第30話 欲しいもの
解析棟を出ると、夜の空気が冷えていた。
白い灯りに慣れた目には、外の闇が少し濃く見える。校庭の奥に立つ結界塔は淡く光り、学園全体を覆う守りの膜を静かに揺らしていた。風は弱い。けれど、解析棟で嗅いでいた霊液と封印硝子の匂いが抜けるには十分だった。
陽鞠は、無意識に右手を握った。
指輪が、掌の内側でわずかに当たる。
黒い五芒星の奥。
玻月の術式に似た層。
それだけでは説明できない、不明な白い術式。
更紗の声が、まだ耳に残っている。
玻月だけではないかもしれない。
そう聞いても、胸の中の警戒は軽くならなかった。むしろ、重さが変わっただけだった。目の前にいる危険な男の背後に、さらに別の何かがあるかもしれない。そうわかったところで、玻月が陽鞠へしたことが消えるわけではない。
触るなと言った手首。
拒絶した視線。
狭い結界へ押し込められた息苦しさ。
彼は関わっている。
少なくとも、陽鞠を試し、観察し、勝手に踏み込んできた。
その事実は変わらない。
隣を歩く朔夜は無言だった。
銀髪の横顔は、夜の光の中で冷たく見える。左手は刀の近くにある。歩幅は陽鞠に合わせているが、全身のどこにも隙がない。解析室では怒りを飲み込み、玻月だけでは説明できない可能性も聞いた。だが、それは許したという意味ではない。
むしろ、はっきりした。
玻月は危険だ。
陽鞠に近づけていい相手ではない。
朔夜の中で、その認識はもう疑いではなくなっていた。
「朔夜」
陽鞠が呼ぶ。
「何」
「怒ってる?」
「ああ」
「ずっと?」
「ずっと」
「疲れない?」
「疲れる」
「じゃあ少し休んで」
「怒りが勝手に休めばな」
「怒りって自律行動するんだ」
「する」
「厄介」
「本当に」
短いやりとりで、少しだけ息がしやすくなった。
宿泊棟へ向かうには、解析棟横の渡り廊下を抜け、古い中庭を横切るのが近い。夜の中庭はひっそりとしていた。昼間は生徒が通る場所だが、今は誰もいない。石畳の道の両脇には低い植え込みがあり、中央には古い水盤が置かれている。水盤の水は静かで、結界塔の光を薄く映していた。
陽鞠はそこで足を止めた。
違和感があった。
風が止まったわけではない。
音が消えたわけでもない。
ただ、中庭の空気が一枚、薄く剥がれたような感覚。
結界の膜。
誰かが、学園の守りの内側に、さらに別の薄い結界を重ねている。
朔夜も同時に止まった。
刀の柄へ手が伸びる。
「陽鞠」
「いる」
「ああ」
水盤の向こうに、黒い長衣の男が立っていた。
御影堂玻月。
濡羽色の長い髪を低く結び、片耳の銀の耳飾りが夜の光を受けて鈍く光っている。白手袋は、相変わらず汚れひとつない。黒い長衣の裾は風に揺れているのに、その周囲の空気だけがやけに静かだった。
陽鞠の胸が冷える。
同時に、怒りが上がる。
この男は、いつもそうだ。
何でもない顔で現れる。
こちらの警戒も、嫌悪も、怒りも、当然のように踏み越えようとする。
朔夜が半歩前に出た。
「消えろ」
低い声だった。
玻月は視線だけを朔夜へ向けた。
「早いな」
「二度言わせるな」
「私は、篠宮陽鞠に用がある」
その言い方だけで、朔夜の霊力が冷えた。
陽鞠は朔夜の背中越しに玻月を見た。
「私はありません」
「そう言うだろうと思った」
「わかっていて来たんですか」
「必要があった」
「あなたの必要で、私に近づかないで」
陽鞠の声は、驚くほど冷たく出た。
玻月は少しだけ目を細める。
笑っているようにも見える。
けれど、その目はやはり笑っていない。
「黒い印の奥を見たな」
陽鞠の身体がわずかに強張る。
朔夜の刀が、鞘の中で小さく鳴った。
「解析棟に盗聴でも仕掛けたか」
「その程度の結界なら、澄庭が気づく」
「なら、なぜ知ってる」
「わかる」
「答えになっていない」
「答える気がない」
朔夜の殺気が濃くなる。
陽鞠は、朔夜の袖を軽く掴んだ。
止めるためではない。
まだ。
でも、ここで即座に斬りかからないように。
朔夜は踏み込まなかった。
それでも、彼の視線は完全に敵を見るものだった。
