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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第29話 黒い印の奥


 解析棟の夜は、外よりも静かだった。


 退魔学園の敷地内でも、解析棟は生徒の出入りが少ない。任務後の妖核片や呪具、霊符の残滓、古い記録札を扱う場所だからだ。廊下の灯りは白く、床は磨かれすぎていて、歩くたびに靴音が妙に澄んで響く。窓の外では校庭の結界塔が淡く光っていたが、解析棟の中にはその柔らかさは入ってこない。


 机の上には、封印ケースが四つ並べられていた。


 廃駅で回収した黒い切符の灰。


 地下歩道で封じた白い光の残滓。


 水族館跡で割れた妖核の欠片。


 そして、黒い五芒星の線が沈み込んでいた核片。


 どれも透明な封印硝子の中で、わずかに脈打っている。完全に死んだものではない。祓われ、砕かれ、封じられても、そこに刻まれた術式だけがまだ息をしているようだった。


 更紗は解析机の前に座っていた。


 肩口で切りそろえた黒髪は少し乱れ、青いフレームの眼鏡は鼻の下がりかけた位置にある。制服の上に白衣を羽織り、袖口には霊液の染みが薄くついていた。机の上には記録札、霊波計、古式術式解読用の紙束、書きかけの解析図が山のように積まれている。


