第十九章 猶予の終わる朝
次の日の朝、セイが来た。
第七遅延区の会議室には、すずな、ミオ、ネム、キップ、そしてハルカが集まっていた。セイは定刻通りに現れ、穏やかな顔のまま、静かに席に着いた。
ハルカは、すずなの隣ではなく、少し離れた席に座っていた。見習い駅員の保護者としてではなく、第七遅延区の主任として、そこにいるように見えた。
すずなは、七日間の記録を差し出した。
「観察記録です」
セイは受け取った。ページをめくった。数字を確認して、グラフを見た。
しばらく、黙って読んでいた。
「時刻の誤差が縮小しています」
「はい」
「分岐存在が存在することで、周辺の安定が増した可能性があります」
「記録上は、そうなっています」
「これは、私の想定と異なります」
セイは感情のない声だったが、認めていた。
「セイの想定と異なるということは、想定が正確ではなかった可能性があります」
「あります。ただし、七日間のデータだけでは、長期的な影響は判断できません」
「そうです。だから、七日間以上、観察を続けることを提案します」
「観察を続けることに、終わりはありますか」
「ミオとネムが、第七遅延区の一部として機能するようになれば、終わりにできます」
「第七遅延区の一部として」
「遅延乗客を安定させる機能を持つ存在として、正式に認めることです。処理対象ではなく、遅延区の構成員として」
セイは少しの間、黙っていた。
「それは、管理局の規則にない扱いです」
「規則に禁じられてもいません」
「また屁理屈を言いますか」
「規則の解釈です」
セイの視線が、すずなからミオへ移った。次にネム、キップへと順に向けられ、最後にハルカのところで止まった。
「鐘ヶ瀬主任」
「はい」
「あなたは、第三十二条第七項を適用しました。本局の方針に反する可能性がある判断です。その理由を、今ここで話してもらえますか」
ハルカはすぐには答えなかった。
視線を伏せることも、言い訳を探すこともしなかった。ただ、自分の中にある言葉を確かめるように、短く息を吸った。
「話します。十年前、私は規則通りに乗客を引き渡しました。後悔しています。今回、同じ後悔をしたくないと思いました。それが理由です」
「感情的な理由です」
セイの声は責めるものではなかった。ただ、分類するような声だった。
「そうです。私は感情で動きました。普段はしないことです。でも、今回はしました」
「感情で動いたことを、後悔していますか」
「していません」
その答えだけは、早かった。
セイはハルカを長い間、見ていた。
「セイ」
すずなは呼んだ。
「はい」
「セイは、今回の判断を、何を根拠に下そうとしていますか」
「管理局の規則と、時刻表の管理という目的です」
すずなは、その答えをノートに書く代わりに、頭の中で一つずつ並べた。
規則。目的。記録。
セイは感情では動かない。ならば、感情ではなく、セイの言葉で話すしかない。
「規則と目的が、判断の根拠ですね」
「そうです」
「七日間の記録は、時刻表の管理という目的に対して、ミオとネムの存在が有効である可能性を示しています。目的に照らして、有効であれば、残す判断ができます」
セイはすぐには答えなかった。
ミオが、すずなの隣で小さく息を止めたのがわかった。
「論理として、筋は通っています」
「では、規則の面はどうですか。遅延証明書の承認を、本局として行う規則上の障害はありますか」
「明示的な障害は、ありません」
「ならば」
そこまで言って、すずなは言葉を止めた。
最後の一歩を、自分で言い切っていいのか迷った。
けれど、セイは冷静に続きを引き取った。
「ならば、承認できる、ということになります。論理として、認めます」
すずなは息を止めた。
「承認する、ということですか」
「暫定証明書を、正式な遅延証明書として承認します。ただし、条件があります」
「条件は」
「観察を継続します。定期的に記録を提出してください。データが悪化した場合は、再度話し合いをします」
「わかりました」
ミオが何か言いかけて、やめた。
ネムはミオの袖を握っていた。
まだ終わっていない。すずなにも、それはわかった。
「また、遅延証明書の責任を引き受ける者が必要です。誰がなりますか」
「わたしです。星見すずなが、責任を引き受けます」
「それは、管理局の記録から外れることを意味します」
「承知しています」
「後悔しませんか」
「しません」
答えは、すぐに出た。今度は、考える必要がなかった。
「キップも署名するつもりですか」
「する。吾輩も、責任を引き受ける」
セイはキップを見た。
「あなたは、過去に後悔した判断があると言いました」
「あります」
「今回は、後悔しないと思いますか」
「思います。なぜなら、今回は、動いたからです」
キップは丁寧語で答えた。いつもの偉そうな声ではなかった。小さな補助車掌が、自分の記録に署名する声だった。
