第八章 なくなった町の時刻表
資料室へ忍び込んだのは、深夜だった。
正確には、忍び込む、という言葉は正確ではない。すずなには管理局の建物への立ち入り権限がある。ただし、資料室の奥にある旧記録書庫は、見習い駅員の権限では入れない区画だった。
キップの補助車掌権限で、扉は開いた。
昨夜、ネムの個室から戻ってきてから、すずなはずっと考えていた。管理局が過去に分岐存在を処理してきた記録があるなら、それを見たい。ミオのことが載っているかもしれない。何か、手がかりになることがあるかもしれない。
それだけが理由ではなかった。
ネムのことが、頭から離れなかった。管理局の白い制服を着た誰かが来て、ネムを眠らせた。正式な手順ではない処置を使って、存在が消えるのを待っていた。それが事実なら、管理局はどこまで知っていて、どこまでを意図的に行っているのか、確認したかった。
「新人、これは業務外の行動だ」
「わかっています」
「記録に残る可能性がある」
「わかっています」
「それでも行くのか」
「行きます」
キップは何も言わなかった。扉を開けたのは、キップだった。
旧記録書庫は、資料室の最奥にあった。通常の棚の間を抜けて、さらに奥の、金属製の扉の向こうだ。キップが権限証明の端末に触れると、扉は静かに開いた。
中は薄暗かった。
棚が何列も並んでいて、古い資料が積まれている。紙の匂いがした。長い時間が経った紙の、少し乾いた匂い。すずなは照明を最低限にして、棚の間を歩いた。
「何を探すか、決まっているか」
キップが尋ねた。
「分岐存在に関する記録と、時間修正の記録を探します。特に、灯野ミオという名前が関係する修正の記録を」
「名前が残っているとは限らない」
「わかっています。でも、関連する記録が何かあるはずです」
棚には年代順に資料が並んでいた。すずなは二十七年後から逆算して、ミオが消えた未来に関わる時間修正が行われた時期を探した。旧書庫でキップが調べた内容によれば、十二年前の大規模修正でミオの未来が消滅している。すずなは十二年前の区画へ向かった。
棚に「第七次時間修正・関連記録」というラベルのついた束があった。
厚い束だった。引き出して、照明の下で開いた。
最初の数ページは、修正の概要だった。第七次時間修正の対象区域、修正の規模、影響範囲。難しい言葉が並んでいて、すずなには専門的な部分がわからなかったが、読み進めるうちに要点がわかってきた。
十二年前、ある選択の分岐点において、世界の時刻表に重大な誤差が生じた。誤差の規模が大きすぎて、自然修正では対応できないと判断された。管理局は上層部の承認を得て、当該分岐を強制的に消滅させた。
消滅させた、という言葉が、すずなの目に止まった。
「キップ」
「ここにいる」
「分岐の消滅というのは、未来そのものがなくなる、ということですか」
「そうだ。その分岐の上にあったすべてが、なかったことになる」
「なかったことになる」
「記録から消え、世界の認識から消え、その分岐の上に存在したはずの人々も、消える」
すずなはページをめくった。
修正の詳細が書いてあった。対象となった分岐の内容。ある人物がある選択をした結果として生じた分岐で、その分岐の上では、多くの異なる未来が展開していた。詳細は機密指定になっていて、何行かが黒く塗りつぶされていた。
次のページに、「消滅確認リスト」という見出しがあった。
消滅した分岐の上に存在するはずだった人々の、断片的な記録が並んでいた。名前ではなく、管理番号と、外見上の特徴と、発生予定時期だけが書いてある。何十もの番号が並んでいた。
すずなはゆっくりとリストを読んだ。
三十七番目の項目に、目が止まった。
管理番号37。発生予定時期、修正から二十七年後。外見特徴、女性、十代。確認状況、消滅済み。備考欄に、小さな文字で書き添えてあった。
──名称断片、灯野ミオと推定。
すずなは息が止まった。
灯野ミオ。推定、という言葉がついているが、名前がある。消滅確認リストに、ミオの名前がある。管理局は知っていた。ミオが誰で、どこから来るはずだったのか、少なくとも断片的には知っていた。
「キップ」
「見ている」
キップが隣にいた。いつの間にかすずなの肩に乗っていた。
「消滅確認リストに、ミオの名前がある」
