第35話 金眼の暴走
救護班の結界灯が、展望階の床を白く照らしていた。
割れたガラス。
濁った黒い霧。
焦げた霊符の匂い。
床に残った黒い五芒星の焼け跡。
そのすべてが、救護班の清浄光の中で不自然に浮かび上がっている。さっきまで妖が群がっていた場所とは思えないほど、展望階の中央だけが静かだった。だが、その静けさは安心とは違う。嵐の目のような、嫌な空白だった。
朔夜は床に横たえられていた。
救護班の女性退魔師が頭部の位置を固定し、もう一人が止血と意識確認を続けている。銀髪は血で濡れ、こめかみから後頭部へかけて赤が広がっていた。清浄布が当てられているが、完全には隠しきれていない。
陽鞠は、朔夜の左手を握っていた。
指輪が触れている。
熱い。
先ほどから、ずっと熱い。
指先が痛むほどではない。けれど、奥から火が灯っているような熱だった。朔夜の霊力が不安定になっている。陽鞠の金眼も、それに呼応している。手を離したら、何かが切れてしまう気がした。
離したくなかった。
「朔夜」
陽鞠は呼ぶ。
声が震えないようにしようとして、余計に震えた。
「聞こえる?」
朔夜の瞼が重そうに動いた。
「……聞こえる」
掠れた声。
それでも、返事がある。
それだけで、陽鞠は息を吸えた。
「名前、言える?」
「綴喜……朔夜」
「私の名前は?」
「篠宮、陽鞠」
「うん。私はここにいる」
「……わかってる」
朔夜の指が、ほんのわずかに陽鞠の手を握り返す。
弱い。
いつもの力ではない。
その弱さが、陽鞠の胸を乱暴に掴んだ。
嫌だ。
こんなのは嫌だ。
さっきまで前に立っていた。
刀を振っていた。
陽鞠を守るために動いていた。
なのに今は、床に横たわり、血に濡れた銀髪を清浄布で押さえられている。
陽鞠は奥歯を噛んだ。
泣くな。
泣いている場合ではない。
結界を保て。
朔夜を守れ。
救護班の邪魔をするな。
自分に言い聞かせる。
だが、展望階の空気はまだ終わっていなかった。
倒したはずの妖の残滓が、床の隙間で蠢いている。黒い霧が薄く這い、割れたガラスの影に集まろうとしている。A級退魔師たちが霊符で焼いているが、完全には消えない。黒い五芒星の残り火が、細い線となって床へ沈もうとしていた。
朔夜の背後に現れた黒い影。
妖たちがひれ伏した姿。
その残像が、まだ陽鞠の金眼に残っている。
見たくない。
でも、忘れられない。
朔夜の背後に、何かがいた。
妖たちが頭を垂れる何か。
朔夜自身ではない。
そう言い切りたい。
それでも、朔夜の霊力に反応して現れた。
朔夜の魂の奥に触れた時だけ、濃くなった。
陽鞠は首を横に振る。
違う。
今は、それを考える時ではない。
朔夜の意識を繋ぎ止める。
それだけだ。
「朔夜、私見て」
「……見えてる」
「嘘。目、閉じそう」
「うるさい」
「うるさくするって言った」
「しつこい」
「しつこい彼女でよかったね」
朔夜の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのか、痛みに歪んだのか、わからない。
それでも、陽鞠はその小さな反応にすがった。
救護班の女性退魔師が短く言う。
「篠宮さん、そのまま声をかけ続けて。意識を落とさせないで」
「はい」
「頭部の出血は抑えています。ただ、霊力の揺れが強い。綴喜さんの霊力に、外部から引っ張られた痕があります」
陽鞠の血の気が引いた。
「まだ?」
「残っています。傷そのものより、そちらの方が厄介」
救護班の指先が、朔夜の胸元へ触れない位置で止まる。霊力診断用の薄い札が、朔夜の上に浮かんでいた。札の表面で黒銀の波形が乱れ、その奥に細い黒線が絡んでいる。
黒い五芒星の残滓。
朔夜へ集まった妖の霊力。
それらが、まだ完全には離れていない。
陽鞠の金眼が熱を持つ。
朔夜の霊力を引くな。
朔夜を奪うな。
そう思った瞬間、彼女の周囲の結界が震えた。
救護班の女性が顔を上げる。
「篠宮さん、落ち着いて」
「……はい」
陽鞠は息を吸う。
金眼の奥で、熱が膨らんでいる。
朔夜の血を見た時よりは抑えている。けれど、まだ危うい。怒りと恐怖が、結界の形を勝手に変えようとしている。
