第二十一章 新しい歌を覚える夜
少女は、七番線のホームにいた。
夜の始まりの時間帯で、ホームには他に誰もいなかった。琥珀色の照明が少女を照らしていた。制服を着ていて、年齢はすずなと、ほぼ同じくらいに見えた。十五か十六か。手に何も持っていない。どこを見ているかわからない目をしていた。
すずなが七番線の巡回に来たとき、少女を見つけた。
懐中時計が、ポケットの中で震えた。
取り出して確認した。針が、少しだけ逆に動こうとしていた。定刻から外れた人が近くにいるときの反応だった。
でも、今回は逆だけではなかった。逆に動こうとしながら、同時に正しい方向にも動こうとしていた。どちらへも振れようとして、少しだけ迷っているような動き方だった。
すずなは少女に近づいた。
声をかける前に、少女がすずなを見た。
驚いた顔ではなかった。見つかった、という顔でもなかった。どこかで聞こえていた音が、やっと形になった、というような顔だった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「ここで、何をしていますか?」
「わかりません。気がついたら、ここにいました」
「どこから来ましたか」
「それも、わかりません。ただ……来るべき場所に来た気がします」
すずなはノートを出しかけて、止めた。
代わりに、少女を見た。
この子の目が、なぜか懐かしかった。あの夜を思い出した。貨物車両の中で、ミオと初めて目が合ったときの感覚に、少し似ていた。
「名前を聞いてもいいですか」
「鳴海そら、です」
「鳴海そら。ここへ来たのは、初めてですか?」
「はい。でも」
「でも?」
「ここにいる人の気配を、前から知ってた気がします。誰かがそこにいる感じ、ずっとしてたから」
すずなはそらを見た。
「一つ、確認させてもらえますか」
「はい」
「普通の人には見えないものが、見えますか」
そらは少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと頷いた。
「見えます。ホームに、誰もいないはずなのに、誰かがいるように見えることがある。電車を待っている人とか、改札の前に立っている人とか。他の人には見えていないみたいで、ずっと気味悪がられてた」
「気味悪がられていましたか」
「はい。だから、あまり言わないようにしていました」
「それは、大変でしたね」
「大変かどうか、よくわかりませんでした。ずっとそうだったから。でも」
そらは、すずなに視線を向けた。
「あなたは、変な顔をしなかった」
「変な顔?」
「気味悪いとか、おかしいとか、そういう顔をしなかった」
「わたしも同じなので」
「同じ?」
「見えます。定刻から外れた人が」
そらは少しの間、すずなを見ていた。
「同じ人が、いるんですね」
「います。ここには、そういう人がいます」
そのとき、後ろから足音が聞こえた。
「新人、乗客を見つけたか」
キップだった。巡回から戻ってきたところらしく、すずなの肩に飛び乗ってきた。そらがキップを見て、目を丸くした。
「動物が喋った」
「時刻獣だ。補助車掌の職にある」
「時刻獣。初めて見た」
「当然だ。吾輩を知っている者はほとんどいない」
「かわいい」
「うるさい」
そらが、初めて笑った。小さな笑いだったが、確かに笑った。すずなはそれを見た。
ミオがユキノさんと初めて話したとき、ミオが先に笑ったことを思い出した。あのときと、少し似ていた。緊張がほぐれる瞬間の、力の抜け方が。
「キップ、ミオを呼んできてもらえますか」
「ミオを?」
「はい。それと、ネムも」
「わかった」
キップは飛び降りて、管理局の建物の方向へ走っていった。
そらがキップの背中を見送った。
「あの動物、足が短いのに速いね」
「本人に言うと怒ります」
「怒るんだ」
「尊大なので」
「でも、かわいい」
「そうですね」
そらはまた笑った。さっきより少し力のある笑い方だった。
すずなはホームのベンチを示した。