「管理局は、ミオのことを知っていた」
「少なくとも、記録の上では把握していた。ただし、消滅済みとして処理されている」
「消滅済みなのに、ミオは存在しています」
「それが、分岐存在だ。消滅したはずの未来の残骸が、銀河鉄道に迷い込んだ。管理局の記録では消えているが、実際には存在している」
すずなはページをめくった。
後半に、「残存分岐存在の処理方針」という節があった。
読み進めると、内容が明確になってきた。
時間修正の際、消えるべき分岐から「残存物」が生じる場合がある。残存物とは、消えたはずの未来から迷い込んだ存在の痕跡だ。管理局はこれを「分岐存在」と分類し、発見次第、処理することを方針としている。
処理の内容は、二段階だった。
第一段階、安定化阻止。分岐存在が銀河鉄道内で定着することを防ぐため、存在の認識を遮断する。乗客名簿への記録禁止、接触者への情報遮断、必要に応じて休眠処置。
第二段階、回収。安定化が阻止されない場合、または発見が遅れた場合、物理的に回収して管理下に置く。長期的には、完全な消滅処理を行う。
すずなはページを閉じた。
閉じて、しばらくそのまま立っていた。
第一段階。安定化阻止。必要に応じて休眠処置。
ネムのことだ。
ネムは管理局に眠らされた。分岐存在が定着しないように、接触者への情報遮断として、眠り続けさせた。それが「安定化阻止」の処置だったのだ。
「キップ、ネムの個室に、白い制服の管理局員が来たと言っていました」
「聞いていた」
「それは第一段階の処置を行った人間だった可能性が高い」
「そうだろう」
「ミオについても、同じことをするつもりだと思いますか」
「通達が出ている以上、そうなる可能性が高い」
すずなは棚を見た。何十年分もの記録が並んでいる。時間修正の記録、分岐存在の処理記録、消滅確認リスト。ミオは三十七番目の項目として、消滅済みと記録されている。消滅済みなのに、今もここにいる。
「もう一つ調べたいことがあります」
「何だ」
「ネムのことです。消滅確認リストに、ネムの記録もあるかもしれません」
キップは少し考えた。
「第七次修正以外の修正記録も探す必要があるかもしれない。ネムがいつの分岐から来たかは、まだわかっていない」
「川のそばの町、という記憶があります。流れる、という字の入った地名」
「管理局の地名記録と照合できるかもしれない」
すずなは別の棚へ向かった。
地名記録の棚は、旧記録書庫の別の列にあった。修正によって消滅した地名のリストが、年代順に並んでいる。すずなはリストを引き出して、「流れ」を含む地名を探した。
四件あった。
すずなはその中で、修正によって消滅したものを確認した。一件だけ、消滅の記録があった。
流星野、という地名だった。川沿いの小さな町で、第四次時間修正によって消滅している。消滅時期は、十九年前。
「流星野」
すずなは読んだ。
「流れる星の野、という地名です」
「ネムの記憶と一致する可能性がある」
「第四次時間修正の記録を探します」
キップが補助して、第四次修正の記録を見つけた。消滅確認リストを開くと、流星野に関係する分岐存在の項目があった。
項目は一つだけだった。
管理番号4-12。発生予定時期、修正から十一年後。外見特徴、女性、幼少期。確認状況、消滅確認不完全。備考欄に書いてあった。
──名称不明。流星野出身の分岐存在として記録。安定化阻止処置を実施。休眠状態を維持中。
維持中、という言葉が、すずなの目に焼き付いた。
ネムは今も、管理局の処置によって眠り続けている。維持中、というのは、まだ管理局が関与し続けているということだ。
「キップ」
すずなの声が、少し変わっていた。
「ネムは、管理局に眠らされているだけではありません。今も、眠り続けさせられています」
「そうなる」
「管理局は、ネムがどこにいるか、把握している可能性があります」
「通達が出ているなら、そうだろう。ただし、位置を特定していたかどうかは、この記録では判断できない」
すずなは記録を閉じた。棚に戻した。
もう一つ、確認したいことがあった。
ハルカが言っていた。引きずられたことがある、と。管理局に入る前に、個別の事情を優先したことがある、と。それがどういうことだったのか、記録に残っているかどうか、知りたかった。