自分の結界なのに。
自分で張っているはずなのに。
精密だったはずの膜が、少しずつ外へ広がりたがっている。
朔夜を守るために。
全部を弾くために。
近づくものを、味方も敵も関係なく押し返すために。
違う。
それはだめだ。
ここには救護班がいる。
A級退魔師たちがいる。
巡回員を運んでいる補助班もいる。
弾いてはいけない。
傷つけてはいけない。
陽鞠は唇を噛み、結界を内側へ引き戻した。
「私は私……」
小さく呟く。
「篠宮陽鞠……」
金眼の熱が、わずかに下がる。
その時だった。
朔夜の身体が、びくりと震えた。
救護班の札が黒く染まる。
朔夜の背後の床に、黒い五芒星の線が浮かび上がった。
「なに……!」
救護班が札を追加する。
A級退魔師が叫ぶ。
「残滓が再起動してる!」
床に沈みかけていた黒い霧が、一斉に朔夜の方へ向かった。
朔夜の血へ。
朔夜の霊力へ。
朔夜の背後にまだ残る、あの黒い影の輪郭へ。
陽鞠は目を見開いた。
霧が朔夜へ触れる寸前、結界を張る。
金色の膜が床を走り、黒い霧を弾いた。だが、霧はただ弾かれただけでは消えない。朔夜の霊力へ引かれるように、また回り込もうとする。
何度でも。
何度でも。
朔夜を中心に集まる。
床の焼け跡から、影妖の残骸が這い出す。
上半身だけ。
腕だけ。
顔のない頭だけ。
それらが、朔夜へ向かって膝をつくように身を低くした。
朔夜の呼吸が乱れる。
「……また、か」
掠れた声。
陽鞠は彼の手を握る。
「見ないで」
「見えてる」
「私を見て」
「……陽鞠」
「うん。私はここ」
朔夜の瞳が、陽鞠へ戻る。
だが、黒い霧は止まらない。
むしろ、朔夜が陽鞠を見るたび、二人の繋がりへ触れようとする。
指輪の熱が強まった。
陽鞠の金眼が、さらに熱くなる。
朔夜の危機。
朔夜の血。
朔夜の魂へ絡む黒い残滓。
それらに、陽鞠の奥が反応している。
霊力ではない。
もっと深い場所。
魂。
更紗が言っていた言葉が、頭の奥で響く。
魂を見ている可能性。
黒い印の奥にある不明な術式。
それが今、陽鞠の内側に触れている。
陽鞠は喉を震わせた。
怖い。
怖い。
でも、朔夜を守りたい。
その二つが混ざり、金眼の奥で白い光になりかける。
精密結界が、勝手に広がった。
「篠宮さん!」
救護班の声が遠くなる。
金色の膜が、展望階全体へ走る。
窓。
床。
天井。
階段。
避難経路。
救護班の周囲。
A級退魔師たちの足元。
すべてへ、結界が一斉に伸びていく。
陽鞠の意思より速い。
守るため。
朔夜からすべてを遠ざけるため。
妖だけではない。
人も。
音も。
霊力も。
全て。
展望階が白い光に包まれた。
金色だったはずの結界が、内側から白く発光し始める。金の縁だけを残し、中心が白い。地下歩道で見た光よりも濃い。水族館跡で妖核から漏れた光よりも、ずっと近い。
それは妖の光ではなかった。
陽鞠の中から出ている。
陽鞠の魂が、朔夜の危機に反応している。
陽鞠は自分でそれを感じた。
深い場所が開きかけている。
玻月に「扉」と言われた場所。
開きたくない。
開くつもりはない。
なのに、朔夜を守りたいという感情が、その奥を叩いている。
「だめ……」
陽鞠は苦しげに息を吐いた。
結界がさらに広がる。
救護班の一人が後ろへ弾かれかけた。A級退魔師が霊符を床に刺し、踏みとどまる。補助班が階段側で身を伏せる。白い光は温かくはない。むしろ、触れた霊力を選別し、押し返し、不要と判断したものを切り捨てようとしている。
陽鞠は震えた。
違う。
違う。
救護班は味方。
A級退魔師も味方。
巡回員も守るべき人。
弾いてはいけない。
朔夜を守るために、周囲を傷つけてはいけない。
「私は……」
喉が詰まる。
白い光が視界を埋める。
金眼が焼けるように熱い。
息が苦しい。
自分の身体の輪郭が、結界に溶けていくような感覚があった。陽鞠という名前より、守れ、弾け、閉じろ、遠ざけろという命令の方が強くなる。
違う。
それは私じゃない。
「私は……私だ……!」
声が震える。
でも、出した。
「私は私だ!」
展望階に、陽鞠の声が響く。
