第七章 眠り続ける未来
通達の内容が管理局内に広まったのは、翌朝のことだった。
すずなは朝の点検業務を終えて、休憩室へ向かおうとしたとき、廊下ですれ違った先輩駅員の会話が耳に入った。
「上層部から何か来たらしいね」
「未確定分岐存在の話らしいよ。確認次第、回収せよって」
「分岐存在なんて、うちの区画には関係ないでしょ」
「そうだといいけど」
二人はそのまま離れていった。
すずなは歩みを止めずに、廊下を曲がった。表情を変えなかった。感情を出さなかった。でも、胸の中で何かが冷たくなった。
未確定分岐存在を確認次第、回収せよ。
ミオのことだ。
すずなはノートを開いて、一行書いた。上層部通達の存在を確認。内容、未確定分岐存在の回収命令。それだけ書いて、閉じた。
休憩室の扉を開けると、ミオは起きていた。窓際に座って、封筒を見ていた。すずなが入ると顔を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
「何かあった?」
すずなはミオを見た。その問いかけが、どこから来るのかわからなかった。顔に出ていたのかもしれない。感情を出さないようにしているつもりだったが、ミオにはわかるらしかった。
「上層部から通達が届きました」
「昨夜の電話の件?」
「そうだと思います。内容は、未確定分岐存在を確認次第、回収せよ、というものです」
ミオは黙っていた。封筒を手の中で少し握った。
「……分岐存在って、わたしのこと」
「おそらく」
「回収って、どういうこと」
「処理、です。昨日キップが説明した通りです」
「封じて、管理下に置く」
「はい」
ミオは封筒を見た。しばらく黙っていた。すずなは何も言わなかった。言えることが、今はまだなかった。
「そっか」
ミオはそれだけ言った。声は平坦だった。驚いた様子もなかった。最初からわかっていたような、そういう静けさだった。
すずなには、その静けさが、昨夜からどこかにあったような気がしていた。
今日の業務指示は、六番線の点検と、寝台車両の確認だった。
寝台車両は、六番線に停まっている夜行列車の中間部に連結されている。乗客の記録を照合して、異常がなければ報告書を提出する、通常の業務だ。
すずなはミオを連れていくかどうか、少し考えた。今日は通達が出た翌朝だ。管理局内の動きが、昨日より慎重になっている可能性がある。ミオを休憩室に置いていくほうが安全かもしれない。
「連れていきます」
「なんで」
「一人にしておくほうが、見つかる可能性が高い気がします」
「なんで」
「わたしがそばにいれば、時計の誤差で気配が薄れる、とキップが言っていました」
「あー、遮蔽の話ね」
ミオは立ち上がった。
「じゃあ行く」
キップは何も言わなかった。否定しなかった。
六番線の点検を終えて、夜行列車へ乗り込んだ。寝台車両は列車の真ん中あたりにあった。廊下に沿って個室が並んでいて、扉はどれも閉まっている。すずなは目録を確認しながら、番号を照合していった。
三号室、四号室、五号室。
六号室の前で、すずなは止まった。
扉に、異常を示す小さな赤いランプが点いていた。通常は点かないランプだ。管理局の点検システムが、内部の状態に何かを検知したときに点灯する。
「何のランプ?」
ミオが尋ねた。
「内部異常の検知です」
すずなはノートに記録した。
「開けます」
そして扉を引いた。
個室の中は、薄暗かった。寝台のベッドが一つあって、その上に、少女が眠っていた。
小さな子だった。外見は八歳か九歳くらい。白い寝間着を着て、ベッドの上で眠っている。やわらかそうな髪は枕の上に広がっていて、色は淡い茶色にも、銀河の光を受けた灰色にも見えた。布団から出た手は小さく、何かを握ろうとしたまま眠ってしまったように、胸元のあたりで軽く丸まっている。呼吸はしている。胸が、ゆっくりと上下している。でも、眠り方が普通ではなかった。深すぎる眠りだった。どんな音も届かないような、遠いところへ行ってしまっているような眠りだった。
すずなは目録を確認した。六号室の乗客名簿には、名前が書いてある。
十和田ネム。外見年齢八歳。搭乗日、不明。
「ネム。かわいい名前」
ミオが小声で言った。
「搭乗日が不明というのは、初めて見ました」
すずなはキップを見た。
「こういうことがありますか」
「稀にある」
キップは慎重な声で言った。
「通常の乗客では起こらない」