「座りませんか。少し話を聞かせてもらえますか」
「はい」
二人はベンチに座った。夜の第七遅延区が、静かだった。
「鳴海さん」
「そら、でいいです。さんはいりません」
すずなはその言葉を聞いて、少しだけ笑いそうになった。ミオに同じことを言われたのを思い出した。さんもいらない、とミオは言った。
「そら、ここへ来る前に、何かありましたか」
「何か、というのは」
「ここへ来ようと思った理由、でなくてもいいです。最近あったこと、でも」
そらは少し考えた。
「学校で、友達に変なことを言われました」
「変なこと?」
「誰もいないところを見てる、って。幽霊でも見えるの、って笑われて」
そらは膝の上に手を置いた。
「笑われることには慣れてたつもりだったけど、その日は、なんか、疲れました」
「疲れたんですね」
「はい。ずっと、自分が見ているものが何なのか、わからなかったので。変なのかもしれない、っていつも思ってたから」
「変ではありません」
「え?」
「そらが見ているものは、定刻から外れた人たちです。人生のどこかで、何かに乗り遅れた人たちです。普通の人には見えませんが、そらには見える。それは、能力です」
そらはすずなを見た。
「能力、って言う人、初めてです」
「そうですか」
「みんな、おかしいとか、変だとか言うから」
「ここでは、おかしくありません」
「ここって、どういう場所なんですか」
「銀河鉄道管理局、第七遅延区です。人生のどこかで、何かに乗り遅れた人たちが来る場所です。そらのような、定刻から外れた人が見える人は、ここへ来ることがあります」
「わたし、乗り遅れたんですか」
「そうとは限りません。乗り遅れた人を見つけられる人が、ここへ来ることもあります」
「見つけるために、来たってこと?」
「かもしれません。まだわかりませんが」
そらはホームを見た。琥珀色の照明が、ホームを照らしている。遠くに列車の光が見える。
「きれいな場所ですね」
「そうですか」
「はい。変な感じだけど、落ち着く」
「定刻から外れた人を見続けていた人には、落ち着く場所かもしれません。ここでは、それが普通なので」
「普通なんだ。普通って、久しぶりに言われた気がする」
ミオとネムが来た。
管理局の建物からホームへ出てきた。ミオが先で、ネムがミオの後ろにいた。
ミオはすずなとそらを見て、少し立ち止まった。
「こんにちは」
ミオが挨拶すると、
「こんにちは」
そらはすぐに返してくれた。
「新しい人?」
ミオが、そらを見て尋ねた。
「そうみたいです。ミオ、紹介します。鳴海そら。定刻から外れた人が見える」
「同じだ。すずなと同じだ」
「そうですね」
「どういう意味ですか?」
そらが、不安そうに尋ねた。
「あなたのそばにいるすずなも、同じものが見えます。ここへ来る前から。だから、ここにいます」
「ここにいる理由が、そこにあるの?」
「一つの理由です。話、聞かせてもらっていいですか」
「はい」
ミオはそらの近くに座った。最初に黙って座った。言葉より先に、そこにいることを示した。それがミオのやり方だと、すずなは知っていた。
ネムはすずなの隣に来た。
「この子、誰?」
ネムが小声で尋ねた。
「定刻から外れた人が見える子です」
「すずなみたいな?」
「そうです」
「ここに来たばかり?」
「そうです」
「怖い?」
「少し不安そうです」
「じゃあ、歌おうか」
「あとで、お願いします」
「わかった。あとで」
ネムはホームの端へ行った。そこで待ちながら、小さな声で、歌の続きを作っているようだった。
ミオとそらが話していた。
すずなは少し離れたところで、ノートを開いた。今夜の記録を書き始めた。日付、時刻、場所。乗客の状況。
書きながら、ミオとそらの様子を確認した。
そらが話していた。ミオが聞いていた。ミオは途中で何かを言った。そらがうなずいた。それから、また話していた。
すずなには聞こえなかった。でも、見ていた。
