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銀河鉄道管理局・第七遅延区の少女たち――遅れてきた未来と、記録にない少女――  作者: 明石竜


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第五章 夜食堂の忘れもの

 夜食堂車は、地図に載っていない。

 銀河鉄道の路線図には、何十もの駅と、無数の車両の記号が描かれている。郵便車両、貨物車両、寝台車両、展望車両。でも、夜食堂車という名前は、どこにも書かれていない。

 すずなは管理局の資料室で半日かけて調べたが、夜食堂車に関する記録は一件だけだった。古い手書きの補足資料で、欄外に小さく書き添えてあった。

 ──夜食堂車は、路線上に固定されない。乗客が必要としているとき、その列車に自然と連結される。管理局の管轄外。

 そのことが、すずなには引っかかった。管理局の管轄外であれば、業務として向かう理由がない。でも、今日すずなが向かっているのは、七番線に停まっている列車の最後尾に、昨夜から見慣れない車両が連結されているのに気づいたからだった。

「管理局の管轄外の車両に、見習い駅員が入っていいのか」

キップが言った。

「規則には、管轄外の施設への立ち入りを禁ずる条文は、ありません」

「屁理屈だ」

「そうかもしれません」


 ミオがすずなの隣で、見慣れない車両を見ていた。他の車両と少し違う。窓が大きく、中から温かい光が漏れている。何かの匂いがした。すずなには最初わからなかったが、近づくほどにはっきりしてきた。

 食べ物の匂いだった。

 温かいスープの匂い。焼いたパンの匂い。どこかで嗅いだことがあるような、でも記憶の中のどこにあるのか見つけられない、懐かしい匂い。

「入ろう」

ミオが言った。

「確認が必要です」

「何の?」

「管轄外の施設なので、入った場合の記録をどう取るか、判断が必要です」

「難しいね」

ミオは扉に手をかけた。

「入ってから考えれば?」

「それは順序が逆です」

「すずなって、空腹になると判断が遅くなる?」

「なりません」

「本当に?」

 すずなは少し考えた。昨夜から、食事をまともに取っていない。報告書の整理と、ミオの様子確認と、資料室での調査で、気がついたら夜になっていた。

「……少し、なるかもしれません」

「じゃあ、入ろう」

 ミオが扉を引いた。

 

 夜食堂車の中は、広かった。

 車両の外観から想像するより、ずっと広かった。天井が高く、窓が左右に並んでいて、外の銀河が見える。テーブルが十ほど並んでいて、白いクロスがかかっている。照明は柔らかい橙色で、すずなが知っている管理局の蛍光灯とは全然違う光だった。

 客は、何人かいた。それぞれ一人でテーブルに座って、何かを食べていた。誰も話していない。静かな場所だったが、沈んだ感じはしない。落ち着いた、穏やかな静けさだった。

「いらっしゃい」

 声がして、奥からエプロンをかけた人物が出てきた。年齢がわからない人だった。老人とも中年とも判断がつかない顔をしていて、白髪で、目が細くて穏やかだ。名前を聞く前に、なぜかここの店主だとすぐにわかった。

「三名様ですか」

「はい」

すずなは言いかけて、キップを見た。

「二名と、一匹です」

「二名と一匹。承りました」

 店主は三人を窓際のテーブルへ案内した。キップの分として、小さな台が置かれた。キップは少し威厳を保とうとしたが、台がちょうど良い高さだったので、素直に乗った。

「メニューはございません。ここでは、あなた方が今必要なものをお出しします」

 店主は伝えた。

「必要なもの?」

すずなは尋ねた。

「食べたいものとは、少し違うかもしれません。今のあなた方に、必要なものです」

 店主は奥へ戻った。

 すずなはテーブルの上を見た。何もない。メニューもない。水も、まだ来ていない。でも、不思議と落ち着く場所だった。外の銀河が窓に流れていて、橙色の光が白いクロスに反射している。

