第十二章 定刻を守る人たち
第八遅延区は、第七とは空気が違った。
ホームの照明が白く、管理局の建物の壁が厚い。案内板の字体が少し古く、時刻表の表記も第七とは違う形式を使っていた。古い区画、とキップが言っていた通りだった。長い時間をかけて積み重なったものが、壁にも床にも染み込んでいる感じがした。
入口の近くに、駅員が一人いた。
五十代か六十代の男性で、制服は第七と同じ管理局のものだが、袖の章が違う。第八遅延区の所属を示す章だ。すずなが扉から出てきたのを見て、少し目を細めた。
「第七遅延区の者ですか?」
「はい。駅員見習いの星見すずなです」
「連絡は受けていません」
「急な事情があって、こちらへ来ました。主任の方にお話を聞いてもらえますか」
駅員は少しの間、すずなを見た。それからミオを見て、ネムを見て、キップを見た。
「こちらへ」
断らなかった。すずなはそれを、良い兆候だと思った。
通された部屋は、第七の主任室より少し広かった。窓が大きく、第八遅延区のホームが見える。ホームには乗客が何人かいた。第七とは少し違う乗客の様子だった。第七の乗客はどこか遠い目をしていることが多いが、ここの乗客は、少し違う。疲れてはいるが、前を向いている乗客が多い気がした。
主任はすでに部屋にいた。
六十代の女性だった。白髪で、顔に深い皺がある。目は穏やかだが、見る力がある目をしていた。制服の着こなしはハルカほど完璧ではないが、長く着込んだ人の自然なくたびれ方をしていた。
「第七の見習いさんですね。どうぞ、座ってください」
「ありがとうございます」
「お名前は聞きましたが、改めて」
「星見すずなです。こちらはミオ、ネム、そしてキップです」
主任はミオを見て、ネムを見て、目を細めた。
「分岐存在ですね」
すずなは驚かなかった。ある程度、見抜かれると思っていた。
「はい」
「二人とも」
「はい」
主任はしばらく、ミオとネムを見ていた。
「第七の廃止路線から来ましたか」
「はい」
「烏丸セイが第七に来ている。あなたたちを探しているでしょう」
「知っています」
「ここへ来た理由は?」
「話を聞いてもらえる方を探していました。キップから、第八の主任なら、話が通じる可能性があると聞きました」
すずなが伝えると、主任はキップを見た。キップはすずなの肩の上で主任を見返した。
「久しぶりだな、補助車掌」
「お久しぶりです。以前、この路線でお世話になりました」
キップはハルカに会ったときと同じく、丁寧語で挨拶を返した。
「覚えていますよ。真面目な車掌でした」
「真面目すぎたかもしれません」
「そうかもしれないね」
主任は微笑んだ。それから、すずなへ視線を戻した。
「話を聞きましょう。ただし、私が何かを約束できるとは思わないでください」
「わかっています」
すずなは話した。
ミオが貨物車両にいたこと、懐中時計が止まったこと、管理局の記録にミオが存在しないこと。旧記録書庫で調べた消滅確認リスト、分岐存在の処理方針、ネムが休眠処置をかけられていたこと。星屑貨物駅でミオが見つけた光の景色、ミオを待っていた誰かの声。
主任は黙って聞いていた。途中で何も言わなかった。
すずなが話し終えると、しばらく沈黙があった。
「よく動きましたね」
「動かなければならなかったので」
「それだけではないでしょう」
主任はミオを見た。
「この子のために動いたんでしょう」
「はい」
「正直ですね」
「嘘をつくと、あとで辻褄が合わなくなるので」
主任はちょっとだけ笑った。
「ここへ来て、何をしてほしいんですか」
「時間を稼ぎたいです。セイが来る前に、何か方法を見つけたい。ミオとネムを消滅処理させない方法を」
「方法に、見当はありますか」
「一つだけ、考えています」
「聞かせてください」
「管理局の規則に、遅延証明書という制度があります」
主任の表情が、少し動いた。
「知っていますか」
すずなは尋ねた。
「知っています。古い制度です。ほとんど使われていない」
「定刻から外れた存在を、一時的に世界へ残すための証明書です。発行には、誰かがその遅延の責任を引き受ける必要がある」
「その通りです」
「責任を引き受ければ、分岐存在を合法的に残すことができますか?」
主任はしばらく考えた。
「理論上は、そうなります。ただし、遅延証明書を発行できる権限は、本局にしかありません。そして、烏丸セイが発行を認めるとは思えない」
