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金眼の退魔少女は、銀髪の相棒と今日も妖を斬ってキスをする~もう神の子にはならない。金眼少女と銀髪退魔師の学園任務~  作者: なつめ


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第28話 羽喰泪



 巨大水槽のガラスが、音を立てて割れた。


 古い水族館跡の展示ホールに、濁った水が溢れ出す。床のタイルを黒く濡らし、割れたアクリル片を押し流しながら、冷たい水が一気に広がった。腐った海水の匂いと、長い間閉じ込められていた湿気の匂いが混ざり、喉の奥に生臭い重さが残る。


 水槽の中から、妖が這い出した。


 人の形をしている。


 だが、人ではない。


 濡れた影でできた身体の内側に、死んだ魚の骨のような白い線が何本も走っていた。肩から腕にかけて、無数の黒い手が重なっている。顔の位置には、館内放送のスピーカーのような丸い穴が開き、そこから壊れた女の声が漏れていた。


『こちらへ』


『水の中へ』


『展示の奥へ』


 黒い五芒星が、妖核の表面で脈打つ。


 その中央から漏れる白い光に、陽鞠の金眼がわずかに熱を持った。


 陽鞠は息を吸い、結界を細く張り直す。


 広げすぎない。


 押し返しすぎない。


 水路だけを切る。


 床を這う水と妖核を繋ぐ霊力の線だけを断つ。


 玻月に狭い結界へ押し込められた直後で、指先は裂け、呼吸もまだ荒い。だが、今は止まっていられなかった。水槽の妖が動けば、展示ホール全体が白い光に呑まれる。


 朔夜は陽鞠の隣に戻っていた。


 怒りはまだ消えていない。


 刀を握る手には力が入り、黒い瞳の奥には玻月への殺気が沈んでいる。それでも、今は妖を見ていた。陽鞠が止めたから。今のままでは届かないと、二人で認めたから。


 認めるのは痛かった。


 痛いどころか、刃を飲み込むような苦さだった。


 だが、その苦さを飲み込まなければ、次へ行けない。


「朔夜、右の水路を切る。三秒だけ腕を止めて」


「わかった」


「白い光が出たら目を逸らして」


「陽鞠は」


「私は結界で遮る」


「無理するな」


「無理しそうになったら言う」


「言えよ」


「うん」


 二人の声が短く交わる。


 その少し離れた場所で、玻月は静かに立っていた。


 黒い長衣の裾は濡れていない。白手袋にも水滴ひとつついていない。さっきまで陽鞠を狭い結界へ押し込み、朔夜の刀を指先だけで逸らしていた男は、まだ余裕を崩していない。


 水槽の妖が、黒い腕を振り上げた。


 朔夜が前へ出る。


 銀の刃が、濡れた影の腕を斬り落とした。落ちた腕が水へ戻ろうとする前に、陽鞠の金色の結界が床を走り、水面との接続を断つ。黒い腕は水を失い、紙のように薄く干からびて崩れた。


 次の腕。


 さらに三本。


 朔夜が斬る。


 陽鞠が封じる。


 妖のスピーカー穴から、壊れた案内放送が悲鳴のように歪んだ。


『深海へ』


『深く』


『もっと深く』


 白い光が膨らむ。


 陽鞠は目を細めた。


 嫌な熱が、金眼の奥を刺激する。


 だが、飲まれない。


 自分の名前を胸の奥で掴む。


 篠宮陽鞠。


 私は私だ。


 そう言い聞かせた時だった。


 展示ホールの天井近くから、異様に明るい声が降ってきた。


「玻月さぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!!!!」


 陽鞠は弓を引いたまま固まった。


 朔夜も刀を構えたまま、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。


 玻月の表情が、わずかに動いた。


 水槽の妖さえ、声に反応したように動きを鈍らせた。


 天井の梁から、桃色がかった白い影が落ちてくる。


 いや、落ちてきたのではない。


 飛び込んできた。


 白に近い桃色の髪が、夜の館内でふわりと広がる。青灰色の瞳が、異様な熱量で玻月だけを捉えていた。制服風の退魔装束に、薄い外套。身長は陽鞠より高いが、威圧感というより、勢いがものすごい。