玻月は、その視線を受けても平然としている。
「君たちが、どこまで見たかを確認しに来た」
「確認って言葉、本当に好きですね」
陽鞠は吐き捨てるように言った。
「あなたに確認されるために生きてるわけじゃありません」
「知っている」
「知っててやるなら、もっと悪い」
「そうだな」
「そこで認めるの、腹が立つ」
玻月は何も言わなかった。
沈黙の向こうで、水盤の水が静かに揺れる。
陽鞠は弓へ手を伸ばしかけた。
しかし、途中で止める。
この距離。
この中庭の狭さ。
玻月の結界の気配。
弓より、刀。
陽鞠は腰の日本刀へ手をかけた。
朔夜がわずかに横目でそれを見る。
「陽鞠」
「大丈夫」
陽鞠は小さく言った。
「自分で抜く」
玻月の目が、陽鞠の手元へ落ちる。
白手袋の指先が、ほんの少し動いた。
陽鞠はその動きだけで嫌悪を覚えた。
また見ている。
弓を引くか。
刀を抜くか。
結界を張るか。
陽鞠がどう動くかを、また観察している。
「見るな」
陽鞠が言った。
玻月は視線を戻す。
「君は、見られることを嫌う」
「あなたの目が嫌いなんです」
「目だけか」
「全部です」
朔夜の口元がわずかに動いた。
笑いではない。
同意だった。
玻月は、そこで初めて少しだけ沈黙した。
紫紺の瞳が、陽鞠を捉える。
その視線に、戦闘前の冷静な分析だけではないものが混じっていた。
執着。
深い場所へ爪を立てるような、粘る視線。
陽鞠の身体が、ぞわりと拒絶で震えた。
恋愛ではない。
好意でもない。
大切にしたい目ではない。
壊したくないと願う目でもない。
欲しいものを見つけた人間の目。
閉じ込め、測り、分解し、奥へ手を入れようとする目。
陽鞠は、その視線が心底気持ち悪かった。
「君の中にあるものが欲しい」
玻月が言った。
水盤の水音さえ止まったように聞こえた。
朔夜の霊力が、一気に凍る。
陽鞠は、息を吸うことも忘れた。
君の中にあるものが欲しい。
その言葉が、肌の下へ入り込もうとする。
金眼。
結界。
魂。
白い光。
黒い印の奥で反応する何か。
どれを指しているのか、わからない。
けれど、その言葉が陽鞠自身を無視していることだけは、はっきりわかった。
陽鞠の中にあるもの。
まるで、彼女という人間を入れ物のように。
身体の内側に、取り出せる何かが収まっているように。
欲しいと言った。
許可もなく。
名前を呼んでおきながら、陽鞠の意思を見ていない。
陽鞠の胸の奥で、怒りが熱を持った。
彼女は刀を抜いた。
鞘鳴りが、中庭に鋭く響く。
金色の霊力が、刃に沿って薄く走った。弓ではない。遠くから射抜くのではなく、近くで拒むための刃。
朔夜も刀を抜いていた。
銀の刃が、夜の空気を裂く。
黒銀の霊力が朔夜の刀にまとわりつき、石畳の上の薄い水気を凍らせた。
「今の言葉で、決まった」
朔夜が言った。
声は静かだった。
怒鳴らない。
だからこそ、危険だった。
「お前は敵だ」
玻月は朔夜を見る。
「今までは違ったのか」
「警戒対象だった」
朔夜の目が冷たい。
「今は敵だ。陽鞠の中にあるものが欲しいと言った時点で、完全に」
陽鞠は刀を構えたまま、玻月を睨んだ。
「私の中にあるものは、私のものです」
「そうだ」
「そうだ、じゃない」
「私は、それが欲しいと言った」
「私は、渡さない」
玻月の目が細くなる。
「君自身は、渡す渡さないを決められると思っている」
「決めるに決まってるでしょ」
陽鞠の声に怒りが混じる。
「私の身体も、霊力も、金眼も、結界も、魂も、全部私のものです。あなたが欲しいって言えば手に入るものじゃない」
「魂まで口にするか」
「あなたが見てるのは、そこなんでしょ」
玻月は答えなかった。
答えないことが答えだった。
陽鞠は刀を握る手に力を込める。
怒りで指先が熱い。
怖さもある。
玻月は強い。
自分と朔夜が今のままでは届かないことも、痛いほど知っている。狭い結界で押し込められた感覚は、まだ身体に残っている。朔夜の刀が白手袋の指先だけで逸らされた光景も、忘れられない。
それでも、今は引けなかった。