セイはしばらく黙っていた。
「では、手続きを進めましょう」
セイは端末を取り出した。正式な遅延証明書の手続きを進め始めた。すずなは署名した。キップも署名した。
画面に、完了の表示が出た。
その瞬間、すずなの管理局の記録が、更新された。駅員見習いから、遅延区構成員補助という、管理局には前例のない区分へ変わった。
キップも同様に、記録が更新された。
ミオの記録が、消滅確認リストから、正規存在リストへ移動した。
ネムも、同じように。
「完了しました。灯野ミオさん、十和田ネムさん。管理局の記録に、正式に存在することになりました」
ミオは黙っていた。
ネムも黙っていた。
それから、ネムが泣いた。声を出さないで、涙だけが出た。ミオがネムを抱きしめた。ミオも、少し目が赤くなった。
「すずな」
ミオは、ネムを抱きしめたまま呼んだ。
「はい」
「ありがとう」
「わたしだけではありません」
「知ってる。でも、ありがとう」
すずなは答えなかった。
答えの代わりに、懐中時計を取り出した。
針が、動いていた。
管理局の定刻ではなかった。でも、止まってもいなかった。どこへ向かうかが、はっきりしていた。
ミオの方向だった。
それは最初から、変わっていなかった。
セイが立ち上がった。
「星見すずな」
「はい」
「あなたは、管理局の定刻から外れました」
「はい」
「後悔はありませんか」
「ありません」
「定刻から外れることは、正しいことだと思いますか」
すずなは少し考えた。
「わかりません。でも、わたしがしたいことをしたので、それでいいと思っています」
「正しいかどうかより、したいかどうかが優先されますか」
「今回は、そうなりました」
「今後も、そうですか」
「今後は、状況によって考えます」
「まだ整理するんですか」
「必要な場面では、整理します」
セイは少しだけ、目を細めた。感情は見えなかった。
「わかりました。観察記録の提出を、忘れないように」
「忘れません」
「話し合いを続ける意思があるなら、いつでも連絡を」
「連絡します」
セイは会議室を出た。静かに、穏やかに。
会議室に、残された人たちがいた。
「終わりましたね」
ハルカが言った。
「一区切りです。終わりではありません。観察を続けます」
ずずなは伝える。
「そうですね」
ハルカはちょっとだけ笑った。すずなが見た中で、初めてハルカが笑った。
「観察記録の提出先は、私でいいですか」
「お願いします」
「わかりました」
ハルカは立ち上がった。
「では、通常業務に戻ります」
「主任」
すずなが呼んだ。
「何ですか」
「ありがとうございました」
「礼は不要です」
「言います」
「聞きません」
「聞いてください。主任が動いてくれなければ、ここまで来られませんでした」
ハルカは少しの間、すずなを見た。
「星見」
「はい」
「未登録乗客の発見時に即時報告せよ、という命令を出しました。覚えていますか」
「覚えています」
「その命令に、あなたは従いませんでした」
「発令日より前の発見案件だったので」
「屁理屈でした」
「規則の解釈でした」
ハルカは少し、目を細めた。
「続けてください」
それだけ言って、会議室を出た。
ミオがネムを離した。ネムは涙を拭いた。
「終わったの?」
ネムが尋ねた。
「一区切りです」
すずなは答えた。
「ワタシたち、いていいの?」
「います」
「ずっと?」
「観察記録を提出し続ける限り、いられます」
「じゃあ、ずっといられるね」
「そうなります」
ネムはちょっとだけ笑った。泣いたあとの笑い方だったが、力のある笑い方だった。
「流星野には帰れないけど」
「帰れません」
「でも、ここにいていい」
「います」
「ありがとう、すずな」
「ネムが存在してくれていたから、記録が取れました。ネムも、いてくれてありがとうございます」
「そんなこと言う人、初めて」
「事実なので」
ミオがすずなの隣に来た。
「すずな」
「はい」
「管理局の記録から外れたね」
「外れました。遅延区構成員補助、という区分になりました。前例のない区分です」
「定刻から外れた駅員」
「そういうことになります」
「かっこいいね」
「そうですか」
「うん。すずなっぽい」
「どういう意味ですか」
「規則の中で動いてたすずなが、最後に一番規則の外に出た。でも、ちゃんと記録して、ちゃんと話し合って、ちゃんと認めてもらった。すずなのやり方だ」
ミオに言われ、すずなは少し考えた。
「ミオと出会ったから、そうなりました」
「わたしが変えたの?」
「変えたというより、気づかせてもらいました。規則の正しさと、すべきことが違う場合があることを」
「それ、すずながわたしに言った言葉だよ」
「ミオが先に気づいていたことを、あとからわたしも気づきました」
「どっちが先かわかんないね。一緒に気づいたのかもしれない」
