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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第34話 頭を打つ

 展望階の空気が、黒く濁っていく。


 ガラスに浮かぶ無数の手形が、一斉に震えた。外から叩いているのか、内から押しているのかもわからない。どん、どん、どん、と低い音が円形の空間に響き、古い展望施設の骨組みが軋む。


 朔夜と陽鞠は、妖の群れの中心にいた。


 手は繋いだまま。


 右手薬指と左手薬指の指輪が、触れ合うたびに小さく鳴る。熱はまだ残っている。朔夜の黒銀の霊力と、陽鞠の金色の霊力が、手の間でかすかに響き合っていた。


 離れない。


 その約束だけが、足元を繋ぎ止めている。


 周囲には、黒い影妖がひしめいていた。背中に黒い五芒星を沈めた獣型、鳥型、腕だけのもの、人の形を途中で諦めたような歪なもの。どれも朔夜の霊力へ引き寄せられ、時折、彼の前で膝をつくように身体を沈める。


 服従。


 暴走。


 攻撃。


 その三つが壊れた歯車のように噛み合わず、朔夜の周囲で狂った回転を続けていた。


 朔夜は命令しなかった。


 従わせなかった。


 刀で斬った。


 銀の刃が走るたび、妖の影が裂ける。霊符が燃えるたび、黒い五芒星の残滓が焦げる。けれど、倒した妖の霧は展望階の床を這い、また別の妖へ吸い込まれていく。


 終わらない。


 陽鞠は結界を細く張り続けた。


 巡回員を守る避難膜は、A級退魔師たちによって階段側へ運ばれている。補助班の退路も、かろうじて保たれていた。だが、ガラスの手形は増え続けている。階段側からも新たな妖が這い上がってくる。展望階そのものが、朔夜を中心に妖を呼び寄せる器になっているようだった。


 陽鞠の指先は痛んだ。


 結界を張り続けた反動で、昨日裂けた傷がまた開いている。血が滲み、弓を握る手にぬるりとした感触があった。


 でも、止めない。


 止めたら、朔夜が呑まれる。


「朔夜、左!」


「見えてる!」


 朔夜が振り返らずに刀を返す。


 左側から飛びかかった鳥影を斬り落とし、流れる勢いで右足を踏み替える。陽鞠はその足元へ金色の足場を置いた。朔夜が踏む。刃の軌道が一段鋭くなり、正面で膝をついた獣影の核を断った。


 妖が崩れる。


 その背後で、黒い影がまた揺れた。


 朔夜の後ろ。


 彼の身体の輪郭に重なるように、巨大な黒い影が立っている。


 顔はない。


 目もない。


 だが、群れを見下ろす気配だけがあった。


 妖たちがそれへひれ伏す。


 朔夜の背後に立つ、頭領のような影。


 陽鞠は息を呑みそうになり、必死に抑えた。


 名前をつけてはいけない。


 決めつけてはいけない。


 黒い印が見せているのか、朔夜の魂の奥にあるものなのか、玻月が仕掛けた幻なのか、まだわからない。


 でも、見えている。


 確かに、そこに揺れている。


「陽鞠」


 朔夜の声が低く届く。


「見えたか」


「……うん」


「俺の後ろに、何かいるな」


「いるように見える。でも、まだ決めない」


「そうだな」


 朔夜の声は苦い。


 それでも、彼は刀を止めなかった。


「俺は、俺だ」


「うん」


「陽鞠の隣にいる」


「うん」


「斬る」


「お願い」


 朔夜が踏み込む。


 その時、展望階の床が大きく揺れた。


 ガラス全面に浮かんだ手形が、同時に押し込んでくる。板で塞がれていない窓が、内側へ膨らむように歪んだ。黒い五芒星がひとつ、ふたつ、みっつと浮かび、白い光がその中心から滲み出す。


 陽鞠の金眼が熱を持った。


「っ……!」


 視界の端が白く滲む。


 すぐに朔夜が呼ぶ。


「陽鞠!」


 名前で戻る。


 陽鞠は歯を食いしばり、窓へ結界を張った。白い光をそのまま受ければ危ない。正面から押し返せば、金眼が刺激される。だから、光だけを横へ逃がし、黒い手形の圧だけを受ける。


