表を壊さず救う
火を入れて間もなく、英雄の間に煙が戻ってきた。
祝火炉の上へ昇るはずの煙が、炉口から薄く室内へ押し返される。
「止めろ」
ガレスの声で、立ち会っていた係員がすぐ火を落とした。
扉も窓も開けたままの試し焚きだった。それでも、煙の流れがおかしいことは誰の目にも分かった。
カイは廊下へ出て、息を整えた。
昨夜考えた仮説は当たっていた。
だが、これだけでは足りない。
「煙道を全部見られますか」
呼ばれていた修繕職人が、屋根と壁を調べ始めた。
ほどなく、原因は見つかった。
冬前の屋根工事で、煙道の出口近くが新しい部材に塞がれていた。さらに壁側の点検口まで板で覆われ、煙の逃げ道がほとんど残っていない。
改修後、一度も火を入れていなかったせいで発見が遅れた。
閉め切った部屋で、夜通し火を焚く。
優勝者だけが入る。
そして翌朝までに死ぬ。
薄灰色の一文と、ようやく現実がつながった。
「大会を止めるか?」
ガレスが聞いた。
カイは首を振った。
「止める必要はありません」
「言い切るな」
「原因が分かったからです」
大会そのものが危険なのではない。
危険なのは、優勝したあとに使う部屋だ。
なら、壊すべきなのは大会ではなく、死ぬ条件の方だった。
「煙道を直して、もう一度試します。正常なら大会は予定どおり。英雄の間も使えます」
「間に合わなかったら?」
「そのときは儀式だけ止めます」
ガレスが少しだけ目を細めた。
「勝者を決めるところまでは変えないのか」
「白碑に出たからじゃありません。大会には大会の意味があります。危険な部分だけ取り除けばいい」
自分で口にしてから、カイは少し驚いた。
灰狼の時は、とにかく隊長を死なせないことで精一杯だった。
今回は違う。
起こるはずの出来事まで壊す必要はない。
残すべきものを残して、死ぬはずだった結果だけを変える。
それでいい。
*
修繕は昼前まで続いた。
塞がれていた箇所が開かれ、工事前と同じ排気経路が仮に復旧される。
二度目の試し焚きでは、煙は素直に煙道へ吸われた。
職人が別の方法でも確認し、係員が安全を認める。
会場責任者が、カイへ確認書を差し出した。
「安全になった、と書けるか?」
カイは筆を取らなかった。
「確認できたのは、煙が正常に抜けることだけです。明日の朝まで何も起きないとは書けません」
「そこまで慎重にするのか」
「白碑は、対策した後の未来までは教えてくれませんから」
代わりに、夜間も係員が外から異常の有無を確かめることを提案した。
ガレスが横で小さく笑う。
「都合のいいところだけ予言者にならないんだな」
「書記なので。確認できないことは書けません」
そこでようやく、ガレスが腕を組んだ。
「これで一つ潰れたな」
「まだです」
「まだ?」
「優勝者が明日の朝、生きて部屋を出るまでは」
ガレスは呆れた顔をした。
「慎重すぎるだろ」
「死ぬって書いてあったんです。慎重にもなります」
「それもそうか」
午後、武術選定会は予定どおり始まった。
カイは試合を観客席の端から眺めた。
剣がぶつかる音が響くたび、周囲から歓声が上がる。
勝敗そのものにカイの出番はない。
それでいい。
日が傾く頃、最後の試合が終わった。
審判が勝者の腕を上げる。
大きな歓声が武術場を揺らした。
「王国武術選定会で優勝者が決まる」
白碑に出た一文は、そのまま現実になった。
次は、その下だ。
*
夜。
優勝者は慣例どおり英雄の間へ入った。
誓いの火が灯され、扉が閉じる。
カイとガレスは廊下に残った。
「帰らないのか」
「帰れると思います?」
「思わないな」
ガレスも壁へ背を預けた。
「俺も残る」
「警備だからですか」
「半分はな」
残り半分を聞く前に、ガレスは目を閉じた。
夜は長かった。
途中、係員が何度か外から異常がないか確かめた。
それでもカイは眠れなかった。
白碑は対策後の未来を教えてくれない。
原因を間違えていた可能性もある。
別の死因が残っている可能性もある。
できるのは、考えて、調べて、選んだ結果を待つことだけだった。
やがて高い窓から朝の光が差した。
扉が開く。
優勝者が、自分の足で廊下へ出てきた。
「おはようございます」
眠そうな声だった。
それだけだった。
倒れない。
苦しみもしない。
生きている。
カイは肺の奥に残っていた息を、ようやく吐いた。
表の予言は当たった。
その後の死だけが、起きなかった。
偶然ではない。
灰狼に続いて二度目だ。
予言された出来事を残したまま、その先にある破滅だけを変えられる。
これが、自分の勝ち方なのだ。
「カイ」
呼ばれて、顔を上げた。
一瞬、誰のことか分からなかった。
ガレスはこれまで、公務中のカイをずっと「書記殿」と呼んでいた。
「次に、あの薄い文字が見えたら」
ガレスが言う。
「最初から俺を呼べ」
「信じたんですか」
「予言はまだ信じてない」
即答だった。
「でも、お前が見つけた危険は二度、人を救った。そこは信じる」
ガレスは廊下の先へ歩き出し、振り返った。
「一人で調べるより、騎士がいた方が楽だろ」
正書官になって、静かな書庫で暮らす。
その予定からは、少しずつ遠ざかっている気がした。
なのにカイは、断る理由を思いつかなかった。
「次も頼みます、ガレス」
「任せろ」
薄灰色の一文は、まだカイにしか見えない。
けれど次にそれが現れた時、もう一人で動く必要はなかった。




