。


 なら、この世界には価値がない。


 そう思いかけて、朔夜は歯を食いしばった。


「違う」


 自分で言う。


「陽鞠が戻る場所を、なくすな」


 かがりが黙ってこちらを見た。


 朔夜は目を閉じそうになり、無理やり開いた。


 陽鞠は言った。


 生きて待ってて。


 待つのは無理だ。


 だが、生きる。


 陽鞠が戻る場所を残す。


 それが、今ここで朔夜ができる唯一のことだった。


 指輪を握る。


 鳴らない。


 冷たい。


 それでも、外さない。


「……陽鞠」


 声が落ちる。


 返事はない。


 だが、呼ぶ。


「陽鞠」


 何度でも呼ぶ。


 届かなくても。


 自分が壊れないために。


 陽鞠が戻る場所を覚えているために。


「綴喜」


 透羽の声が近づいた。


 走ってきたのか、息が荒い。端末を両手で持ち、画面には複雑な霊波の線が表示されている。


「座標残滓、完全ではないけど掴んだ」


 朔夜の目が、透羽へ向いた。


「どこだ」


「確定じゃない。だが、市内の地下霊脈に繋がってる。古い封鎖区域の方向だ」


 古い封鎖区域。


 解析室で聞いた場所。


 黒い印の奥にある不明な術式が向かっているかもしれない場所。


 玻月は、そこへ陽鞠を連れていったのか。


 朔夜の霊力がまた荒れかける。


 かがりが即座に結界を締めた。


「乱すな」


「……わかってる」


「お前が動ける状態になるまで、こちらで追跡を繋ぐ」


「俺も見る」


「今は治療が先だ」


「俺も見る」


 朔夜の声は、冷えていた。


 かがりは一瞬黙る。


「意識を保てるなら、医療棟で解析映像を見せる」


「今」


「移送後だ」


「今」


「綴喜」


「見せろ」


 朔夜の黒い瞳が、透羽を射抜く。


 透羽は顔をしかめた。


「見せたら霊力が跳ねる」


「抑える」


「信用できない」


「抑える」


「……本当に?」


「陽鞠の場所が遠ざかるなら、抑える」


 その言葉に、透羽は押し黙った。


 かがりが短く息を吐く。


「十秒だけだ。霊力が乱れたら即座に切る」


「いい」


 透羽が端末を朔夜の視界に入る位置へ持ってくる。


 画面には、黒い線と白い光の軌跡が重なっていた。展望階から伸びる歪んだ霊波。途中で何度も折れ、地下へ潜り、古い霊脈の流れへ沈んでいる。


 その中に、金色のごく細い残滓があった。


 陽鞠の霊力。


 薄い。


 途切れそうなほど細い。


 でも、残っている。


 朔夜の呼吸が止まった。


「……陽鞠」


 生きている。


 少なくとも、霊力痕はある。


 完全に消えてはいない。


 指輪は鳴らない。


 反応は切られた。


 でも、陽鞠の金色は、まだそこにある。


 朔夜は目を閉じそうになるのを堪えた。


 泣くような感覚が胸の奥を裂いた。


 涙は出ない。


 出す余裕もない。


 ただ、冷え切っていた体の奥に、ほんのわずかに熱が戻った。


「追えるな」


 朔夜が言う。


 透羽は頷いた。


「追える可能性がある」


「可能性じゃない」


「今はそう言うしかない」


「追える」


 朔夜は言い切った。


 透羽は何か言いかけ、やめた。


 かがりが静かに言う。


「追う。そのために、お前は倒れるな」


「倒れない」


「強がりだけでは動けない」


「知ってる」


「なら治療を受けろ」


「……受ける」


 その言葉を口にするのに、全身を切り裂かれるような抵抗があった。


 でも、言った。


 陽鞠を助けるために。


 生きて待つために。


 戻る場所をなくさないために。


 救護班が担架結界を動かし始める。


 視界が揺れる。


 頭が痛む。


 吐き気がまた込み上げる。


 それでも、朔夜は左手を握り続けた。


 冷たい指輪。


 消えた反応。


 鳴らない音。


 その沈黙を、忘れないために。


 担架結界が展望階を離れる。


 かがりが横につく。


 透羽が端末を操作しながら並走する。


 A級退魔師たちは残滓封鎖へ戻る。


 床にひれ伏していた妖の残骸は、かがりの結界の中で焼かれていく。黒い影も、今は薄れていた。


 だが、朔夜の中の影は消えていない。


 怒りで暴れた魂の奥に、まだ黒いものがいる。


 それが何なのか、まだわからない。


 でも、今はひとつだけ決める。


 その影に呑まれない。


 妖に従わせない。


 頭領などにならない。


 陽鞠を助けるのは、化け物でも影でもない。


 綴喜朔夜だ。


 朔夜は、冷たい指輪を握りしめた。


「俺は俺だ」


 声は小さかった。


 だが、はっきりしていた。


「俺は、綴喜朔夜」


 血で濡れた銀髪が、救護灯の中で揺れる。


 黒い瞳は冷え切っている。


 それでも、奥には消えない熱があった。


「陽鞠を、必ず助ける」


 指輪は鳴らない。


 でも、朔夜はその沈黙ごと握りしめた。


 消えた音を、取り戻すために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