 眠っていない顔だった。


 人間は睡眠を削ると表情から順に削れていく。更紗は今、表情の角をかなり削られていた。


 陽鞠は部屋へ入るなり、眉を寄せた。


「更紗、寝た?」


「三時間」


「それは寝たに入らない」


「連続で三時間」


「胸を張るところじゃない」


「横になった」


「勝ち誇らないで」


 更紗は眼鏡を押し上げた。


「寝る前にここまで見えちゃったら、止まれない」


「止まって」


「無理」


「無理じゃない」


「篠宮さんだって任務中に妖が動いてたら止まらないでしょ」


「それは」


「同じ」


「違う気がする」


 朔夜が陽鞠の隣で低く言った。


「寝ろ」


 更紗は朔夜を見た。


「綴喜くんに言われると、妙に圧がある」


「寝ろ」


「あとで寝る」


「今寝ろ」


「解析が先」


「なら終わらせろ」


「そのつもり」


 会話になっているようで、なっていない。


 解析室の奥には、かがりもいた。


 腕を組み、壁に背を預けている。教師用の黒い外套を肩にかけ、表情は険しい。隣には透羽も立っていた。手元の端末で発生地点の地図と霊力波形を照合している。


 部屋にいる全員が、疲れていた。


 水族館跡の任務は終わった。


 妖核は割れた。


 黒い五芒星の残滓も回収した。


 だが、終わった気がしない。


 むしろ、何かの蓋が少しだけ開いたような不快感が残っている。


 玻月の圧倒的な力。


 朔夜の刀が届かなかった現実。


 泪の異常な明るさと、S級としての実力。


 結衣子が泪を見た一瞬の凍った表情。


 そして、白い光を混ぜた黒い五芒星。


 陽鞠は封印ケースの中の核片を見た。


 水族館跡で割れた妖核の欠片だ。


 赤黒い核の表面に、黒い線が細く残っている。肉眼で見れば焦げ跡に近い。だが、金眼で見ると、線は表面に描かれているのではなく、核の内側へ沈み込んでいた。


 奥へ。


 深く。


 ただ凶暴化させる印ではない。


 妖の性質そのものを組み替え、外から別の命令を流し込むための傷口のようだった。


「更紗」


 陽鞠が言う。


「何がわかったの」


 更紗は息を吐き、机の上に一枚の記録札を広げた。


 札の上には、黒い五芒星を中心に、何重もの術式線が描かれている。外側の線は比較的はっきりしているが、内側へ進むほど滲み、途中から白い空白が混じっていた。


「まず、黒い五芒星は一種類の術式じゃない」


 更紗の声は低い。


 普段の眠そうな調子ではなく、解析者としての鋭さがあった。


「見た目は同じ印に見えるけど、中身は層になってる。外側、中間、奥。少なくとも三層。水族館跡の核片だと、さらに細かい補助回路がついてた」


「補助回路?」


「妖の性質に合わせるための調整。廃駅なら誘導、地下歩道なら白い光による結界干渉、水族館跡なら水路と館内放送を使った招き込み。妖ごとに違う」


 透羽が端末を操作し、壁の投影板に三つの波形を映した。


 廃駅。


 地下歩道。


 水族館跡。


 それぞれ波形は違う。


 だが、中央部分だけが妙に似ていた。


 黒い五芒星の中心。


 その奥に沈む、白い空白のような部分。


「妖の性質に合わせて外側は変えられている。でも、奥にある芯は同じ」


 透羽が言った。


「問題は、その芯が何かだ」


 かがりが腕を組んだまま問いかける。


「御影堂の術式か」


 部屋の空気が重くなる。


 朔夜の目が冷えた。


 陽鞠も、無意識に指先へ力を込める。右手薬指の指輪が机の光を拾った。


 更紗はすぐには頷かなかった。


「そこが、ややこしい」


「はっきり言え」


 かがりの声は厳しい。


 更紗は記録札の外側を指さした。


「外側の封じ方。霊力を折り畳む癖。相手の術式の継ぎ目を見つけて、力を真正面から受けずに横へ流す処理。これは、御影堂玻月のものにかなり似てる」


 陽鞠の胸がざわついた。


 狭い結界。


 力を押し返そうとした時、こちらの結界の棘を横へ流された感覚。


 朔夜の刀を、触れさせる前に逸らしていた結界面。


 確かに似ている。


 更紗は続けた。


「水族館跡の妖核には、特に強く残ってる。篠宮さんを狭い結界へ引き込んだ時の術式残滓と照合したら、外側の折り畳み方はほぼ同じ系統」


 朔夜の手が刀の柄へ動きかけた。


 陽鞠がその手を見た。


 朔夜は途中で止めた。


 歯を食いしばる。


 怒りがある。


 でも、すぐに動かない。


 そのことに、陽鞠は小さく息を吐いた。


 更紗は、今度は記録札の中間部分を指さす。


「中間層にも、似た処理がある。霊糸で妖核を縛るみたいな回路。白手袋の人が使ってた霊糸の残滓と、かなり近い。だから、玻月さんが何も関わっていないとは言えない。むしろ、関わっている可能性は高い」


「なら、あいつがやってるんだろ」


 朔夜の声は低かった。


 更紗は首を横に振った。


「そう断定できない」


「なぜ」


「奥が違う」


 その一言で、部屋が静まり返った。


 更紗は記録札の中心を指した。


 黒い五芒星の中央。


 そこだけが、白く抜けている。


 描かれていないのではない。


 描こうとしても、線が定着しなかったように見える。


「外側は玻月さんに似てる。中間層も似てる。でも、奥に沈んでいる芯は違う。少なくとも、今まで取れた御影堂玻月の術式痕とは一致しない」


 陽鞠は喉を鳴らした。


「別の人の術式ってこと?」


「人、とは限らない」


 更紗の声が少し硬くなる。


「古い。けど、古式そのままでもない。人が組んだ術式みたいな癖があるのに、霊力の流れが人間のものと違う。術式なのに、願いとか、命令とか、呪いに近い」


 透羽が投影板に別の波形を出した。


 白い線が、黒い波形の奥で細かく震えている。


「この白い部分が厄介だ。解析器にかけると、存在しない空白として処理される。でも、実際には反応している。篠宮の金眼、綴喜の霊力、二人の指輪、御影堂の結界術式、全部に違う形で触れている」


「指輪にも?」


 陽鞠は自分の右手を見る。


 朔夜の左手薬指にも、同じ指輪がある。


 廃駅で熱を持った。


 地下歩道でも鳴った。


 水族館跡でも。


 更紗は頷いた。


「指輪そのものが仕込まれてるわけじゃない。少なくとも、今調べた範囲では。でも、二人の霊力が重なった時の波形に、この奥の白い術式が反応してる」


「反応って」


「探してる」


 更紗は短く言った。


 陽鞠の背筋が冷えた。


「何を」


「わからない。でも、単に攻撃してるわけじゃない。霊力の表面を壊すんじゃなくて、奥を探ってる。篠宮さんの金眼に触れた時は、白い光を増幅した。綴喜くんの霊力に触れた時は、妖が一瞬膝をつくような反応をした。二人の指輪に触れた時は、二人を繋ぐような反応が出た」


