第32話 本命の気配
訓練林に残った銀糸の残滓は、昼を過ぎても完全には消えなかった。
教師用結界で封じられ、焼却処理を受け、浄化符を何枚も重ねられている。それでも、湿った地面には細い焦げ跡が残っていた。黒い五芒星の残滓は既に回収済みだが、場所そのものに冷たい気配が沈んでいる。
陽鞠は、訓練林の入口に立っていた。
近づきすぎないよう、かがりに言われた線の手前で足を止めている。結界柵には新しい札が貼られ、焼けた札は外されていた。朝には裏返っていた札が、今は正しくこちらを向いている。
それでも、気味が悪い。
銀色の霊糸。
朔夜へ向けられた影妖。
膝をつくような異様な動き。
そして、最後には陽鞠へ戻ってきた玻月の視線。
あれから、ずっと胸の奥に引っかかっている。
朔夜を狙っていた。
そう見えた。
実際、影妖は朔夜の霊力へ反応した。膝をついた。命令を待つような姿勢を取った。朔夜自身も揺れた。だから、狙われていたのは朔夜だ。そう考えるのが自然だった。
けれど、本当にそれだけだったのか。
陽鞠は、焼けた地面を見つめた。
影妖が朔夜へ膝をついた瞬間、陽鞠は彼の手を握った。
名前を呼んだ。
金眼と結界で、銀棘を防いだ。
朔夜を守ろうと前に出た。
そのたびに、玻月の視線は戻ってきた。
陽鞠へ。
まるで、それを待っていたように。
「陽鞠」
背後から声がした。
低く、聞き慣れた声。
陽鞠は振り返る。
朔夜が歩いてきていた。黒い制服の上に薄手のコートを羽織り、左手は刀の近くにある。銀髪の襟足が湿った風に揺れ、黒い瞳は訓練林の奥を見ていた。
「検査、終わった?」
陽鞠が聞く。
「ああ」
「また経過観察?」
「経過観察と追加検査」
「増えた」
「増えた」
「退魔師って、検査名を増やすの好きだよね」
「妖より書類が増える」
「それも討伐したい」
「たぶん強い」
短いやりとり。
いつも通りのようで、少しだけ硬い。
朔夜も、同じものを考えている顔だった。
彼は陽鞠の隣に立ち、訓練林の焦げ跡を見る。
「ここにいたのか」
「うん」
「一人で来るなって言われてただろ」
「入口まで。結界の外」
「そういう問題じゃない」
「ごめん」
陽鞠は素直に謝った。
朔夜は少し黙る。
それから、怒る代わりにため息をついた。
「責めたいわけじゃない」
「うん」
「ただ、嫌だ」
「うん」
「お前が一人で、あいつの痕跡の近くにいるのが」
陽鞠は右手薬指の指輪を見た。
そして、朔夜の左手薬指の指輪を見る。
「私も嫌」
彼女は小さく言った。
「朔夜が一人で、あの銀糸の近くにいるの、嫌」
朔夜の黒い瞳が、陽鞠へ向いた。
その目に、昨日の影がまだ残っている。
妖が膝をついた時の揺れ。
自分の中に知らないものがある恐怖。
それを狙われた怒り。
陽鞠は少し迷い、口を開いた。
「ねぇ、朔夜」
「何」
「御影堂さん……じゃない、御影堂の本命って、本当に朔夜なのかな」
朔夜の表情が動く。
彼も、同じことを考えていたのだと、陽鞠にはわかった。
朔夜はすぐには答えなかった。
訓練林の奥へ視線を戻す。
風が葉を揺らし、結界札がかすかに鳴った。
「俺を狙っていたのは事実だ」
「うん」
「俺の霊力に妖を反応させた。魂を刺激した。膝をつかせた」
「うん」
「でも」
朔夜は低く言う。
「最後は、陽鞠を見ていた」
陽鞠の胸が、冷たく締めつけられる。
「やっぱり、朔夜もそう思った?」
「ああ」
朔夜の声に、怒りが混じる。
「俺を揺らせば、陽鞠がどう動くか。陽鞠の結界がどう変わるか。金眼がどう反応するか。それを見ていた」
「私も、そう感じた」
陽鞠は訓練林の奥を見る。
銀糸の残滓はもうない。
それでも、玻月の視線の感触は残っている。
「朔夜を狙ったのは、朔夜がどうでもいいからじゃない。朔夜の中にも何かある。危うい反応がある。それは本当だと思う」
「嬉しくない事実だな」
「うん。全然嬉しくない」
陽鞠は唇を結ぶ。
「でも、御影堂が一番見たかったのは、朔夜が揺れた時の私かもしれない」
その言葉を口にした瞬間、空気が重くなった。
自分で言って、気持ち悪さが増す。
玻月は陽鞠へ「君の中にあるものが欲しい」と言った。
朔夜を揺らすことで、陽鞠の中の何かを引き出そうとしているのなら。
朔夜は、陽鞠を開かせるための鍵として狙われたのかもしれない。
その考えが、吐き気がするほど嫌だった。
朔夜の霊力が冷える。
