第六章 第七遅延区主任・鐘ヶ瀬ハルカ
呼び出しは、朝に来た。
すずなが七番線の点検記録を整理していると、内線の端末が鳴った。画面には、鐘ヶ瀬ハルカの名前が表示されていた。すずなは一度だけ深呼吸をして、応答した。
「星見。今日の午後、私の執務室へ来なさい」
「はい」
「十四時です。遅れないように」
それだけだった。理由は言わなかった。ハルカはいつも理由を言わない。必要なことだけを、必要な分だけ言う。それがこの人の話し方だと、すずなは一ヶ月で学んでいた。
端末を置いて、すずなはミオのいる休憩室へ向かった。
「午後、主任に呼ばれました」
ミオは壁にもたれて、郵便車両で拾った封筒を見ていた。相変わらず読めない文字が光っている封筒だ。顔を上げて、すずなを見た。
「わたしのこと、ばれた?」
「わかりません。でも、何かに気づかれている可能性はあります」
「どうするの」
「話を聞いてから、判断します」
「隠し通せなかったら?」
すずなは少し考えた。
「その場合は、その場合で考えます」
「あんまり考えてないんだね」
「考えすぎると動けなくなるので」
「すずなが?」
「はい。正しい答えがない場面は、考えていても答えが出ません。だから、状況が変わってから考えます」
ミオはしばらくすずなを見ていた。
「……緊張してる?」
「少し」
「顔に出てないけど」
「出さないようにしています」
「なんで」
「感情を出すと、判断が鈍るので。これも、昔からの癖です」
ミオは封筒を胸元に寄せた。
「行ってきて。わたしはここにいるから」
「キップが一緒にいます」
「ちび車掌が?」
キップを見た。ベンチの背もたれの上で、いつも通り尊大な顔をしていた。
「吾輩は新人の同行者であり、補助車掌だ。新人が主任に呼ばれたなら、同席するのは職務の範囲内だ」
「ミオのそばに、誰もいなくなりますが」
「一人でいられる。廊下に出なければいいんでしょ。ここにいる」
すずなはミオを見た。ミオは平気そうな顔をしていた。でも、平気そうな顔をするのがうまい子だということを、すずなはこの数日で学んでいた。
「必ず戻ります」
「知ってる」
ミオは窓の外を向いた。
「行ってきて」
管理局三階の執務室へ向かうあいだ、すずなは報告書の内容を思い返していた。
扉をノックすると、入れ、という短い声が返ってきた。すずなは扉を開けた。
執務室は整然としていた。書類は積まれているが、乱れていない。棚の資料は背表紙が揃っている。窓から第七遅延区のホームが見えて、午後の光が斜めに差し込んでいる。
ハルカは机の前に座っていた。すずなが入ると、書類から目を上げた。
「座りなさい」
すずなは向かいの椅子に座った。キップは肩の上で静かにしている。ハルカはキップを一瞥したが、何も言わなかった。
「最近の業務について聞きます」
ハルカは書類に目を落とした。
「白紙駅に続いて、郵便車両でも、通常の手順にない対応をしていますね。波戸カナメの貨物を消滅処理対象外として記録した」
「第十二条第一項は、外部への転送を禁じています。遅延区内での保管は、禁止されていません」
「それも屁理屈です」
「はい」
今度は間違いなく、ハルカの目が少し細くなった。
「星見、あなたは規則をよく読んでいる」
「はい」
「読んで、抜け道を探している」
「……規則の範囲内で動いています」
「範囲内と範囲外の境界を、あなたが自分で引いている。それは、規則を守っているとは言いません」
すずなは答えなかった。
「ただ、報告書の内容自体は、問題ありません。記録として残っているので、少なくとも隠蔽ではない。その点は、認めます」
「ありがとうございます」
「褒めていません」
ハルカは机の上の書類を一枚取り上げた。すずなには内容が見えなかった。
「本題に入ります」
すずなは背筋を正した。
「最近、管轄内で未登録乗客の痕跡が確認されています」
すずなは何も言わなかった。
「具体的には、七番線周辺での体温反応の記録、休憩室の食事消費量の増加、夜間の人員配置にない動線記録。三点です」
ハルカは書類をテーブルに置いた。
「未登録乗客を見つけた場合、規則では即時報告が義務付けられています。第三条第一項」
「知っています」
「知っている上で、報告しなかった可能性がある、ということも、わかっていますね」
すずなはハルカを見た。ハルカはすずなを見ていた。事務的な目だが、その奥に何があるのかは、すずなには読めなかった。
「もし、そういう乗客を見つけた場合は、即時報告するように。これは命令です」
「はい」
「命令として聞きましたね」
「はい」
「報告書に記録します」