 少女は床に着地する寸前、空中で身体を捻った。


 水へ触れる直前に、足元へ霊力を爆ぜさせる。


 ばしゃん、と水が吹き飛んだ。


 濁った水が周囲へ散る。だが、少女の靴も服の裾も、ほとんど濡れていない。足元に一瞬だけ薄桃色の霊力膜が咲き、水を弾いたのだ。


 着地と同時に、彼女は両手を胸の前で握りしめた。


「見つけました玻月さん! 今日も黒髪が艶やかですね! 低く結ばれたその髪の一筋一筋に宿る陰影、夜を編んだみたいで最高です! 可能なら一本ください! いえ、一本と言わず抜け落ちたものだけでも構いません! 洗面台、枕元、襟元、排水溝、どこからでも丁寧に採取しますので!」


 陽鞠は絶句した。


 朔夜も絶句した。


 玻月は目を閉じた。


 心底疲れたように。


「泪」


「はい! あなたの羽喰泪です!」


「誰のものでもない」


「照れなくて大丈夫です! 私はもう玻月さんのありとあらゆる構成要素を愛する覚悟がありますので!」


「その覚悟はしまえ」


「しまえません! 下着も盗み、髪の毛一本さえ採取、爪の垢、爪そのもの、フケでも、唾液でも、排出物でも鼻くそ目くそでも毎日欠かさず採取対象です!」


 展示ホールが、別の意味で凍った。


 妖の白い光よりも、人間の言葉の方が場を凍らせることがある。ひどい話である。


 陽鞠は弓を持ったまま、声を失った。


「え……?」


 朔夜が低く呟く。


「不審者か」


「違います! 玻月さん専門の愛の研究者です!」


「不審者だな」


「不審者ではありません! S級退魔師、羽喰泪! 恋する乙女です!」


「恋する乙女は排水溝を漁らない」


「愛の形は多様です!」


「多様性に謝れ」


 朔夜の声が冷えている。


 陽鞠はどう反応していいかわからなかった。


 この少女がS級退魔師。


 つまり、陽鞠、朔夜、玻月、結衣子と並ぶ存在。


 なのに、登場して最初に言ったことが髪の毛の採取と下着泥棒である。人材不足とは恐ろしい。協会の採用基準は戦闘力に全振りして倫理を置き忘れたのかもしれない。


 泪はそんな周囲の混乱を一切気にしない。


 玻月へ一直線に駆け寄ろうとした。


 その瞬間、水槽の妖が動いた。


 黒い腕が、泪の背後へ伸びる。


 細く、濡れた影の腕。


 先端には白い光がまとわりついている。


 陽鞠が叫ぶ。


「後ろ!」


 泪は振り返らなかった。


 笑顔のまま、片手を後ろへ払った。


 薄桃色の霊力が、扇のように広がる。


 次の瞬間、黒い腕がまとめて弾け飛んだ。


 音は軽かった。


 ぱん、と花火が破裂するような音。


 だが、威力は軽くない。


 妖の腕が五本、根元から潰れ、影ごと吹き飛ぶ。水槽の割れたガラス片が逆流するように内側へ押し戻され、白い光が一瞬だけ散った。


 陽鞠は目を見開いた。


「強い……」


 泪はくるりと振り返る。


 明るい笑みのまま、青灰色の瞳が妖を捉えた。


「邪魔です」


 声の温度が変わった。


 先ほどまでの異常な愛の叫びとは違う。


 静かで、鋭い。


 S級退魔師の声だった。


 泪の足元に、薄桃色の術式が咲く。


 花弁のような霊力紋が床へ広がり、水を押しのける。濁った水が彼女の周囲だけ円形に退き、床のタイルが露出した。妖の水路が、一瞬で分断される。


 陽鞠は息を呑んだ。


 選別ではない。


 力で押し流したわけでもない。


 霊力の爆発を、極薄の花弁状に散らして、水に触れた妖気だけを弾いている。


 雑に見えて、制御が細かい。


 しかも速い。


 泪は片手を上げた。


「玻月さんを見つめる私の時間を邪魔するなら、祓います」


 妖が叫ぶ。


 スピーカー穴から、壊れた女の声が重なった。


『こちらへ』


『水の中へ』


『深く』


 白い光が膨らむ。


 泪の瞳が細くなる。


「黙ってください」


 薄桃色の霊力が、今度は槍のように尖った。


 泪の掌から放たれた霊力槍が、白い光を正面から突き破る。陽鞠が思わず身構えるほどの霊力圧だった。白い光を浴びれば意識を持っていかれる危険がある。それなのに、泪は恐れず真正面から貫いた。