「篠宮陽鞠だ! 神の子じゃない! 扉じゃない! 誰かの道具じゃない!」
白い結界が、一瞬だけ揺らぐ。
金の輪郭が戻りかける。
しかし、朔夜の霊力に絡みついた黒い残滓が、再び脈打った。
朔夜の身体が小さく跳ねる。
頭部を固定していた救護結界が軋む。
陽鞠の目が見開かれる。
「朔夜!」
その叫びに反応して、白い光がまた膨らんだ。
金色の輪郭が、白に呑まれかける。
救護班が叫ぶ。
「篠宮さん、抑えて! これ以上広がると救護結界まで弾かれる!」
「わかってる……!」
わかっている。
わかっているのに、止められない。
朔夜が苦しそうにしている。
黒い残滓が彼へ触れようとしている。
頭を打ち、血を流し、動けない彼へ。
それだけで、陽鞠の魂が叫ぶ。
守れ。
全て弾け。
閉じろ。
誰も近づけるな。
陽鞠は両手で自分の胸元を掴んだ。
朔夜の手を離さないまま、もう片方の手で制服を握りしめる。
「違う……違う……私は、ちゃんと選ぶ……!」
白い光の中で、声が聞こえた。
静かで、低い声。
「それだ」
陽鞠の背筋が凍った。
展望階の中央。
白い光の向こうに、黒い長衣の影が立っていた。
御影堂玻月。
いつ現れたのかわからない。
白い光に包まれた展望階で、彼だけが影のように輪郭を保っていた。濡羽色の髪。白手袋。紫紺の瞳。黒い長衣の裾が、光の中でゆっくり揺れる。
陽鞠の結界は、彼を弾いていない。
いや、弾こうとしている。
だが、玻月はその継ぎ目を読み、薄く滑るように立っている。陽鞠の暴走しかけた精密結界の隙間に、当然のように入り込んでいた。
救護班が警戒する。
A級退魔師が霊符を構える。
朔夜が、意識の底から声を絞る。
「……御影堂」
玻月は朔夜を見なかった。
陽鞠だけを見ていた。
その視線で、陽鞠は理解した。
今度こそ、はっきりと。
朔夜ではない。
朔夜は引き金だ。
餌であり、鍵であり、陽鞠の反応を引き出すための傷口。
玻月が見たいものは、朔夜が傷ついた時に開きかける陽鞠の奥。
白い光を帯びて広がる精密結界。
魂の反応。
陽鞠そのもの。
「……最初から」
陽鞠の声が掠れる。
「最初から、私を……」
玻月は否定しなかった。
「君だ」
静かに言った。
「狙いの中心は、最初から君だ」
展望階の白い光が、陽鞠の動揺に合わせて震えた。
朔夜の手が、かすかに陽鞠の手を握る。
弱い。
でも、確かに。
陽鞠はその感触で、崩れずに済んだ。
玻月は続ける。
「綴喜朔夜の魂は、確かに危うい。妖がひれ伏す影を持つ。黒い印はそこへ反応する。だが、彼だけでは開かない」
「黙れ」
陽鞠が言う。
玻月は止まらない。
「彼が揺れ、君が叫び、君の魂が反応した時にだけ、奥が見える」
「黙れ!」
陽鞠の結界が鋭く跳ねた。
金と白の刃のような膜が、玻月へ向かう。
しかし、玻月は白手袋の指先をわずかに動かしただけだった。
結界刃の角度が逸れる。
彼の頬にも、髪にも、触れない。
光の刃は背後の割れたガラス枠へ突き刺さり、金属を切り裂いた。
陽鞠は歯を食いしばる。
まだ届かない。
暴走しかけた力ですら、玻月には触れない。
その事実が、さらに悔しさを煽る。
だが、今は怒りに飲まれてはいけない。
朔夜がそばにいる。
救護班がいる。
味方がいる。
玻月が見たいのは、陽鞠が壊れて開くところだ。
なら、壊れない。
開かない。
「私は、あなたの見たいものじゃない」
陽鞠は低く言った。
声は震えている。
それでも、言葉は立っていた。
「私は、私だ」
玻月の紫紺の瞳が、細くなる。
「その言葉で、どこまで閉じていられる」
「何度でも言う」
陽鞠は朔夜の手を握る。
指輪が鳴った。
ちりん。
熱が走る。
白い光の中に、金色の輪郭が戻る。
「私は私だ。篠宮陽鞠だ。朔夜を守りたいのも、あなたが気持ち悪いのも、全部私の意思」
白く広がっていた結界が、わずかに縮んだ。
救護班を押し返していた力が弱まる。
A級退魔師たちが動けるようになる。
かがりの声が、通信札から飛び込んだ。
『篠宮、聞こえるか!』
「聞こえます!」
『結界を外周から三層戻せ。救護班を通せ。御影堂には近づくな』
「はい!」
かがりの声。
朔夜の手。
自分の名前。
それらを掴み、陽鞠は白い光を押し戻す。