ミオはにこっと笑った。
「そうかもしれません」
「新人」
「はい」
「これからのことを、確認したい」
「どうぞ」
「管理局の記録から外れた。駅員見習いではなくなった。ここで何をするつもりだ」
「観察記録をつけます。ミオとネムの存在が、第七遅延区の乗客にどう影響するかを記録します。その記録をセイに定期的に提出します」
「それだけか」
「それ以外にも、第七遅延区で、遅延乗客の対応を続けます。正式な駅員ではなくなりましたが、できることは残っています」
「ハルカ主任が認めるか」
「聞いてみます。続けてください、と言われた気がしました」
「あの人は認めるだろうな。認めないふりをしながら」
「ミオも同じことを言いました」
「正しい見立てだ」
「では、これからも第七遅延区にいます。定刻から外れた駅員として」
「定刻から外れた駅員と、定刻から外れた存在たちで、遅延区を動かすか」
「そういうことになります」
「変な区画になるな」
「変かもしれません。でも、悪くないと思います」
キップはしっぽを揺らした。
「吾輩は、補助車掌のままでいい。変わらなくていいか」
「変わらなくていいです」
「よし」
キップが満足そうにしっぽを揺らした。
「じゃあ、わたしは?」
ミオが自分を指さした。
「ミオは、いてください」
「いるだけ?」
「ミオがいることが、一番大事です」
「なんか、役に立ちたい」
「乗客の話を聞く、ということはできますか。ミオは、ユキノさんのことをわたしより早く理解しました。カナメさんにも、伝わる言葉を持っていました」
「そういう役割?」
「そういうことができる人だと、思っています」
「できるかな」
「できます」
「言い切るんだね」
「できると思っているので」
ミオはちょっとだけ笑った。
今度はネムが、自分の胸に手を当てた。
「ネムは?」
「ネムは、歌ってください」
「え?」
「ネムが歌を歌うと、周辺の状態が安定する可能性があります。七日間の記録で、そう判断しました」
「歌うだけでいいの?」
「歌うだけで、じゅうぶんです」
「お父さんの変な歌でいい?」
「いいです」
ネムはしばらく考えた。それから、少しだけ歌い始めた。空を泳ぐ魚の歌。七日間の中で、すずなが何度か聞いた歌。
会議室に、歌が広がった。
窓の外の第七遅延区のホームで、遅延乗客が一人、立っていた。ホームの端で、もう来ない列車の方向を見ていた。
その人が、少しだけ顔を上げた。
窓の中から聞こえてくる歌を、聞いているような顔をした。
すずなはそれを見ていた。
「キップ」
「何だ」
「今の記録を取りました」
「どういう内容で」
「ネムの歌が、遅延乗客の状態に影響した可能性あり。継続観察が必要」
「観察を続けるんだな」
「続けます」
キップはしっぽを揺らした。
「変な区画だ」
「変でいいと思います」
「吾輩もそう思う」
会議室に、ネムの歌が続いていた。窓の外に、第七遅延区の午後の光が差していた。
すずなは懐中時計を取り出した。
針が動いていた。
管理局の定刻ではない。でも、止まってもいない。ある方向に向かって、今日は今までで一番、安定した動き方をしていた。
ミオの方向だった。
ネムの歌の方向だった。
キップのいる肩の方向だった。
第七遅延区の、これからの方向だった。
すずなはそれを見て、ポケットにしまった。
ノートを開いた。今日の記録を書き始めた。
日付と、時刻と、場所。事実から始める。いつも通りに。
でも今日は、最初の一行のあとに、もう一行だけ追加した。
──定刻から外れた駅員として、第七遅延区での業務を開始する。
それだけ書いて、ノートを閉じた。
窓の外で、遅延乗客がまだホームに立っていた。もう来ない列車の方向を見ていた。でも、さっきより少しだけ、肩の力が抜けていた。
すずなはそれを見て、立ち上がった。
「行きます」
「どこへ」
ミオが尋ねた。
「ホームです。乗客がいます」
「一緒に行っていい?」
「来てください」
すずなたちは、会議室を出た。
廊下を歩いた。七番線のホームへ出た。
夕方の光の中で、ホームは静かだった。遅延乗客が一人、端に立っていた。
すずなは歩み寄った。
乗客が振り返った。
すずなは制服の襟を正して、帽子のつばに触れた。
「こんにちは。何かお手伝いできることはありますか」
乗客は少し驚いた顔をした。それから、少しだけ肩の力が抜けた。
「列車を、待っていたんです。でも、来ないんです」
「乗り遅れた列車ですか」
「そうかもしれません」
「そうかもしれない、ということは、まだわかっていないんですね」
「はい」
「では、一緒に確認しましょう」
すずなはノートを開いた。
ミオが隣に来た。
ネムは少し離れたところで、また小さな声で歌い始めた。
キップがすずなの肩に乗った。
第七遅延区の夕方が、穏やかに続いていた。




