第二十章 第七遅延区の少女たち
噂が広まったのは、しばらくあとのことだった。
第七遅延区には、正規記録に載らない者たちがいる。定刻から外れた駅員と、消えた未来から来た少女たちと、小さな時刻獣が、乗り遅れた人たちを案内している。
噂の内容は、人によって少し違った。幽霊みたいな少女がいる、という人もいた。変な動物が切符を確認している、という人もいた。いつの間にか、前より楽になっていた、という人が多かった。
管理局の公式記録には、何も書かれていない。
ただし、ハルカの執務室には、定期的に観察記録が届いた。観察記録の提出者の名前は、星見すずな。区分は、遅延区構成員補助。
ハルカはその記録を受け取るたびに、一度だけ目を通した。
それから何も言わず、引き出しへしまった。
そのあとで読み返しているのか、ただ保管しているだけなのか、すずなにはわからなかった。
ある日、すずなに未処理の案件が届いた。
正式な業務指示ではなかった。ただの封筒で、中に一枚の紙が入っていた。内容は、第三番線に長期滞在の乗客がいる、という情報だった。差出人の名前は書いていなかったが、字体がハルカのものだった。
「主任が、案件を回してくれました」
すずなはミオに伝えた。
「表向きは知らないふりをしながら」
ミオは尋ねる。
「そうなります」
「やっぱりいい人だ」
それからも、ときどきそういう封筒が届いた。
正式なルートではない。記録にも残らない。でも、確かに届いた。
三番線の乗客は、四十代の女性だった。名前は、言わなかった。でも、長い間ここにいたことは、目を見ればわかった。乗り遅れた時間が、顔に積み重なっていた。
すずなが声をかけると、最初は返事がなかった。
ミオが隣に来て、すずなの隣に座った。何も言わなかった。ただ、座っていた。
しばらくして、女性が言った。
「誰かと、ずっと一緒にいたかった」
「いなくなったんですか」
すずなは尋ねた。
「いなくなったというより、私が間に合わなかった。最後の場面に」
「間に合わなかった、という感覚があるんですね」
「ずっとある」
「間に合わなかったこと、覚えていますか?」
ミオが尋ねた。
「覚えています。毎日」
「覚えてるってことは、大事にしてたってことじゃないですか」
女性はミオを見た。
「大事にしていたのに、間に合わなかった」
「大事にしてたから、間に合わなかったことが残ってる。間に合わなかったことが残ってるのは、大事だったことの証拠だと思う」
女性はしばらく、ミオを見ていた。
「あなたは、何者ですか?」
「消えた未来から来た人間です。だから、残ることの意味を、少しだけ知ってます」
女性は何も言わなかった。でも、目が少しだけ変わった。
すずなはノートを開いた。記録をつけた。乗客の状況、ミオの対応、変化の様子。事実を順番に。
そのとき、ホームの端からネムの歌が聞こえてきた。
空を泳ぐ魚の歌。意味のよくわからない、でも心地よい歌。
女性が、その歌の方向を見た。
「誰が歌っているんですか」
「ネムです。一緒にいる子です」
「子ども?」
「外見は、そうです」
「いい声」
「そうですね」
女性は歌を聞いていた。長い間ここにいて、乗り遅れた時間を抱えていた女性が、歌を聞いていた。
少しずつ、肩が下がった。
すずなはそれを記録した。
季節が変わる感覚は、銀河鉄道の中にはない。昼と夜が繰り返すだけで、春も夏もない。でも、時間は確かに過ぎていた。
ミオは変わっていった。
最初のころの、少し挑発的で、何かをあきらめているような顔が、少しずつ変わった。変わったというより、別の顔が加わった。乗客の話を聞くとき、正確に何かを受け取ろうとする顔が、ミオにはできていた。
「ミオは、乗客の話を聞くのが上手になりましたね」
ある夜、すずなは言った。
「上手かどうかわかんないけど。聞きやすい、ってことは言われる」
「なぜだと思いますか?」
「わたしも、乗り遅れた側の人間だから、かな? 追いつかなかった時間を知ってる。だから、その人の話を、変な気持ちなく聞ける」
「変な気持ち、というのは」