 ただの力押しではない。


 白い光が槍に触れた瞬間、槍の表面に細かな回復術式が浮かんだ。光に侵食される端から、霊力の傷を修復し、形を維持している。攻撃と回復を同時に重ねているのだ。


 霊力槍が妖の肩を吹き飛ばす。


 黒い影の身体が大きく傾いた。


 朔夜がその隙を逃さなかった。


 刀が走る。


 黒い腕を三本、まとめて斬る。


 陽鞠は水路を切る。


 泪がさらに花弁状の霊力で水を押し返す。


 一瞬、戦場が整った。


 泪の異常な言動と、戦闘中の判断の速さが噛み合わない。


 明るく、変で、危ない。


 でも、強い。


 間違いなくS級だった。


 玻月はその様子を見て、わずかに目を細めた。


「泪」


「はい! 褒めますか!? 褒めてくださいますか!? 戦闘後に頭を撫でる権利を玻月さんへ差し上げます!」


「権利を譲渡されても困る」


「では義務で!」


「もっと困る」


「困った顔も最高です!」


 泪はきらきらした目で言い切った。


 その時、展示ホールの入口側から、軽い足音がした。


 とん、とん、とん。


 水に濡れたタイルを踏んでいるはずなのに、足音はやけに乾いていた。


 陽鞠が振り返る。


 淡い藤色の髪。


 硝子のような水色の瞳。


 首元の赤いリボン。


 玻璃園結衣子が、展示ホールの入口に立っていた。


 いつものように明るく飛び込んでくるのかと思った。


 けれど、違った。


 結衣子は泪を見た瞬間、表情を凍らせた。


 本当に、一瞬だけ。


 笑顔が消えた。


 水色の瞳の奥から光が引き、首元の赤いリボンが不自然なほど鮮やかに浮いた。白い肌がさらに白く見えた。彼女の周囲だけ、音が薄くなったような気がした。


 陽鞠はその変化を見逃さなかった。


 胸の奥がざわつく。


 結衣子はすぐに笑った。


 いつものような、明るい笑み。


 だが、その笑みが戻るまでの一拍が、やけに長く感じられた。


「泪ちゃん」


 結衣子の声は明るい。


 けれど、玻月の肩がわずかに動いた。


 泪は振り返り、ぱっと顔を輝かせた。


「結衣子さん! お久しぶりです!」


「うん、久しぶり」


 結衣子はにこにこと歩いてくる。


 赤いリボンが揺れる。


「相変わらず玻月に全力だねぇ」


「はい! 玻月さんへの愛なら誰にも負けません!」


「へぇ」


 結衣子が笑った。


 その笑顔が怖い。


 陽鞠は本能的に一歩下がりそうになった。


 朔夜も、妖から視線を外さないまま、結衣子の気配には気づいている。戦場の空気が、また別の方向に歪んでいく。


 泪は玻月を見て、両手を握りしめた。


「玻月さん! 今日も唇が素敵です! 先日の傷も尊いです! あの傷の血痕を採取し損ねたことが悔しくて三日寝込みました!」


「寝込んだわりには元気だな」


「玻月さんを見たので復活しました!」


 結衣子の笑顔が、さらに明るくなった。


「玻月」


 声が甘い。


 とても甘い。


 玻月は静かに目を伏せた。


「結衣子」


「ねぇ」


「何だ」


「また?」


 その一言で、玻月の沈黙が深くなった。


 泪が首を傾げる。


「また、とは?」


 結衣子は玻月の前まで歩いた。


 水の上を歩いているのに、足元は濡れない。赤いリボンが、濁った水に映って揺れる。


「また女の子を増やしてるのかなぁって」


「増やしていない」


「陽鞠ちゃんの次は泪ちゃん?」


「違う」


「泪ちゃんに唇褒められて、ちょっと嬉しそうだった?」


「嬉しそうではない」


「じゃあ何その顔」


「困っている」


「困らせてるのは誰かな」


「……私ではない」


「今、責任逃れした?」


 結衣子の笑顔が深くなる。


 玻月は答えない。


 陽鞠は小声で朔夜に言った。


「また始まりそう」


「止めるか」


「止められるの?」


「無理そうだな」


「だよね」


 妖はまだいる。


 水槽から這い出た濡れた影が、白い光を膨らませている。


 だが、結衣子の気配に押されたのか、一瞬だけ動きを止めていた。


 泪は状況を理解したのかしていないのか、にこにこと結衣子を見ている。


「結衣子さん、私は玻月さんを心から敬愛しています!」


「うん、知ってる」


「髪の毛一本から魂の震えまで愛しています!」