「変なお店」

ミオは楽しそうな声だった。

「管理局の管轄外なので」

「それしか言えないの」

「記録の取り方をまだ決めていないので」

「記録しなくていいんじゃない。たまには」

ミオは窓に頬杖をついた。

 すずなはノートを持ったまま、しばらくそのままでいた。

 記録しない。

 それは、すずなの仕事の仕方に反する。何かがあれば記録する。事実を書く。感情を入れない。それが一ヶ月間、すずなが守ってきたことだ。

 でも、今夜は。

 すずなはノートをポケットにしまった。

 ミオが、少し驚いた顔をした。

「しまった」

「今夜だけです」

「えらい」

「えらいとは違います」

「えらいよ」

ミオはにこっと笑った。

「すずなが自分でそれを決めたんだから、えらい」

 キップが台の上で前足を組んだ。何も言わなかったが、鼻を鳴らした。それはキップなりの、悪くない、という意味だとすずなは学んでいた。

 しばらくして、店主が戻ってきた。

 ミオの前に置かれたのは、柔らかそうなパンと、淡い色のスープだった。スープから湯気が立っていて、何か花のような匂いがした。ミオはスープを見て、少し目を細めた。知っている匂いをかいだときの顔だった。

 キップの前には、小さな器に入った何かが置かれた。キップは一口食べて、黙った。何も言わなかったが、しっぽが少しだけ揺れた。

 すずなの前には、スープが置かれた。

 白いスープだった。クリーム色の、温かそうなスープで、表面にハーブが一枚浮いている。見た瞬間、すずなの胸の中で何かが動いた。懐かしい、という感覚だった。でも、すずなにはこのスープを飲んだ記憶がない。母と食事をした記憶が、すずなにはほとんどない。母が家にいたのは、すずながとても幼いころだけだったから。

「どうぞ」

店主が言った。

「これは、何というスープですか」

 すずなは尋ねた。

「名前はありません。でも、あなたが必要としているものです」

 すずなはスープを一口飲んだ。

 温かかった。それだけのはずなのに、目の奥が少し熱くなった。意味がわからなかった。このスープを知らない。飲んだことがない。それなのに、飲んだ瞬間に、何かが戻ってくるような感覚があった。戻ってきたものが何なのかはわからなかった。

「おいしい?」

ミオが尋ねた。

「……はい」

「そっか」

 ミオは自分のスープを飲んだ。こちらは花の匂いがする、淡い色のスープで、ミオは飲みながら窓の外を見ていた。銀河が流れる窓を、少し遠い目で見ていた。

「ミオ、そのスープを、知っていますか」

「うん。知ってる気がする。でも、いつ飲んだかわからない」

「そうですか」

「消えた未来で飲んだのかも」

ミオはスープの器を両手で持った。

「もしそうなら、うれしいな。わたしがいた未来では、こういうものを飲んでたって、わかるから」

 すずなは何も言わなかった。スープを飲みながら、ミオを見ていた。ミオの輪郭が、今夜は食堂の橙色の光の中で、普段より少しだけはっきりしている気がした。光が助けているのか、それとも別の理由なのかは、わからなかった。


 しばらくして、店主が戻ってきた。何かを追加で持ってきたのではなく、テーブルの近くに立って、ミオを見た。

 すずなは気づいた。店主の表情が、一瞬だけ変わった。

 穏やかな顔のまま、でも何かを見たときの目をした。驚きとも、懐かしさとも、心配とも取れる、複雑な表情だった。それは一瞬だけで、すぐに戻った。

「まだ、残っていたんだね」

 店主は穏やかな声で言った。

 ミオが顔を上げた。

「え?」

「いや、独り言です」

店主は微笑んだ。

「お口に合いましたか」

「おいしかったです。このスープ、知ってる気がする。飲んだことあります?」

「さあ」

店主は少しだけ間を置いた。

「もしかしたら、あるかもしれません」

 それだけ言って、店主は奥へ戻った。

 すずなはその背中を見ていた。まだ、残っていたんだね。その言葉が、耳に残った。店主はミオを知っている。あるいは、ミオのような存在を知っている。どちらかはわからないが、初めて会った顔ではなかった。

「ねえ、今の、なんだったんだろう?」

「わかりません。あとで確認します」

「確認って?」

「店主に聞きます」

「管理局の管轄外だから、業務じゃないのでは」

「……個人的な確認です」

 ミオが笑った。

「すずなが個人的に動くの、珍しい」

「そうですか」

「うん。いつも業務か規則かを理由にしてるから」

「整理中です」

「まだ整理中なの」

「はい」

 ミオはパンをちぎって、口に入れた。柔らかいパンで、ミオはうれしそうな顔をした。子どもみたいな顔だと、すずなは思った。いつも少し挑発的で、何かをあきらめているような顔をしているミオが、今夜だけは違う顔をしている。