「なぜですか」
「セイは、ミオさんを不要な分岐と呼ぶでしょう。遅延証明書は、存在を認めることが前提の制度です。不要と判断した存在に対して、証明書を出す理由がない」
「説得できますか」
「セイを、ですか」
主任は少しだけ首を横に振った。
「難しい。あの人は正しいと思ったことを曲げない。悪意がないだけに、余計に」
ミオが口を開いた。
「どれくらい難しいんですか?」
主任はミオを見た。
「あなたが話せば、少しは違うかもしれない」
「わたしが?」
「セイは、分岐存在を処理対象として扱います。でも、目の前に実際にいる存在と話すのは、また別のことかもしれない。保証はできません。ただ、処理の書類より、あなた自身の方が、伝わるものがある可能性はあります」
「会って、話す、ってこと?」
「そういうことになります」
ミオはすずなを見た。すずなはミオを見た。
「どう思いますか?」
すずなは尋ねた。
「怖い」
ミオは正直な声だった。
「でも、逃げ続けるのも、なんか違う気がしてた」
「話すことで、どうなるかわかりません」
「わかってる。でも、すずなが言ってたじゃん。伝えずに終わりたくない、って」
「言いました」
「わたしも、そう思う。消えるとしても、消える前に、ちゃんと言いたいことを言いたい」
「消えません。消えさせません」
「でも、もし」
「もし、でも」
二人は少しの間、見合っていた。主任が、穏やかに見ていた。
「わかった。会う。セイに会う」
ミオは伝えた。
「今夜、ここへ来るように、セイに連絡を入れることはできます。中立の場として、第八遅延区を使ってもらう」
主任は言う。
「そうしてもらえますか」
「ただし、私が保証できることは、場所を提供することだけです。結果は、あなたたちが出すものです」
「わかっています。ありがとうございます」
すずなは礼を言った。
主任は立ち上がり、端末に向かった。
夕方から夜になるあいだ、すずなたちは第八遅延区の小さな待合室で待った。
その時間に、すずなはホームを見た。
第八遅延区の乗客たちが、ホームで待っていた。列車を待っている乗客、誰かを見送っている乗客、一人でベンチに座っている乗客。それぞれが、それぞれの遅れを抱えていた。
すずなは彼らを見ながら、キップが言っていたことを思い出した。一人の遅れが、別の誰かの出会いを変え、別の誰かの選択を変える。規則はその連鎖を制御するためにある。
それは本当のことだと、すずなは思った。
ホームの端に、老いた男性がいた。誰かを待っているような立ち方をしていた。隣に若い女性がいた。二人は知り合いではないようだったが、同じ列車を待っていた。何かの拍子に目が合って、少し言葉を交わした。それだけのことだったが、二人の表情が少し変わった。
それも、定刻があって成立する場面だった。この二人がこのホームで同じ時間に立っているのは、何かの積み重ねの結果だ。その積み重ねが乱れれば、この場面は起きなかった。
すずなはそれを、否定したくなかった。
ミオが隣に来た。
「見てる?」
「はい」
「何を」
「乗客を。定刻があって成立することを」
「それって、セイが言うことと、同じじゃないの?」
「同じかもしれません。定刻を守ることで、守られるものがある。それは本当だと思います」
「じゃあ、わたしが消えるのが正しいってこと?」
「違います。正しいことと、すべきことは、違う場合があります。定刻を守ることが正しくても、あなたを消すことがすべきことかどうかは、また別の問題です」
「どう違うの?」
「わかりません。でも、ハルカ主任が言っていました。引きずられたことがある、と。規則の側にいる人間でも、規則だけでは答えが出ない場面があることを、知っていた」
「ハルカさんが」
「はい。だから、答えは一つではないと思っています。セイの答えと、わたしの答えが違っても、どちらかが完全に間違いとは言い切れない」
「じゃあ、どうするの」
「伝えます。わたしの答えを、伝えます。変えようとするのではなく、伝える」
ミオはしばらく前を見ていた。ホームの乗客たちを見ていた。
「すずな、ずっと考えてるね」
「考えないと、動けないので」
「ちゃんと考えてる人だよ、すずなは」
「そうですか」
「うん。なんか、見てて安心する」
「ネムも同じことを言っていました」
