第48話 鞭の下で編む結界
霊糸の鞭は、止まらなかった。
玻月の白手袋がわずかに動くたび、地下儀式場の空気が裂ける。音は遅れて届く。ひゅ、と細く、耳に残る嫌な音。その直後、陽鞠の身体のどこかに霊的な傷が走る。
胸。
腹。
背中。
腕。
脚。
腰。
同じ場所を何度も打たれるわけではない。玻月は場所を選んでいた。肉体を壊しすぎず、霊力の経路を乱し、結界術を崩し、魂の表面へ痛みを届かせる位置を正確に選んでいる。
手を抜かない。
その言葉が、陽鞠の朦朧とした頭の中で何度も反響した。
玻月は手を抜かない。
苦しむ陽鞠を見て加減することも、彼女の拒絶を聞いて止めることもない。壊れ切らないようにはする。死なないようにもする。けれど、それは優しさではない。必要な反応を取り出すために、壊す場所と残す場所を選んでいるだけだった。
鞭が落ちた。
右腕。
「ぎ、ぃ……あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
陽鞠の喉から、壊れた悲鳴が漏れた。
もう整った声ではない。水の結界で潰され、電流で裂け、霊糸で絞められ、鞭で何度も叫ばされた喉は、獣の咆哮のような濁った音しか出せない。叫ぶたびに血の味が滲み、息を吸うたびに喉の奥が焼ける。
身体が跳ねる。
拘束結界が軋む。
濡れ、汚れ、冷え切った制服が肌へ張りつき、石床の冷たさが骨まで入ってくる。痛みで筋肉が勝手に痙攣し、指先が震えた。指を曲げようとしても、思った通りに動かない。
それでも、陽鞠は右手の指先を黒い五芒星の線へ押し当てていた。
離さない。
痛みで跳ねても。
鞭で打たれても。
魂の奥が白く浮きかけても。
指先だけは、石床の黒い線をなぞる。
水の結界のとき、呼吸を奪われながら継ぎ目を読んだ。
護符の電流のとき、痛みに身体を跳ねさせられながら戻り口を覚えた。
霊糸で首を締められたとき、白い糸との接続を探った。
霊糸の鞭では、玻月の術式の癖を覚えた。
一度、斜め下へ逸らす。
横へ逃がす。
戻る寸前に、半拍遅れる。
魂へ痛みが届く直前、白い糸が一瞬だけ開く。
そこに、刺す。
そこに、編む。
陽鞠は、痛みで震える指先に、ほんのわずかな霊力を集めた。
金色。
白ではない。
神の子と呼ばれたものの白ではない。
篠宮陽鞠の金。
指先に灯った金色は、あまりにも細かった。糸というより、髪の毛一本にも満たない。気を抜けば、黒い五芒星に吸われる。強く出せば、玻月に気づかれて潰される。だから、弱く、細く、浅く。
黒い線の表面ではなく、その下。
護符の戻り口と、霊糸の折り目と、魂へ届く白い糸の接点。
そこへ、金色の糸を一本、通す。
鞭が落ちた。
今度は腹。
「あ゛っ、が、あああああああッ!」
痛みが腹から胸へ突き上げる。
身体が折れようとする。だが、拘束がそれを許さない。背中は石床へ押しつけられ、腹だけが痙攣する。霊的な傷が腹の奥へ走り、金眼の奥が白く弾けかけた。
金色の糸が、途切れかける。
陽鞠は泣きながら、指先を押しつけた。
途切れるな。
切れるな。
繋がれ。
自分に命じる。
身体がどれだけ壊されても、指先の小さな糸だけは残す。
霊力が乱れる。
痛みで制御が滑る。
金色の糸が白く濁りかける。
陽鞠は、壊れた喉で息を震わせた。
「わ、たし……は……」
鞭が背中へ回り込む。
石床と背中の隙間を縫うように、霊糸が滑り込む。
その動きが見えた。
また、斜め下へ逃がした。
戻る。
半拍。
そこ。
鞭が打った。
「が、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
背骨沿いに雷が走った。
視界が白く飛ぶ。
胃が跳ね、吐き気が込み上げる。喉が焼け、口元から胃液が滲む。身体は恐怖と痛みで痙攣し、すでに制御を失った場所はさらに冷たく汚れていく。
だが、陽鞠はその瞬間に見た。
背中を打った霊糸の術式が、胸元の白い糸へ戻る直前、ほんのわずかに開くところを。
そこへ、二本目の金色の糸を通した。
一本目と繋ぐ。
弱い。
細い。
今にも切れそうな糸。
でも、繋がった。
陽鞠の唇から、泣き声が漏れた。