「すずな」

「はい」

「このスープ、また飲みたい」

「ここはいつでもあるわけではないようです」

「知ってる。でも、また飲みたいと思った」

「……そうですか」

「思えた、っていうのが、なんかよかった」

ミオは器を見た。

「また、って思えたから」

 すずなはその意味を考えた。また、という言葉は、未来を前提にしている。ミオはいつも、未来の約束を避ける。また明日、と言われると少しだけ黙る。自分が明日もいるかどうか、わからないから。

 でも今夜は、また飲みたいと言った。

「飲めるといいですね」

「うん」

 それだけの会話だった。でも、すずなの懐中時計が、ポケットの中でかすかに動いた気がした。

 

 食事が終わってから、すずなは店主を探した。

 厨房の入り口のそばに、店主はいた。一人で何かを拭いていた。すずなが近づくと顔を上げた。

「ご馳走様でした。一つ、お聞きしてもよろしいですか」

「どうぞ」

「先ほど、あの子を見て、まだ残っていたんだね、と言いました」

 店主は答えなかった。でも、否定もしなかった。

「あの子のことを、知っていますか」

「知っている、と言えるかどうか。この食堂には、いろいろな人が来ます。必要としている人が来る場所ですから」

「ミオは以前、ここへ来たことがありますか?」

「来たことがある、とも言えますし、来たことがない、とも言えます」

 すずなは少し考えた。

「消えた未来の話ですか」

 店主は少しだけ目を細めた。

「賢い子ですね」

「答えてもらえますか」

「この食堂は、必要としているときにだけ現れます。あの子が必要としていたことは、過去にもあったでしょう。どの時間軸のことか、私には特定できませんが」

「消えた未来の中で、ミオはここへ来たことがある、ということですか」

「そうかもしれません。あるいは、来るはずだった、ということかもしれません」

 すずなはノートを持っていなかった。今夜は記録しないと決めた。でも、店主の言葉を頭の中に書き留めた。

「もう一つだけ」

「はい」

「ミオは、このままだとどうなりますか」

 店主は少し間を置いた。

「それは、私の答えられることではありません」

「でも、何か知っていますか」

「分岐存在のことは、少しだけ知っています。ただ、彼女がどうなるかは、彼女のそばにいる人がどう動くかで変わります。それだけは、言えます」

「そばにいる人」

「そうです」

 すずなは店主を見た。店主は穏やかな顔のまま、すずなを見ていた。

「わかりました。ありがとうございます」

「またいつでも。必要としているときは、ここにあります」

 すずなはテーブルへ戻った。

 ミオはまだ窓の外を見ていた。銀河が流れる窓を、手を頬に当てて、ぼんやりと眺めていた。さっきより、目が少し重そうだった。

「眠いですか」

「うん、ちょっと。ここ、なんか眠くなる」

「温かいからだと思います」

「すずなは?」

「わたしは大丈夫です」

「嘘だ」

ミオが笑った。

「目、眠そう」

「……少しだけ」

「じゃあ、少しだけ休んでいこう。ここ、居心地いいし」

 すずなは周りを見た。他の客たちも、思い思いに過ごしていた。眠っている人もいた。誰かを待っているような顔をしている人もいた。急いでいる人は、誰もいなかった。

「少しだけです」

「うん」

 二人は窓の外を見た。キップはいつの間にか台の上で丸くなって、目を閉じていた。車掌帽が少し傾いている。すずなは直してあげようと思ったが、起こしそうだったので、やめた。

