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新入社員の私、実は課長の妻です 〜会社では冷たい上司、家では私に甘える旦那様〜  作者: ちょこまろ


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第3話 外した指輪と、家でだけ戻る証

会社では外している結婚指輪。


それは、小春が「課長の妻」ではなく、一人の新入社員として認められるために二人で決めたことでした。


けれど、指輪を外すことと、夫婦であることを隠す寂しさは別の話。


会社では「高瀬さん」と「黒沢課長」。


家に帰れば、「小春」と「誠司さん」。


第3話「外した指輪と、家でだけ戻る証」。


二人だけの甘い時間をお楽しみください。

「今日、瀬川さんに指輪の痕を見られそうになりました」


 帰宅して玄関の扉を閉めた瞬間、私はそう言った。


 誠司さんは靴を脱ぎかけた姿勢で固まった。


「指輪の痕?」


「はい。会社では外しているのに、薬指に少し跡が残っていて」


 私は左手を見せた。


 誠司さんの視線が、私の薬指に落ちる。


 家に帰ったらすぐにつける指輪。

 でも会社では外す指輪。


 それは、私たちが決めたことだった。


 社内で結婚を隠すため。

 私が新入社員として公平に見られるため。

 誠司さんが上司として私を特別扱いしないため。


 全部、分かっている。


 でも、今の誠司さんの顔を見ると、少し胸が痛くなった。


「会社では外すと決めたのは俺だ」


「はい」


「でも、君が俺の妻だという証を隠させているのは、少し堪える」


 静かな声だった。


 私は言葉に詰まった。


 誠司さんは私の左手をそっと取った。

 そして薬指を親指で撫でた。


「小春」


「はい」


「嫌じゃないか」


「何がですか」


「俺の妻であることを、会社で隠すこと」


 私は少し考えてから、首を横に振った。


「嫌ではないです」


「本当に?」


「はい。だって、私がそうしたいんです」


 私はまっすぐ誠司さんを見た。


「私は、ちゃんと高瀬小春として働きたいです。課長の妻だからじゃなくて、社長の姪だからじゃなくて、新入社員として認められたいんです」


「ああ」


「でも」


 私は少しだけ笑った。


「家に帰ったら、すぐ指輪をつけます」


 誠司さんの目が少し揺れた。


「会社では外しても、私は誠司さんの妻です」


「小春」


「それは、隠しても変わりません」


 誠司さんは私の左手を持ったまま、しばらく黙っていた。


 そして、玄関脇の小さなケースから指輪を取り出した。

 毎朝、会社へ行く前に私が外して入れているケースだ。


 誠司さんは、私の薬指にそっと指輪を戻してくれた。


 銀色の輪が、指に収まる。


 たったそれだけなのに、胸の奥がじんわり温かくなった。


「ただいま、ですね」


 私が言うと、誠司さんは小さく笑った。


「ああ。おかえり」


 ずるい。

 その声はずるい。


 会社で指輪を外す切なさまで、家で甘さに変えてくる。


 この人、本当に私の心の扱いが上手い。

 いや、家では靴下を脱ぎっぱなしにするけれど。


「それで、誠司さん」


「はい」


「会社では、私は高瀬さんです」


「分かっている」


「新入社員です」


「分かっている」


「妻ではありません」


 誠司さんはそこで少しだけ黙った。


「……それは分かっているが、難しい」


 その言い方が少し拗ねていて、私は思わず笑いそうになった。


 だめ。

 ここで笑ったら負ける。

 妻としての威厳がなくなる。


「難しくても、頑張ってください。私も頑張ってます」


「小春はよく頑張っている」


「そうやって急に甘やかさないでください」


「家だからいいだろう」


 誠司さんはそう言って、私の手を取った。


 大きな手。

 会社では資料を捌き、部下に指示を出す手。

 家では、私の手をそっと包む手。


「初日も今日も、緊張しただろう」


「しました」


「疲れたか」


「疲れました」


「よく頑張ったな」


 その一言で、胸の奥がほどけた。


 ずるい。

 仕事では課長として注意してくるくせに、家ではこうやって全部包んでくる。

 これでは私が強く出られない。


「……誠司さんも、お疲れさまでした」


「ああ」


「今日は何が食べたいですか」


「小春が作るものなら何でも」


「そういう答えが一番困ります」


「本音だ」


「本音でも困ります」


 私はキッチンへ向かいながら、振り返った。


「あと、靴下」


「靴下?」


「脱ぎっぱなしです」


 玄関に、誠司さんの黒い靴下が片方だけ置かれている。


 会社では完璧な課長。

 家では靴下を脱ぎっぱなしにする旦那。


 このギャップ、どうにかしてほしい。

 いや、少し可愛いと思っている自分もどうにかしてほしい。


「すぐ片付ける」


「お願いします」


 誠司さんは素直に靴下を拾った。


 大型犬。