「通常の乗客でない場合は」
「答える前に、確認したいことがある」
キップはすずなの肩から降りて、ネムの枕元に近づいた。小さな体でベッドに飛び乗り、ネムの顔のそばに座った。目を閉じて、何かを確かめるように、ひげを少し震わせた。
しばらくして、目を開けた。
「新人、この子の時刻を確認しろ」
すずなは懐中時計を出して、ネムの方向へかざした。
針が、動いた。
ミオのそばにいるときとは、少し違う動き方だった。ミオのそばでは、針がどこへ向かうかわからない方向に揺れる。でも、ネムのそばでは、針が止まろうとしていた。完全には止まっていないが、止まる直前のような、ぎりぎりのところで動いている針だった。
「キップ、この子は」
「ミオと同じ種類の存在だ。分岐存在だ」
個室に沈黙が落ちた。
ミオが、ネムを見ていた。小さな子が、白い寝間着で眠っている。穏やかな顔をしている。夢を見ているような顔だった。
「この子も、消えた未来から来たの?」
ミオが尋ねた。
「おそらく」
「わたしと同じ?」
「厳密には違う可能性もあるが、管理局の記録にない乗客で、搭乗日不明で、分岐存在の反応を示している。同じ種類の存在と考えるのが自然だ」
キップが説明した。
ミオは黙っていた。ネムの眠る顔を見ていた。
「眠り続けている理由は?」
すずなは尋ねた。
「分からない。ただ……」
キップは少し言いよどんだ。
「存在が薄れるとき、意識が保てなくなることがある。眠るのではなく、眠らざるを得ない状態になる」
「薄れている、ということですか」
「そうだと思う。目録には搭乗日不明と書いてあるが、実際には長い時間、この列車にいる可能性がある。誰にも気づかれないまま、少しずつ薄れてきた」
すずなは時計を見た。針は、止まる直前のところで震えていた。
「管理局に報告すれば、回収されますか?」
「通達が出ている以上、そうなるだろう」
「回収されたら」
「管理下に置かれる。その後どうなるかは、上層部の判断次第だ」
「消滅処理の可能性は」
「ある」
すずなは個室を見回した。寝台と、小さな棚と、窓。窓の外には銀河が見える。誰にも気づかれないまま、この小さな個室で、ネムはずっと眠り続けていた。
「すずな」
ミオの呼ぶ声が、いつもより低かった。
「はい」
「この子、管理局に渡したくない」
「ミオ」
「渡したくない。わたしと同じだから。どこかで生まれるはずだった子だから。それなのに、誰にも知られないままここで消えていくなんて」
すずなはノートを持ったまま、黙っていた。
「すずな、どうするの」
「考えています」
「管理局に報告しなければならないですか」
「通達が出ているので、未確定分岐存在を発見した場合は報告義務があります」
「でも」
「ただ、この子が分岐存在かどうかの確認は、まだ完了していません」
ミオが、すずなを見た。
「確認完了までは、報告のタイミングを判断できません。確認には、時間が必要です」
「……どれくらいの時間?」
「わかりません。丁寧に確認する必要があります」
「新人、それは」
「丁寧な確認です。第二条第三項。異常を発見した場合は、速やかに現地確認を行うこと。確認が完了するまで、現地での対応を継続することができます」
キップは長い間、すずなを見ていた。
「……確認作業を、継続しろ」
「はい」
すずなは個室の椅子を引いて、ネムのそばに座った。ノートを開いて、観察記録をつけ始めた。呼吸の様子、外見の特徴、時計の反応。事実を順番に書く。時間をかけて、丁寧に書く。
ミオはベッドの端に座った。ネムの小さな手のそばに、自分の手を置いた。触れるかどうかの距離で、そっと置いた。
しばらくして、ネムが動いた。
動いた、というほどのことではない。眠ったまま、少しだけ顔の向きを変えた。ミオの方向へ、少しだけ向いた。眠ったままで、でも何かを感じたような動き方だった。
「ミオ」
「うん」
「手を、そのままにしていてください」
「え?」
「ネムが、ミオの方向へ向きました。触れている必要はありませんが、近くにいてください」
ミオは黙って頷いた。手をそのままにした。
すずなは記録を続けた。ネムの呼吸が、ほんの少しだけ変わった気がした。止まる直前だった針が、震えながらも、少しだけ安定した気がした。
「キップ」
すずなは小声で呼んだ。
「分岐存在が近くにいると、別の分岐存在が安定することはありますか?」
