第31話 狙われる銀
翌日の空は、朝から灰色だった。
雨は降っていない。けれど、雲は低く、校舎の屋根へ押しつけられるように垂れていた。風は湿っていて、肌にまとわりつく。退魔学園の中庭にある木々の葉も、いつもより重たげに揺れていた。
陽鞠は、医療棟の前で朔夜を待っていた。
昨夜、玻月が中庭に現れた後、二人はかがりの監督下で宿泊棟へ入った。廊下には教師用結界が張られ、部屋は隣同士。朝になってからも、医療班の霊力確認と精神干渉の検査が入った。
結果は、深刻な異常なし。
ただし、陽鞠の金眼には軽い残留熱。
朔夜の霊力には、廃駅で妖が膝をついた時と似た微弱な共鳴痕。
異常なしと言いながら、紙面にはびっしり注意事項が書かれていた。退魔師の医療記録は、安心させたいのか怖がらせたいのかはっきりしてほしい。人間社会の書類という妖もなかなか厄介だ。
陽鞠は右手薬指の指輪を親指でなぞった。
昨夜の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
君の中にあるものが欲しい。
思い出すだけで、肌が粟立つ。
欲しい。
その言葉が、あれほど気持ち悪く響くことがあるのだと知った。好きな人に言われる「欲しい」と、玻月に言われる「欲しい」は、まったく違う。朔夜に手を伸ばされる時は、自分で選べる場所がある。嫌なら止まれる。やめてと言えば、止まる。
玻月の「欲しい」は、違う。
陽鞠の意思を通り越して、中へ手を入れようとする。
扉だと言われたことも、不快だった。
自分は扉ではない。
誰かの奥へ届くための道具ではない。
陽鞠は陽鞠だ。
そう胸の内で繰り返した時、医療棟の扉が開いた。
朔夜が出てくる。
銀髪の襟足が湿った風に揺れた。黒い瞳はいつもより少し暗い。検査着から制服へ戻っているが、ネクタイはやや緩く、襟元もいつも通り少し崩れている。左手薬指の指輪は、光の少ない朝でも確かにそこにあった。
「終わった?」
陽鞠が聞く。
「ああ」
「何か言われた?」
「経過観察」
「私も」
「魂に変な反応が出てるのに経過観察で済ませるな」
「退魔師の医療班、だいたい強い言葉を避けるよね」
「避けてる場合じゃない」
「でも、深刻ですって真正面から言われたら、それはそれで嫌」
「面倒だな」
「心って面倒なんだよ」
朔夜は少しだけ息を吐いた。
疲れている。
陽鞠にはわかった。
身体の傷より、昨夜の言葉と水族館跡での敗北の方が響いている。朔夜は強い。強いからこそ、届かなかったことを簡単には流せない。玻月に白手袋の指先だけで刀を逸らされた感触は、きっとまだ手の中に残っている。
陽鞠は少し迷い、手を差し出した。
「手」
朔夜が目を瞬く。
「いいのか」
「うん。私が握りたい」
朔夜は黙って、その手を取った。
指輪が触れる。
ちり、と小さく鳴った。
熱はない。
ただ、音だけ。
それだけで、陽鞠は少し落ち着いた。
「今日、授業出る?」
朔夜が聞く。
「午前はかがり先生に報告。午後は解析棟で更紗の追加説明。授業はたぶん免除」
「また反省文か」
「何もしてないのに?」
「俺たちが何もしてなくても、なぜか増える」
「退魔師って不思議」
「不条理の別名だろ」
二人は医療棟の前を離れた。
校舎へ向かう途中、学園の外縁部にある訓練林の横を通る。普段は実技授業で使う場所だが、朝の時間帯はほとんど人がいない。林の入口には低い結界柵があり、内部には小型の模擬妖を放つ訓練用の結界陣がいくつも設置されている。