 細い制御。


 だが、数が多い。


 展望階を囲むガラス全体が、敵になっている。


 A級退魔師が階段側から叫んだ。


「巡回員の搬出まで二十秒!」


「持たせます!」


 陽鞠は返事をした。


 声が掠れる。


 朔夜が横目で彼女を見る。


「陽鞠、無理なら」


「言う! 今はまだ!」


 陽鞠は左手を広げ、展望階の外周に沿って結界を伸ばした。


 薄く。


 薄く。


 全体を覆うのではなく、手形が押している場所だけを縫うように繋ぐ。五芒星の線を直接封じない。そこに触れれば白い光が跳ねる。だから、その周囲の霊力の流れを切る。


 床を這う黒い霧が、陽鞠の足首へ絡みつこうとした。


 朔夜の刀が、その霧を断つ。


「触るな」


 低い声。


 黒い霧が怯むように退く。


 だが、その霧の奥でまた妖が膝をついた。


 朔夜の霊力へ。


 いや、朔夜の背後に揺れる黒い影へ。


 ひれ伏すように。


 朔夜の奥歯が鳴った。


「やめろ」


 妖たちは止まらない。


 膝をつく。


 顔のない頭を垂れる。


 次の瞬間、黒い五芒星に支配され、牙を剥く。


 従おうとして、襲いかかる。


 朔夜はそのすべてを斬り捨てた。


 霊符を三枚、同時に投げる。符は空中で黒い火となり、膝をついた妖の足元を焼いた。従属の形が崩れる。朔夜がそこへ踏み込み、核を斬る。


 速い。


 まだ動けている。


 けれど、陽鞠にはわかった。


 朔夜の呼吸が浅い。


 彼は肉体的に疲れているだけではない。


 自分の霊力に妖がひれ伏すたび、背後の影が濃くなるたび、内側を削られている。


 自分は何なのか。


 そう問う前に、斬っている。


 止まれば呑まれるから。


「朔夜、こっち見て!」


 陽鞠が叫ぶ。


 朔夜は一瞬だけ彼女を見た。


 黒い瞳が戻る。


 その瞬間、展望階の天井から黒い腕が落ちてきた。


 陽鞠を狙っていた。


 上から。


 白い光を帯びた腕が、彼女の頭上へ伸びる。


 陽鞠は結界を張ろうとした。


 だが、遅れた。


 ガラス全面を押さえ、巡回員の避難膜を維持し、朔夜の背後も支えていた。ほんの一拍、手が足りなかった。


「陽鞠!」


 朔夜が動いた。


 速かった。


 考えるより先に身体が動いたような速度だった。


 彼は陽鞠の手を引き、彼女を自分の胸元へ引き寄せた。そのまま身をひねり、落ちてきた黒い腕と、横から飛び込んできた影妖の突進を自分の背で受ける。


 衝撃が、二人を吹き飛ばした。


 陽鞠の身体が宙に浮く。


 朔夜の腕が彼女を抱え込む。


 床が迫る。


 朔夜は最後の瞬間、陽鞠の頭を自分の胸へ押し込んだ。


 どん、と鈍い音がした。


 陽鞠は床に叩きつけられなかった。


 朔夜が下になったから。


 しかし、彼の頭が背後の金属柵へ強く打ちつけられた。


 嫌な音だった。


 骨ではなく、金属と頭部がぶつかった鈍い音。


 陽鞠の全身が凍った。


「朔夜……?」


 声が出た。


 細く、掠れていた。


 朔夜の腕は、まだ陽鞠を抱えている。


 だが、力が抜けかけている。


 銀髪が、展望階の床に広がっていた。


 その銀が、赤く濡れていく。


 頭の横。


 髪の根元。


 血が滲み、銀髪に絡み、暗い赤になって広がる。


 陽鞠の呼吸が止まった。


「朔夜?」


 もう一度呼ぶ。


 朔夜の瞼が震える。


 黒い瞳が半分だけ開いた。


「……陽鞠」


 声が、ひどく低く、掠れていた。


「無事か」


 その言葉に、陽鞠の中で何かが切れかけた。


「私より、朔夜が!」


 朔夜は答えようとした。


 だが、言葉にならない息が漏れただけだった。


 頭からの血が、さらに銀髪を濡らす。


 陽鞠の手が震える。


 触っていいか聞く余裕も、今は消えた。彼の頭に直接触れないよう、血の流れを見て、傷の位置を確認しようとする。医療班を呼ぶ。結界を張る。妖を止める。やるべきことはわかっている。


