第十三章 消えた無賃乗車客
セイの問いに、その夜は答えが出なかった。
すずなは答えようとした。でも、言葉が出なかった。正しい答えが見つからなかったのではなく、この問いに対して、今夜言える言葉がなかった。言葉にする前に、もっと考える必要があると思った。
セイは答えを急かさなかった。
「今夜のところは、ここまでにしましょう。あなたたちの話は聞きました。私の立場は変わりません。ただし、今夜は処理を行いません」
「なぜですか?」
すずなは尋ねた。
「第八遅延区の主任から、話し合いの機会を与えるよう要請がありました。今夜はその要請に従います」
「次は、いつ話せますか」
「今後については、改めて話しましょう」
セイは静かに去った。音もなく、穏やかなままで。
残された三人と一匹は、しばらく誰も何も言わなかった。
ネムが先に言った。
「怖かった」
「怖かったですね」
すずなは同調した。
「でも、言えた。ミオお姉ちゃん、ちゃんと言えてた」
「言えた」
ミオは少し疲れた声で言った。
「言えたけど、変わらなかった」
「変わらなかったのは、今夜だけかもしれません」
「楽観的だね、すずな」
「楽観ではありません。可能性として言っています」
「違いがわかんない」
「楽観は根拠のない希望です。可能性は、ゼロではないという判断です」
ミオは疲れた笑い方だった。
「今夜は休みましょう。第八の主任が、部屋を貸してくれると言っていました」
第八の主任が用意してくれた部屋は、待合室の奥にあった。
小さな部屋だった。窓の外には、第八遅延区の白いホームが見える。第七遅延区よりも静かで、列車の音も遠かった。
ネムは布団に入ると、すぐに眠ってしまった。疲れていたのだと思う。キップは窓枠に上がり、外を見張るように丸くなった。
すずなはミオと並んで、しばらく何も言わずに座っていた。
「すずな」
「はい」
「セイの言ってたこと、間違ってないのかな」
「……わかりません」
「一人の未来を残すために、世界中の時刻表を書き換えるのか、って」
「はい」
「わたし、その問いに答えられなかった」
「わたしもです」
「答えられないなら、答えは出てるのかもしれない」
すずなはミオを見た。
ミオは窓の外を見ていた。白いホームの光が、横顔を薄く照らしている。輪郭が、いつもより少し淡く見えた。
「ミオ」
「大丈夫。今すぐ何かするわけじゃないよ」
「本当ですか」
「うん。今夜は休むんでしょ」
「はい」
その返事は、嘘ではなかったのだと思う。
少なくとも、そのときのミオは、本当にそうするつもりだったのだと思う。
夜が深くなった。
ネムの寝息だけが、小さく部屋に残った。すずなも横になったが、なかなか眠れなかった。隣でミオが起きている気配がした。けれど、声をかける言葉を見つけられないまま、いつの間にか意識が途切れた。
翌朝、ミオがいなかった。
すずなが目を覚ましたとき、隣にミオがいなかった。夜のうちに眠っていたネムはいた。キップは部屋の窓枠の上にいた。ミオだけがいなかった。
すずなはすぐに動いた。
「キップ。ミオは」
「早朝に出ていくのを見た。止めなかった。すずなを起こすべきだったかもしれないが」
「なぜ止めなかったんですか」
「止めていいのか、判断がつかなかった。ミオが自分で決めたことを、止める権利が吾輩にあるかどうか」
すずなはキップを見た。キップは正面を向いたまま、目を合わせなかった。
「どこへ行きましたか」
「第七遅延区の方向へ、廃止路線を戻っていった」
すずなは考えた。第七遅延区の方向。管理局がある方向。セイがいる方向。
それから、もう一つ。
分岐存在が、自分から消えようとするときに向かう場所。
「終点未満駅ですね」
「おそらく」
キップはすずなの肩へ移った。
「分岐存在が最後に向かう場所だ。管理局の処理を待たずに、自分で消えることができる」
「ミオはそれを知っていたんですか?」
「可能性はある。管理局の施設に長くいれば、断片的に情報が入る。ミオは賢い。拾い集めていたかもしれない」
すずなはネムを見た。ネムは目を覚ましていた。すずなの顔を見て、状況を察したように、少し目を細めた。
「ミオお姉ちゃん、いなくなった?」
「追いかけます」
「ワタシも行く」
「ネムはここにいてください」
「でも」
「第八の主任がいます。安全です。ミオを連れて戻ってきます」
ネムはすずなを見た。少し考えた。それから頷いた。
「絶対に連れて戻ってきて」