ハルカは書類にペンを走らせた。
「十四時、星見すずなに未登録乗客の発見時における即時報告を命じた。以上」
すずなは椅子に座ったまま、動かなかった。
ハルカは書類を整えて、引き出しにしまった。それから、机の上のカップを手に取った。お茶か何かが入っているらしく、一口飲んだ。
「一つだけ、個人的に聞いてもいいですか」
すずなが尋ねると、ハルカはカップを置いた。
「いいわよ」
「主任は、なぜ駅員になったんですか?」
ハルカは少し間を置いた。
「唐突ですね」
「話の流れとは関係ありません。個人的に、気になりました」
ハルカはすずなを見た。しばらく、何も言わなかった。
「規則が好きだから、です。規則があることで、守られるものがある。それが好きです」
「守られるものというのは、何ですか」
「多くの人の時間です。第七遅延区が扱う遅延は、一人の人間の話のように見えますが、連鎖します。一人の遅れが、別の誰かの出会いを変え、別の誰かの選択を変える。規則はその連鎖を制御するためにあります」
「それを守ることが、仕事だと」
「そうです。あなたは違うのですか」
「わたしは、まだ整理中です」
「整理中」
「はい」
ハルカは少しだけ、窓の外を見た。第七遅延区のホームが見える窓だ。午後の光の中で、ホームは静かだった。
「星見、あなたは優しい」
「そうですか」
「だからこそ、駅員には向いていないかもしれない」
すずなは答えなかった。
「駅員の仕事は、個別の事情を超えた判断をすることです。目の前の一人を助けることと、多くの人の時間を守ることが、ぶつかる場面がある。そのとき、個別の事情に引きずられる人間は、この仕事が続けられなくなります」
「主任は、引きずられたことがありますか」
ハルカは少しだけ動いた。わずかに、目が動いた。
「あります。だから、今の話をしています」
執務室に沈黙が落ちた。
すずなはキップを見た。キップはすずなの肩の上で、じっとしていた。何も言わなかった。
「下がっていいです。今日の命令の内容を、忘れないように」
「はい」
すずなは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「礼は不要です」
すずなは扉へ向かった。ノブに手をかけたとき、ハルカが呼んだ。
「星見」
「はい」
「報告書の記録の仕方は、悪くありませんでした」
すずなは振り返らなかった。
「ありがとうございます」
扉を閉めて、廊下に出た。
廊下を歩きながら、すずなはキップに話しかけた。
「命令として聞きました」
「そうだな」
「未登録乗客を見つけた場合、即時報告するように、という命令です」
「そうだな」
「見つけた場合、です」
キップは少し間を置いた。
「……なるほど」
「ミオを見つけたのは、一週間ほど前です。命令は今日、十四時に出ました」
「命令の前に発見した案件には、命令は遡及しない」
「第十八条第四項です。命令は、発令以降の行為に適用される」
「よく読んでいる」
「読みました。昨夜」
キップは鼻を鳴らした。
「新人が珍しく先を読んだな」
「先を読んだのではありません。可能性として考えていたので、確認しました」
「どちらでも同じだ」
「違います」
「どこが」
「先を読んでいたなら、狡猾です。可能性を確認しただけなら、職務上の確認です」
キップはしばらくすずなを見て、それから前を向いた。
「……新人は、いつからそういう言い方を覚えた」
「一ヶ月ほど前から働いています」
「屁理屈が上達している」
「規則をよく読むようにしました」
廊下を曲がって、休憩室の方向へ向かった。
「キップ、ハルカ主任は、引きずられたことがある、と言っていました」
「聞こえていた」
「何かを、個別の事情を優先したことがある、ということだと思います」
「おそらくそうだ」
「その結果、どうなったか、知っていますか」
キップはしばらく黙っていた。
「知らない。だが」
「だが?」
「あの人が今も規則を守ることにこだわっているのは、引きずられた結果が良くなかったからかもしれない。あるいは、良かったからこそ、もう一度同じことをしないように戒めているのかもしれない」
「どちらだと思いますか」
「吾輩には判断できない。ただ、あの人が悪役ではないことは、わかる」
「悪役ではない」
「言っていることは間違っていない。規則には、守られるものがある。それは本当のことだ」
「でも」
「でも、規則だけでは救えないものも、ある」
キップはそれ以上言わなかった。すずなも聞かなかった。
休憩室の扉の前に着いた。すずなはノックした。
「戻りました」
「おかえり」