 朔夜が低く言う。


「魂を見てるのか」


 その言葉が落ちた瞬間、解析室の空気が冷えた。


 魂。


 簡単に口にしていい言葉ではない。


 退魔師にとって、霊力と魂は近いが同じではない。霊力は鍛え、消耗し、回復する。魂はもっと深い。傷つけば、身体や術式だけでは戻らないこともある。


 更紗は眼鏡の奥で目を伏せた。


「可能性としては、ある」


 陽鞠の指先が震えた。


 朔夜が気づく。


 彼は黙って、陽鞠の手の近くに自分の手を置いた。触れはしない。陽鞠が選べる距離。


 陽鞠は自分から、その手に触れた。


 指輪が小さく鳴る。


 ちり。


 解析机の上の封印ケースが、かすかに震えた。


 更紗の目が鋭くなる。


「今の」


 封印ケースの中で、黒い五芒星の欠片が一瞬だけ脈打った。


 白い空白の中心に、薄い線が浮かびかける。


 すぐに消えた。


 だが、全員が見た。


 陽鞠は息を詰める。


「今、反応した」


「うん」


 更紗はすぐに記録札へ霊力を走らせる。


「二人の接触反応。やっぱり奥の層が動く」


「それ、危ないの?」


 陽鞠が聞く。


 更紗は難しい顔をした。


「わからない。危険性はある。でも、全部が悪い反応とも言い切れない。廃駅でも地下歩道でも、指輪の熱で二人は戻ってきた。白い術式に飲まれかけた時、二人の霊力が互いを繋ぎ止めた可能性もある」


「でも、それも向こうの想定内かもしれない」


 透羽が言った。


 陽鞠は顔を上げる。


 透羽の表情は硬い。


「二人を引き離すためではなく、繋がった時に何が出るかを見ている可能性もある。妖の凶暴化は、ただ襲わせるためだけじゃなく、二人の霊力反応を引き出すための実験にも見える」


 朔夜の目が冷たくなる。


「実験」


「言い方は悪いが、そう見える」


「誰が」


 朔夜の声は、低く静かだった。


 更紗は答えない。


 答えられない。


 かがりが代わりに口を開いた。


「少なくとも、御影堂単独で全部を説明するには不自然がある」


 陽鞠はかがりを見た。


「でも、御影堂は関わってる」


「可能性は高い」


「じゃあ、共犯?」


「それも断定できない」


 かがりの声は重い。


「御影堂の術式に似たものが外側にある。だが、それは本人が刻んだものかもしれないし、誰かが御影堂の術式を利用したものかもしれない。御影堂が別の術式を封じ込めるために外側を覆った可能性も、完全には消せない」


 朔夜が苛立ったように息を吐いた。


「都合よく擁護するのか」


「擁護ではない。断定を避けている」


 かがりは厳しい声で返した。


「怒りで判断を飛ばすな。お前が御影堂を斬りたい理由は理解する。私もあの男の行動を許す気はない。だが、証拠を読み違えれば、後ろにいるものを取り逃がす」


 後ろにいるもの。


 その言い方に、陽鞠の胸が冷える。


 名前は出ない。


 誰の名前も。


 だが、何かがいる。


 玻月の術式に似た外側。


 その奥に沈む、不明な白い術式。


 妖を凶暴化させ、陽鞠の金眼に触れ、朔夜の霊力に膝をつかせ、二人の指輪へ反応する何か。


 玻月だけではない。


 それが、はっきり見え始めている。


 陽鞠は封印ケースを見た。


 黒い五芒星の欠片は、もう動いていない。


 だが、そこに何かが沈んでいるのを感じる。


 黒い印の奥。


 白く抜けた空白。


 そこには名前を与えられていないものがある。


 まだ、見えない。


 でも、見られている。


 そんな感覚があった。


「御影堂は、これを知ってるのかな」


 陽鞠が呟く。


 更紗は少し考えた。


「知ってる可能性はある。少なくとも、外側の層を扱えるなら、奥に何かがあることには気づいているはず」


「じゃあ、なんで言わないの」


「言えない理由があるのか、言う気がないのか、本人にも全部はわかってないのか」


「どれも嫌」


「うん。全部嫌」


 更紗は疲れた顔で頷いた。


 朔夜は黙っている。


 陽鞠は彼の横顔を見た。


 怒っている。


 まだ、玻月に対して。


 でも、ただ斬りたいという怒りだけではなくなっていた。今の彼は、見なければならないものを見ようとしている。自分の刀が届かなかった現実も、玻月だけでは説明できない可能性も、苦く飲み込みながら。


