第十四章 帰る場所の名前
第八遅延区へ戻ったとき、ネムが待合室の入口に立っていた。
すずなとミオが廊下に現れると、ネムは走ってきた。ミオに抱きついた。小さな体で、力いっぱい抱きついた。
「戻ってきた」
ネムが、ミオの服を握ったまま言った。
「戻ってきた」
ミオも、同じ言葉を返した。
「ごめん、心配かけて」
「心配した。すごく心配した」
「ごめん」
「もう行かないで」
「……うん」
ミオはネムを抱きしめたまま、すずなを見た。すずなは何も言わなかった。ミオが頷いた。小さく、でも確かに頷いた。
第八の主任が廊下に出てきた。すずなたちが戻ってきたのを見て、少しだけ目を細めた。
「戻りましたね」
「はい」
「よかった」
それだけ言って、主任は部屋へ戻ろうとした。
「主任」
すずなが呼んだ。
「何ですか」
「ありがとうございました。場所を提供してもらって、セイに連絡を取ってもらって」
「たいしたことはしていません。ただ、あなたたちの話は聞く価値があると思いましたから」
「主任は、セイの言うことが正しいと思いますか?」
主任は少しの間、考えた。
「正しいと思います。定刻を守ることで、守られるものがある。セイはそれを知っています。間違っていない」
「それでも、話を聞いてくれましたか」
「正しいことが、すべきことだとは限りませんから」
すずなは、その言葉を聞いた。ハルカが言っていたことと、少し違う言葉だったが、同じ場所から出てきた言葉だった。
「昨夜、すずなさんが言っていたことと、同じですね。正しいことと、すべきことは、違う場合がある。私も、長くここで働いていると、そう思うようになります」
「主任も、引きずられたことがありますか」
「何度も。だから、今もここにいます」
主任は部屋へ戻った。
すずなはミオとネムを見た。二人はまだ廊下に立っていた。ネムはミオの手を握っている。
「中に入りましょう。今日のことを、整理します」
部屋の中で、すずなは状況を声に出して、整理した。一人で考えるより、声に出した方が正確に把握できると、最近わかってきた。
「セイは処理を保留しました。ただし、今後については改めて話す、と言っていました。つまり、まだ完全に決まったわけではありません」
「どれくらい時間があるの?」
ミオが尋ねた。
「わかりません。でも、今すぐではない。それだけは確かです」
「その時間に何をするか、ですね」
すずなは自分に言い聞かせるように言った。
「遅延証明書のことを、もう少し調べたいです」
「発行権限は本局にしかないと、第八の主任が言っていた。セイが認めない限り、発行できない」
キップが言った。
「セイを説得する方法を考えます」
「昨夜の話し合いでは、変わらなかった」
ミオが小さな声で言った。
「昨夜は、わたしが話しました。ミオも話しました。でも、セイの問いに答えられませんでした」
「一人の未来を残すために、世界中の時刻表を書き換えるのか、という問いだな」
キップが確認する。
「はい」
「答えは、見つかったか」
すずなは少し間を置いた。
「まだです」
「じゃあ、どうする」
「答えのないまま、もう一度セイと話します」
「答えのないままで、何を言うの?」
ミオが、不安そうに尋ねた。
「答えがないということを、正直に言います。わたしには、世界の時刻表と一人の存在を比べる方法がわかりません。でも、目の前にいるミオを消すことが、すべきことだとは思えません。それだけを言います」
キップはしばらく黙っていた。
「それで、セイの心が動くと思うか」
「思いません。でも、動かそうとするより、伝えることの方が大事だと思っています」
「なぜだ」
「伝えないまま終わりたくない。それだけです」
「すずな、一つ聞いていい」
「はい」
「さっき、終点未満駅でわたしを連れ戻してくれた。あのとき、すずなは怖かった?」
「怖かったです」
「どこが怖かった?」
「ミオが手を取ってくれないかもしれないと思いました。ミオが戻ってこないと決めていたら、わたしには止める手段がなかったので」
「手を取らなかったら、どうするつもりだった?」
すずなは少し考えた。
「そのままそこにいようと思いました」
「そこにいる?」
「ミオが出るまで、待つつもりでした。一緒にいれば、少しは変わるかもしれないと思って」
ミオはすずなを見ていた。
「怒らないの?」
「何に対して」
「わたしが勝手にいなくなったこと」
「怒っています」
「そうは見えない」
「感情を出さないようにしているので。でも、怒っています。心配しました。追いかけている間、ずっと心臓が速かった」
「心臓が速かった」
「走っていたせいもありますが、それだけではありませんでした」
「……ごめん」
「謝罪は受け取ります。ただ、次はもう少し、わたしに言ってほしいです」
「言ったら、止められた」
「止めます」
「だから言えなかった」
「それでも言ってほしかったです」
ミオは少しの間、黙っていた。
「……うん。言う。次は言う」
「ありがとうございます」
「ケンカしてる?」
ネムが尋ねた。
「していません」
すずなはすぐに答える。
「してた気がするけど」
ネムは首をかしげた。
「話し合いです」
「仲直りした?」
「仲直りというより、確認です」
「なんの確認?」
「次は一人でいなくならない、という確認です」
ネムはミオを見た。ミオはネムを見た。
「してた。ケンカ」
「「してません」」