今日は使用予定がないはずだった。
なのに、林の奥から霊力が揺れた。
陽鞠と朔夜は同時に足を止める。
湿った風が、ぴたりと止まった。
結界柵の札が一枚、音もなく裏返る。
陽鞠は弓へ手を伸ばした。
朔夜も刀の柄へ手をかける。
「予定外?」
陽鞠が低く言う。
「だろうな」
「先生に連絡」
「もう送った」
朔夜の端末は、片手の中で既に通信を飛ばしていた。
陽鞠は小さく頷く。
その瞬間、林の中から銀色の光が走った。
陽鞠は息を呑む。
銀。
朔夜の霊力に似ている。
だが、違う。
黒銀ではない。
もっと冷たく、薄く、刃の形だけを真似たような銀。
その光が、林の木々の間を縫うように走り、朔夜の足元へ突き刺さった。
朔夜が一歩引く。
地面に細い霊糸が刺さっていた。
銀色の糸。
霊力で編まれた針のようなもの。
陽鞠は即座に結界を張った。
朔夜の前へ、薄い金色の膜。
次の瞬間、林の奥からさらに銀糸が飛ぶ。
一本。
三本。
七本。
すべて朔夜へ向かっていた。
陽鞠の結界が、それらを受ける。真正面から受け止めず、斜めに流す。糸は金色の膜に触れた瞬間、きん、と甲高い音を立てて弾かれ、地面へ突き刺さった。
刺さった場所から、黒い水のような影が滲む。
影の中に、黒い五芒星が一瞬だけ浮いた。
朔夜の目が細くなる。
「俺狙いか」
「たぶん」
陽鞠は林の奥を睨んだ。
「出てきてください」
風が戻る。
湿った葉が揺れる。
木々の間から、黒い長衣が見えた。
御影堂玻月が、訓練林の影の中に立っていた。
白手袋の指先には、銀色の霊糸が絡んでいる。濡羽色の髪は低く結ばれ、紫紺の瞳は薄暗い林の中でもよく見えた。
陽鞠の胸が冷える。
朔夜の手が、刀の柄を強く握った。
「御影堂」
朔夜の声は低い。
玻月は朔夜を見た。
陽鞠ではなく、朔夜を。
その視線に、陽鞠は違和感を覚えた。
いつもなら、玻月の目はすぐ陽鞠へ戻ってくる。金眼、結界、拒絶、魂の奥。気持ち悪いほど、こちらへ向く。
だが、今は朔夜を見ている。
銀髪。
黒い瞳。
刀。
そして、おそらく魂。
「綴喜朔夜」
玻月が呼んだ。
「君は、まだ自分の奥を知らない」
「知る必要があるなら、自分で知る」
「自分で知る前に、開くこともある」
「お前に開かれる気はない」
「君が望むかどうかは、あまり関係がない」
朔夜の霊力が一気に冷えた。
陽鞠はすぐに前へ出ようとした。
しかし、朔夜が片手で止める。
「陽鞠、下がれ」
「嫌」
「俺狙いだ」
「だから前に出る」
「陽鞠」
「朔夜が私を守る時、下がれって言われて下がらないでしょ」
朔夜は一瞬だけ黙った。
「同じ」
陽鞠は言い切った。
「朔夜が狙われてるなら、私が守る」
朔夜の黒い瞳が揺れる。
怒りとは違う、痛みのようなものが走った。
「守られるのは慣れない」
「慣れて」
「雑だな」
「慣れて」
「二回言った」
「大事だから」
陽鞠は朔夜の前に半歩出た。
完全に隠すのではない。
隣に立ち、少しだけ前へ。
彼が動ける余白は残す。
でも、玻月の視線と銀糸がまっすぐ届かない位置に、自分の結界を置く。
朔夜は反論しなかった。
玻月はそれを見て、わずかに目を細めた。
「君は、彼を守るのか」
「守ります」
「彼の中にあるものが、君を傷つけるかもしれないとしても」
陽鞠の肩が強張る。
朔夜の霊力が揺れた。
それを狙っていたように、地面へ刺さっていた銀糸が震えた。
黒い影が膨らむ。
影の中から、小さな妖が這い出した。
訓練林に本来いる模擬妖ではない。