「朔夜」


「何」


「手、強く握っていい?」


「いい」


 陽鞠は朔夜の手を握った。


 少し強く。


 朔夜も握り返す。


 指輪は今度、鳴らなかった。


 ただ、互いの手の温度だけがあった。


 更紗は記録札をめくり、さらに細かい図を見せた。


「もう一つ。水族館跡の核片から、変なことが出た」


「まだあるの?」


 陽鞠は思わず言った。


「ある」


「人類に休憩をください」


「私も欲しい」


 更紗は真顔で返した。


「水族館跡の黒い五芒星には、御影堂玻月の結界術式に似た折り畳み層が強く残ってた。これはさっき言った通り。でも、その層の一部が、内側から破られてる」


「内側から?」


「うん。篠宮さんが狭い結界を内側から爆ぜさせた時の痕とは違う。もっと古い。何度も何度も、奥から外側を押した痕がある」


 陽鞠は記録札を覗き込む。


 黒い線の中に、細かな亀裂のようなものがあった。


 外から切られた傷ではない。


 中から押し広げられた跡。


「それって、奥の術式が外へ出ようとしてるってこと?」


「そう見える」


 更紗の声が硬くなる。


「外側の御影堂玻月に似た層は、妖を凶暴化させるためだけじゃなく、奥の術式を抑え込む蓋にも見える」


 かがりの表情が変わった。


「御影堂が、奥の術式を制御している可能性か」


「可能性の一つです。制御してるのか、利用してるのか、封じてるのか、逆に奥の術式に使われてるのかはわかりません」


 朔夜が低く言う。


「使われてる?」


「玻月さん本人がどこまで主導権を持っているか、解析だけではわからない」


「そんな男に陽鞠へ近づかれてたまるか」


「それは私も同意」


 更紗はすぐに言った。


「解析上の可能性と、接触を許すかは別。篠宮さんが嫌がる接触は全部だめ」


 その言葉があまりにも自然に出たので、陽鞠は少しだけ喉が詰まった。


「ありがとう」


「当たり前」


 更紗は眼鏡を押し上げる。


「解析結果がどうであれ、嫌なものは嫌。そこは変えない」


 陽鞠は小さく頷いた。


 朔夜の手の力も、ほんの少し和らいだ。


 透羽が投影板へ、新しい地図を映す。


 これまでの妖の発生地点。


 駅前商業区。


 ゲームセンター。


 映画館。


 神社。


 廃屋。


 カラオケ店。


 廃駅。


 地下歩道。


 水族館跡。


 点が線で結ばれる。


 単純な円ではない。


 だが、ある方向へ向かっているように見えた。


「発生地点を並べると、学園を中心にしているように見えていた。でも、最新の地点を入れると違う」


 透羽が指で線をなぞる。


「学園ではなく、二人の任務経路でもなく、古い霊脈の断裂点を繋いでいる可能性がある」


「霊脈?」


 陽鞠が聞く。


「土地の霊力の流れ。今は都市開発でほとんど切れているが、古い神社、廃線、地下水路、水族館の旧海水循環路が、断片的に同じ流れへ繋がっている」


 かがりが眉を寄せる。


「誰かが、土地の傷を使っている?」


「その可能性がある」


 透羽は端末を操作し、地図上に白い線を重ねた。


「黒い五芒星は妖核の中だけで完結していない。発生地点そのものを利用している。玻月の術式に似た層は、妖核を加工する技術に見える。だが、奥の不明な術式は、土地の霊脈へ深く食い込んでいる」


 陽鞠は地図を見つめた。


 点と線。


 妖の発生地点。


 任務。


 黒い印。


 自分と朔夜の霊力。


 そして、どこかへ向かう白い線。


「これ、どこへ向かってるの」


 透羽は少し黙った。


「まだ確定できない」


「言って」


 陽鞠の声が強くなる。


「確定じゃなくても」


 透羽はかがりを見る。


 かがりは短く頷いた。


 透羽は地図の端を指した。


「今の延長線上に、古い封鎖区域がある」


「封鎖区域?」


「記録上は、戦後に埋められた旧地下施設。退魔協会の古い資料では、立入禁止。理由は黒塗り」


 陽鞠の胸がざわつく。


 黒塗り。


 記録の空白。


 玻月の経歴にも空白がある。


 それらが今、線で繋がりそうになっている。


 しかし、まだ繋がらない。


 朔夜が地図を睨む。


「そこに、何がある」


「わからない」


 透羽は正直に答えた。


「ただ、今回の黒い印の奥にある術式は、地下へ向かう性質がある。水族館跡の『水の中へ』という誘導も、単に水槽へ引き込むためではなく、地下の流れへ人を落とすための模倣かもしれない」