苦しさと痛みだけではない。
繋がった。
それがわかったから。
自分はまだ、結界を編める。
暴走ではなく。
玻月に引き出される白ではなく。
自分の意思で。
自分の金色で。
玻月は、五芒星の外側に立っていた。
紫紺の瞳は冷静だった。霊糸の鞭を振るいながら、陽鞠の金眼の揺れ、白い糸の深度、黒い五芒星の反応を見ている。
彼は、勝利が近いと感じていた。
陽鞠の魂は何度も表層へ浮いた。
神の子と呼ばれたものは、確かに出かかっている。
水で呼吸を奪った時も、電流で身体を跳ねさせた時も、霊糸で首を締めた時も、黒い五芒星で存在そのものを剥がそうとした時も、白い魂は何度も肉体の縁まで浮いた。
今、霊糸の鞭による霊的な傷が、魂の表面をさらに薄く裂いている。
あと少し。
そう見える。
陽鞠の身体は限界に近い。声は壊れ、呼吸は不安定で、手足の震えも止まらない。金眼は何度も白に傾き、指輪の光も途切れ途切れだ。朔夜が近づいているとしても、儀式はすでに仕上げに入っている。
玻月はそう判断した。
だからこそ、ほんのわずかな異変に気づくのが遅れた。
陽鞠の金眼。
白く浮きかけ、痛みで揺れ、涙で濡れたその奥に、まだ金色の抵抗が残っている。
ただ耐えている色ではない。
見ている色。
読んでいる色。
編んでいる色。
玻月の指先が、ほんのわずかに止まった。
陽鞠は、それを見逃さなかった。
止まった。
今。
気づいた。
でも、まだ全部は知られていない。
陽鞠は、泣き腫らした目で玻月を睨んだ。
声は出ない。
喉は壊れている。
でも、目で言う。
私は、ただ壊れているだけじゃない。
玻月の目が細くなる。
「何をしている」
陽鞠は答えない。
答えられるはずもない。
答えるつもりもない。
その代わり、指先をさらに動かした。
右手だけでは足りない。
左足の爪先。
拘束され、痙攣で感覚が薄くなった足先を、必死に石床へ押し当てる。足の指は手ほど細かく動かない。痛みで震え、何度も滑る。それでも、黒い線の外周に触れた。
そこは、魂抽出の流れが一度外へ開く場所。
黒い五芒星が、陽鞠の魂を引くために外周へ広げる一瞬。
朔夜へ金色の針を飛ばした場所。
そこに、三本目の金色の糸を通す。
鞭が落ちた。
左脚。
「あ゛ああああああああああッ!」
痛みが脚から腰へ上がる。
身体が跳ねる。
足先が黒い線から離れかける。
陽鞠は、残った力で爪先を押し戻した。
繋げ。
繋がれ。
金色の糸が震える。
一本目。
二本目。
三本目。
まだ結界とは呼べない。
ただの弱い糸。
でも、三点が繋がると、形が生まれる。
小さな三角。
陽鞠の精密結界の最小単位。
水の結界で読んだ流れ。
護符の電流で覚えた戻り。
霊糸の首で見つけた接続部。
霊糸の鞭で掴んだ半拍。
それらを、三角形の中へ折り込む。
反撃用の結界。
まだ発動しない。
今発動すれば潰される。
だから、隠す。
玻月の術式の中に、異物としてではなく、吸われる霊力の残滓として紛れ込ませる。黒い五芒星が陽鞠の霊力を吸うたび、その中に金色の糸をほんの少し混ぜる。護符の補正が入る前に、霊糸の戻り口へ潜ませる。
小さく。
薄く。
でも、確実に。
鞭がまた落ちた。
胸から肩へ斜めに走る。
痛みが魂へ届く。
陽鞠は泣き叫んだ。
「ひ、ぎゃあああああああああッ! あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!」
年相応の恐怖が、声に滲んでいる。
強がる余裕はない。
怖い。
痛い。
帰りたい。
朔夜に会いたい。
それでも、指先は金色の糸を離さない。
玻月が鞭を振るう。
陽鞠は術式を読む。
玻月が傷を増やす。
陽鞠は折り目を覚える。
玻月が魂の表面へ痛みを届かせる。
陽鞠はその直前に金色の糸を潜らせる。
地下儀式場は、玻月の勝利へ向かっているように見えた。
陽鞠の身体は崩れている。
魂は何度も浮いている。
神の子の白は表へ出かかっている。
黒い五芒星は、成功直前のように脈打っている。
だが、その内側で、金色の細い糸が少しずつ編まれていた。
痛みの下で。
涙の下で。
汚れと冷えと異臭の中で。