銀糸に引っ張り出された、黒い五芒星の残滓をまとった影妖だった。身体は獣のように低く、頭部には顔がない。背中に細い銀の棘がいくつも生え、その棘が朔夜の霊力へ反応して震えている。
妖が、朔夜を見た。
いや、朔夜の奥を見た。
次の瞬間、影妖の前脚が折れた。
膝をつくように。
廃駅の妖と同じ動き。
朔夜の息が止まる。
陽鞠はすぐに彼の左手を掴んだ。
「朔夜!」
名前を呼ぶ。
指輪が触れた。
ちり、と鳴る。
今度はすぐに熱を持たなかった。
だが、音は届いた。
朔夜の黒い瞳が、陽鞠へ戻る。
「今の朔夜は朔夜」
陽鞠は早口で言った。
「妖が何をしても、御影堂が何を言っても、朔夜は朔夜。私の隣にいる朔夜」
朔夜の喉が動く。
「わかってる」
「本当に?」
「揺れた」
「うん」
「でも、戻った」
「うん」
「陽鞠が呼んだから」
「何回でも呼ぶ」
影妖が再び動く。
膝をついていた姿勢から、今度は無理やり立ち上がった。背中の銀棘が一斉に伸び、朔夜へ向かって飛ぶ。銀色の針が空気を裂いた。
陽鞠は朔夜の前へ結界を張る。
金色の膜が、銀棘を受け止める。
しかし、棘はただの攻撃ではなかった。結界に触れた瞬間、陽鞠の膜を貫こうとするのではなく、朔夜の霊力を探るように震える。金色の結界の表面に、黒い五芒星の線が一瞬だけ浮いた。
陽鞠は歯を食いしばる。
「朔夜狙いに見せて、結界越しに霊力を探ってる……!」
玻月の声が、林の奥から響く。
「よく見えている」
「褒めるな!」
陽鞠は結界を爆ぜさせた。
広げない。
必要なところだけ。
銀棘に絡みついた黒い線を、金色の火花で焼く。棘が砕け、影妖がよろめく。
朔夜が前に出た。
刀が抜かれる。
陽鞠は彼を止めなかった。
怒りで暴走しているわけではない。
今の朔夜は、自分の奥の揺れを感じながらも、妖を見ている。
「左、足元」
「見えてる」
陽鞠が足場結界を置く。
朔夜がそれを踏む。
黒銀の霊力が刃に乗り、影妖の側面へ入った。銀棘が朔夜の刀を止めようとする。陽鞠の補助膜が刃の背を支え、棘の間を滑らせる。
刃が影妖の背を斬った。
黒い霧が噴き出す。
その中に、銀色の霊糸が一本見えた。
玻月の糸。
陽鞠は目を見開く。
「核じゃない。糸で動かされてる!」
「御影堂か」
朔夜の声が冷える。
玻月は何も言わない。
朔夜が銀糸へ斬りかかる。
しかし、その瞬間、白手袋の指先が動いた。
銀糸がひゅっと引かれる。
朔夜の刀は糸のあった場所を通り過ぎた。
掠らない。
また、届かない。
朔夜の奥歯が鳴る。
だが、彼は追いすぎなかった。
陽鞠の手が肩へ触れる前に、自分で止まった。
「……逃がした」
「追わないで」
「わかってる」
「偉い」
「腹立つ言い方」
「でも偉い」
朔夜は短く息を吐いた。
その間にも、影妖は動く。
銀棘が今度は陽鞠へ向かった。
朔夜狙いに見せていた攻撃が、急に軌道を変えた。
陽鞠は結界を張る。
だが、棘の本命は陽鞠ではない。
棘の先端が、陽鞠の結界へ触れる瞬間、そこから白い光が漏れた。
金眼が熱を持つ。
陽鞠の視界の端が白く滲む。
「っ……!」
朔夜が即座に名前を呼んだ。
「陽鞠!」
その声で、白が止まる。
陽鞠は奥歯を噛む。
「大丈夫」
「本当に」
「大丈夫。見えてる」
見えている。
玻月の狙いも。
朔夜を狙っているように見せて、朔夜の魂を刺激する。
妖に膝をつかせる。
朔夜を揺らす。
陽鞠に守らせる。
その上で、陽鞠の金眼と結界の反応を見る。
結局、視線は戻ってくる。
陽鞠へ。