精密結界を、勝手に広がる暴走から、自分の形へ戻す。
まず救護班の周囲。
味方を通す。
次に朔夜の保護膜。
絶対に外さない。
次に妖の残滓を囲う拘束膜。
外へ逃がさない。
最後に、白い光を自分の内側へ引き戻す。
金眼が痛い。
焼けるように痛い。
それでも、戻す。
「私は私だ……!」
叫ぶ。
「私は、私で、朔夜を守る!」
結界が折り畳まれていく。
白い光が収縮し、金色の線の中へ収まる。完全には消えない。金眼の奥に、白い火種が残る。それでも、展望階を覆っていた異様な光は薄れていった。
玻月は、それを見ていた。
満足そうに。
いや、満足というより、確信したように。
その表情が、陽鞠の嫌悪をさらに強める。
「今の反応で、十分だ」
玻月が言った。
「何が」
「君の魂は、彼を介して深く応答する」
「だから何」
「黒い印の奥に触れられる」
「私は触れない」
「君が触れなくても、向こうが触れてくる」
陽鞠は刀を掴みたくなった。
だが、朔夜の手を離せない。
離したくない。
朔夜が、かすかに声を出した。
「陽鞠……あいつを、見るな」
弱い声。
でも、ちゃんと届く。
陽鞠は朔夜を見た。
血に濡れた銀髪。
痛みに霞む黒い瞳。
それでも、自分を戻そうとする彼。
「見るな」
もう一度、朔夜が言った。
「あいつじゃなくて、俺を見ろ」
陽鞠の胸が詰まる。
「うん」
彼女は玻月から視線を外し、朔夜を見る。
その瞬間、金眼の白い火種が少し弱まった。
玻月が、ほんのわずかに沈黙する。
それは面白くないものを見た時の沈黙に似ていた。
陽鞠は朔夜の額に触れないよう、手を近づける。
「私は朔夜を見る」
低く言った。
「あなたじゃない」
朔夜の指が、少しだけ陽鞠の手を握る。
玻月の白手袋の指先が動いた。
A級退魔師たちが一斉に霊符を構える。
かがりの教師用結界が、遠隔から展望階へ割り込んだ。黒い線のような拘束結界が、玻月の周囲を囲おうとする。だが、彼はその前に一歩退いた。
白い光の残りへ紛れるように、黒い長衣の輪郭が薄くなる。
「篠宮陽鞠」
消えかけながら、玻月が言った。
「君は、思っているより深い」
「知らない」
「知ることになる」
「知るとしても、あなたの手では知りません」
陽鞠は即答した。
玻月の目が、わずかに揺れる。
「そうか」
それだけ言って、彼の姿は消えた。
白い光も薄れていく。
展望階に残ったのは、割れたガラスと、黒い残滓と、救護班の清浄灯の光。
そして、朔夜の血の匂いだった。
陽鞠は膝から崩れそうになった。
だが、崩れない。
朔夜の手を握っている。
救護班が処置を続けている。
今、陽鞠が倒れるわけにはいかない。
「篠宮さん、結界維持できますか」
救護班が聞く。
「できます」
声は掠れていた。
でも、答えた。
「朔夜を運べますか」
「頭部固定後に移送します。あなたの保護結界を重ねたまま動かしたい。できますか」
「できます」
「無理なら言って」
「……無理しそうになったら、言います」
救護班の女性が一瞬だけ陽鞠を見る。
そして、頷いた。
「それでいい」
陽鞠は朔夜の手を握ったまま、保護結界を整えた。
白い光は、まだ金眼の奥に残っている。
玻月の言葉も残っている。
狙いの中心は、最初から君だ。
気持ち悪い。
怖い。
怒りで吐きそうになる。
でも、今は朔夜を見ろ。
朔夜がそう言った。
だから、陽鞠は朔夜を見る。
「朔夜」
「……いる」
「うん。いるね」
「戻ったか」
「戻った」
「よかった」
「全然よくない。朔夜、頭打ってる」
「また怒ってる」
「怒るよ」
「元気だな」
「元気じゃない!」
朔夜の口元が、ほんの少しだけ動いた。
それを見て、陽鞠は泣きそうになった。
でも、まだ泣かない。
医療棟へ運ぶまで。
朔夜の意識が安定するまで。
泣くのは後でいい。
陽鞠は指輪の熱を感じながら、結界を保った。
白い光が、胸の奥でまだ小さく燻っている。
それでも、彼女は自分の名前を握りしめる。
篠宮陽鞠。
朔夜の隣にいる退魔師。
誰かの扉ではない。
誰かの本命でもない。
誰かの欲しいものでもない。
陽鞠は陽鞠として、朔夜の手を離さなかった。