ミオが誰かの話を聞く様子を見るとき、すずなはいつも同じことを思う。ミオは変わった、と。最初に出会ったときの、少し挑発的で、あきらめているような顔と、今の顔は違う。でも、どちらもミオだ。消えた未来から来た少女が、今この場所で、乗り遅れた人たちの話を聞いている。
それは、管理局の記録にはない仕事だった。でも、確かにある仕事だった。
ネムが歌い始めた。
小さな声で、空を泳ぐ魚の歌が始まった。ホームに静かに広がった。そらが、歌の方向を見た。ミオが、ネムを見た。
「あの子も仲間?」
そらが尋ねた。
「はい。ネムです。大事な仲間」
ミオが答える。
「何をしてるの?」
「歌ってます。いつも」
「なんの歌?」
「お父さんに覚えた歌と、ここで作った歌」
「きれいな歌ですね」
「そうでしょ。ネムの歌が聞こえると、少し楽になる人が多いんです」
「わたしも、少し楽になった気がします」
「でしょ」
すずなはそれを聞いていた。記録を書きながら、聞いていた。
ネムの歌が、そらに届いた。
それも記録した。
しばらくして、すずなはそらに近づいた。
ミオはそらとの話が一区切りついたところで、少し離れて座っていた。
「そら」
「はい」
「一つ、聞かせてください」
「はい」
「ここへ来たとき、来るべき場所に来た気がすると言いましたね」
「言いました」
「今も、そう感じますか」
そらは少し考えた。ホームを見て、ミオを見て、ネムを見た。それから、すずなを見た。
「感じます。なんか、ここにいていい気がします」
「いていいです。ただし、今夜すぐに何かが決まるわけではありません。ここが何の場所かを、少しずつ知っていってもらえれば」
「帰らないといけないですか」
「今夜は帰れます。ただ、また来ることができます。ここはいつもあります」
「また来ていいんですか」
「はい」
「その、来るべき場所に来た気がする、っていうのは、ずっと、自分が見ているものが何なのかわからなくて、変なのかもしれないって思ってたけど、ここへ来たら、変じゃないって言ってもらえたから、だと思います」
「変ではありません」
「また言ってくれた」
そらは、ちょっとだけ笑った。
「事実なので」
「すずなさんって、事実をよく言いますね」
「そうですか」
「うん。さっきも、能力です、って言ってくれた。笑わなかった」
「笑う理由がありません」
「そういう人が、ここにいるんですね」
「います。ミオも、ネムも、キップも」
「あの動物も?」
「キップも笑いません。口うるさいですが」
「かわいいけど」
「本人には言わない方がいいです」
「なんで?」
「うるさい、と言われます」
そらがまた笑った。今夜で一番、力のある笑い方だった。
すずなはそれを見た。
ポケットの中で、懐中時計が動いていた。取り出して見ると、針がある方向を指していた。
最初に管理局へ来た夜から、ずっとそうだった。定刻ではない方向へ向かっていた針が、今夜は少し違う動き方をしていた。
ミオの方向、ネムの方向、そしてそらの方向へ、少しずつ広がるように動いていた。
一点ではなく、この場所全体を示しているような動き方だった。
「すずなさん」
「はい」
「その時計、ずっと動いてますね。でも、普通の動き方じゃない」
「はい。定刻を示さない時計です」
「壊れてるの?」
「壊れていません。ただ、管理局の定刻ではない方向を示します」
「じゃあ、何を示してるの?」
すずなは少し考えた。
「わたしが向かっている方向を、示しています」
「向かっている方向?」
「はい。管理局の定刻から外れた場所に、わたしが向かっている場所があります。その方向を、この時計は示します」
「どこに向かってるの?」
「ここです。第七遅延区。ミオとネムとキップがいる場所。そして今夜は、そらもいる場所」
そらは時計を見た。針の動き方を見た。
「わたしの方も、向いてる?」
「向いています」
「なんで?」
「そらがここにいるからです」
そらは少しの間、時計を見ていた。