嫌悪が、恐怖より前に立っている。
「あなたは、私を見てない」
陽鞠は言った。
「見ている」
「違う」
即座に否定する。
「金眼を見てる。結界を見てる。霊力を見てる。私の奥にある何かを見てる。だけど、私が嫌だって言ってることを見てない」
玻月の表情が、ほんの少し動いた。
陽鞠は続けた。
「私は、あなたが嫌いです」
はっきり言った。
「近づかれるのも嫌。見られるのも嫌。触られるのも嫌。勝手に試されるのも嫌。欲しいって言われるのも、気持ち悪い」
中庭の空気が張り詰める。
朔夜が、陽鞠の半歩前ではなく、隣に並んだ。
隠すためではない。
一緒に立つために。
玻月は二人を見た。
「綴喜朔夜」
「何だ」
「君は、彼女の拒絶を守るのか」
「守る」
「その拒絶が、君自身を遠ざける時も?」
朔夜の目が細くなる。
陽鞠の胸も、わずかに揺れた。
地下歩道で、結界が味方まで弾きそうになった。
朔夜まで弾きそうになった。
その記憶を、玻月は突いてきている。
朔夜は低く答えた。
「陽鞠が俺を拒むなら、俺は止まる」
「それが本心か」
「本心だ」
「彼女の奥にあるものが、いずれ君を弾くとしても?」
「その時も、陽鞠の声を聞く」
朔夜は一歩も引かない。
「お前の声じゃない。陽鞠の声をだ」
陽鞠の喉が熱くなる。
朔夜は怒っている。
完全に玻月を敵と見ている。
それでも、陽鞠の意思を奪う形では守らないと、今ここで言ってくれた。
そのことが、陽鞠の足元を強くする。
玻月はしばらく黙っていた。
そして、陽鞠へ視線を戻す。
朔夜がわずかに動きかけたが、陽鞠は自分で玻月を睨み返した。
逃げない。
見られるのは嫌だ。
だが、下を向かない。
「君は、よく拒む」
玻月が言った。
「拒む必要がある相手だからです」
「それだけではない」
「勝手に決めないで」
「君の拒絶は、ただの防御ではない。結界の形、金眼の反応、魂の奥に触れた時の震え。すべてが、何かを守っている」
「だから?」
「それが欲しい」
陽鞠の怒りが、さらに熱くなる。
「私は物じゃない」
「物として見ているつもりはない」
「じゃあ何として見てるんですか」
玻月は答えるまでに、少しだけ間を置いた。
「扉」
陽鞠の背筋が冷えた。
「君は、閉じた場所の扉だ」
朔夜の刀が、きしりと鳴る。
玻月は続ける。
「君自身を開けば、奥へ届く」
「黙れ」
朔夜が低く言った。
「陽鞠を扉だの何だの言うな」
「比喩だ」
「比喩でも言うな」
朔夜の霊力が濃くなる。
陽鞠は刀を構えたまま、玻月から目を離さない。
「私は開かない」
「そうか」
「あなたのためには、絶対に」
「では、誰のためなら?」
「私が決める」
陽鞠の声は揺れなかった。
「誰のために何をするか、何を見せるか、どこまで踏み込ませるか、全部私が決める。あなたじゃない」
玻月の白手袋の指先が動いた。
ほんのわずか。
だが、朔夜が即座に反応した。
「動くな」
玻月は止まった。
従ったわけではない。
ただ、今は動く必要がないと判断したような止まり方だった。
それがまた、腹立たしい。
「君たちは、まだ私には届かない」
玻月が静かに言った。
「それはわかってる」
陽鞠は即答した。
「わかってるから、今ここで無駄に斬りかからない」
朔夜の横顔が、わずかに動く。
その言葉は、彼にも向いていた。
朔夜は歯を食いしばったまま、踏み込まない。
陽鞠は続ける。
「でも、届かないからって、黙って欲しがられるつもりもありません」
刀の切っ先を、玻月へ向ける。
「これは拒絶です」
金色の結界が、刃の周囲に薄く走った。
防御ではない。
宣言。
近づくな。
踏み込むな。
欲しがるな。
陽鞠の意思そのものが、刃の形を取っていた。
玻月はその結界を見て、目を細める。
興味。
執着。
そして、ほんのわずかな痛みのようなもの。
陽鞠には、それが何なのかわからなかった。
わからなくていいと思った。
彼の痛みが何であれ、それは陽鞠へ勝手に手を伸ばす理由にはならない。
「いい拒絶だ」
玻月が言った。
陽鞠は吐き捨てた。
「褒めるな」