陽鞠は、反撃の結界を編んでいた。
*
鉄扉が、深く割れた。
朔夜の黒銀の斬撃が、中央の白い糸を抉る。扉の表面に刻まれた黒い五芒星が大きく歪み、補修しようとする線がいくつも切れた。
だが、まだ完全には開かない。
扉の奥から、陽鞠の霊力が漏れている。
弱い。
細い。
だが、確かに金色だ。
朔夜は、それを見た瞬間、呼吸を止めた。
「陽鞠が、何かしてる」
透羽が端末を覗き込む。
「何かって?」
「わからない」
朔夜は扉の裂け目を睨んだ。
「でも、泣いてるだけじゃない」
左手薬指の指輪が、熱を持つ。
そこから伝わる金色は、悲鳴だけではなかった。
痛み。
恐怖。
苦しさ。
それらは確かにある。
だが、その奥に、細い集中がある。
陽鞠が結界を張る時の気配。
普段なら、一瞬で戦場全体へ膜を張るような精密さ。今は、消えそうなほど細い。それでも、あの気配だった。
陽鞠は、何かを編んでいる。
朔夜は歯を食いしばった。
頭が痛い。
血の匂いがまだ自分の髪に残っている。
背後には、百鬼夜行のような影が消えきらずに揺れている。妖たちは何度も膝をつきかけ、朔夜の中の魂は命じろと囁く。
だが、朔夜は刀を握る。
命じない。
従わせない。
陽鞠が自分のままで戦っているのに、朔夜が自分を手放すわけにはいかない。
「かがり先生」
「何だ」
「次で開ける」
「根拠は」
「陽鞠が中から何かしてる」
かがりは、朔夜の顔を見た。
彼の黒い瞳は冷えている。
だが、狂ってはいない。
痛みに耐え、怒りを押し殺し、指輪の熱を道標にしている目だった。
「透羽」
かがりが短く言う。
「扉の補修周期は」
「三拍。いや、今乱れてる。中から干渉があるせいで、補修が半拍遅れてる!」
「半拍」
朔夜が呟いた。
陽鞠だ。
玻月の術式の半拍。
陽鞠はそれを読んでいる。
朔夜の口元が、わずかに歪んだ。
笑みではない。
泣きそうな怒りに近かった。
「さすがだな」
こんな状況で。
攫われ、縛られ、痛めつけられ、魂を引き出されかけて。
それでも、陽鞠は術式を読んでいる。
反撃のために。
戻るために。
なら、朔夜が遅れるわけにはいかない。
かがりが結界を展開する。
「三拍目の補修前に斬れ」
「わかった」
「頭を振るな。視界が飛んだら終わる」
「飛ばさない」
「妖は私が止める」
「従わせない」
「わかっている」
朔夜は刀を構えた。
指輪が熱い。
扉の奥で、陽鞠の金色が震えている。
痛みの中で編まれた細い結界が、こちらへ向かって糸を伸ばしている。
朔夜は、その糸へ刃を合わせた。
「陽鞠」
名前を呼ぶ。
扉の向こうへ届くように。
「合わせろ」
*
儀式場の中心で、陽鞠の右手薬指の指輪が熱を持った。
朔夜の声が、遠くで響く。
合わせろ。
陽鞠の金眼が揺れた。
涙で濡れ、痛みで焦点も定まらない目。
それでも、金色が強くなる。
朔夜が近い。
扉の向こうにいる。
陽鞠が編んでいる細い結界に、気づいている。
だったら、今ではない。
もう少し。
玻月がまだ勝利を確信している間に。
この男が、陽鞠の金眼に残る抵抗を見つけても、反撃の形までは見抜いていない間に。
あと一糸。
あと一本、繋げる。
霊糸の鞭が落ちる。
胸と腹を斜めに裂く軌道。
陽鞠は、喉を壊しながら叫んだ。
「あ゛あああああああああああッ!」
痛みが魂へ届く。
白い糸が開く。
黒い五芒星が脈打つ。
その一瞬、陽鞠は左足の爪先で外周の線を押した。
金色の四本目。
結界が形になる。
小さく。
弱く。
けれど、確かに。
反撃用の結界が、玻月の術式の下で編み上がった。
玻月の目が、ようやくそれを捉えた。
「君は」
白手袋の指先が動く。
補正しようとする。
だが、その瞬間、遠くの鉄扉に黒銀の斬撃が入った。
儀式場の外周が揺れる。
玻月の補正が半拍遅れる。
陽鞠は壊れた喉で、泣きながら笑うように息を漏らした。
「……遅い」
声は掠れ、ほとんど聞こえなかった。
それでも、玻月には届いた。
金眼の奥には、まだ抵抗が残っていた。
ただの抵抗ではない。
反撃の光だった。
黒い五芒星の中心で、陽鞠の金色の結界が、細く、静かに、玻月の術式へ食い込んだ。