「俺を使って、陽鞠を揺らす気か」
「たぶん」
「ふざけるな」
低い声だった。
怒鳴らない。
だから余計に怖い。
陽鞠は朔夜の手に触れた。
「でも、私を使って朔夜を揺らしてる可能性もある」
朔夜は陽鞠を見る。
「どっちが本命か、まだわからない」
「うん。でも」
陽鞠は自分の胸元に手を当てた。
「御影堂の視線は、最後に私へ戻る」
朔夜の表情が、さらに険しくなる。
「気づいてた」
「うん」
「俺もだ」
「気持ち悪いよね」
「ああ」
「朔夜を見てる時も嫌だけど、私を見てくる時は、もっと嫌」
「斬りたい」
「それは知ってる」
「今も斬りたい」
「今はここにいない」
「だから余計に腹が立つ」
陽鞠は少しだけ息を吐いた。
朔夜の怒りは、もうただ暴れるだけのものではない。水族館跡で届かないと知ってから、彼は怒りを持ったまま止まることを覚えようとしている。それがどれほど苦しいか、陽鞠にはわかる。
陽鞠自身も、玻月へ向かって刀を抜きたい。
欲しいと言われた嫌悪も、朔夜を揺らされた怒りも、胸の中にある。
でも、今は考えなければならない。
怒りだけで突っ込めば、また玻月の指先で逸らされる。
それではだめだ。
「朔夜」
「何」
「離れないで」
朔夜の黒い瞳が、わずかに揺れた。
陽鞠は続ける。
「御影堂は、私たちのどっちかを単独で狙うんじゃなくて、片方を揺らして、もう片方を動かそうとしてる。たぶん」
「ああ」
「だから、離れたら危ないと思う」
「ああ」
「一緒にいても利用されるかもしれない。でも、離れたらもっと危ない」
朔夜は黙って聞いていた。
陽鞠は、少しだけ声を弱める。
「朔夜が揺れた時、私は呼ぶ。私が白い光に触れた時、朔夜が呼ぶ。指輪が鳴る。手を握る。そうやって戻ってきた」
「ああ」
「だから、離れないで」
朔夜の手が、陽鞠の手を握り返した。
「離れない」
即答だった。
「俺も同じことを言おうと思ってた」
「ほんと?」
「本当」
「私が先に言った」
「悔しい」
「そこ?」
「大事だ」
陽鞠は少し笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を戻す。
朔夜はその手を、もう少し強く握った。
「陽鞠」
「何」
「一人で抱えるな」
「うん」
「御影堂が本命を陽鞠に向けてるなら、俺は隣にいる」
「うん」
「俺が揺らされたら、呼んでくれ」
「何回でも」
「陽鞠が揺れたら、俺が呼ぶ」
「うん」
「どっちかが餌にされても、もう片方が引き戻す」
餌。
その言葉は嫌だった。
でも、現実に近かった。
玻月は二人を使っている。
片方を刺激し、もう片方の反応を見る。
そうして奥へ、奥へ、手を伸ばそうとしている。
陽鞠は朔夜の手を握ったまま、はっきり言った。
「私たちは、餌じゃない」
「ああ」
「道具でもない」
「ああ」
「条件でもない」
「ああ」
「二人で決める」
「一緒に決める」
指輪が触れた。
ちり、と小さく鳴る。
熱はない。
けれど、その音は確かだった。
その時、陽鞠の端末が鳴った。
かがりからの任務通知だった。
陽鞠と朔夜は同時に画面を見る。
任務場所は、市内北東部の古い展望施設。
現在は閉鎖中。
夜間巡回員が、展望台のガラス越しに「誰かがこちらを見下ろしている」と通報。その後、監視カメラに人影のような黒いものが映り込んだ。低級妖反応。ただし、黒い五芒星に近い波形あり。
応援待機ではなく、初動対応。
陽鞠と朔夜に直接指名が入っている。
朔夜の目が細くなった。
「露骨だな」
「うん」
「断るか」
朔夜が聞いた。
陽鞠は画面を見つめる。
かがりからの補足が続けて届く。
別班が現地へ向かっているが、一般人が施設内へ入り込んだ可能性あり。陽鞠と朔夜は単独突入不可。現地で別班と合流し、かがりが遠隔監視。更紗が解析待機。
「一般人がいるかもしれない」
陽鞠が言う。
「行くんだな」
「うん」
「わかった」
「でも、条件がある」
陽鞠は朔夜を見る。
「離れない」
朔夜は頷いた。
「絶対に」
「結界で分断されそうになったら、まず指輪を鳴らす」
「手が届く距離を維持する」
「白い光が出たら名前を呼ぶ」
「妖が膝をついたら、陽鞠を見る」
「御影堂が出たら?」
「怒りで突っ込まない」
朔夜は苦そうに言った。
陽鞠は頷く。
「私も、見られて気持ち悪くなっても、一人で無理に弾こうとしない」