玻月の紫紺の瞳が、林の奥からこちらを見ていた。
さっきまで朔夜を見ていたはずなのに。
今は、陽鞠を見ている。
守ろうとする陽鞠。
朔夜の魂の揺れに反応する陽鞠。
白い光に触れても自分を繋ぎ止める陽鞠。
玻月は、それを見ている。
陽鞠の背筋に嫌悪が走った。
「やっぱり私を見るんですね」
陽鞠が言う。
玻月は答えない。
「朔夜を狙ったふりをして、私の反応を見てる」
「ふりではない」
玻月が静かに返した。
「彼の魂は、確かに危うい」
朔夜の霊力が揺れる。
陽鞠はすぐに彼の手を握った。
「朔夜」
「大丈夫」
「大丈夫って言う時ほど危ない」
「陽鞠もだろ」
「私は今言ってない」
「さっき言った」
「今は言ってない」
「屁理屈」
「生きるための屁理屈」
朔夜の口元が、ほんの少しだけ動いた。
それで十分だった。
陽鞠は玻月へ視線を戻す。
「朔夜を勝手に危ういもの扱いしないで」
「事実だ」
「事実でも、あなたが触っていい理由にはならない」
「触れずとも、揺れる」
「揺れても戻る」
陽鞠は言い切った。
「私が呼ぶ。朔夜も自分で戻る。あなたに開かれなくても」
玻月の目がわずかに細くなる。
影妖が再び膝をつくように動いた。
今度は一体ではない。
林の地面に刺さった銀糸の周囲から、さらに二体、影妖が這い出していた。どれも背中に銀棘を生やし、黒い五芒星の残滓を核に抱えている。
三体の影妖が、朔夜へ向かって膝をつく。
異様な光景だった。
攻撃前の姿勢ではない。
服従。
命令待ち。
妖が退魔師へ膝をつく。
その中心に朔夜がいる。
朔夜の呼吸が一瞬乱れる。
陽鞠は手を離さなかった。
指輪が今度こそ熱を持つ。
じん、と内側から光るような熱。
朔夜の手も熱い。
彼は影妖を見ている。
嫌悪と困惑と怒りが、黒い瞳の中でせめぎ合っている。
「朔夜、見て」
陽鞠が言う。
「妖じゃなくて、私」
朔夜の視線が動く。
陽鞠を見る。
「命令しなくていい。従わせなくていい。朔夜は、斬る退魔師」
「……ああ」
「私の隣」
「ああ」
「妖が膝をついても、朔夜は膝をつかせる側じゃない」
朔夜の指が、陽鞠の手を握り返す。
「俺は、俺だ」
「うん」
「綴喜朔夜」
「うん」
「陽鞠の隣にいる」
「うん」
三体の影妖が、同時に立ち上がった。
服従が失敗した反動のように、背中の銀棘が一斉に膨らむ。銀色の針が無数に開き、林の中の空気を切り裂いた。
「来る!」
陽鞠が叫ぶ。
金色の結界を前方へ展開する。
ただ守るだけでは足りない。
針は朔夜の霊力を探る。陽鞠の金眼を刺激する。結界を通して奥へ入ろうとする。
だから、通さない。
陽鞠は結界を三重にした。
一層目で銀棘の物理的な勢いを殺す。
二層目で黒い五芒星の残滓を焼く。
三層目で白い光だけを反射する。
だが、三体分の針は重い。
結界が軋む。
指先の傷が開く。
昨日の水族館跡で裂けた箇所から、また血が滲む。
朔夜が陽鞠の横へ出た。
「下がれとは言わない」
「うん」
「でも、半分持つ」
「お願い」
朔夜の刀が、結界の端から出た銀棘を斬る。
一本。
二本。
十本。
刃が見えないほど速く走る。
陽鞠は朔夜の動きに合わせて、結界の開閉を繰り返した。刀が通る瞬間だけ開き、針が来る瞬間に閉じる。呼吸が合わなければ、朔夜の刀を邪魔するか、針を通してしまう。
ちり、と指輪が鳴る。
音で合わせる。
陽鞠が開く。
朔夜が斬る。
陽鞠が閉じる。
朔夜が足を替える。
銀棘が砕け、黒い霧が散る。
玻月は動かない。