 なのに、視界が白くなる。


 怒りと恐怖が、金眼の奥を一気に焼いた。


 朔夜が血を流している。


 銀髪が赤く濡れている。


 自分を庇って。


 自分を抱え込んで。


 陽鞠の喉から、悲鳴が裂けた。


「朔夜っ!!!!」


 金眼が光った。


 強く。


 金色の瞳が、内側から白金に近い輝きを帯びる。展望階の空気が震え、陽鞠の周囲に張られていた結界が一斉に膨らんだ。


 巡回員の避難膜。


 補助班の退路。


 窓を押さえていた外周結界。


 朔夜の背後を守っていた薄膜。


 そのすべてが、陽鞠の叫びに引っ張られるように変形した。


 守るために。


 弾くために。


 壊すために。


 展望階全体へ、金色の光が広がる。


 白い光が混じりかける。


 陽鞠はそれに気づいていない。


 朔夜の血しか見えていない。


 彼の銀髪が赤く染まっていくことしか、見えていない。


 妖たちが一斉に動きを止めた。


 いや、止めさせられた。


 陽鞠の結界圧が、展望階全体を押し潰すように広がっていた。妖たちの身体が床へ叩きつけられる。黒い五芒星が悲鳴のように明滅し、白い光が弾けかける。


 朔夜の背後に、黒い影が現れた。


 さっきよりも、はっきりと。


 倒れた朔夜の背後。


 血で濡れた銀髪の上にかかるように。


 巨大な黒い影が立っていた。


 そして、その周囲で、妖たちがひれ伏した。


 今度は攻撃の前触れではない。


 完全に、ひれ伏していた。


 頭を垂れ、身体を低くし、床に伏すように。


 黒い影の前に。


 朔夜の背後に揺れるものの前に。


 陽鞠はそれを見た。


 見てしまった。


 その瞬間、怒りと恐怖がさらに燃え上がる。


「朔夜に、触るなぁぁぁっ!」


 陽鞠の結界が爆ぜた。


 金色の光が、展望階の中心から波のように広がる。妖たちの身体が吹き飛ぶ。ガラスに浮かんでいた黒い手形が一斉に焼け、外側へ弾かれる。黒い五芒星の線が、いくつも焼き切れる。