「聞いたことはない。だが、今起きていることは、そういうことかもしれない」
「なぜ」
「同じ種類の存在だからだ。互いに認識し合うことで、存在が定着する可能性がある。根拠のある話ではないが」
「根拠がなくても、今起きていることは事実です」
「そうだな」
すずなはノートに書いた。ミオがネムのそばにいることで、ネムの状態に変化が見られる可能性あり。継続観察が必要。
しばらくして、ネムがまた動いた。
今度は、目が少しだけ開いた。完全には開かない。半分も開かない。でも、まつ毛の隙間から、薄い光が見えた。
「……ここ、どこ」
小さな声だった。寝起きの、夢の続きを話しているような声だった。
すずなは答えようとした。でも、ミオが先に言った。
「列車の中だよ」
ネムはミオの声の方向を向いた。焦点が合っていない目だった。
「列車」
「うん。あなたは、ずっと眠ってたみたい」
「ずっと。どれくらい?」
「わからない。でも、もう起きていいよ」
ネムの目が、少しだけはっきりした。ミオの顔を見た。
「お姉さん、誰?」
「ミオ。あなたはネムだよね?」
「うん」
「ネム、起きられる?」
「……わかんない。体が重い気がする」
「急がなくていいよ。ここにいるから」
ミオがそう言うと、ネムはまた目を閉じた。眠りに戻る手前のところで、でも完全には戻らないで、半分だけ起きているような状態でいた。
ミオはそのままそこにいた。動かなかった。ネムのそばに手を置いたまま、静かにしていた。
すずなは記録を取り続けた。
一時間ほどして、ネムはもう少しはっきりと目を開けた。
天井を見て、窓を見て、ミオを見て、すずなを見た。キップを見て、少しだけ目を丸くした。
「動物がいる」
「時刻獣だ。補助車掌の職にある」
「喋った」
「当然だ」
ネムはしばらくキップを見ていた。それから、身体を起こそうとした。ミオが背中を支えた。
「ゆっくりでいいよ」
「うん」
ネムはゆっくりと上半身を起こした。ベッドの上に座って、窓の外を見た。銀河が流れる窓を、見慣れた景色を見るような目で見た。
「銀河」
ネムが呟くと、
「見たことありますか?」
すずなは尋ねた。
「ある。どこかで、いつも見てた気がする」
「どこで?」
「わからない」
ネムは首を横に振った。
「名前のある町だったけど、思い出せない」
すずなはノートに書いた。名前のある町。
「どんな町でしたか」
「川があった。小さい川。橋があって、橋の上から銀河が見えた。夏になると、橋のたもとで出店が出てた。綿あめを売ってた。食べたことがある。甘かった」
ミオが、ネムを見ていた。真剣な目で聞いていた。
「その町の名前を、思い出せますか」
「……たぶん。ながれ、って読む名前だった気がする。流れる、の流れ」
すずなはノートに書いた。「流れ」を含む地名。
「その町は、今もありますか」
「わからない。夢の中の話だから」
「夢ではないかもしれません」
ネムはすずなを見た。子どもとは思えない、少し古びた目をしていた。
「夢じゃないの?」
「わかりません。でも、あなたが覚えている町が、本当にある可能性があります」
ネムはしばらく黙っていた。
「あったとしても、今はないんでしょ」
すずなは答えられなかった。
「消えた未来の話だから」
ネムは悲しんでいる感じではなく、ただ知っていることを確認しているような声だった。
「わたしが知ってる町は、もうどこにもない。管理局の人が言ってた」
「管理局の人に、会ったことがあるんですね」
「前に、一度だけ。白い制服を着た人。わたしのことを調べてた。でも、そのあと、眠くなって、そのまま」
すずなはキップを見た。キップは目を細めていた。
「白い制服の管理局員が来たあと、眠り続けている」
すずなは確認した。
「その解釈が正しければ、意図的に眠らせた可能性がある」
キップは慎重に言った。
「なぜ」
「消滅処理の前段階として、存在を休眠状態にする処置があると、旧資料に記述があった。正式な処理手順ではないが、存在の安定を防ぐための措置として、過去に使われた記録がある」
すずなはノートを持つ手が止まった。
「正式な処理手順ではない、ということは」
「本来、すべきことではない」
「でも、行われた」
「記録の上では、そうなる」
ミオが、低い声で言った。
「つまり、この子は、管理局に眠らされて、消えるのを待たれてた、ってこと?」
「断定はできないが、その可能性は、ある」
キップは言う。