でも、すずなは棚から離れた。
ハルカのことを調べるのは、今夜ではない。今夜調べるべきことは、ミオとネムのことだ。それ以外のことは、別の機会でいい。
「戻ります」
「今夜調べたことは、記録に残すか」
「記録します。業務外の行動として、正直に書きます」
「主任に知られる」
「知られます」
「それでいいのか」
すずなは資料室の扉に向かいながら、答えた。
「隠蔽するより、記録として残しておくほうが、後で使えます」
「使える」
「ミオとネムを守るための根拠として、事実の記録が必要です。記録があれば、それを使って判断できます。隠していたら、使えません」
キップは黙っていた。
旧記録書庫を出て、資料室を抜けて、廊下へ出た。深夜の廊下は静かで、誰もいない。遠くで列車が通る音だけが聞こえた。
「キップ」
「何だ」
「管理局は、分岐存在のことを知っていて、処理しています。ミオのことも、ネムのことも、記録の上では把握しています」
「そうだろう」
「でも、ミオとネムは今もここにいます」
「ミオは管理局の記録から漏れた。ネムは休眠処置で維持されている。いずれも、管理局の想定外だったか、あるいは処理が後回しになっていたか、どちらかだ」
「どちらにしても、今夜以降は状況が変わる可能性があります。通達が出た以上、管理局の動きが加速するかもしれない」
「そうだな」
「キップ」
すずなは立ち止まった。
「わたしには、どこまでできますか?」
キップはすずなを見た。
「何を聞いている」
「見習い駅員として、どこまで動けますか。ミオとネムを守るために、どこまでが規則の範囲内で、どこからが完全な違反になりますか」
キップは少しの間、黙っていた。
「お前はもう、かなりの部分で規則の外に踏み出している」
「わかっています」
「隠蔽継続、業務外の資料室侵入、分岐存在の庇護。いずれも、本来は規則違反として処分される可能性がある」
「はい」
「それでも、続けるか」
すずなは廊下の窓を見た。夜の第七遅延区が見える。琥珀色のホームの灯りが並んでいて、遠くに列車の光が見える。乗り遅れた人たちの列車が、今夜も銀河の縁を走っている。
「続けます。ただ、一人では限界があります」
「吾輩がいる」
「キップも、処分の対象になる可能性があります」
「わかっている」
「それでも」
「お前が言ったことを覚えているか。感情で動く前に一度止まる、と言っていた」
「はい」
「吾輩も同じだ。感情だけで動いているわけではない。規則の専門家として、今夜の行動がどういう意味を持つか、わかった上で動いている」
「理由を教えてもらえますか」
「昔、規則通りにして後悔した。それだけだ」
それだけ、という言葉に、すずなは何かを感じた。理由の大小ではなく、キップが自分の判断でここにいることが、今は大事なことだった。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「言います」
「聞かない」
キップはそっぽを向いた。
すずなは歩き始めた。休憩室へ向かった。ミオが起きているかどうか、わからなかった。でも、戻ったことを伝えたかった。
扉を静かにノックした。
「戻りました」
少しして、扉が開いた。ミオが立っていた。起きていた。
「遅かった」
「時間がかかりました」
「何かわかった?」
「いくつか」
ミオはすずなを通した。すずなは部屋に入って、椅子に座った。ミオは向かいに座って、すずなを見た。
「話して」
すずなは調べたことを話した。消滅確認リストのこと。ミオの名前が記録されていたこと。管理局が分岐存在の処理方針を持っていること。ネムが今も管理局の処置によって眠らされていること。
ミオは黙って聞いていた。途中で何かを言いたそうにしたが、黙っていた。
すずなが話し終えると、ミオは少しの間、何も言わなかった。
「管理局は、わたしのことを最初から知ってたんだ」
「記録の上では、把握していたと思われます」
「消滅済みとして処理されている」
「記録上は、そうなっています」
「でも、わたしはいる」
「います」
ミオは手の中の封筒を見た。読めない文字が光っている封筒。郵便車両から迷い込んできた封筒。
「消滅済みなのに、いる。なんでだろう?」
「わかりません。でも、いることは事実です」
「事実か」