 A級退魔師が叫ぶ。


「篠宮、広がりすぎだ!」


 補助班が避難膜の中で身を伏せる。


 陽鞠には聞こえていない。


 朔夜の身体を庇うように膝をつき、刀を抜き、もう片方の手で結界を広げている。金眼は強く光り、白金の輪が瞳孔の周囲へ滲みかけていた。


 このままでは危ない。


 味方まで弾く。


 自分自身も焼く。


 それでも、止まらない。


 止まれない。


 その時、展望階の壊れた放送スピーカーから、ざらついた音がした。


 妖の女声ではない。


 別の声。


 静かな男の声。


「そうだ」


 陽鞠の背筋が凍る。


 玻月の声だった。


 姿は見えない。


 だが、声は確かに展望階に響いた。


「その反応だ」


 陽鞠の結界が、一瞬だけ震えた。


 朔夜の血。


 陽鞠の叫び。


 金眼の発光。


 朔夜の背後に現れた黒い影。


 妖たちがひれ伏す光景。


 玻月は、それを待っていた。


 そう理解した瞬間、陽鞠の怒りがまた別の形になった。


 冷たい怒り。


 燃えすぎた金眼の奥で、白くなりかけていた光が、ぎりぎり金へ戻る。


「……待ってた?」


 陽鞠の声は低い。


 自分の声ではないように聞こえた。


 スピーカーの向こうで、玻月は答えない。


 代わりに、黒い五芒星を抱えた影妖たちが、ふたたび動き始める。陽鞠の結界に吹き飛ばされ、焼かれ、それでも立ち上がる。まるで、もう一度反応を引き出そうとするように。


 陽鞠の手が震えた。


 朔夜の血が、床に広がる。


 彼の瞼が重く落ちかける。


「朔夜、寝ないで!」


 陽鞠は叫ぶ。


 朔夜の黒い瞳が、かすかに開く。


「……寝てない」


「嘘、目が閉じてる!」


「うるさい」


「うるさくするから起きてて!」


 朔夜の口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑おうとしたのかもしれない。


 その動きが、陽鞠の胸を締めつける。


 彼はまだ生きている。


 意識もある。


 でも、頭を強く打っている。


 動かしてはいけない。


 血も止めなければならない。


 妖も止めなければならない。


 玻月の狙いにも、乗ってはいけない。


 やることが多すぎる。


 でも、ひとつずつやるしかない。


 陽鞠は必死に呼吸を整えた。


「私は私」


 震える声で言う。


「私は、篠宮陽鞠」


 金眼の光が、少しだけ金へ戻る。


「朔夜は朔夜」


 朔夜の手を握る。


 血で濡れていない方の手。


 左手。


 指輪が触れる。


 ちり、と鳴った。


 今度は、熱が一気に走った。


 朔夜の指が、わずかに握り返す。


「陽鞠……」


「いる。ここにいる」


「広げすぎるな」


 意識が朦朧としているはずなのに、朔夜はそう言った。


 陽鞠の喉が詰まる。


「わかってる」


「味方、いる」


「うん」


「俺を……見ろ」


 陽鞠は朔夜を見る。


 血で濡れた銀髪。


 痛みに歪む顔。


 それでも、自分を戻そうとしている黒い瞳。


「見てる」


「なら、戻れ」


 その言葉で、陽鞠は泣きそうになった。


 でも泣かない。


 今は泣かない。


 戻る。


 結界を引き戻す。


 広がりすぎた金色の膜を、展望階全体から少しずつ剥がす。味方を押し潰しそうになっていた圧を抜き、妖だけを囲む形へ折り直す。白くなりかけていた光を、金色の輪郭へ戻す。