 ミオが、ふいに言った。

「すずなのお母さん、どんな人?」

 突然の質問だった。すずなは少し驚いた。

「なぜ聞くんですか」

「スープを飲んだとき、すずなの顔が少し変わったから。なんか、懐かしいものを見た顔だった」

 すずなは自分のスープの器を見た。もう飲み干していた。あの味が、まだ少しだけ残っている気がした。

「あまり知らないんです。幼いころに、家を出たので」

「出ていったの?」

「ええ。何かに乗り遅れたのか、何かに間に合わなかったのか、詳しくは聞いていません。わたしが幼かったから」

「会いたいと思う?」

「……考えたことがありませんでした」

「本当に?」

「考えても、答えが出ないことは、考えないようにしていたかもしれません」

 ミオは窓の外を向いたまま、少し黙っていた。

「このスープ、お母さんと飲んだことがあるのかもしれないね」

「記憶はないんですが」

「でも、懐かしいと思ったんでしょ」

「そうです」

「じゃあ、どこかで飲んだことがあるんだよ。記憶になくても、体が覚えてることって、あるから」

 すずなはミオを見た。消えた未来の中で育った少女が、記憶と体の違いを話している。

「ミオも、そういうことがありますか」

「いっぱいある。さっきのスープもそうだし、銀河の景色もそうだし」

ミオは窓を見た。

「覚えてないのに、知ってる感じ。それって、あった証拠だと思うから、わたしは好きだよ」

「あった証拠」

「うん。体が覚えてるってことは、確かにあったってことじゃん。記憶がなくても」

 すずなはその言葉を、しばらく考えた。

 母のことを、すずなは覚えていない。顔も、声も、ほとんど思い出せない。でも、今夜のスープは懐かしかった。懐かしいということは、どこかで知っていたということかもしれない。記憶の形ではなく、別の形で、残っていたということかもしれない。

「ミオ」

「なに」

「あなたがいた未来には、ちゃんとあなたが存在していたんですね」

「そうだと思う。たぶん」

「体が覚えているものがあるなら、確かにあったということですから」

 ミオが、すずなを見た。すずなの言葉を、少し考えているような顔をした。

「……すずなに言われると、なんか、そんな気がしてくる」

「事実です」

「事実って言い切るの、すずならしい」

「そうですか」

「うん」

ミオはちょっとだけ笑った。

「好きだよ、そういうとこ」

 すずなは答えなかった。答え方がわからなかった。胸の中で何かが動いたが、それが何かを整理する前に、ミオが窓の外に視線を戻した。

 橙色の光の中で、食堂車は静かだった。

 キップが台の上で眠っている。銀河が窓の外を流れる。温かいスープの匂いが、まだ漂っている。

 すずなは、ふと気がついた。

 ミオの輪郭が、今夜は昨日より薄い。

 食堂車の温かい光の中で、ミオの体の縁が、少しだけ透けて見えた。テーブルの白いクロスが、ミオの手のあたりで、うっすらと透けている。ほんの少しだけ。気づかなければわからない程度。でも、確かに透けていた。

 すずなは何も言わなかった。

 ミオは気づいていない様子だった。

 キップが昨日言っていたことを思い出した。薄れる速度は、存在が定着しているかどうかに関わる。定着とは、誰かに認識されること、名前を呼ばれること、記憶されること。

 すずなはミオを見た。

「ミオ」

「なに」

「今夜ここで食べたこと、覚えていますか」

「え? 覚えてるよ、まだ今日のことだし」

「明日も覚えていてください」

「急にどうしたの」

「お願いです」

 ミオは少し不思議そうな顔をした。それから、頷いた。

「わかった。覚えとく」

「明後日も」

「しつこい」

ミオが笑った。

「覚えとくって言ったじゃん」

「はい」

「なんで急にそんなこと言うの」

「記録の代わりです。今夜は記録しないと決めたので、ミオが覚えていてくれれば、今夜のことが残ります」

 ミオはすずなを見た。しばらく見て、それから窓の外を見て、また戻ってきた。

「……すずなも覚えてるでしょ」

「わたしが覚えているだけでは、足りない気がします」

「なんで」

「二人で覚えていれば、確かにあったことになるから、です」

 ミオは何も言わなかった。

 外の銀河が、窓に流れた。橙色の光が揺れた。

「……うん。わかった。覚えとく。ずっと」

ミオはのんびりとした声で言った。

 すずなの懐中時計が、ポケットの中で動いた。

 正しい方向にではなかった。でも、今夜は止まってもいなかった。どこへ向かうかわからないまま、でも確かに動いていた。昨日よりも、少しだけ力強く。

 キップが台の上で寝返りを打った。車掌帽がさらに傾いた。

 すずなはそれを直してあげた。今度は、起こさずに済んだ。

 夜食堂車は、銀河の縁をゆっくりと走っていた。どこへ向かうのかは、地図に載っていない。でも、今夜ここに確かにあって、三人がここにいて、温かいスープの匂いが残っていた。


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