「約束します」
すずなはキップとともに部屋を出た。
廊下を駆け抜け、廃止路線へ入った。
薄暗い線路沿いの通路を進みながら、すずなは尋ねた。
「キップ」
走りながら、すずなは尋ねた。
「終点未満駅への行き方を知っていますか?」
「知っている。ただ、通常の路線からは行けない。分岐存在だけが自然に引き寄せられる場所だ」
「わたしたちは行けませんか」
「行けないわけではない。ただし、道がない。ミオを追っていけば、たどり着けるかもしれない」
「たどり着けるかもしれない、ということは」
「足跡がある。廃止路線の床の埃に、ミオの足跡が残っている。追える」
すずなは足跡を探しながら走った。薄い埃の上に、確かに足跡が残っていた。星屑貨物駅を通り過ぎ、さらに奥へ。通路を抜けた先ではなく、星屑貨物駅の倉庫の脇に、細い通路があった。すずなが昨日は気づかなかった通路だ。
「ここですか」
「ここだろう」
細い通路を進んだ。壁が近く、天井が低い。銀河の光も届かない、完全な暗闇だった。手を壁につきながら進んだ。
どれくらい歩いたか、わからなかった。時計を見ようとしたが、暗くて見えなかった。ただ、歩き続けた。
光が見えてきた。
前方に、薄い光がある。暖かい色ではなく、白に近い、冷たい光だった。
すずなは光に向かって進んだ。
通路が終わり、開けた場所に出た。
そこは、駅だった。
ホームがある。屋根がある。案内板がある。でも、時刻表がない。発着の記録がない。行き先の表示がない。ただ、ホームだけがある。
案内板には、一言だけ書いてあった。
終点未満。
「終点未満駅」
すずなは呟いた。
「そうだ。到着時刻が存在しない駅だ。ここへ来た者は、来たことにならない」
ホームを見た。
人影があった。
何人もの人影が、ホームの上にひっそりと立っていた。それぞれが少し透けていて、輪郭が曖昧だった。誰も動かない。誰も話さない。ただ、立っている。
消える直前の存在たちが、ここにいた。
そして、その中に、ミオがいた。
ホームの端の方に、ミオがいた。他の人影と同じように、少し透けていた。でも、まだ完全には透けていない。まだ、ミオだとわかる輪郭が残っていた。
「ミオ」
すずなは声に出した。
ミオが、振り返った。
表情が変わった。驚いた顔だった。そして、困った顔だった。
「なんで来たの?」
すずなはホームへ上がった。ミオに向かって歩いた。ミオは一歩後退した。
「来るって、思ってなかった」
「追いかけました」
「追いかけないで」
「追いかけます」
「ここまで来たら、すずなも出られなくなるかもしれないのに」
「そうなったら、そのときに考えます」
「そういうことを軽く言わないで」
ミオの声が少し強くなった。
「すずなには、ちゃんとした未来がある。管理局の記録にある、正式な未来が。それを壊してほしくない」
「わたしが決めることです」
「わたしのために壊れてほしくない」
「ミオのためだけではありません。わたしが、ミオのそばにいたいからです」
「それが同じことじゃないの」
「違います。わたしが選んでいるということが、違います」
ミオは動かなかった。
「なんでここへ来たんですか? 昨夜、セイと話して、何かが変わりましたか」
「変わってない。変わってないから、来た」
「どういう意味ですか」
「セイに言われたことを、ずっと考えてた。一人の未来を残すために、世界中の時刻表を書き換えるのか、って。答えが出なかった。すずなにも答えが出なかった。それって、答えが出ないってことだと思った」
「答えが出ないことは、ミオが消えるべきだということになりますか」
「違う。でも」
ミオは少し俯いた。
「すずなが管理局と対立して、キップが処分されて、それでも答えが出ないなら。わたしがここで終わりにすれば、すずなとキップは戻れる。ネムのことも、わたしがいなければ、少しは話が変わるかもしれない」
「変わりません」
「わかんないじゃん」
「わかります。ミオがいなくなっても、ネムは分岐存在です。状況は変わりません。そして、わたしとキップは、ミオのいない管理局に戻る気になりません」
「なんで」
「戻る理由がないから、です」
ミオは黙っていた。
「ミオ、昨夜、セイに言いましたね。消えた未来の中に、あなたを呼ぶ声があった、と」
「言った」
「おかえりと言う声があった、と」
「言った」
「その声は、ミオが帰る場所があったということです。ミオを待っている場所があったということです」