「うん、だいぶ知ってる」


「玻月さんの下着も、できれば正規ルートでいただきたいです!」


「正規ルートって何?」


「本人からの譲渡です!」


「却下だよね、玻月?」


「当然だ」


「当然だって。残念だったね、泪ちゃん」


「諦めません!」


「諦めて?」


 結衣子は笑顔のまま言った。


 泪も笑顔だった。


 だが、二人の間に奇妙な緊張があった。


 陽鞠には、それがわかった。


 泪は明るい。


 異常なくらい明るい。


 結衣子も明るい。


 破天荒で、勢いがある。


 けれど、この二人の明るさは違う。


 泪の明るさは、熱だ。


 好きという感情をそのまま燃やしているような熱。


 結衣子の明るさは、光だ。


 明るく照らしているのに、奥に温度のない一瞬がある。


 その違いが、今、展示ホールでぶつかっていた。


 妖が動いた。


 空気を読まない。


 いや、妖に空気を読まれても困る。


 黒い腕が、結衣子と泪の間へ伸びる。白い光をまとった腕が、二人をまとめて水槽へ引き込もうとする。


 泪が笑顔のまま振り返った。


「邪魔ですってば」


 薄桃色の霊力が爆ぜる。


 同時に、結衣子の赤いリボンが揺れた。


 結衣子の指先から、細い糸のようなものが走る。


 光をほとんど反射しない、透明に近い糸。


 それが妖の腕へ絡みつき、泪の霊力爆発が当たる寸前に、腕の関節にあたる部分を縛った。


 泪の攻撃が、そこへ正確に入る。


 黒い腕が内側から破裂した。


 陽鞠は息を呑む。


 即席の連携。


 何の打ち合わせもない。


 それなのに、合っている。


 結衣子は笑顔のまま、泪を見た。


「相変わらず派手だね」


「結衣子さんこそ、相変わらず綺麗な糸です!」


「ありがと」


 二人は笑っている。


 だが、まだ少し怖い。


 玻月はその二人を見て、何も言わない。


 言えば燃えると理解している顔だった。


 しかし、沈黙は許されなかった。


 結衣子が玻月の襟元を掴んだ。


「さて、玻月」


「今は戦闘中だ」


「うん。だから手短に」


「手短で済んだ試しがない」


「文句?」


「事実だ」


「事実を言えば許されると思うなよ浮気野郎」


「浮気はしていない」


「泪ちゃんに唇褒められて黙ってた!」


「返答に困った」


「困ったら私を呼べ!」


「なぜ」


「彼女だから!」


 結衣子は玻月の胸倉を引き寄せた。


 陽鞠は反射的に顔を赤くした。


「ま、待って、妖が」


「大丈夫! 泪ちゃん、十秒!」


「はい! 玻月さんのお仕置き時間、全力で守ります!」


「守らないで!?」


 陽鞠の声は届かなかった。


 泪は妖の前へ躍り出る。


 薄桃色の霊力が、展示ホールの床に大きく咲いた。花弁のような結界が水を弾き、妖の黒い手をまとめて押し返す。そこへ朔夜が入る。黒い腕を斬り、陽鞠が水路を切る。


 戦闘は続いている。


 なのに、結衣子は玻月を逃がさなかった。


「結衣子、後に」


「後にしたら逃げるでしょ!」


「逃げない」


「逃げた前科が何回あると思ってる!」


「数えていない」


「私も数え切れない!」


 結衣子は玻月の襟元をぐいっと引いた。


「そんなに唇を褒められたいなら、誰のものか教えてあげる」


「結衣子」


「だめ」


 そして、口づけた。


 深かった。


 最初から、逃がす気のないキスだった。


 ちゅ、と短い音では終わらない。


 唇が重なり、すぐに湿った水音が響いた。ちゅぷ、と柔らかく吸う音。じゅ、と深く絡む音。玻月の喉から、低い息が漏れる。


「ん……っ、結衣子、今は」


 弱々しい制止だった。


 拒絶というより、場所と状況を訴える声。


 しかし結衣子は聞かない。


 襟元を掴んだまま、さらに角度を変えた。


 ちゅぷ、じゅる、と濡れた音が続く。玻月の白手袋の手が結衣子の肩へ触れかけ、押し返すには弱すぎる力で止まる。彼の吐息が熱くなり、唇の隙間から細い声が落ちた。


「っ……は、結衣子……」


 陽鞠の顔が一気に赤くなった。


「また……!」


 朔夜も耳のあたりが赤い。


 だが、目の前では妖が腕を振るっている。見るべきではない。見ている場合ではない。なのに音が聞こえる。展示ホールは音が響きやすい。設計者は悪くない。悪いのは状況である。