ミオの輪郭が、少し揺れた。怒っているのか、悲しんでいるのか、すずなには判断できなかった。ただ、輪郭が揺れた。存在が不安定になるとき、そうなることをすずなは学んでいた。
「ミオ」
すずなは呼んだ。
「……わかってる」
ミオは深く息を吐いた。
「落ち着いてる」
「落ち着いていなくても、いいです」
「落ち着いてないと、ネムが怖がる」
ネムがミオを見ていた。小さな目で、じっと見ていた。
「お姉ちゃん、怖い?」
「怖くない」
すずなには、ミオが怒っているのがわかった。でも、ネムには伝わらないように、声を調整していた。
「怒ってるだけ」
「誰に?」
「管理局に」
「管理局って」
ネムは少し首をかしげた。
「駅員さんもいるじゃん」
「すずなは違う。すずなは、いい方の人」
すずなはそれを聞いて、何と答えればいいかわからなかった。いい方の人、という言葉の重さを、どう受け取ればいいのか。
「ネム、今、気分はどうですか? ゆっくりで構いません」
「眠い。でも、前より楽」
「前より楽」
「ずっと、一人だったから。一人でいると、もっと眠くなる気がしてた。誰かがそばにいると、少し違う」
すずなはノートに書いた。誰かがそばにいることで、状態が安定する傾向あり。
「もう少し、ここにいていいですか?」
すずなは尋ねた。
「ワタシが?」
「はい。今日はここで、状況を確認します。急かしません」
「……うん」
ネムは頷いた。
「ここ、銀河が見えるから好き」
三人と一匹は、しばらくその個室にいた。
ネムは窓の外を見ていた。ミオはネムのそばにいた。すずなは記録を取り続けた。キップは無言で、しっぽを少しだけ揺らしていた。
しばらくして、ネムがまた眠くなってきた。目が重くなって、しばたたいた。
「眠くなってきた」
「眠っていいですよ。ここは動きません」
すずなは言った。
「また目が覚めたら、いる?」
「います」
ネムはミオを見た。
「お姉ちゃんも?」
「いる。ここにいる」
ネムは目を閉じた。すぐに呼吸が深くなった。でも、今度の眠りは前とは違った。止まる直前の針が示すような、ぎりぎりの眠りではなかった。もう少しだけ、余裕がある眠りだった。
すずなは時計を確認した。針は震えながらも、少し前よりは安定していた。
「キップ」
すずなは小声で呼んだ。
「何だ」
「今日の業務記録に、ネムのことをどう書くか、考えています」
「どう書くつもりだ」
「六号室にて乗客の状況確認中。継続観察が必要な案件として、現地対応を継続する」
「分岐存在の疑いについては」
「確認作業中です。確認完了まで、報告のタイミングを判断できません」
キップは長い間、何も言わなかった。
「……キップ、先ほど話してくれた、規則通りに乗客を降ろして、後悔した話」
「聞いていたか」
「はい。その乗客は、謝りたい人がいると言ったんでしたね」
「そうだ」
「その人の名前は、覚えていますか」
キップは少し間を置いた。
「覚えている」
「言えますか」
「……言わなくていいことだ」
「そうですか」
「ただ、あの日、吾輩が規則通りにした結果を、今でも正しかったと思えない。だから、お前のしていることを止める根拠が、吾輩には完全にはない」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「キップ」
ミオが呼んだ。
「なんだ」
「ありがとう」
「お前も礼を言うな」
「でも、ありがとう」
キップは耳を立てて、そっぽを向いた。しっぽが揺れた。怒っているのか、照れているのか、すずなにはわからなかった。でも、どちらでもいい気がした。
ネムが眠っていた。
ミオがネムのそばにいた。
窓の外に、銀河が流れていた。
すずなはノートを開いて、今日の記録の続きを書いた。そこまで書いてから、少し考えて、余白に一行だけ書いた。
──ネムは川のそばの町を覚えている。銀河の見える橋と、夏の綿あめを覚えている。覚えているということは、あったということだ。
記録として必要な文章ではなかった。でも、消したくなかった。
すずなはノートを閉じた。
窓の外で、銀河が流れ続けていた。ネムが覚えている橋の上からも、こんな銀河が見えたのかもしれないと、すずなは思った。流れる、という字の入った、川のそばの、もうどこにもない町から。
それでも、ネムは覚えている。
覚えているということは、確かにあったということだ。