林の奥で、白手袋の指先だけを動かしている。
三体の影妖は、彼の糸に操られている。
朔夜の魂を刺激するために。
そして、陽鞠の反応を見るために。
陽鞠は怒りで奥歯を噛んだ。
「私たちを、試すな!」
結界を爆ぜさせる。
広くではない。
三体の影妖の足元だけ。
金色の光が地面を走り、銀糸の刺さった部分を焼いた。糸が一瞬だけ見える。
朔夜がそこへ刀を入れる。
今度は、玻月が糸を引くより早かった。
一本、切れた。
銀糸が弾ける。
影妖の一体が動きを失い、膝から崩れた。朔夜の刀が核を断つ。黒い五芒星の残滓が砕ける。
しかし、玻月には届いていない。
銀糸一本。
操られた影妖一体。
それだけ。
それでも、朔夜は追わなかった。
届かない相手へ怒りで突っ込まない。
陽鞠はそれを見て、胸の奥で小さく頷いた。
玻月も、見ていた。
「学んでいる」
その声が聞こえた。
朔夜は答えない。
陽鞠が代わりに言う。
「あなたのためじゃない」
「そうだな」
「本当に腹が立つ」
陽鞠は二体目へ矢を放った。
金色の矢が、銀棘の間を抜ける。影妖は朔夜の霊力へ反応して体勢を変えようとした。その瞬間、陽鞠の結界が妖の膝を固定する。
服従の形を、逆に利用する。
膝をつく動きを止めるのではない。
膝をついた瞬間、その姿勢から動けなくする。
「朔夜!」
「見えてる」
朔夜の刀が、二体目の核を斬った。
黒い残滓が散る。
残り一体。
その一体の背中から、銀棘ではなく、銀色の輪が開いた。
輪の内側に、黒い五芒星。
さらに奥に、白い光。
陽鞠の金眼が強く熱を持つ。
玻月の声がした。
「これに、君はどう反応する」
陽鞠はぞっとした。
やはり、視線は自分へ戻っている。
朔夜を狙うふりをして。
朔夜の魂を揺らして。
最後に見るのは、陽鞠。
陽鞠の中にあるもの。
陽鞠の金眼。
陽鞠の拒絶。
陽鞠の結界。
「気持ち悪い」
陽鞠は低く言った。
玻月の目が、かすかに動く。
「あなたのそういうところ、本当に気持ち悪い」
陽鞠は弓を下ろした。
そして、腰の刀へ手を伸ばす。
朔夜が一瞬だけ見る。
陽鞠は頷いた。
「近い」
「ああ」
「合わせて」
「任せろ」
陽鞠は刀を抜いた。
金色の霊力が刃に走る。
最後の影妖が白い光を放つ。
陽鞠の視界が白く滲む。
だが、朔夜の声が隣から飛ぶ。
「陽鞠!」
名前。
戻る。
陽鞠は踏み込んだ。
小柄な身体が、低く沈む。影妖の銀棘が突き出される。朔夜が横から入り、それを斬る。陽鞠は朔夜の刀が作った隙間へ入り込んだ。
玻月の糸が、影妖を引こうとする。
陽鞠は結界を刃の周囲に巻きつけた。
刀そのものを小さな拒絶結界にする。
触れるな。
見せない。
開かない。
金色の刃が、銀の輪を斬った。
黒い五芒星が割れる。
白い光が爆ぜる。
陽鞠の目の奥に熱が走る。
だが、朔夜の刀がすぐに核へ入り、黒銀の霊力で白い光の出口を断った。二人の霊力が、指輪の音とともに重なる。
ちりん。
影妖が崩れた。
銀糸が空中で切れ、黒い霧が林の地面へ落ちる。陽鞠はすぐに封印結界を張り、残滓を閉じ込めた。
息が荒い。
指先が痛い。
目の奥も熱い。
それでも、立っている。
朔夜も隣にいる。
玻月は、林の奥から二人を見ていた。
今度は朔夜ではない。
完全に、陽鞠を見ていた。
陽鞠は刀を構えたまま、その視線を拒んだ。
「見ないでください」
「君は彼を守る」
「守ります」
「彼が君を危うくするとしても」
「朔夜は朔夜です」
「危うさは消えない」
「それでも、朔夜です」
陽鞠は言い切った。