 泪は妖を押し返しながら、きらきらした目で振り返った。


「結衣子さんの愛情表現、相変わらず苛烈です! 素晴らしいです!」


「感想言ってないで前見て!」


 陽鞠が叫ぶ。


「はい!」


 泪は笑顔で妖へ向き直り、迫っていた黒い腕を薄桃色の霊力で撃ち抜いた。


 朔夜はその隙に踏み込み、妖の胴を斜めに斬る。


 陽鞠は水路を切る。


 しかし、視界の端では結衣子がまだ玻月に深く口づけている。


 じゅるる、と濡れた音が響いた。


 玻月の息が乱れる。


「……ん、待て……」


「待たない」


 結衣子は一度だけ唇を離し、玻月の唇の近くで囁いた。


「誰の彼氏?」


「……君の」


「声が小さい」


「結衣子のだ」


「よろしい」


 そしてまた重ねる。


 ちゅぷ、と音がした。


 陽鞠はもう顔が熱くてたまらなかった。


「朔夜、私、どこ見ればいいの」


「妖」


「音が」


「聞くな」


「無理!」


「俺も無理だ」


「言わないで!」


 朔夜は歯を食いしばって妖を斬った。


 怒りとは別の理由で、明らかに集中力を削られている。


 それでも、朔夜は強かった。


 結衣子と玻月の背後から伸びた黒い腕を見逃さず、刀を返して切り落とす。泪が霊力花弁で白い光を散らし、陽鞠がその流れに合わせて妖核へ射線を作る。


 戦場は混乱している。


 それでも、S級たちはそれぞれ動いていた。


 異常で、明るく、騒がしく、それでいて強い。


 泪は両手を広げた。


「玻月さんの尊いお仕置き時間を邪魔する妖さんには、退場していただきます!」


 薄桃色の霊力が、今度は大きな花の形を作った。


 花弁が一枚ずつ剥がれ、刃になる。


 それらが水槽の妖の周囲を舞い、黒い腕だけを正確に切り裂いていく。白い光に触れた花弁は、一瞬で色を失いかけるが、そのたびに回復術式が走り、再び薄桃色へ戻る。


 攻撃、回復、制御。


 すべて同時。


 泪は笑っている。


 だが、その瞳は真剣だった。


「陽鞠さん、核の左下、開けます!」


「見えてる!」


「朔夜さん、右腕二本、来ます!」


「わかった!」


 明るい声が、的確な戦況把握に変わる。


 陽鞠は矢を番えた。


 泪の花弁が妖の胸元を開く。


 朔夜が右腕二本を斬り落とす。


 陽鞠は水路を切りながら、矢を放った。


 金色の矢が、妖核の外殻へ刺さる。


 黒い五芒星が脈打つ。


 白い光が膨らむ。


 そこで、結衣子が玻月からようやく少し唇を離した。


 玻月は息を乱していた。


 熱い吐息が漏れ、唇は赤く濡れている。白手袋の手が結衣子の腕に触れているが、やはり強くは押し返していない。彼の紫紺の瞳が少しだけ揺れていた。


 結衣子は満足そうに笑った。


「続きはあとで」


「……十分だ」


「私が決める」


「そうか」


「そうだよ」