 やっぱり大型犬。


 夕食は、鮭の塩焼きと味噌汁、きんぴらごぼう。

 特別な料理ではないけれど、誠司さんはいつも丁寧に食べてくれる。


「おいしい」


「ありがとうございます」


「味噌汁が落ち着く」


「昨日も言ってました」


「毎日思っている」


 こういうことを真顔で言うから困る。


 私は照れをごまかすように、味噌汁を飲んだ。


「会社、どうだ」


「まだ二日ですけど、真帆さんが優しいです。瀬川さんも親切です」


 瀬川さんの名前を出した瞬間、誠司さんの箸がわずかに止まった。


 分かりやすい。

 夫、分かりやすすぎる。


「瀬川は仕事が早い」


「はい。今日も色々教えてくれました」


「そうか」


「嫉妬しています?」


「していない」


「箸、止まりました」


「魚の骨を見ていた」


「今の切り身、骨ほとんどないですよ」


「……」


 黙った。

 課長、沈黙。


 私は思わず笑ってしまった。


「誠司さん、会社で嫉妬しないでくださいね」


「努力する」


「努力じゃなくて、しないでください」


「善処する」


「政治家みたいな返事しないでください」


 誠司さんが小さく笑った。


 家では、この人はよく笑う。

 会社ではほとんど見せない顔。


 その顔を私だけが知っていると思うと、胸の奥が少しくすぐったくなる。


「小春」


「はい」


「会社では、俺は課長でいる」


 急に真面目な声になった。


「うん」


「君を特別扱いしない。必要なら注意もする」


「分かっています」


「でも家では」


 誠司さんは少し間を置いた。


「君の夫でいたい」


 まっすぐすぎる言葉に、私は返事に困った。


 この人は不器用だ。

 仕事では誰よりも器用に立ち回るのに、私に対してはとても不器用で、真っ直ぐだ。


「……それは、いいです」


「いいのか」


「家では、私の旦那さんでいてください」


 誠司さんの表情が柔らかくなる。


「小春」


「ただし」


「ただし?」


「靴下は洗濯かごです」


「はい」


 私は満足して頷いた。


 食後、誠司さんはソファに座ると、当然のように私の隣を空けた。

 私は洗い物を終えてから、その隣に座る。


 すると、誠司さんは少しだけ体を寄せてきた。


「甘えてます?」


「少し」


「課長の威厳は?」


「家に置いてきた」


「会社から持って帰ってきてください」


「重い」


「そんな荷物扱いですか」


 誠司さんは私の肩に額を寄せた。


 温かい。

 重い。

 でも、嫌じゃない。


「小春」


「はい」


「俺は、会社では君を特別扱いしない」


「分かっています」


「でも、家では特別扱いする」


 私は誠司さんの横顔を見た。


「それは、ずるいです」


「ずるくてもいい」


 誠司さんは、少しだけ困ったように笑った。


「君は俺の妻だから」


 胸の奥が甘く痛む。


「……じゃあ、家ではいっぱい特別扱いしてください」


「ああ」


「ただし、靴下は洗濯かごです」


「今日はもう入れた」


「成長していますね」


「小春に育てられているからな」


 私は思わず笑った。


 カカア天下というほど偉そうではない。

 でも、たぶん私はこの人を少しだけ手のひらで転がしている。


 そしてこの人も、それを分かっていて嬉しそうにしている。


 翌朝、私は会社へ向かう前に、玄関で指輪を外した。


 一瞬だけ、指が寂しくなる。


 でも、ケースに入れる時、誠司さんがそっと言った。


「行ってらっしゃい、高瀬さん」


 会社用の呼び方なのに、声は甘かった。


「行ってきます、黒沢課長」


 私もそう返す。


 会社では新入社員。

 家では妻。


 どちらの私も、少しずつ成長していけばいい。


 そう思っていた矢先だった。


 会社に着くと、瀬川さんが私に声をかけた。


「高瀬さん、今日の昼、よかったら一緒にどう?」


「え?」


 その声が、思ったより近かった。


 そしてその瞬間、課長席の方で黒沢課長のペンが止まった。


 あ、これは。


 まずい。


 夫の嫉妬スイッチが、静かに入った音がした。

第3話をお読みいただき、ありがとうございます。


会社では結婚指輪を外す小春。


けれど家に帰れば、誠司がその指輪をもう一度、小春の薬指に戻してくれます。


「会社では外しても、私は誠司さんの妻です」


そして誠司も、


「俺は、会社では君を特別扱いしない」

「でも、家では特別扱いする」


と、会社と家での距離をきちんと分けようとします。


……ただし。


夫としての嫉妬まで、完全に会社へ置いてくることはできなかったようです。


翌朝、小春が瀬川に昼食へ誘われた瞬間――課長席でペンが止まりました。


次話「新人の私を、旦那は特別扱いしない」。


新入社員として初めて大きくつまずく小春と、上司として向き合う誠司にもご注目ください。

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