「そして私は、私です」
玻月の紫紺の瞳が、微かに揺れた。
その奥に、何か遠い痛みのようなものが走った気がした。
だが、すぐに消えた。
白手袋の指先が、残った銀糸を回収する。
「良い反応だった」
玻月が言った。
陽鞠の嫌悪が、一気に跳ねた。
「最低」
朔夜の刀も、再び玻月へ向いた。
玻月は動かない。
「次は、さらに深く揺れる」
「させない」
朔夜が低く言う。
「俺も、陽鞠も」
「言葉だけでは止まらない」
「なら、刀で止める」
「届くようになればな」
朔夜の歯が鳴る。
しかし、踏み込まない。
怒りを飲み込んでいる。
陽鞠はその隣で刀を構えたまま、玻月を睨んだ。
「あなたが何を狙っても、私は朔夜を呼びます」
玻月は陽鞠を見る。
「君が彼を呼ぶたび、君の中のものも揺れる」
「それでも呼びます」
「自分が開くとしても?」
「開かない」
陽鞠の声は、揺れなかった。
「私が決める。朔夜を呼ぶのも、拒むのも、戦うのも、全部私が決める。あなたじゃない」
風が林を抜けた。
葉がざわめく。
その音に紛れるように、遠くからかがりの声がした。
「篠宮! 綴喜!」
教師用結界の気配が近づいてくる。
玻月はその方向を一瞥した。
「ここまでだ」
「逃げるな」
朔夜が言う。
「逃げるのではない」
「じゃあ何だ」
「今日は、狙いが終わった」
陽鞠の背筋に嫌悪が走る。
朔夜を狙うように見せた。
朔夜の魂を揺らした。
陽鞠に守らせた。
そして、最後に陽鞠を見た。
それが、今日の狙い。
玻月は最初から、二人の反応を引き出すつもりだった。
陽鞠は刀を握る手に力を込めた。
「私は、あなたの欲しい反応なんかじゃない」
「そうだな」
「だから、その言い方をやめて」
「考えておこう」
「考えるじゃなくて、やめて」
玻月は答えなかった。
黒い長衣の輪郭が、林の影へ溶けていく。
朔夜が一歩動く。
陽鞠が手首を掴んだ。
「朔夜」
「……追わない」
低く、悔しそうな声。
でも、止まった。
玻月の姿は消えた。
林の中に残ったのは、焼けた銀糸の匂いと、黒い五芒星の残滓だけだった。
かがりが駆けつけた時、陽鞠と朔夜は並んで立っていた。
刀を抜いたまま。
呼吸は荒く、指先には血が滲み、結界柵の札は半分ほど焼けている。
かがりは一目で状況を理解したように、険しい顔で言った。
「御影堂か」
「はい」
陽鞠が答える。
「今度は、朔夜を狙いました」
朔夜が低く続ける。
「俺の魂を揺らすためだ」
かがりの目が鋭くなる。
陽鞠は玻月が消えた林の奥を見た。
「でも、最後は私を見てました」
言葉にすると、改めて気持ち悪さが込み上げる。
「朔夜を使って、私の反応を見てた」
朔夜の手が、陽鞠の手に触れる。
「触っていいか」
「うん」
彼は陽鞠の手を握った。
強く。
でも、陽鞠が離せる強さで。
指輪が触れる。
ちり、と鳴った。
今度は熱くならない。
ただ、二人の間で音がした。
「俺は揺れた」
朔夜が言った。
「でも戻った」
陽鞠が返す。
「陽鞠が呼んだから」
「朔夜が戻ってきたから」
二人は互いを見る。
怖いものは消えない。
朔夜の魂の危うさも、陽鞠の金眼も、玻月の視線も、黒い印の奥も。
何ひとつ消えていない。
それでも、今ここにいる。
並んで立っている。
陽鞠は朔夜の手を握り返した。
「次も呼ぶ」
「ああ」
「何回でも」
「俺も呼ぶ」
「うん」
訓練林の奥で、焦げた銀糸の残滓が小さく煙を上げていた。
その煙は細く、空へ上がる前に湿った風に消えた。




