第九章 追跡信号
ハルカの執務室は、朝の光の中でも変わらず整然としていた。
すずなは定刻通りに扉をノックした。入れ、という声が返ってきた。中へ入ると、ハルカは机の前に座っていた。書類ではなく、端末の画面を見ていた。すずなが入ると、画面を閉じた。
「座りなさい」
すずなは座った。キップは肩の上にいた。今日はミオを休憩室に置いてきた。ハルカとの面談に、ミオを連れていくわけにはいかない。
「昨夜、資料室の旧記録書庫に入りましたね」
「はい」
「見習い駅員の権限では入れない区画です」
「キップの補助車掌権限で入りました」
ハルカはキップを見た。キップはすずなの肩の上で、ハルカを見返した。目をそらさなかった。
「補助車掌権限の目的外使用は、規則違反です」
「承知しています。処分があれば、受けます」
キップは、普段とは違う丁寧な口調で言った。
いつもの「吾輩」は出てこなかった。耳も、ほんの少しだけ伏せられている。
ハルカの前ではキップも補助車掌なのだと、すずなは妙に納得した。ハルカはキップから、すずなへ視線を移した。
「何を調べましたか」
「分岐存在に関する記録と、時間修正の記録です」
「なぜ」
「六号室の乗客について、確認したいことがあったからです」
ハルカの目が、少しだけ変わった。表情は動かなかったが、目の奥で何かが動いた気がした。
「ネム。六号室の乗客ですね」
「はい。確認作業中の案件です」
「十和田ネム。寝台車両で継続観察中と報告書にありました」
ハルカは机の上の書類を見た。
「六号室の乗客については、報告書に記録があります」
ハルカはそこで一度、端末の閉じた画面に視線を落とした。
「問題は、報告書にないほうです」
すずなは、息を止めた。
「七番線貨物車両。調査継続中、とだけ記録されていますね」
「……はい」
「その調査対象は、今どこにいますか」
すずなはすぐには答えられなかった。
場所を言えば、ミオを差し出すことになる。けれど、ここで嘘をつくこともできなかった。
「休憩室です」
「名前は」
「……灯野ミオです」
すずなは膝の上の手を、そっと握った。
「あなたが確認作業を継続している案件として、記録が残っています」
「はい」
「未登録乗客。分岐存在の疑いあり」
「確認中です」
ハルカは少しの間、何も言わなかった。
「資料室で何を見つけましたか」
すずなは消滅確認リストのこと、分岐存在の処理方針のこと、ネムが管理局の処置によって休眠状態を維持されていること。事実を順番に、正確に話した。感情を入れなかった。
ハルカは黙って聞いていた。途中で何も聞かなかった。すずなが話し終えると、しばらく沈黙があった。
「よく調べましたね」
「必要な情報でした」
「必要と判断したのは、あなたです」
「はい」
「管理局が必要と判断したわけではありません」
「はい」
ハルカは窓の外を見た。第七遅延区のホームが見える窓だ。朝の光が差している。
「星見、先日、命令を出しました。未登録乗客を発見した場合、即時報告するように」
「はい」
「その命令の意味は、理解していますか」
「理解しています」
「ならば」
「命令の発令日以降に発見した案件については、報告義務があります」
そう言って、ハルカを見た。
「発令日より前に発見した案件は、対象外です。第十八条第四項」
ハルカはすずなを見た。長い間、見ていた。
「それを、私の前で言いますか」
「事実として言っています」
「確信犯ですね」
「規則の範囲内です」
「範囲内と範囲外の境界を、あなたが引いている。以前も言いました」
「はい」
「また言います。それは、規則を守っているとは言いません」
「承知しています」
また沈黙があった。ハルカは机の上で手を組んだ。
「資料室への無断侵入について、報告書を提出してください。業務外行動として、正式な記録に残します」
「はい。昨夜のうちに下書きを作りました」
「提出は今日中に」
「はい」
「それとは別に、一つ、情報を提供します」
すずなは少し驚いた。そんな言葉が、ハルカの口から出るとは思っていなかった。
「管理局上層部からの通達について。内容は知っているようですね。未確定分岐存在を確認次第、回収せよ」
「はい」
「通達の発令元は、局長代理の烏丸セイです」
すずなはその名前を、記録に留めた。
「烏丸セイ。管理局の上層部に、そういう方がいるんですか」
「あなたが知る必要のある情報ではありませんでした。ただ」
ハルカは少し間を置いた。
「通達の発令元を知っておくことは、あなたの判断に必要かもしれないと思いました」
「なぜ教えてくれるんですか」