「かわいそう、とか、助けてあげなきゃ、とか。そういう距離感がない」
「なるほど」
「すずなも、そういう距離感がないね」
「わたしは……わたしも、どこかでは外れた側にいたのかもしれません。見えるものが周りと違っていたので」
「定刻から外れた人が見えた」
「はい。だから、乗り遅れた人の感覚を、完全には理解できないとしても、遠くには感じない」
「二人とも、外れた側にいたんだ。だから、ここにいるのかもしれない」
「そうかもしれません」
「変な縁だね」
ミオはくすっと笑った。
「でも、好きだよ、この縁」
すずなは答えなかった。答えの代わりに、ノートに一行書いた。
業務と関係のない一行だったが、消したくなかった。
ミオは変わっていった。すずなも、変わっていった。
ネムは変わらなかった。外見は変わらない。でも、歌の数が増えた。お父さんから覚えた歌だけでなく、第七遅延区で聞いた乗客の話から作った歌も、歌うようになった。
乗客が言えなかった言葉を、歌にした。届かなかった気持ちを、歌にした。
ある日、キップがネムに言った。
「お前の歌は、郵便車両と同じ機能を持ち始めているな」
「どういう意味?」
「届かなかった言葉を、形にする。歌は声に出されるから、少なくともここにいる人には届く」
「届いてるの?」
「届いている」
「よかった。届けたかったから」
「誰に?」
「わからない。でも、誰かに届けたかった。お父さんの歌が好きだったから、誰かに届けたかった」
キップはしっぽを揺らした。それだけで、何も言わなかった。でも、それはキップなりの、わかった、という意味だとすずなは学んでいた。
セイからの定期確認が、月に一度来た。
観察記録の確認と、時刻表の状況の報告だった。すずなが記録を提出して、セイが確認する。それが繰り返された。
ある月の確認で、セイが言った。
「第七遅延区の時刻表の安定度が、過去三年で最高値を示しています」
「把握しています」
「分岐存在が存在することとの相関が見られます」
「記録にその可能性を示しています」
「相関が因果とは限りません」
「限りません。でも、悪化はしていません」
「そうですね」
セイは少しの間、端末を見ていた。
「星見すずな」
「はい」
「私は、あなたを止めるべきでした。最初から」
「そうだったかもしれません」
「でも、止めませんでした」
「止めなかった理由を、聞いてもいいですか?」
セイは少し間を置いた。
「あなたが話し合いを続ける、と言ったからです。止めることで、話し合いが終わる。話し合いが終わることは、判断の機会を失うことです。管理局として、判断の機会を失うことは、好ましくない」
「それだけですか」
「それだけです」
「感情的な理由はありませんでしたか」
「ありませんでした。ただし」
「ただし?」
「ネムが歌う場面を、一度だけ遠くから見ました。その歌が、近くにいた乗客に影響を与えていました」
「記録にあります」
「記録で見るのと、実際に見るのは、少し違いました」
すずなはセイを見た。穏やかな顔のまま、でも少しだけ何かが違う顔をしていた。
「セイ」
「はい」
「感情的な理由はなかった、と言いましたが」
「言いました」
「でも、記録と実際が違う、と言いましたね」
「言いました」
「その違いは、何だと思いますか?」
セイはしばらく黙っていた。
「わかりません。ただ、違いがあることは、認めます」
「それでじゅうぶんです」
「じゅうぶんですか」
「わかることと、気づくことは、違います。気づいていれば、いつかわかる可能性があります。セイが、その違いに気づいていることは、良いことです」
セイは少しの間、すずなを見た。
「あなたは、変わりましたね」
「そうですか」
「最初は、規則の解釈を探していた。今は、もっと別のことを言っている」
「整理が進みました」
「まだ整理しているんですか」
「必要な場面では、整理します」
「整理が終わることはないのかもしれませんね」
「終わらなくてもいいと、最近は思っています」
「なぜですか」
「整理し続けることが、考え続けることだから、です。考え続けることは、悪いことではないと思うようになりました」