「触られそうになったら?」
「噛む前に斬る」
「噛んでもいい」
「そこ許可するんだ」
「あいつ相手なら許可する」
「朔夜らしい」
少しだけ、二人の間に笑いが戻った。
でも、任務の気配は重い。
展望施設。
見下ろす人影。
黒い五芒星。
直接指名。
玻月が現れるかどうかはわからない。
だが、何かが二人を呼んでいる感覚があった。
陽鞠は弓の位置を確かめた。
腰の刀も確認する。
朔夜も刀の鞘を軽く押さえた。
いつもの任務前なら、ここで短いキスをする。
生きて帰るための確認。
今日も必要だった。
いつもより、ずっと。
陽鞠は朔夜を見上げた。
「朔夜」
「何」
「任務前のキス、まだ」
朔夜の黒い瞳が、少しだけ揺れた。
いつもは彼が言う言葉。
今日は陽鞠が先に言った。
「いいのか」
「うん」
「ここで?」
「人、いないし」
「長くなる」
陽鞠の顔が少し赤くなる。
「……いいよ」
「本当に?」
「いい。今日は、長い方がいい」
朔夜の表情が変わった。
からかう余裕はなかった。
ただ、静かに陽鞠を見ている。
「触っていいか」
「うん」
「腰」
「いい」
「顎」
「いい」
「キス」
「いい」
ひとつずつ確認してくれる。
その声が、陽鞠の胸の奥に落ち着きを戻す。
朔夜の手が、陽鞠の腰へ回った。
強すぎない。
でも、逃がさないようにではなく、支えるように。
もう片方の手が、陽鞠の顎へ触れる。指先が冷たい。陽鞠は自分から少し顎を上げた。朔夜が屈み、額が近づく。
最初は、額へのキスだった。
短く、優しい。
それから、髪へ。
こめかみへ。
頬へ。
陽鞠は朔夜の制服の前を掴んだ。ネクタイの結び目が少し乱れる。指輪が布に当たり、小さな音を立てた。
「朔夜」
「何」
「口」
朔夜の呼吸が、ほんの少し変わる。
「いい?」
「うん」
唇が重なった。
最初は軽く。
いつもの任務前の確認のように。
でも、離れなかった。
陽鞠が朔夜の制服を掴む手に力を込める。朔夜の腕が、腰をもう少しだけ引き寄せた。距離が詰まる。胸元のアクセサリーが触れ合い、小さく鳴った。ピアスが揺れる音も、近くで聞こえた。
唇が少しずつ深く重なる。
呼吸が混ざる。
陽鞠の喉から、小さな声が漏れた。
「ん……」
恥ずかしさに肩が跳ねる。
でも、離れない。
今日は、離れたくなかった。
玻月の視線が気持ち悪かった。
朔夜を狙うように見せて、自分へ戻ってくる意図が怖かった。
だからこそ、自分で選んで触れたかった。
自分で選んで、朔夜に近づきたかった。
朔夜は急がない。
角度を変える前に、唇を少し離す。
「続ける?」
低く聞く。
陽鞠は、息を整えながら頷いた。
「続けて」
朔夜はもう一度キスをした。
さっきより深い。
唇の内側に熱が広がる。陽鞠の指が、朔夜の制服をぎゅっと掴む。腰に回された腕が、少しだけ強くなる。
怖さが薄れていく。
消えるわけではない。
でも、玻月の「欲しい」という声より、朔夜の呼吸の方が近くなる。
御影堂の視線より、朔夜の手の温度が確かになる。
任務前の確認。
生きて戻る約束。
離れないための印。
いつもより長いキスは、その全部を二人の間に置いていった。
唇が離れた時、陽鞠は少し息が上がっていた。
顔も熱い。
朔夜の黒い瞳も、いつもより近くて、深かった。
「長かった」
陽鞠が小さく言う。
「短い」
「嘘」
「俺には短い」
「それは基準がおかしい」
「陽鞠だから」
「それ言えば通ると思ってる」
「通らないか」
「少し通る」
朔夜の口元が、わずかに緩んだ。
陽鞠も、少しだけ笑った。
それから、真顔に戻る。
「離れないで」
「離れない」
「もし分断されたら、戻ってきて」
「必ず」
「私も戻る」
「ああ」
「本命が私でも、朔夜でも、どっちでも」
陽鞠は朔夜の手を握った。
「二人で返す」
朔夜は、その手を握り返した。
「二人で斬る」
「私は結界も張る」
「俺は斬る」
「うん」
指輪が、また小さく鳴った。
ちり。
今度は少しだけ熱を持った。
怖くはなかった。
陽鞠は弓を背負い直し、刀の位置を確かめる。朔夜も刀を確認し、端末でかがりへ出動返信を送った。
灰色の空の下、二人は訓練林を離れる。
背後に残る銀糸の焦げ跡は、まだ完全には消えていない。
それでも、二人は並んで歩いた。
手は繋いだまま。
任務へ向かうために。
狙われても、揺らされても、戻ってくるために。