ハルカはすずなを見た。事務的な目だった。
「私は規則を守る側にいます。それは変わりません。ただ、情報を持っている人間と、持っていない人間では、できることが違います。私が情報を提供することは、規則違反ではありません」
「では、なぜ」
「あなたが優しいからです。優しい人間は、情報がないと適切な判断ができない」
「優しいとは思っていません」
「私はそう見ています」
ハルカは書類を取り上げた。
「下がっていいです。報告書は今日中に」
「はい」
すずなは立ち上がった。
「一つだけ、聞かせて下さい。以前、引きずられたことがある、とおっしゃいました。個別の事情を優先したことがある、と」
「言いましたね」
「その経験が、今日の判断に関係していますか」
ハルカは手を止めた。
長い沈黙があった。執務室の外で、列車が通る音がした。
「下がりなさい」
「はい」
すずなは扉へ向かった。ノブに手をかけたとき、ハルカが呼んだ。
「星見」
「はい」
「今夜は、七番線周辺に近づかないように」
すずなは振り返らなかった。
「なぜですか」
「巡回の変更があります。別の担当者が七番線を確認します」
「今夜だけですか」
「今夜の話をしています」
すずなは頷いた。
「わかりました」
扉を閉めた。
廊下に出て、すずなはすぐにキップに小声で伝えた。
「今夜、七番線に別の担当者が来ます」
「聞いていた」
「ミオとネムを、七番線から動かす必要があります」
「どこへ」
「別の路線です。廃止された路線があると、以前に言っていましたね」
キップは少し間を置いた。
「廃止路線に入ることは、規則違反だ」
「どの条文ですか」
「第二十一条第一項。廃止路線への無断立ち入りを禁ずる」
「無断立ち入りを、です。許可があれば」
「許可を出せる権限を持つ者が、状況を知った上で許可を出すとは考えにくい」
「出すかどうかは、聞いてみなければわかりません」
「誰に聞くつもりだ」
「ハルカ主任です」
キップはしばらくすずなを見た。
「さっき、七番線に近づくなと言われたばかりだ」
「廃止路線の使用について聞くことは、七番線に近づくことではありません」
「屁理屈だ」
「規則の解釈です」
キップは鼻を鳴らした。
「……急げ。今夜までに動かなければならない」
すずなは執務室へ引き返した。もう一度ノックした。
入れ、という声が返ってきた。扉を開けると、ハルカはすずなを見て、少しだけ目を細めた。
「何ですか」
「廃止路線の使用について、確認があります」
「廃止路線」
「第七遅延区管轄内の廃止路線です。現在、使用停止中ですが、緊急時の避難経路として機能する場合があると、研修資料にありました」
「それは正しい記述です。ただし、緊急時の判断は主任権限です」
「緊急時かどうか、主任が判断するということですか」
「そうです」
「現在の状況は、緊急時に該当しますか?」
ハルカはすずなを長い間、見ていた。
「管轄内で、処理対象の分岐存在が複数確認されている状況は、通常の運営に支障をきたす可能性があります。緊急時の定義は、第二十五条第二項です」
「第二十五条第二項。管轄内の乗客の安全に重大な影響が生じる可能性がある場合」
「分岐存在が適切な処置なく回収された場合、その存在に対して重大な影響が生じます。管轄内の乗客に準じる存在として扱うかどうかは、主任の判断です」
ハルカは机の上の書類に視線を移した。それからまた、すずなを見た。
「星見。あなたは、分岐存在を乗客として扱え、と言っているんですか」
「主任が判断することです。わたしは確認をしているだけです」
「確認」
「はい」
また沈黙があった。
ハルカは端末を開いた。何かを打ち込んだ。しばらくして、端末を閉じた。
「廃止路線の一時使用を、緊急避難経路として承認します。対象は、今夜から明日の朝まで。それ以降は、通常の手順に従ってください」
「ありがとうございます」
「記録に残ります。あなたの名前で申請されたことになります」
「わかっています」
「記録が残ることの意味を、わかっていますか」
「管理局に、わたしの行動として記録されます。あとで問題になる可能性があります」
「それでもいいんですか」
「隠蔽より、記録として残すほうが、あとで使えます」
ハルカは少しだけ、表情を動かした。
「下がりなさい」
すずなは頭を下げて、執務室を出た。
廊下で、キップが言った。
「許可が出た」
「はい」
「ハルカ主任は、何を考えているんだろうな」
「わかりません。でも、悪くない人だと思います」
「キップも、そう思う」
すずなは歩き始めた。今夜のことを考えた。ミオをどう動かすか、ネムをどう動かすか、廃止路線へどう入るか。段取りを頭の中で整理した。