 結衣子は振り返り、妖を見た。


 さっきまでの甘く激しい空気が、一瞬で消える。


 水色の瞳が、硝子のように冷える。


「で、まだいるの?」


 指先から、透明な糸が走った。


 妖の胸元。


 陽鞠の矢が刺さった箇所。


 そこへ糸が絡みつく。


 泪の花弁が左右から押さえる。


 朔夜の刀が、黒い腕をすべて斬り払う。


 陽鞠は息を吸った。


 今なら核へ届く。


 だが、黒い五芒星の奥で白い光がさらに強まった。


 目の奥が熱い。


 陽鞠は歯を食いしばる。


「私は私だ」


 小さく言う。


 右手薬指の指輪が鳴った。


 ちり。


 朔夜の指輪も応えるように鳴る。


「陽鞠!」


 朔夜が名前を呼ぶ。


 その声で、白い光の熱が少し引く。


 陽鞠は二本目の矢を番えた。


「泪さん、あと一秒!」


「任されました!」


 泪の薄桃色の花弁が、一斉に妖の身体へ突き刺さる。


 白い光を浴びながらも、花弁は崩れない。回復術式で形を保ち、妖の動きを止める。泪の額に汗が滲む。明るい表情の奥に、集中の鋭さが宿っていた。


「玻月さんの前なので、私は強く美しく可愛く戦います!」


「動機はともかく、助かります!」


 陽鞠が叫ぶ。


 矢を放つ。


 金色の矢が、黒い五芒星の中央へ向かった。


 だが、玻月が一歩動いた。


 白手袋の指先が、空気へ触れる。


 矢の軌道が、ほんのわずかにずれた。


「玻月さん!」


 陽鞠が叫ぶ。


 玻月は静かに言った。


「中央ではない。右下だ」


 矢がずれた先。


 黒い五芒星の右下。


 そこには、陽鞠がまだ見抜けていなかった細い裂け目があった。


 矢がそこを貫く。


 黒い線が焼ける。


 妖が悲鳴を上げた。


 陽鞠は悔しさで奥歯を噛んだ。


 また助けられた。


 勝手に。


 腹立たしいほど正確に。


 朔夜の霊力も冷えた。


 だが、今は怒りに飲まれない。


 彼は妖へ踏み込み、矢が開いた裂け目へ刀を入れた。


「陽鞠!」


「合わせる!」


 金色の補助膜が、朔夜の刃を支える。


 泪の花弁が妖の動きを押さえる。


 結衣子の糸が核の周囲を締める。


 玻月は見ている。


 白手袋の指先だけを、わずかに下げて。


 朔夜の刀が振り抜かれた。


 妖核が割れる。


 黒い五芒星が裂け、白い光が弾けた。


 展示ホール全体が一瞬だけ白く染まる。


 陽鞠は目を逸らさなかった。


 朔夜の声が隣にある。


 指輪の音がある。


 自分の名前がある。


 白い光は、今度も彼女を飲み込めなかった。


 妖の身体が崩れた。


 濡れた影は水へ戻り、すぐに陽鞠の結界で封じられる。泪の花弁が残滓を押さえ、結衣子の糸が逃げようとする黒い霊気を絡め取る。最後に朔夜が刀を振り、妖核の破片を完全に割った。


