第十五章 遅延証明書
朝になった。
ミオは結局、夜明け前に少しだけ眠った。すずなも、気がついたら目を閉じていた。ネムはよく眠っていた。キップだけが、窓枠の上でずっと起きていたらしく、朝になっても同じ場所にいた。
起きたとき、ミオはすずなの肩に頭を預けたまま眠っていた。すずなは動かなかった。ミオが自分で起きるまで、そのままにしていた。
ミオが目を開けた。
「……おはよう」
「おはようございます」
「眠れた?」
「少し」
「わたしも少し」
ミオは体を起こした。髪が乱れていたが、気にしない様子だった。
「今日、セイに会うの?」
「はい。第八の主任に、連絡を取ってもらえるか聞いてみます」
「わかった」
ネムが目を覚ました。キップが台から降りてきた。
すずなたちは、朝の準備をした。
第八の主任は、すでに執務室にいた。すずなが連絡の件を頼むと、主任は端末に向かった。
「セイに伝えます。ただし、応じるかどうかは」
「わかっています。お願いします」
待っている間、すずなはキップと話した。
「昨夜、考えていたことがあります」
「言ってみろ」
「遅延証明書の発行権限は本局にあります。セイが認めない限り、発行できない」
「そうだ」
「発行権限を持つ者が、セイだけとは限りませんか」
キップは少し考えた。
「本局の上層部であれば、複数の者が権限を持つ可能性はある。ただし、今回の通達はセイが発令した。セイの権限が今回の件に関しては最上位にある」
「セイより上の権限を持つ者はいますか」
「局長がいるが、局長は現在、長期不在だ。セイは局長代理として動いている」
「局長が戻れば、話が変わる可能性がありますか」
「局長が戻れば、最終判断は局長になる。ただし、局長がいつ戻るかは、吾輩には分からない」
「では、別の方向から考えます。遅延証明書の発行要件に、何か抜け道はありますか」
「抜け道か」
「規則の範囲内で、セイの許可なく発行できる場合はありますか」
キップはしばらく考えた。長い間、黙っていた。
「一つだけ、可能性がある」
「何ですか」
「遅延証明書の発行には、通常、本局の承認が必要だ。ただし、古い規則に例外がある。第三十二条第七項。緊急遅延処置として、主任駅員以上の権限を持つ者が、当該遅延区の管轄内において、暫定的に遅延証明書を発行できる場合がある」
「暫定的に」
「あくまで暫定だ。あとから本局の承認が必要になる。承認されなければ、証明書は無効になる」
「でも、暫定でも発行できれば、時間が稼げます」
「そうだ。ただし、その規則を適用するためには、当該遅延区の主任駅員が緊急遅延処置を宣言する必要がある」
「第七遅延区の主任は、ハルカです」
「そうだ」
「ハルカが宣言すれば、暫定的に発行できますか」
「理論上は、そうなる。ただし、セイが第七遅延区に来ている状況で、ハルカが宣言するとは考えにくい」
「考えにくいということは、ゼロではありません」
「新人、ハルカ主任は規則を守る側にいる。セイの通達に従うことが、ハルカの立場だ。それに逆らう判断を、あの人がするとは思えない」
「聞いてみなければ、わかりません」
「ハルカ主任に、今から会いに行くのか」
「第七遅延区は、今どういう状況ですか」
「セイが来ているので、警戒が高まっている。ただ、セイは今朝から第八に向かっているはずだ。第七の状況は、少し落ち着いている可能性がある」
「行けますか」
「廃止路線を使えば、管理局に気づかれずに戻れる可能性がある。ただし、保証はできない」
「行きます。ミオとネムはここに置いていきます」
「一人で行くの?」
ミオが尋ねた。
「キップと一緒です」
「わたしも行く」
「ミオは第七に近づかない方がいいです。セイの通達の対象なので」
「でも」
「ここで待っていてください」
すずなはミオを見た。
「約束しましたね。次は言う、と」
「言う、って約束したけど、一人でいなくなる約束をしたわけじゃない」
「そうですが、今回は状況が違います。ミオがいると、リスクが上がります」
「すずなだって、リスクがあるじゃん」
「わたしは管理局の見習い駅員です。正式な記録がある。ミオとは立場が違います」
ミオはしばらくすずなを見ていた。
「……絶対に戻ってくる?」
「戻ります」
「約束?」
「約束します」