「ミオに話します」
「ネムは動けるか」
「昨日より状態は安定しています。短い移動なら、できると思います」
「廃止路線は、吾輩がかつて車掌をしていた路線と重なる」
「知っています」
「案内は、任せろ」
すずなはキップを見た。小さな体で、車掌帽をかぶって、尊大な顔をしている。
「ありがとうございます、キップ」
「礼は不要だ。職務だ」
「職務ではないと思いますが」
「吾輩が職務と言ったら、職務だ」
すずなは少し笑いそうになった。
夜になる前に、すずなは段取りを終えた。
廃止路線への入口は、七番線の端にある古い扉だった。管理局の管轄内だが、普段は誰も使わない。今夜の巡回変更で、七番線には別の担当者が来る。その前に動く必要があった。
ミオに説明した。
「廃止路線に移動します。今夜、七番線に巡回が来ます」
「わかった」
ミオは迷わず言った。
「ネムは?」
「一緒に連れていきます」
「ネム、動けるかな」
「聞いてみます」
三人で寝台車両へ向かった。六号室のネムは、昨日より少し起きやすそうだった。ミオが声をかけると、目を開けた。
「ミオお姉ちゃん」
「おはよう、ネム。少し移動できる?」
「……どこへ?」
「別の場所。歩けそう?」
ネムはベッドの上でゆっくりと体を起こした。ミオが背中を支えた。足を床に下ろして、立ち上がろうとした。ふらついたが、倒れなかった。
「歩ける」
「無理しなくていいよ」
「歩ける。一人で歩く」
ネムは自分で歩いた。ゆっくりで、少しふらついたが。すずなは隣で見守った。倒れそうになったら支えようと思っていたが、ネムは倒れなかった。
廊下を通り、七番線のホームへ出た。ホームの端、古い扉の前でキップが待っていた。
「急げ。巡回変更の担当者が来るまで、あと少しだ」
「開けられますか」
「吾輩の権限で開く」
キップが端末に触れた。古い扉が、錆びた音を立てて開いた。
向こうは暗かった。
廃止路線は、照明が落ちていた。遠くに銀河の光が届いていて、辛うじて足元が見える程度の明るさだった。空気が、現役の路線とは違う。長い時間、誰も使っていない場所の、静かな匂いがした。
「ここは」
ミオが尋ねた。
「廃止路線だ。かつて、吾輩が車掌をしていた路線だ」
「キップが」
「昔のことだ。今は使われていない」
すずなたちは廃止路線へ入った。すずなが最後に通り、古い扉を閉めた。
暗い路線の中を、キップの案内で歩いた。足元は古いレールで、踏み外さないように気をつけて歩いた。ネムはミオの手を握っていた。ミオは握り返していた。
しばらく歩くと、古い待合室があった。廃止される前の駅の跡らしく、ベンチが残っていた。照明は落ちているが、天井に窓があって、銀河の光が差し込んでいた。
「ここで、今夜は待ちます」
すずなは言った。
「朝まで?」
ミオが尋ねた。
「ハルカ主任から、明日の朝まで廃止路線の使用を承認してもらっています。朝以降のことは、また考えます」
「また考えるって、あとでいつも考えてるね」
「状況が変わってから考えたほうが、正確に判断できます」
「すずならしい」
ネムがベンチに座って、銀河の光を見上げた。
「きれい」
「ここからも、銀河が見えるんですね」
すずなは言った。
「うん。流星野も、こんな感じで見えてた。橋の上から」
流星野。川のそばの、消えた町の名前。ネムが覚えている、銀河の見える橋。
「ネム、その橋の上で、何をしていましたか」
すずなは尋ねた。
「お父さんと、見てた。夏の夜に、お父さんと橋の上で銀河を見てた。寒くなったら帰ろうって言って、でも帰れなくて、ずっと見てた」
「寒くなっても帰れなかったんですか」
「うん。帰りたくなかったから」
ネムは笑った。小さな笑いだった。
「ずっとここにいたかった」
ミオがネムを見ていた。
「お父さんのこと、好きだった?」
「好き」
ネムはすぐに答えた。
「お父さんはおもしろかった。変な歌を知ってて、よく歌ってた」
「変な歌?」
「空の魚の歌。空を泳ぐ魚の歌で、意味がわかんなかったけど、好きだった」
ミオが少し笑った。すずなも、聞いていた。
ネムの記憶は、鮮明だった。消えた未来の記憶なのに、橋の感触も、夜の寒さも、父親の歌も、はっきりと覚えている。それだけの記憶があるということは、ネムが確かにそこにいたということだ。
「キップ、この路線で、昔どんな乗客に会いましたか」
すずなが尋ねると、キップは古いレールの上を歩きながら、少し考えた。
「この路線は、特に長く乗り遅れた人たちが来る路線だった。何年も、何十年も、乗り遅れたままの人たち」