セイは端末を閉じた。
「来月の確認を、また行います」
「はい」
「記録の提出を続けてください」
「続けます」
セイは去った。今日も静かに、穏やかに。
でも、来るたびに、少しだけ何かが違う気がした。わずかなことだが、すずなには見えた。
ある夜、ミオがすずなに言った。
「ねえ、すずな」
「はい」
「わたし、ここにいていいんだって、最近は思えるようになった」
「最近は、というのは」
「前は、いていいかどうか、半分くらいは疑ってた。管理局に消されるかもしれないとか、すずなに迷惑をかけてるかもしれないとか」
「今は違いますか」
「今は……ここで役に立てることが、あるから。乗客の話を聞くことも、記録をとることを手伝うことも。なんかわたしにできることが、ある気がする」
「ありますね」
「ありますって言い切るんだ」
「あると思っているので」
「前はできないかも、って言う場面だったと思う。すずなも変わった」
「そうですか」
「うん。わたしのことを、信じるようになった気がする」
「最初から信じていました」
「信じる仕方が変わった、ってことかな。最初は、いてほしいっていう感情で信じてた。今は、ミオにはできることがあるって、事実として信じてる」
「そうかもしれません。一緒にいて、わかってきたことです」
「一緒にいて、わかること、ってあるんだね」
「あります」
「たとえば」
「ミオが大丈夫と言うときは、大丈夫ではないことが多い、というのは、一緒にいてわかりました」
「そんなこと、覚えてるんだ」
「覚えています」
「他には」
「ミオは乗客の話を聞くとき、最初に黙って座る。言葉より先に、そこにいることを示す。それを見て、わたしも学びました」
「わたしから学んだの?」
「はい」
「わたしが、すずなに何かを教えたんだ」
ミオは少し驚いた顔をした。
「たくさん、教えてもらいました」
「たとえば」
「正しいことと、苦しくないことは違う、というのは、白紙駅でミオが最初に言いました」
「そんなこと言ったっけ」
「言いました」
「覚えてるんだ」
「覚えています。大事な言葉だったので」
ミオは少しの間、黙っていた。
「すずな、覚えることが多いね」
「覚えていたいものが、多いからです」
「わたしのことも?」
「一番多いです」
ミオは何も言わなかった。
代わりに、すずなの隣に近づいた。肩に少し寄りかかった。
「ありがとう」
「何のためにですか」
「覚えていてくれて」
「当然です」
「当然じゃない。でも、ありがとう」
ネムが遠くで歌っていた。キップが見回りに出ていた。ホームに、乗り遅れた人たちの気配がある。
すずなはノートを開いて今日の記録をつけた。乗客の状況、ミオの対応、ネムの歌の影響。事実を順番に書いた。
最後に、一行だけ書いた。
──ミオが、ここにいていいと思えるようになった、と言った。
業務記録に必要な内容ではなかった。でも、記録しておきたかった。
消えた未来から来た少女が、今いる場所を、いていい場所だと思えるようになった日。
それは、大事な日だと思ったから。
ノートを閉じた。
ミオがまだ肩に寄りかかっていた。すずなはそのままにしておいた。
懐中時計が、ポケットの中で静かに動いていた。
管理局の定刻ではない。でも、止まってもいない。ある方向へ、今日も確かに動いていた。
窓の外に、第七遅延区の夜が広がっていた。
琥珀色のホームの灯りが、並んでいる。遠くに列車の光が見える。乗り遅れた人たちの列車が、今夜も銀河の縁を走っている。
その列車を、今夜も誰かが待っている。
定刻から外れた人たちが、それぞれの遅れを抱えて、ここに来る。
その人たちのそばに、定刻から外れた駅員と、消えた未来から来た少女たちと、小さな時刻獣がいる。
それが、今の第七遅延区だった。
正規記録に載らない者たちが、正規記録に載らない仕事をしている。
変な区画だと、キップは言った。
でも、悪くないと、すずなは思っている。
ミオも、思っているはずだ。
今夜、そこにいていい、と言ったから。