 陽鞠の金眼がわずかに熱を持った。


 深く。


 地下へ。


 白い光の奥へ。


 その言葉が、夢の感覚を刺激する。


 朔夜がすぐに名前を呼んだ。


「陽鞠」


 陽鞠は息を吸った。


「大丈夫」


「本当に?」


「うん。戻ってる」


 朔夜の声は、ちゃんと届いていた。


 更紗は封印ケースへ浄化符を追加した。


「解析を進める。ただし、この核片はもう普通の解析器にかけるのは危ない。奥の白い術式が、こっちを見返してくる感じがある」


「見返す?」


 陽鞠の声が小さくなる。


「比喩じゃなく?」


「半分くらい比喩じゃない」


「嫌すぎる」


「私も嫌」


 更紗は本当に嫌そうだった。


「だから、これ以上は観測結界を増やしてからやる。篠宮さんと綴喜くんは、しばらくこの核片に直接近づかない方がいい」


「でも、反応を見るなら私たちが」


「見なくていい」


 かがりが即座に言った。


「お前たちを餌にした解析は許可しない」


 陽鞠は口を閉じた。


 朔夜がかがりを見る。


「御影堂は、俺たちを餌にした」


「だから同じことはしない」


 かがりの声は揺るがなかった。


「退魔学園は、お前たちを道具として扱わない。少なくとも、私の目が届く範囲では絶対にだ」


 その言葉に、陽鞠の胸が少し温かくなった。


 道具ではない。


 観察対象ではない。


 条件ではない。


 陽鞠は自分の名前を、胸の奥で確かめた。


 篠宮陽鞠。


 隣で、朔夜が静かに息を吐く。


「なら、どうする」


 彼が聞いた。


 かがりは地図を見た。


「御影堂への接触は、こちらからは避ける。向こうが現れた場合は必ず複数人で対応。篠宮と綴喜だけで相対するな」


「来るなと言って来ない相手じゃない」


 朔夜の声は冷たい。


「そうだ。だから位置情報共有を強化する。羽喰と玻璃園にも連絡を取る」


 陽鞠は少し顔を上げた。


「泪さんと結衣子ちゃんにも?」


「S級であり、御影堂に近い。情報を持っている可能性がある」


 更紗が小さく呟く。


「泪さんは情報より愛を叫びそうだけど」


「それでも戦闘能力は本物だ」


 かがりは疲れた声で言った。


「問題行動は山ほどあるが、妖相手には使える」


「先生、言い方」


「事実だ」


 否定できない。


 陽鞠は少しだけ困った顔をした。


 泪の言動は、思い出すだけで情報量が多い。玻月への好意を全力でぶつけ、採取対象の範囲が常軌を逸していて、周囲を混乱させる。だが、戦闘時の花弁術式と回復術式の同時運用は本物だった。