ミオは少しの間、黙っていた。それから、すずなの制服の襟を少し直した。さりげない動作だった。すずなは少し驚いた。
「ちゃんと戻ってきて」
「戻ります」
「キップも」
「吾輩は常に戻る」
「ありがとう、ちび車掌」
「うるさい」
すずなとキップは廃止路線を使って、第七遅延区へ向かった。
往路は足音を忍ばせて歩いた。管理局の人員が廃止路線を確認に来ていないか、確認しながら進んだ。誰もいなかった。通達が出てから数日、管理局は廃止路線より現役路線の確認を優先しているようだった。
七番線の扉から外へ出た。
第七遅延区のホームは、静かだった。朝の業務が始まる前の時間帯で、駅員の姿が少ない。すずなは制服を正して、管理局の建物へ向かった。
廊下を歩いているとき、すれ違った駅員が、すずなに気づいて少し目を細めた。でも、止めなかった。すずなは表情を変えずに歩いた。
三階の執務室の前に着くと、ノックした。
「鐘ヶ瀬主任。星見すずなです」
少しの間があった。
「入りなさい」
扉を開けると、ハルカは机の前にいた。書類を持ったまま、すずなを見た。驚いた様子はなかった。
「戻ってきましたね」
「はい」
「無事で何よりです」
「ご心配をかけました」
「座りなさい」
すずなは座った。キップは肩の上にいた。ハルカはキップを見て、すずなを見た。
「ミオさんとネムさんは」
「第八遅延区にいます」
「第八の主任から、あなたたちが来ていると連絡がありました」
「知っていましたか」
「昨夜から知っていました。烏丸セイにも伝えました」
「伝えたんですか」
「嘘をついてまで隠す理由が、私にはありません」
すずなはその言葉を聞いた。ハルカは自分の立場から動かない。情報を隠すことはしない。それがこの人の仕事の仕方だと、すずなは改めて確認した。
「セイは今朝、第八へ向かいました。あなたたちと話し合いをするためだと聞きました」
「はい。昨夜、話し合いをしました」
「どうでしたか」
「セイの立場は変わりませんでした。わたしの答えも、まだ出ていません」
「それで、ここへ来た理由は」
「一つ、確認したいことがあります。第三十二条第七項について」
ハルカの表情が、わずかに動いた。
「緊急遅延処置の規定ですね」
「知っていますか」
「管理局の規則は、すべて把握しています。古い規定ですが、有効です」
「主任権限で、暫定的に遅延証明書を発行できます」
「理論上は、そうです」
「ハルカ主任が緊急遅延処置を宣言すれば、ミオとネムのために、暫定的に遅延証明書を発行できます」
「そのあと、本局の承認が必要です。セイが承認するとは思えません」
「承認されなければ、証明書は無効になります。でも、時間を稼ぐことができます。セイと本格的な話し合いをするための時間が」
ハルカは机の上の書類を置いた。窓の外を見た。第七遅延区のホームが見える。朝の光が差し始めていた。
「星見、あなたがここへ来て、私にそれを頼む。その意味は、わかっています」
「わかっていただいていると思って、来ました」
「私がそれをすれば、管理局の方針に逆らうことになります。セイの通達に反することになります」
「はい」
「処分の対象になり得ます」
「はい」
「それを承知で、私に頼んでいるんですか」
「承知しています。ハルカ主任が断っても、わかります。規則を守ることに、主任の仕事の意味があるのを、知っています。だから、強制するつもりはありません。ただ、可能性として、聞きに来ました」
ハルカは窓から、すずなへ視線を戻した。
「あなたは、私が引きずられたことがある、と言ったのを覚えていますか」
「覚えています」
「あのとき、詳しくは話しませんでした。今、少しだけ話します」
すずなは黙って聞いた。
「十年前、わたしはまだ一般の駅員でした。担当していた路線で、ある乗客と出会いました。規則違反の乗客でした。切符も身分証も持っていなかった」
すずなは息を止めた。
「わたしはその乗客を、規則通りに引き渡しました。処理の対象として、上に報告しました。正しい判断でした。規則通りの判断でした。でも、その乗客が処理されたあと、わたしの担当していた路線で小さな異変が起きました」
「異変?」
「定刻が、少しだけ乱れました。わずかなものでしたが、その乗客がいなくなったことと、無関係ではないと思いました。証明はできません。でも、そう思いました」
すずなは考えた。