「では、欲しいと言っておこう」
「もっと悪い!」
金色の結界が一瞬、火花のように散った。
朔夜が低く言う。
「次に同じことを言ったら、斬る」
「今は斬らないのか」
「陽鞠が止まっている」
「彼女が止めなければ?」
「斬ってる」
「届かないとしても?」
「届かせるまで斬る」
朔夜の声は、怒りと悔しさを含んでいた。
でも、水族館跡でのように視界が狭くなっているわけではない。
玻月を敵として見ている。
しかし、陽鞠の声も、戦況も、自分の届かなさも見ている。
陽鞠はその変化に気づいた。
小さく、でも確かな変化。
玻月も、気づいているようだった。
「少し冷えたな」
玻月が言う。
朔夜は答えない。
答えたら、また乗せられるとわかっている顔だった。
玻月は水盤へ視線を落とした。
月の光が、水面に揺れている。
「黒い印の奥は、君たちが思うより深い」
「知ってるふりをしないでください」
陽鞠が言う。
「知っている」
「じゃあ言って」
「言えない」
「都合がいいですね」
「そうだな」
「またそれ」
陽鞠は歯を食いしばった。
「言えないなら、近づかないで。欲しいとか言わないで。私を使おうとしないで」
「使わなければ、届かないものがある」
「それでも嫌」
「君が嫌だと言えば、世界は止まるのか」
「止まりません」
陽鞠は玻月を睨んだ。
「だから、私は戦うんです」
その言葉に、玻月の目がほんのわずか揺れた。
夜風が中庭を抜ける。
植え込みの葉が揺れ、水盤の水面に小さな波が広がった。
その時、学園の結界塔が低く鳴った。
警戒音ではない。
しかし、外部の微細な術式反応を感知した時の短い振動だった。かがりが張っている監視結界が、この中庭の異変に気づいたのだろう。
玻月は塔の方を見た。
「時間だ」
「逃げるんですか」
陽鞠が言った。
「今は、君の答えを聞きに来ただけだ」
「答え?」
「欲しいと言えば、君はどう拒むのか」
陽鞠の手に力が入る。
「最低」
「そうだな」
「最低って言われて納得する人、本当に嫌い」
玻月は薄く笑った。
そして、陽鞠を見る。
「君の中にあるものは、いずれ目を覚ます」
「勝手に決めないで」
「その時、君は自分だけで耐えられるか」
「一人じゃない」
陽鞠は即答した。
朔夜が隣にいる。
指輪がある。
更紗がいる。
かがりがいる。
透羽がいる。
結衣子も、泪も、まだわからないことだらけだが、戦場では確かにいた。
陽鞠は一人ではない。
「一人じゃないから、私は私でいられる」
玻月は、何かを言いかけた。
しかし、言わなかった。
白手袋の指先が、空気をなぞる。
中庭に重ねられていた薄い結界が、音もなくほどけていく。
玻月の気配が遠ざかる。
朔夜が一歩踏み込もうとした。
陽鞠が袖を掴む。
「朔夜」
「追う」
「だめ」
「あいつは」
「わかってる」
陽鞠の声が震える。
怒りで。
嫌悪で。
でも、判断は揺らがない。
「今、追ったら向こうの場所で戦うことになる」
朔夜の動きが止まる。
「今のままじゃ、まだ届かない」
言葉は痛かった。
朔夜にも。
陽鞠にも。
でも、言わなければならなかった。
朔夜は奥歯を噛む。
玻月の姿が、水盤の向こうで薄れていく。
「次は」
朔夜が低く言った。
玻月が、消えかけたまま視線を向ける。
「次は、陽鞠に欲しいなんて言わせない」
「それは、君が決めることではない」
「俺だけじゃない」
朔夜の声は冷たい。
「陽鞠が決める。俺は、その隣で斬る」
玻月は、ほんのわずかに笑った。
「なら、届くようになることだ」
その言葉を最後に、黒い長衣の姿は夜の中へ溶けた。
中庭に残ったのは、水盤の水音と、冷たい風だけだった。
陽鞠はしばらく刀を下ろせなかった。
刃の先が、玻月の消えた場所を向いたまま震えている。怖かったのではない。いや、怖くもあった。だが、それ以上に嫌悪が強かった。
君の中にあるものが欲しい。
その言葉が、まだ肌の下で気持ち悪く残っている。
陽鞠は唇を結び、刀を鞘へ戻した。
かちん、と音が鳴る。
その音で、ようやく呼吸が戻った。