 苦しい。


 金眼の奥が焼ける。


 でも、朔夜が見ている。


 朔夜の指が、ほんの少しだけ握っている。


 だから戻れる。


 陽鞠は結界を再構築した。


 朔夜を包む保護膜。


 頭部へ直接触れないよう、血の流れを止める応急の止血結界。


 巡回員と補助班を守る避難膜。


 妖を押さえる拘束膜。


 窓からの侵入を防ぐ外周膜。


 さっきまで暴走しかけていた結界が、陽鞠の意思で形を取り直していく。


 A級退魔師が叫んだ。


「医療班要請! 綴喜が頭部負傷!」


 別の退魔師が霊符を投げる。


 妖の一群を焼き払う。


 陽鞠は朔夜のそばから離れない。


 離れられない。


 しかし、妖はまだいる。


 黒い影は、朔夜の背後でまた揺れた。


 ひれ伏す妖たち。


 その光景を見たくない。


 でも、見なければならない。


 陽鞠は歯を食いしばる。


「あなたのものじゃない」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 玻月へ。


 黒い印へ。


 朔夜の背後に揺れる影へ。


 妖たちへ。


「朔夜は、あなたたちの頭領なんかじゃない」


 金色の結界が、朔夜の背後へ走る。


 黒い影を斬るのではない。


 遮る。


 朔夜と影の間に、陽鞠の拒絶を置く。


 影が揺らぐ。


 妖たちのひれ伏す姿勢が崩れる。


 黒い五芒星が怒ったように明滅した。


 スピーカーから、玻月の声がまた漏れた。


「やはり、君は彼を介して強く開く」


 陽鞠は顔を上げた。


 金眼が、再び強く光る。


 だが、今度は白く広がらない。


 怒りを、結界の形へ押し込める。


「黙れ」


 陽鞠の声は低かった。


「朔夜を使って、私を見るな」


 スピーカーは答えない。


「私を開こうとするな」


 展望階の空気が震える。


 陽鞠は、朔夜の手を握ったまま立ち上がった。


 彼から離れない範囲で。


 左手で朔夜の保護結界を維持し、右手で刀を構える。


「私は、あんたの待ってた反応なんかじゃない」


 金色の結界が、刃にまとわりつく。


「私は私だ」


 黒い妖たちが、一斉に襲いかかる。


 陽鞠は叫んだ。


「来るな!」


 刀を振るう。


 結界を刃に乗せた一撃が、先頭の影妖を弾き飛ばした。続く妖はA級退魔師の霊符が焼く。補助班が巡回員を階段側へ運び終える。避難膜が遠ざかる。


 朔夜はまだ動けない。


 頭部の血は止血結界で抑えているが、無理に立たせるわけにはいかない。


 陽鞠が守るしかない。


 玻月が待っていた反応だとわかっていても。


 それでも、守る。


 それは玻月のためではない。


 朔夜のため。


 陽鞠自身が選んだこと。


 妖の群れの向こうで、黒い影がもう一度揺れる。


 陽鞠はそれを睨んだ。


「ひれ伏すなら、勝手に床に這ってろ」


 声が震えている。


 怒りで。


 恐怖で。


 それでも、立っている。


「朔夜に、近づくな」


 金眼が輝く。


 今度の光は、白に呑まれない。


 陽鞠の金色だった。


 展望階に、救護班の到着を知らせる結界音が響いた。


 その直後、外のガラスに浮かんでいた最後の手形が、内側からゆっくりと剥がれた。


 スピーカーは、もう何も言わない。


 玻月の声も消えている。


 だが、陽鞠にはわかっていた。


 消えたのではない。


 見終えたのだ。


 待っていた反応を見て、退いた。


 その事実が、腹の底を冷やす。


 陽鞠は朔夜の手を握りしめた。


「朔夜、聞こえる?」


「……聞こえる」


「寝ないで」


「しつこい」


「しつこくする」


「陽鞠」


「何」


「戻ったな」


 朔夜の声は弱い。


 それでも、確かに届いた。


 陽鞠の目に、涙が滲みかけた。


「朔夜が戻してくれた」


「なら、よかった」


「よくない。全然よくない。頭打った。血が出てる。よくない」


「怒るな」


「怒るよ!」


 救護班が駆け寄ってくる。


 陽鞠は場所を空けなければならない。


 でも、手を離したくない。


 救護班の女性退魔師が、短く言った。


「手は繋いだままでいい。頭部を動かさないで。篠宮さん、そのまま保護結界を維持して」


「はい」


 陽鞠は頷いた。


 手を繋いだまま、結界を維持する。


 朔夜の銀髪は、まだ赤く濡れている。


 その光景を、陽鞠は忘れない。


 玻月が待っていた反応も。


 朔夜の背後に現れた黒い影も。


 妖たちがひれ伏した光景も。


 全部、忘れない。


 忘れたら、また使われる。


 陽鞠は金眼を細め、展望階の奥に残った黒い残滓を睨んだ。


「次は、見せない」


 小さく言う。


 朔夜の指が、かすかに動いた。


「一緒に……見る」


「今は治療」


「……ああ」


「その後、一緒に考える」


「わかった」


 朔夜の瞼が重く落ちかける。


 陽鞠はまた叫びそうになる。


 だが、救護班が冷静に告げた。


「意識確認を続けます。呼びかけて」


 陽鞠は朔夜の手を握る。


 指輪が熱を帯びている。


「朔夜」


「……聞こえてる」


「綴喜朔夜」


「いる」


「私の隣にいる?」


「いる」


「よし」


 陽鞠は震える息を吐いた。


 展望階の外で、雲がわずかに割れた。


 街の灯りが、曇ったガラス越しに滲んで見える。


 戦いは終わりきっていない。


 玻月の狙いも、黒い影の正体も、何も解けていない。


 けれど今は、朔夜の手の熱だけを離さない。


 陽鞠はそう決めた。



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