「はい」
ミオはしばらく黙っていた。
「ねえ、すずな」
「はい」
「わたしは、間違いなの? 管理局の記録では消滅済みで、いるはずがない存在で、世界の時刻表に誤差を生じさせる。それって、いていいものじゃないってこと?」
すずなは答えを探した。正しい答えが、どこかにあるはずだと思った。でも、見つからなかった。
見つからないまま、すずなは言った。
「わたしには、ミオが間違いだとは思えません」
「でも、管理局の記録では」
「記録は事実を示しますが、正しさを示すわけではありません」
「どういう意味?」
「消滅済みという記録は、事実かもしれません。でも、今ここにいるミオが間違いかどうかは、記録が決めることではありません」
ミオはすずなを見た。
「誰が決めるの」
「わかりません。でも、少なくとも、わたしは、ミオを間違いとは呼びません」
ミオは封筒を握った。少しの間、目を閉じた。
「わたしはさっきから、消えることを考えてた。自分から管理局に行って、回収されれば、すずなが規則違反で処分されずに済む。ネムのことも、うまくいけば見逃してもらえるかもしれない。そう考えてた」
「ミオ」
「言わせて」
ミオは目を開けた。
「でも、やっぱり行きたくない。消えたくない。ここにいたい」
すずなは何も言わなかった。
「消えたくないって思うのは、わがままかもしれない。でも、思ってる。すずなのそばにいたい。ネムのそばにいたい。また夜食堂車のスープが飲みたい。それだけのことが、ぜんぶわがままかもしれないけど」
「わがままではありません」
「なんで言い切れるの」
「わからないからです。わがままかどうか、わたしには判断できません。でも、わからないことを理由に、あなたに消えろとは言えません」
ミオは、すずなを見ていた。
「すずな、ずるいね」
「そうですか」
「感情じゃないふりして、一番感情的なことを言う」
すずなは少し考えた。
「整理が終わったのかもしれません」
「え?」
「ずっと整理中だと言っていましたが、今夜、少し整理できた気がします」
「何が?」
「ミオにここにいてほしい、という気持ちが、理由になる、ということです」
ミオはしばらくすずなを見ていた。それから、少し笑った。力のある笑い方だった。今夜一番の、力のある笑い方だった。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、わたしもいていい?」
「います。いてください」
夜の第七遅延区に、静かな時間が流れた。
ミオの輪郭が、今夜は少しだけ薄かった。でも、ここにいた。確かにいた。
すずなは懐中時計を取り出した。針はまだ正確には動かない。でも、どこへ向かうかわからない動き方が、今夜は少しだけ変わった気がした。どこへ向かうかは、まだわからない。でも、向かっている方向が、少しだけはっきりしてきたような気がした。
そのとき、廊下を誰かが歩く足音がした。
すずなはゆっくりと立ち上がった。ミオに目で合図した。ミオは動かなかった。
足音は休憩室の前で止まった。
扉のそばに、紙が一枚、差し込まれた。
足音が去った。
すずなは紙を拾い上げた。管理局の正式な用紙だった。上部に管理局のマークがある。
内容は短かった。
──星見すずな駅員見習いへ。資料室における端末アクセス記録を確認した。明朝、執務室へ来るように。鐘ヶ瀬ハルカ。
すずなは紙を二つ折りにした。ポケットにしまった。
「すずな」
「明日の朝、主任に呼ばれました」
「ばれた?」
「アクセス記録が残りました」
「どうするの」
「行きます。隠してもしかたありません。事実は事実として話します」
「怒られる?」
「たぶん」
「怖い?」
すずなは少し考えた。
「少し」
「正直だね」
「嘘をついても、あとで辻褄が合わなくなるので」
ミオが笑った。
「それ、何回目だろう、その言葉」
「また言いましたか」
「うん。でも、好き。すずなっぽいから」
すずなは答えなかった。答えの代わりに、懐中時計をポケットにしまった。
今夜わかったことを、明日どう話すか、考え始めた。事実を正確に、感情を入れずに、でも、ミオとネムのことを守るための言葉を、どう選ぶか。
窓の外に、夜の第七遅延区が広がっていた。
琥珀色の灯りが、ホームを照らしていた。