 結衣子もまた、強い。


 糸の操作。


 玻月を飛び蹴りで吹き飛ばす身体能力。


 明るさ。


 そして、一瞬凍った表情。


 陽鞠はその表情が忘れられなかった。


 泪を見た時の、硝子のような水色の瞳。


 あの一瞬だけ、結衣子はまるで過去に触れたようだった。


「結衣子ちゃん、何か知ってるのかな」


 陽鞠が呟く。


 玻月の名前を出した時、かがりは反応した。


 しかし、結衣子については少しだけ考えるような顔をした。


「玻璃園結衣子の記録も薄い」


「薄い?」


「S級相当の実力がある。だが、協会の正式記録は少ない。御影堂と関係が深いことは確かだが、経歴に空白が多い」


「空白ばっかり」


 陽鞠は小さく言った。


 玻月の空白。


 結衣子の空白。


 黒い印の奥の空白。


 白い光。


 どれも、見えない場所で繋がっている気がする。


 朔夜が陽鞠の手を握ったまま、低く言った。


「空白なら、暴く」


 陽鞠は彼を見る。


 朔夜の黒い瞳には、まだ怒りがある。


 玻月へ届かなかった悔しさもある。


 だが、それだけではない。


 今は、前へ進むための冷たさがあった。


「斬るだけじゃ届かないなら、見る」


 朔夜は言った。


「読んで、考えて、次に斬る」


「朔夜が考えるって言った」


「失礼だな」


「ごめん。でも、ちょっと嬉しい」


「陽鞠が言ったんだろ。今のままじゃ勝てないって」


「うん」


「なら、変える」


 陽鞠は頷いた。


「一緒に」


「ああ」


 更紗が二人を見て、少しだけ口元を緩めた。


「いい流れのところ悪いけど、解析結果はまだ地獄だよ」


「言い方」


「でも事実」


 更紗は机の上の封印ケースを指差した。


「黒い印の奥にある不明術式。これ、たぶんまだ成長してる」


 陽鞠の顔から血の気が引く。


「成長?」


「妖核が壊れても、術式の一部が学習してる。廃駅、地下歩道、水族館跡で、反応が少しずつ変わってる。篠宮さんの金眼への触れ方も、綴喜くんの霊力への触れ方も、毎回少しずつ深くなってる」


 朔夜の手が強くなる。


「次は、もっと深く来るってことか」


「その可能性が高い」


 更紗は眠気の消えた目で言った。


「だから、二人とも次の任務は絶対に単独行動しないで。二人一緒でも、相手はそれを利用してくる。でも、離れればもっと危ない」


「一緒でも危ない。離れても危ない」


 陽鞠は苦く笑った。


「詰んでるみたい」


「詰んではない」


 朔夜が言った。


「俺たちはまだ動ける」


「うん」


「陽鞠は戻ってきた。俺も戻った。結界も、刀も、まだ折れてない」


「うん」


「なら、詰んでない」


 陽鞠は彼の手を握り返した。


 指輪が、ほんの少しだけ温かくなる。


 更紗がすぐに記録を取ろうとして、陽鞠に睨まれた。


「更紗」


「ごめん、癖」


「今のは記録しないで」


「しない」


「本当に?」


「しない。……後で聞いていい?」


「だめ」


「ちぇ」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 だが、封印ケースの中の黒い欠片は、緩まない。


 白い空白は、そこにある。


 名前のない術式。


 玻月に似た外側の奥で、静かに沈んでいるもの。


 陽鞠はそれを見つめた。


 今はまだ、何者かはわからない。


 ただ、玻月だけではない。


 その可能性が、初めてはっきりした。


 玻月は関わっている。


 関わっていないとは言えない。


 けれど、すべての中心に玻月一人だけが立っているわけではないのかもしれない。


 もっと奥に、何かがいる。


 名前を口にできない。


 まだ姿も見えない。


 でも、黒い印の奥から、こちらを見ている。


 陽鞠はゆっくり息を吸った。


「私は、私だ」


 小さく呟く。


 朔夜が隣で応える。


「陽鞠だ」


「朔夜は朔夜」


「ああ」


「私たちは、道具じゃない」


「ああ」


「条件でもない」


「ああ」


 陽鞠は封印ケースから目を離した。


 怖い。


 でも、見ないふりはしない。


 朔夜と並んで立つ。


 それだけは決めている。


 更紗が封印ケースに追加の浄化符を貼り、三重の観測結界を閉じた。黒い欠片の脈動は薄くなり、白い空白も見えなくなる。


 だが、消えたわけではない。


 ただ、隠れただけだ。


 かがりが全員を見渡した。


「今夜はここまでだ。更紗は寝ろ。透羽は地図の続きだけまとめて、二時間以内に切り上げろ。篠宮と綴喜は医療室で霊力確認後、宿泊棟へ。今日は一人になるな」


「はい」


 陽鞠と朔夜の返事が重なる。


 更紗は不満そうに口を開きかけたが、かがりの目を見て閉じた。


「寝ます」


「よろしい」


 解析室を出る時、陽鞠は一度だけ振り返った。


 白い灯りの下に並ぶ封印ケース。


 その奥に沈む、黒い五芒星の欠片。


 玻月に似た術式。


 それ以外の何か。


 黒い印の奥は、まだ閉じている。


 けれど、その閉じた奥で、何かがゆっくり目を開けたような気がした。


 陽鞠は朔夜の手を握り直す。


 指輪は鳴らなかった。


 ただ、温かかった。


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