「その乗客は、分岐存在でしたか?」
「今思えば、そうだったかもしれません。当時は、分岐存在という概念を、私は深く知りませんでした。処理したあとで、調べました。旧記録書庫で、似たような事例を探しました。いくつか見つかりました。分岐存在を消すことで、その周辺の定刻が乱れる事例が、稀にある」
「稀に」
「すべての場合ではありません。でも、ある」
すずなは、その言葉の意味を考えた。分岐存在を消すことで、定刻が乱れる場合がある。セイの言うことが、常に正しいとは限らない可能性がある。
「主任がその話を、わたしに話してくれた理由は」
「情報を持っている人間と、持っていない人間では、できることが違います。以前も言いました」
「はい」
「それだけです」
すずなはハルカを見た。ハルカはすずなを見ていた。事務的な目だったが、その奥にあるものが、今日は少しだけ違って見えた。
「主任」
「何ですか」
「十年前に引き渡した乗客のことを、今でも後悔していますか?」
ハルカは少しの間、窓を見た。
「後悔しています。だから、今もその話をしています」
執務室に静かな時間が流れた。
「第三十二条第七項を、適用することを検討します。返答は、今夜中にします」
「ありがとうございます」
「礼は早い。断るかもしれません」
「それでも、聞いてもらえたことに、感謝します」
ハルカは書類を取り上げて、視線を下げた。話が終わったという意味だった。
すずなは立ち上がった。
「一つだけ、最後に」
「何ですか」
「主任が言っていましたね。あなたは優しい。だからこそ、駅員には向いていないかもしれない、と」
「言いました」
「今も、そう思いますか」
ハルカは書類を持ったまま、少しだけすずなを見た。
「向いていないかもしれない。でも」
「でも?」
「向いていないことが、悪いとは、今は思っていません」
すずなはそれを聞いて、頭を下げた。
「ありがとうございました」
執務室から廊下に出た瞬間、キップが言った。
「聞いたか」
「はい」
「ハルカ主任が、動くかもしれない」
「動いてくれるかどうかは、まだわかりません」
「でも、可能性がある」
「はい」
「新人、一つだけ聞いていいか」
「はい」
「遅延証明書が発行されたとして、責任を引き受ける者が必要だ。誰がなるつもりだ」
すずなは少しだけ歩みを遅らせた。
「わたしです」
「管理局の記録から外れる可能性がある。通常の時間へ戻れなくなる可能性がある」
「知っています」
「それでも」
「それでも、です。ミオのそばにいたいからです」
「規則ではなく」
「規則ではなく」
「感情で、か」
「整理の終わった感情で、です」
キップはしばらく何も言わなかった。廊下を歩く音だけが続いた。
「吾輩も、署名する」
すずなは止まった。
「キップ」
「新人一人に責任を取らせるつもりはない。吾輩も補助車掌として、責任を引き受ける」
「処分されます」
「昔、処分できなかった後悔がある。今回は、する」
「昔というのは」
「規則通りに乗客を降ろした件だ。あのとき、規則の外で動ける立場にあった。でも、動かなかった。今回は動く」
すずなはキップを見た。肩の上で、小さな体を真っすぐにして、車掌帽をかぶって、尊大な顔をしていた。
「ありがとうございます、キップ」
「礼は不要だ」
「言います」
「聞かない」
「言います」
キップは耳を立てて、前を向いた。
「帰るぞ。ミオが待っている」
「はい」
二人は廊下を歩いた。第七遅延区の廊下を、管理局の建物を、七番線へ向かって。
廃止路線の扉の前に着いたとき、すずなは一度だけ振り返った。
管理局の建物を見た。琥珀色の照明が、廊下を照らしている。
ここへ来て、一ヶ月と少しが経っていた。最初の夜間巡回で、貨物車両のミオを見つけた夜から、ここまで来た。規則を一度も破らなかった見習い駅員が、今は管理局の方針に逆らおうとしている。
それを、後悔しているかと聞かれれば、していないと答える。
懐中時計をポケットから出した。針は動いていた。管理局の定刻ではない方向へ、でも確かな方向へ。
ミオが待っている場所へ、針は向いていた。
すずなは扉を開けた。
廃止路線の薄暗い空気が、迎えてきた。
今夜、ハルカから返答が来る。
それを受けて、次を決める。
答えはまだ出ていないが、向かっている方向だけは、はっきりしていた。