 展示ホールに、重い静けさが戻った。


 水槽は割れ、床は濡れ、展示パネルは崩れ、古い館内放送は止まっている。


 戦闘が終わった後の、いつもの静けさ。


 だが、今回は全員の息が妙に乱れていた。


 主に戦闘以外のせいで。


 泪はぱっと玻月へ振り返った。


「玻月さん! 見てくださいましたか!? 私の花弁術式! 今日の私は何点ですか!? できれば採点後に唾液をください!」


「最後がなければ答えた」


「では唾液なしで八割我慢します!」


「二割残すな」


 結衣子が玻月の腕を掴んだ。


「玻月」


「何だ」


「泪ちゃんに点数つけるの?」


「つけない」


「唾液あげるの?」


「あげない」


「下着は?」


「論外だ」


「よろしい」


 結衣子はにっこり笑った。


 しかしその笑顔の奥に、まだ少し凍ったものが残っている。


 陽鞠はそれを見た。


 泪も見ていたのかもしれない。


 だが、泪は笑顔のまま、結衣子へ深く頭を下げた。


「結衣子さん、今日もお美しいです! そして怖いです!」


「正直でよろしい」


「私、玻月さんへの愛は譲りません!」


「うん、そこは後で話そっか」


「はい! 正座します!」


「素直だね」


「愛のためなら!」


 明るい。


 異常なくらい明るい。


 その明るさの中で、泪は本当に強かった。


 陽鞠は封印ケースを取り出しながら、彼女を見た。


 S級退魔師、羽喰泪。


 玻月へ全力で好意をぶつけ、周囲を混乱させる変人。


 玻月の髪も爪も下着も採取対象と言い切る危険人物。


 だが、戦闘になれば白い光に怯まず、攻撃と回復を同時に扱い、戦況を正確に読む実力者。


 その落差が大きすぎて、理解が追いつかない。


 朔夜が低く言った。


「S級、まともなやつが少ないな」


「私たちも入ってるから」


「俺たちはまともだ」


「ほんとに?」


「比較対象を見ろ」


 陽鞠は結衣子と泪と玻月を見た。


 そして、小さく頷いた。


「まともかもしれない」


「だろ」


 その会話が聞こえたのか、泪がぱっと振り返った。


「陽鞠さん! 朔夜さん! 初めまして、羽喰泪です! 玻月さんを愛しています!」


「それは、はい、よくわかりました」


 陽鞠は引きつった笑みで答えた。


「戦闘、助かりました」


「こちらこそ! 陽鞠さんの結界、とても綺麗でした! 金色で、薄くて、でも芯が強いです! 玻月さんが気にかけるのもわかります!」


 その言葉に、空気が一瞬変わった。


 朔夜の目が冷える。


 結衣子の笑顔が固まる。


 玻月は何も言わない。


 泪は、言ってから気づいたように口元へ手を当てた。


「あ、失礼しました。陽鞠さんが嫌がる言い方でしたね」


 陽鞠は少し驚いた。


 泪は明るく頭を下げる。


「ごめんなさい。玻月さんが誰かを気にかけると、つい興奮してしまって。でも、嫌なものは嫌ですよね。玻月さんは反省してください」


「私に来るのか」


「来ます!」


「そうか」


 結衣子が玻月の襟元を再び掴む。


「反省、足りない?」


「足りている」


「ほんと?」


「少なくとも今は足りている」


「今だけ?」


「言い方を誤った」


「よし、おかわりかな」


「待て」


 玻月の声に、わずかに弱さが混じった。


 陽鞠と朔夜は同時に顔を赤くした。


「また!?」


 陽鞠が叫ぶ。


 結衣子はにっこり笑う。


「大丈夫、短め!」


 短めの基準が信用できない。


 玻月は小さく息を吐いた。


 泪は両手を胸の前で握り、真剣に見守る姿勢になっている。


 朔夜は陽鞠の視界を半分隠した。


「見るな」


「音がするから!」


「聞くな」


「無理だってば!」


 結衣子は玻月へ顔を寄せた。


 玻月が諦めたように目を伏せる。


「結衣子」


「何」


「短めだぞ」


「努力する」


「信用できない」