ミオの声が返ってきた。すずなは扉を開けた。ミオは窓際に座って、外を見ていた。すずなが入ると振り返って、顔を見た。
「どうだった」
「命令を受けました」
「どんな?」
「未登録乗客を見つけた場合、即時報告するように」
「……つまり」
「今日以降、見つけた場合は報告しなければなりません」
「今日以降」
ミオは少し考えた。
「今日より前に見つけてたのは?」
「命令は発令以降の行為に適用されます。第十八条第四項」
ミオはしばらくすずなを見た。それから、少しだけ目を細めた。
「……ずるい」
「職務上の確認です」
「ずるいって言ってる」
「規則の範囲内です」
ミオがため息をついた。でも、笑っていた。
「すずな、変わってきてるね」
「どういう意味ですか」
「最初はもっと、規則にこだわってた感じがした。今は、規則を使う感じがする」
すずなは少し考えた。
「変わっているかどうか、自分ではわかりません」
「変わってるよ。悪い意味じゃない」
「どういう意味ですか」
「なんか、すずなが自分で動いてる感じがする。規則があるから動くんじゃなくて、動くための道を規則の中に探してる感じ」
すずなはそれを聞いて、少し黙った。
自分で動く、という感覚を、すずなはあまり持ったことがなかった。正しい答えを探して、見つけた答えに従って動く。それが自分の動き方だと思っていた。自分の答えを、持ったことがなかった。
「整理中です」
「まだ整理中なの?」
「はい」
「いつ終わるの?」
「わかりません」
ミオが笑った。
「正直だね」
「嘘をつくと、あとで辻褄が合わなくなるので」
「知ってる。それ、前にも言ってた」
「覚えていたんですか」
「覚えてるよ。すずなが言ったこと、けっこう覚えてる」
すずなは少し驚いた。
「なぜ」
「なんで覚えてるのに理由がいるの」
ミオは窓の外を向いた。
「覚えてたいから、覚えてる。それだけ」
廊下の向こうで、列車が通る音がした。夜の始まる時間が、近づいている。
「新人。今夜の巡回時間まで、あと二時間だ」
「わかっています」
「今日の業務記録は、どう書く」
「主任との面談内容を、正確に記録します。命令の内容も含めて」
「ミオのことは」
「管轄内の未登録乗客の調査継続中、と書きます」
「調査継続中というのは」
「命令の対象となった案件の発生日は今日以降です。継続中の案件は、引き続き調査が必要な状態です」
キップは長い間、すずなを見ていた。
「……新人」
「はい」
「吾輩は、今日の面談に同席した」
「そうですね」
「同席者として、記録に名前が残る」
「キップが確認しなければ、何も問題ありません」
「問題があるかどうかは、吾輩が判断する」
「はい」
キップはしばらく黙っていた。
「……調査継続中、でいい」
すずなは頷いた。キップはそっぽを向いた。長い耳の先が、少し赤い気がした。気のせいかもしれない。
ミオが小声で言った。
「キップって、やっぱりいい子だね」
「うるさい」
キップはそう言ったけど、耳の先がもう少し赤くなった。
夜の第七遅延区に、穏やかな時間が流れた。
ハルカの言葉が、すずなの頭の中に残っていた。
あなたは優しい。だからこそ、駅員には向いていないかもしれない。
向いていないかもしれない、という言葉を、すずなは否定しなかった。反論しなかった。でも、受け入れたわけでもなかった。
ただ、今のすずなには、答えを出すべき問いではないと思った。
今夜の巡回をして、記録をつけて、ミオが今日も確かにここにいることを確認する。それが今夜、すずなのすることだ。
答えは、もう少し後でいい。
窓の外に、第七遅延区の夜が始まっていた。琥珀色のホームの灯りが、一つずつ点いていく。銀河の縁を、音もなく列車が通る。乗り遅れた人たちの列車が、今夜も静かに走っていく。
すずなは制服の襟を正した。
巡回の時間まで、あと少しだった。
そのとき、管理局の内線端末が鳴った。すずなではなく、廊下の共用端末だった。すずなは聞くつもりはなかったが、扉が少し開いていたせいで、声が聞こえた。
ハルカの声だった。電話の相手は、聞き取れない。ただ、一言だけ、はっきりと聞こえた。
「わかりました。管理局上層部からの通達、受領します」
すずなは動きを止めた。
ミオを見た。ミオも、すずなを見ていた。聞こえていた、という顔をしていた。
キップが、穏やかな声で言った。
「新人」
「はい」
「巡回の準備をしろ。今夜は、早めに動いたほうがいい」
すずなは頷いた。ノートを取り出して、今夜の記録の最初の行を書いた。日付と、時刻と、場所。事実から始める。いつも通りに。
でも、手が少しだけ、速く動いた。