「ネムは正しい」
ミオは少し笑った。それから、真面目な顔に戻った。
「すずな。今夜、セイに何を言うか、決まってる?」
「だいたいは」
「聞かせて」
「ミオが存在していたという事実を伝えます。消えた未来の中に、ミオを待っていた人がいた。ミオには覚えている記憶がある。スープの味、銀河の景色、夜食堂車でまた飲みたいと思ったこと。消滅確認リストに名前があっても、今ここにいる。それが事実だと、伝えます」
「それで、セイの気持ちが変わると思う?」
「思いません。でも、伝えることで、何かが変わる可能性は、ゼロではありません」
「すずな、正直すぎる」
「嘘をついても」
「辻褄が合わなくなる、でしょ。知ってる」
「何回言いましたか」
「すごく言ってる。でも、それがすずなだから、いい」
ミオはそう言って笑う。
ネムが待合室から出てきた。
「セイって人、来た?」
「まだです」
「こわい?」
「少し」
「ワタシもこわい。でも、ミオお姉ちゃんとすずながいるから、大丈夫」
「わたしたちがいれば、大丈夫ですか」
「うん。二人がいると、大丈夫な気がする」
すずなはネムを見た。八歳の外見をした少女が、消えた町の記憶を抱えて、大丈夫と言っている。その言葉の重さを、すずなは受け止めた。
大丈夫にしなければならない。大丈夫にするために、今夜がある。
「来た」
キップが伝えた。
ホームの入口に、人影があった。
穏やかな顔をした、年齢のわからない人物だった。白に近い灰色の制服を着て、管理局の上層部を示す章をつけている。歩き方が静かで、足音だけが抜け落ちているようだった。
その人物は、ゆっくりとこちらへ向かってきた。
すずなは席を離れた。ミオもその隣に並ぶ。ネムは少し遅れて、すずなのそばに身を寄せた。キップはすずなの肩に飛び乗った。
灰色の制服の人物は、すずなたちの前で立ち止まった。
穏やかな目が、まずミオに向けられた。次にネムへ移り、最後にすずなのところで止まった。
「星見すずなさんですね」
「はい」
「ご苦労様でした。ずいぶん、遠くまで来ましたね」
「烏丸セイさんですね」
すずなは尋ねた。
「はい。本局記録管理部、局長代理の烏丸セイです」
「話を聞いてもらえますか」
「それが目的ですから。ただし、私の答えは、最初から変わりません」
「わかっています。それでも、伝えたいことがあります」
セイは少しだけ、目を細めた。
「どうぞ」
すずなは息を吸った。
ホームの乗客たちが、それぞれの時間を生きていた。定刻通りに来る列車を待って、乗り遅れた時間を抱えて、それでもここに立っていた。
すずなは前を向いた。
「灯野ミオは、消えた未来の中にいました。消滅確認リストに名前があります。でも、今ここにいます。ミオを待っていた人が、消えた未来の中にいました。ミオには、スープの味の記憶があります。銀河の景色の記憶があります。夜食堂車でまた飲みたいと思った夜があります」
セイは黙って聞いていた。
「十和田ネムは、流星野という町を覚えています。橋の上から見た銀河を覚えています。お父さんの変な歌を覚えています。その記憶が残っているということは、確かにそこにいたということです」
セイはまだ黙っていた。
「管理局の記録では、二人は消滅済みです。でも、記録は事実を示しますが、正しさを示すわけではありません。二人が今ここにいることの方が、わたしには事実として見えます」
すずなは一度だけ、ミオを見た。ミオが頷いた。
「ミオ自身が、話したいことがあります」
セイの視線がミオに移った。
ミオは少しだけ間を置いた。それから、口を開いた。
「わたし、消えることを何回か考えた。すずなが大変な思いをするから、自分から消えようとも思った。でも、消えたくなかった。星屑の中に、わたしを待ってた人がいたことを知って、もっと消えたくなくなった」
セイは黙っていた。
「わたしは不要な分岐かもしれない。でも、その分岐の中に、わたしを呼ぶ声があった。おかえりって言う声があった。そういう未来が、あった。それを全部なかったことにするのが、正しいことなの?」
セイはしばらく、ミオを見ていた。
それから、穏やかな声で言った。
「灯野ミオさん」
「はい」
「一人の未来を残すために、世界中の時刻表を書き換えるのですか」
すずなはその言葉を受け取った。
答えは、まだ出ていなかった。