すずなとミオが同時に言った。
キップが鼻を鳴らした。
「まあいい。今夜は休め。明日、また動く必要がある」
「キップ。明日、セイにもう一度会うことは、できますか」
「第八の主任を通じて連絡を取れば、可能かもしれない。ただし、セイが応じるかどうかは、わからない」
「応じなかった場合は」
「管理局本局へ、直接行くことになるだろう」
「本局へは、どう行きますか」
「中央列車で行ける。ただし、管理局の追跡を受けている状態で、中央列車に乗るのは難しい」
「方法を考えます」
「いつも方法は後で考えるな」
「状況が変わってから考えた方が、正確に判断できます」
キップはため息に近い音を出した。
夜が深まって、ネムが先に眠った。ミオも横になったが、眠れない様子だった。
すずなは窓の外を見ていた。第八遅延区の夜のホームが見える。第七とは違う照明の色で、少し白みがかった光だった。
「すずな」
ミオが呼んだ。
「はい」
「さっきの話の続きなんだけど」
「どの話ですか」
「セイの問い。一人の未来を残すために、世界中の時刻表を書き換えるのか」
「はい」
「わたし、少し考えた」
「どう考えましたか」
ミオはしばらく天井を見ていた。
「世界中の時刻表って、誰かの人生のことでしょ。その人たちの出会いとか、別れとか、選択とか」
「そうだと思います」
「わたしが消えることで、その人たちの時刻表が正しくなるとして。でも、時刻表が正しくなったとして、その人たちは幸せになるの?」
すずなは少し考えた。
「わかりません」
「わたしのいない世界で、その人たちが幸せになるなら、消えることが正しいかもしれない。でも、時刻表が正しくても、幸せになるとは限らないんじゃないかと思って」
「どういう意味ですか」
「ユキノさんは、正しい進路を選んだのに、悲しかった。時刻表通りに生きても、幸せになるとは限らない。だから。時刻表を書き換えることと、誰かの幸せを守ることは、イコールじゃないかもしれない」
すずなはその言葉を聞いた。ゆっくりと、頭の中で展開させた。
「ミオ」
「なに」
「それは、セイに言えますか」
「え?」
「今言ったことを、セイに言えますか。時刻表が正しくなることと、誰かの幸せが守られることは、同じではないかもしれない、ということを」
「言えるかどうか、わかんない。でも、考えたことは本当だから」
「本当のことなら、言えます」
「すずなが言えばいいんじゃないの」
「ミオが言う方が、意味があります。ミオは白紙駅で、ユキノさんのことをわたしより早く理解しました。正しいことと、苦しくないことは違う、と言いました。今夜の言葉も、そこから来ています。ミオが言うから、重さがあります」
ミオは少しの間、黙っていた。
「……すずなは、わたしを買いかぶりすぎだと思う」
「事実を言っています」
「一緒にいて、わたしの言葉を覚えてる」
「覚えています」
「なんで」
「覚えていたいから、です」
ミオはすずなを見た。しばらく見て、また天井を見た。
「すずなに言われると、言えそうな気がする」
「言えます」
「保証する?」
「言えると思います、に訂正します」
「正直だね」
「嘘をつくと」
「辻褄が合わなくなる、でしょ。もうそらで言える」
「何回言いましたか」
「数えてない。でも、もうすずなの口癖になってる」
「そうですか」
「うん。好きだよ、その口癖」
ミオはそう言って少し笑う。すずなは答えなかった。答えの代わりに、窓の外を見た。第八遅延区の夜のホームが見える。乗客はもういない。照明だけが白く、静かに灯っている。
「ミオ」
「なに」
「今夜は眠れそうですか」
「ちょっと難しい」
「何か考えてしまっていますか」
「うん。セイのこととか、明日のこととか」
「それは、わたしも同じです」
「すずなも眠れない?」
「少し難しいです」
「じゃあ、一緒に起きてよう」
「そういう誘い方をしますか」
「どんな誘い方をすればいいの」
「わかりません。経験がないので」
「わたしも経験ないよ」
ミオは微笑んだ。
「じゃあ、一緒にいよう。眠れるまで」
「はい」
すずなはミオの隣に座った。ミオが少し体を寄せた。すずなはそのまま動かなかった。
「すずな」
「はい」
「わたし、あの声を聞いてよかったと思う」
「どの声ですか」
「星屑の中で聞いた声。おかえり、って言ってくれた声」
「はい」
「あれを聞いて、思った。わたしは、帰りたい場所を持てるんだ、って」
「今は、どこが帰りたい場所ですか」
ミオは少しの間、考えた。
「ここ。すずなのそばが、帰りたい場所」
すずなはその言葉を聞いた。答えるべき言葉を探した。でも、言葉より先に、懐中時計がポケットの中で動いた。
針は、今夜も管理局の定刻を示さなかった。でも、どこへ向かうかははっきりしていた。ずっと前から、はっきりしていた。
「わたしも、ミオのそばが、帰りたい場所です」
ミオは何も言わなかった。
代わりに、少しだけ肩に頭を預けた。
すずなは動かなかった。そのままでいた。
ネムが眠っていた。キップが窓枠でしっぽを揺らしていた。
すずなとミオは、眠れないまま、でも静かに、夜の続きをそこにいた。
明日のことは、明日になったら考える。
窓の外に、第八遅延区の夜が続いていた。
どこかで列車が通る音がした。乗り遅れた人たちを乗せた列車が、今夜も走っている。定刻から外れた人たちが、それぞれの遅れを抱えて、それでも進んでいる。