「彼女を信じろ」


「内容による」


「じゃあ黙って」


 再び、唇が重なった。


 ちゅ、と今度は短く始まった。


 だが、すぐに深くなる。


 ちゅぷ、と水音がして、玻月の喉から小さな息が漏れた。


「ん……っ」


 陽鞠は両手で顔を覆いかけ、封印ケースを持っていたことに気づいて慌てて持ち直した。


 朔夜は明らかに視線を逸らしている。


 泪は何かを拝むような顔で見ている。


 玻月は弱々しく結衣子の腕に触れた。


「……短め、では」


「まだ短い」


 結衣子の声は甘かった。


 じゅ、と濡れた音が響く。


 玻月の吐息が熱く乱れる。


「っ、は……結衣子」


「誰の彼氏?」


「君の」


「泪ちゃんには?」


「あげない」


「よし」


 ようやく結衣子は離れた。


 玻月はしばらく呼吸を整えていた。唇は赤く、黒い長衣の襟元は少し乱れている。白手袋の手が口元に触れかけ、結衣子にじっと見られて止まった。


 泪はきらきらした顔で拍手した。


「素晴らしいお仕置きでした!」


「泪ちゃん、それ褒めてる?」


「心から!」


「そっかぁ」


 結衣子は笑っている。


 だが、その水色の瞳は、まだ泪をどこか測るように見ていた。


 陽鞠はその視線を見て、封印ケースを閉じる手を止めた。


 結衣子と泪。


 玻月へ向ける感情は違う。


 明るさも違う。


 そして、二人の間には何かがある。


 それが何なのか、まだわからない。


 玻月は乱れた襟元を整えながら、何事もなかったように言った。


「残滓は回収しておけ。白い光の層が前より深い」


「あなたも手伝ってください」


 陽鞠が冷たく言う。


「私は」


「見てたんだから」


 陽鞠は玻月を睨んだ。


「勝手に矢の軌道をずらした分くらい、働いてください」


 朔夜が隣で刀を鞘に納めず、玻月を見ている。


 まだ怒っている。


 けれど、斬りかかりはしない。


 玻月は少しだけ目を細めた。


「命令か」


「お願いに聞こえました?」


「いいや」


「じゃあ、命令です」


 玻月は薄く笑った。


「強くなったな」


「あなたに言われても嬉しくありません」


「だろうな」


 玻月は白手袋の指先を伸ばし、水槽の底に残った黒い五芒星の破片へ霊糸を伸ばした。


 泪がその横でうっとりと見る。


「玻月さんの霊糸、今日も美しいです……一本ください」


「やらない」


「では使用済み白手袋だけでも」


「やらない」


「爪は」


「やらない」


「髪は」


「やらない」


「厳しい!」


「普通だ」


 結衣子が横からにこにこと言う。


「泪ちゃん、玻月の抜け毛採取は私の許可制ね」


「許可制なのですか!?」


「うん。九割九分九厘、却下」


「残りの一厘に賭けます!」


「強いねぇ」


 陽鞠は疲れた顔で朔夜を見た。


「情報量が多い」


「ああ」


「S級って、こんななの?」


「俺たちはまともだ」


「うん。たぶん、かなり」


 朔夜の手が、陽鞠の指先へ触れかけて止まる。


「手、いいか」


「うん」


 陽鞠は自分から手を出した。


 朔夜がそっと握る。


 指輪が触れる。


 ちり、と小さく鳴った。


 その音だけが、混乱した展示ホールの中で、いつもの二人の音だった。


 泪は玻月へ全力で好意を叫び続けている。


 結衣子は笑顔でそれを牽制している。


 玻月は疲れた顔で残滓を回収している。


 水族館跡の床には、濁った水と割れたガラスが散らばっている。


 戦いは終わった。


 けれど、厄介なものは増えた。


 陽鞠は、泪の明るい横顔と、結衣子の一瞬凍った表情を思い返す。


 玻月の周りには、まだ知らない過去が多すぎる。


 そして、それらは少しずつ、陽鞠と朔夜の前へ姿を現し始めていた。




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