朔夜はまだ刀を下ろしていない。
黒い瞳は、玻月が消えた場所を見ている。
「朔夜」
「何」
「手、握って」
朔夜はすぐに刀を鞘へ戻した。
「触る」
「うん」
彼は陽鞠の手を握った。
強く。
でも、痛くない強さ。
陽鞠の指先は冷えていた。朔夜の手も冷たい。二人とも怒っていて、緊張していて、体温がうまく戻っていない。
指輪が触れる。
ちり、と小さく鳴った。
その音を聞いて、陽鞠は目を閉じた。
「気持ち悪かった」
「ああ」
「欲しいって言われたの、嫌だった」
「ああ」
「私じゃなくて、私の中の何かを見てる感じがした。でも、私自身も勝手に欲しがられてる感じがした」
「ああ」
「嫌だ」
「嫌でいい」
朔夜の声は低い。
怒りを抑え込んでいる。
でも、陽鞠へ向けてはいない。
「あいつは敵だ」
「うん」
「もう、迷わない」
「うん」
「でも、今のままじゃ勝てない」
朔夜が自分で言った。
陽鞠は目を開ける。
朔夜の横顔は、苦しそうだった。
それでも、逃げていない。
「勝てるようになろう」
陽鞠は言った。
「一緒に」
「ああ」
「私、欲しいって言われても渡さない。扉だって言われても開かない。私が決める」
「ああ」
「でも、怖くなったら名前呼んで」
「何度でも呼ぶ」
「朔夜が怒りで見えなくなったら、私が止める」
「止めてくれ」
「うん」
中庭の向こうから、足音が近づいてきた。
かがりの気配だった。
監視結界の反応を追ってきたのだろう。廊下の角から現れたかがりは、陽鞠と朔夜の様子を見るなり、表情を険しくした。
「御影堂か」
朔夜が短く答える。
「ああ」
かがりの眉間に深い皺が寄る。
「何を言われた」
陽鞠は一瞬、喉が詰まった。
だが、隠さなかった。
「私の中にあるものが欲しい、と」
かがりの顔から、温度が消えた。
教師としての叱責ではない。
退魔師としての警戒でもない。
もっと冷たい怒り。
「そうか」
かがりは静かに言った。
「それなら、対応を変える」
陽鞠は頷いた。
朔夜の手が、彼女の手を握ったまま離れない。
かがりは二人を見た。
「篠宮、綴喜。今夜は医療室ではなく、私の監督下で宿泊棟へ入れ。部屋は隣。廊下に教師用結界を張る。単独行動は禁止だ」
「はい」
二人の声が重なる。
かがりは中庭を見渡した。
玻月の結界はもうない。
だが、空気には薄い残滓が残っている。
かがりはそれを記録札へ写し取り、硬い声で言った。
「欲しい、か」
その声には、隠しようのない嫌悪があった。
「人を物のように言うな」
陽鞠の胸が、少しだけ楽になった。
自分が嫌だと思ったことを、ちゃんと嫌なこととして受け取ってくれる人がいる。
朔夜も、かがりも。
陽鞠は自分の手を見た。
右手薬指の指輪。
それから、朔夜の左手薬指の指輪。
玻月が欲しがったものが何なのか、まだわからない。
金眼か。
結界か。
魂か。
黒い印の奥に反応する何かか。
それとも、陽鞠という存在そのものか。
どれだとしても、答えは変わらない。
渡さない。
勝手に開かせない。
欲しがられても、差し出さない。
陽鞠は朔夜の手を握り返した。
「私は私だ」
小さく言う。
朔夜がすぐに返す。
「陽鞠だ」
「うん」
「俺の隣にいる」
「うん」
「誰にも渡さない」
陽鞠は少しだけ首を傾けた。
「それ、私も決めること」
朔夜の黒い瞳が、少しだけ揺れる。
それから、彼は頷いた。
「一緒に決める」
「うん」
風が中庭を抜けた。
水盤の水面が揺れ、月の光が砕ける。
玻月の気配はもうない。
けれど、彼の言葉は消えていない。
君の中にあるものが欲しい。
陽鞠はその言葉を、拒絶するように胸の奥で握り潰した。
欲しがられても、応えない。
見られても、開かない。
触れようとされても、弾く。
彼女は篠宮陽鞠だ。
誰かの欲しいものになるために、生きているわけではない。
かがりに促され、二人は宿泊棟へ向かって歩き出した。
朔夜の手は、まだ陽鞠の手を握っている。
強く。
しかし、陽鞠が望んだ強さで。
指輪はもう鳴らなかった。
ただ、二人の手の間で、静かに温かかった。