「今日だけかもしれない。また来るかどうか、わからないし」
「また来ても来なくても、今夜ここにいたことは、記録に残ります」
「記録?」
「わたしが記録します。今夜、鳴海そらがここに来た。定刻から外れた人が見える少女が、第七遅延区へ来た。それを記録します」
「なんのために?」
「残しておくためです。来たことが、なくなってしまわないように」
「また来ます」
そらはそう伝えて、少しして。
「また来たいです」
と言った。
「いつでも来てください」
「また、話を聞いてくれますか」
「聞きます」
「ミオさんにも?」
「ミオも聞きます」
「ネムの歌も聞けますか?」
「聞けます」
「キップにも会えますか?」
「会えます。うるさいですが」
「かわいいけど」
「本人に」
「言わない」
そらはにこっと笑った。
「帰る?」
ミオはそらのそばに戻ってきて、尋ねた。
「はい。でも、また来ます」
「来てください。次は、もう少し詳しく話を聞かせてもらえたら」
「はい」
「あと、ネムに歌ってほしい曲があったら、リクエストできます」
「え、リクエストできるの?」
「できます。ネムは覚えるのが得意なので」
「じゃあ、次に来たとき、言ってみます」
「待ってます」
そらは立ち上がって、ホームを見回した。琥珀色の照明を見た。遠くの列車の光を見た。
「変な場所だけど。好きです、ここ」
「変でいいです。変な場所に、変な者たちがいます」
「変じゃないよ。普通じゃない、だけで。普通じゃないことは、変じゃない」
すずなはそらを見た。
「そうですね。普通じゃないことは、変じゃない」
「また来ます」
「待っています」
そらはホームを歩いて、出口の方向へ向かった。歩きながら、一度だけ振り返った。手を少し上げた。すずなも、少し上げた。
そらは出口を抜けて、見えなくなった。
ミオがすずなの隣に来た。
「来そうだね、また」
「来ると思います」
「すずなと似てた」
「そうですか」
「うん。目が似てた。定刻から外れた人を見てきた目。最初に会ったとき、すずなもああいう目をしてたんじゃないかな、って思った」
「わたしが見習いになった最初の夜の目ですか」
「かもしれない。見てないけど」
ミオはくすっと笑った。
「でも、なんかそんな気がした」
「そうかもしれません。わたしも、最初はわからなかったので。自分が見ているものが何なのか、名前をもらえる前は」
「ここで名前をもらったんだよね」
「はい。定刻から外れた人たち、という言葉を、もらいました」
「そらも、もらえた?」
「変ではありません、という言葉を渡しました」
「最初の名前にしては、いい言葉だ」
「そうですか」
「うん。変じゃない、って言ってもらえることが、一番大事なこともある」
すずなはミオを見た。
「ミオも、そう思いましたか。最初に」
「思った。すずなが、わたしを変だとか、間違いだとか言わなかった。消滅確認リストに名前があっても、消えていい存在だとは言わなかった。それが、一番最初に受け取ったもの」
「覚えていましたか」
「覚えてる。ずっと覚えてる」
「わたしも覚えています」
「何を?」
「ミオが最初に言ったこと。わたし、たぶん未来じゃなくて、誰かの間違いなんだよ、と言いました」
「そんなこと言ったっけ」
「言いました」
「覚えてるんだ」
ミオは少し驚いた顔をした。
「大事な言葉だったので。その言葉を聞いて、そうじゃないと思いました。間違いではない、と」
「そのとき、言ってくれなかったね」
「言葉にならなかったので。でも、思いました。だから、引き渡せなかったのかもしれません」
「その判断が、ここまで来た。長かったね」
「長かったです」
「でも、よかった」
「そうですね」
ネムが近くにやってきた。
「そらちゃん、帰った?」
「帰りました。また来ると言っていました」
すずなが伝えた。
「よかった。また歌える」
「歌ってほしい曲、次に来たときに言ってみるとも言っていました」
「楽しみ。新しい歌を覚えるの、好きだから」