「でも、もうない。その未来は消えた」
「今ここにある場所があります。わたしがいます。キップがいます。ネムがいます。第八の主任がいます。夜食堂車の店主が、まだ残っていたんだね、と言いました。ミオが戻る場所は、ここにあります」
ミオは顔を上げた。
目が、少し赤かった。泣いていたのか、泣きそうなのか、すずなには判断できなかった。
「すずな」
「はい」
「わたし、ここで消えたくない」
「わかっています」
「でも、消えることが正しいのかもしれないって、ずっと思ってた。すずなが言ってくれることと、セイが言うことと、どっちが本当なのかわからなくて」
「どちらも本当かもしれません」
「え?」
「セイの言うことは、間違っていないかもしれません。定刻を守ることで、守られるものがある。それは本当だと思います。でも、それがすべきことかどうかは、別の問題です。わたしには、ミオを消すことがすべきことだとは、思えません」
「どうして言い切れるの」
「言い切れません。わかりません。でも、わからないことを理由に、ミオに消えてほしくない。それがわたしの答えです」
ミオは少し間を置いた。
「すずなの答えって。規則でも、正しさでも、証明でもないんだ」
「そうです」
「ただ、消えてほしくない、ってだけ」
「それだけです」
「それだけで、ここまで追いかけてきたの」
「それだけで追いかけてきました」
ミオは動かなかった。
ホームの他の人影たちが、ひっそりとそこにいた。消えることを待っている存在たちが、動かずに立っていた。その中で、ミオだけが、まだ完全には透けていなかった。
「すずな」
「はい」
「ここから、出られる?」
「出られます。来た道を戻ります」
「わたしも、戻れる?」
「一緒に戻ります」
ミオは少しだけ、目を閉じた。閉じて、また開けた。
「ネムは」
「第八にいます。待っています」
「キップは」
「ここにいる。無賃の娘が勝手に出歩くから、新人が困っている」
キップが、すずなの肩の上から言った。
「ちび車掌」
「うるさい」
「ありがとう」
「礼を言うな」
「言う」
ミオはそう言って、すずなを見た。
「行こう」
すずなは手を伸ばした。
ミオが手を取った。
触れた瞬間、ミオの輪郭が少し揺れた。でも、崩れなかった。薄れなかった。すずなの手を握って、ミオはそこにいた。
二人は歩き始めた。
ホームを渡って、通路へ。暗い通路を、手を繋いだまま歩いた。キップが前に進んで、道を示した。すずなはキップのあとについて歩いた。ミオはすずなの手を握って歩いた。
暗い通路を歩きながら、ミオが言った。
「すずな」
「はい」
「さっき、戻る場所があるって言ってた」
「言いました」
「わたしが戻る場所は、すずなのとこ?」
すずなは少し考えた。
「そうなりますか」
「なる?」
「なります」
「ちゃんと言ってよ」
「ミオが戻る場所は、わたしのそばです」
ミオは少しの間、黙っていた。
「そっか。じゃあ、戻る」
「戻ってください」
「戻るって言ってる」
「はい」
「手、離さないで」
「離しません」
暗い通路を、光に向かって歩いた。前方に、薄い光が見えてきた。今度は冷たい白ではなく、銀河の光の色をした、少しだけ温かい光だった。
通路を抜けると、星屑貨物駅の倉庫が見えた。倉庫の中に、星屑の光が漂っていた。ミオを待っていた誰かの声があった場所が、近くにある。
ミオはすずなの手を握ったまま、倉庫を見た。
「また来れるかな」
「来られると思います」
「そのとき、また一緒に来てくれる?」
「来ます」
「約束?」
「約束します」
ミオは頷いた。それから、前を向いた。廃止路線を、来た道を戻る方向へ。
「行こう。ネムが待ってる」
ミオは言う。
「はい」
ミオたちは、廃止路線を歩き始めた。
すずなはミオの手を握ったまま歩いた。ミオの手は少し冷たかったが、確かにあった。輪郭は薄いが、ここにいる。
懐中時計がポケットの中で動いていた。
管理局の定刻ではない方向へ、でも確かに向かっている方向へ。
廃止路線の天窓から、銀河の光が差し込んでいた。
その光の中を、すずなとミオは歩いた。手を繋いで、キップのあとを追って、ネムが待つ場所へ向かって。
問いの答えは、まだ出ていなかった。セイの問いに対する答えも、管理局との対立をどう終わらせるかも、まだわからなかった。
ミオがここにいる。手を握っている。それだけが、今夜の答えだった。