「そういう人たちは、どうなりますか」
「それぞれだ。諦める人もいる。前へ進む人もいる。ずっとここにいる人もいた」
「ずっとここにいる人は」
「吾輩が、降ろした。規則通りに。降ろすべき人を、時間が来たら降ろした」
すずなは何も言わなかった。
「一人だけ、降ろすべきでなかったと今でも思う人がいる。謝りたい人がいると言っていた人だ。時間をくれと言っていた。でも、吾輩は降ろした」
「その人の未来がどうなったか、知っていますか」
「知らない。降ろしたあと、この路線は廃止になった。吾輩は別の区画へ移された。それだけだ」
待合室に沈黙が落ちた。
ネムが、キップを見た。
「車掌さん、悲しそう」
「悲しくはない。後悔しているだけだ」
「後悔って、悲しいことじゃないの?」
「……同じかもしれない」
「そっか」
ネムはベンチの上で膝を抱えた。
「ワタシも後悔してることがある」
「何を、ですか?」
すずなは尋ねた。
「お父さんに、もっと変な歌を聞いておけばよかった。全部覚えたかった。でも、全部は覚えられなかった」
「覚えている歌はありますか」
「一番好きだったやつは、覚えてる」
「聞かせてもらえますか」
ネムは少し考えた。それから、小さな声で歌い始めた。
旋律は単純で、子守唄のような歌だった。言葉は少し変で、意味がわからない部分もあったが、それがかえって心地よかった。空を泳ぐ魚の歌は、銀河の見える古い待合室に、静かに広がった。
ミオが目を閉じて聞いていた。キップがしっぽを止めた。すずなはノートを取り出しかけて、やめた。
今夜は記録しない。ただ聞く。
ネムが歌い終えた。
「上手だね」
ミオが言った。
「お父さんの方が上手だった。でも、聞いてくれてありがとう」
「お礼を言うのは、わたしたちの方だよ」
「ううん。覚えてたのを、聞いてもらえたから」
すずなは懐中時計を取り出した。針を見た。どこへ向かうかわからない動き方をしていたが、今夜は少しだけ違った。まだ正確ではないが、ある方向に向かおうとしている感じがした。
「ミオ」
「なに」
「管理局は、あなたを不要な分岐と呼びます。消滅済みの記録の上にいる存在だと、そう言います」
「うん」
「でも、あなたには、スープの味の記憶があります。銀河の景色の記憶があります。こうして話している言葉があります」
「ある」
「記録が消えても、記憶は残っている。ネムの父親の歌が、ネムの中に残っているように」
「そうだね」
「だから、あなたを不要と呼ぶことに、わたしは納得していません。記録に書いてあっても、納得しません」
ミオはすずなを、しばらく見ていた。
「すずな」
「はい」
「わたし、あのね」
ミオは少し笑った。困ったような、照れたような、でも力のある笑い方だった。
「すずなのこと、好きだよ」
すずなは答えられなかった。
好き、という言葉の意味を考えた。どういう意味で言っているか、聞いたほうがいいかもしれないと思った。でも、聞かなかった。今聞くことではない気がした。
「……わたしも、ミオのことを、ここにいてほしいと思っています」
「それ、好きってこと?」
「整理中です」
ミオが笑った。声を出して笑った。
「また整理中だ」
「少し前より、整理が進んでいます」
「どれくらい進んだの?」
「だいぶ進みました」
「じゃあ、いつ終わるの」
「もう少しかかります」
ネムが二人を見ていた。何かを考えているような顔をしていた。
「お姉ちゃんたち、仲良いね」
「そうですか」
すずなは微笑んだ。
「うん。見てると、なんか安心する」
「なんでですか」
「わかんない。でも、安心する」
「新人、今夜は休め。明日の朝、また動く必要がある」
「はい」
「ネムも、眠れそうか」
「眠れる。でも、今夜は眠くない」
「なぜだ」
「ここにいる人たちと、もう少し話したい」
キップはしばらくネムを見た。それから、ベンチの端に座った。尊大な顔のまま、でも少しだけ柔らかい顔で。
「では、吾輩が昔この路線で会った乗客の話をしよう。おもしろい話ではないが」
「聞きたい」
ネムは興味深そうにしていた。
「吾輩の話を聞きたいとは、物好きだな」
「車掌さん、声がいい」
「……そうか」
キップは少しの間黙っていた。それから、話し始めた。
古い廃止路線の待合室に、銀河の光が差し込んでいた。キップの話し声が、穏やかに広がった。ネムは膝の上で手を重ね、じっと耳を傾けていた。ミオは窓際で黙っていた。すずなもまた、ノートを開かずに、その声を聞いていた。
懐中時計の針が、ゆっくりと動いていた。
どこへ向かうか、まだわからなかった。でも、確かに動いていた。




