黒い個体
薬ができた時、討伐隊はもう王都を出ていた。
「もう一度言うよ。効く保証はない」
老薬師は、小さな革袋をカイへ押しつけた。
中には濃い茶色の粉薬が入っている。
「昔の処方を記録どおりに作っただけだ。今回の灰狼が本当に毒を持っているかも分からない」
「分かってます」
だからこそ、現物を見る必要がある。
薄灰色の一文を信じたいわけじゃない。間違っているなら、その方がいい。
ただ、正しかった時に何もしていなかったとは、もう言いたくなかった。
カイは薬を懐へ入れ、神殿へ戻らず北門へ向かった。
騎士団の後発便が、食料と治療道具を積んで北街道へ出るところだった。討伐予言に関する確認記録を届けると説明し、荷台へ乗せてもらう。
馬車が止まったのは、街道沿いの古い中継所だった。
騎士たちはすでに武器を手にしている。
間に合った。
そう思った直後、森の奥から警笛が鳴った。
「灰狼だ!」
「本当に来たのか、書記殿」
ガレスが駆け寄ってくる。
「薬ができました」
「効くのか?」
「保証はありません」
「最高だな」
困り切った声だった。
カイは薬と古い記録を治療役へ押しつけた。
黒く変色した舌と牙根。浅い傷。戦闘後に急に乱れる呼吸と脈。
「全部そろった時だけ、これを使ってください」
治療役が記録を読み、薬袋を見る。
「そこまで一致して、それでも効かなかったら?」
「その時は、俺の調べ方が間違ってます」
ガレスが横から言った。
「症状が出るまでは保険だ。それでいいな」
誰も予言を信じたわけじゃない。
それで十分だった。
もう一度、警笛が鳴った。
*
カイは治療役と後方へ下がった。
戦えない人間が前へ出れば、助けるどころか邪魔になる。
灰色の影が森から飛び出す。
騎士たちは盾で進路を狭め、槍で群れを街道側へ追い込んだ。
一頭。
二頭。
その奥に、口元だけ色の違う個体がいる。
黒い。
「ガレス!」
振り向いた騎士へ叫ぶ。
「右奥! 口が黒い奴です!」
ガレスの視線が走る。
「黒い個体に噛まれるな!」
声が飛んだ。
だが乱戦の中、黒い灰狼が盾の隙間を抜けた。
隊長が横から斬りつける。
刃は肩を裂いたが、獣は倒れない。身をひねった牙が、隊長の左腕へ食い込んだ。
すぐに振り払われる。
「浅い! 続けろ!」
隊長は包帯だけ巻かせ、再び前へ出た。
カイの喉が乾いた。
止めるべきか。
いや。
予言にあるのは討伐終了後の死だ。ここで隊長を無理に下げ、隊列を崩せば別の被害が出る。
今やるべきなのは、傷を見失わないことだ。
黒い個体をガレスが仕留めた。
残った灰狼も次々に倒れる。
最後の一頭が地面へ崩れた。
騎士たちから歓声が上がる。
王都騎士団は北街道の灰狼を討伐する。
表の予言は成立した。
カイは隊長だけを見ていた。
*
「大した傷じゃない」
隊長は自分の足で歩いていた。
部下へ撤収の指示まで出している。
ガレスがカイの横へ来た。
「元気だぞ」
「まだです」
「何を待ってる?」
答えたくなかった。
人が倒れる瞬間だ。
そう思った時、隊長の足が止まった。
胸元を押さえる。
一度、大きく息を吸った。
次の呼吸が続かない。
「隊長?」
膝が崩れた。
カイはもう走っていた。
治療役が脈を取る。
「速い……いや、乱れてる」
「噛まれた傷を」
包帯を外す。深くはない。
カイは倒れた黒い灰狼を見る。
舌。
牙の根元。
古い報告書と同じ黒変。
「薬を使ってください」
治療役が一瞬ためらった。
「効く保証はないぞ」
「症状も個体も記録と一致してます。このまま他に打てる手は?」
治療役は答えなかった。
代わりに薬袋を開いた。
粉薬を水へ溶かし、隊長へ飲ませる。
すぐには変わらない。
むしろ一度、呼吸がさらに浅くなった。
カイの手に汗がにじむ。
調べた。
間に合わせた。
それでも間違っていたら、もうできることはない。
隊長が激しく咳き込んだ。
一度。
二度。
そして、長く息を吸った。
治療役が脈を取る。
「……戻ってきた」
その場の空気が緩んだ。
だがカイはまだ動けなかった。
裏の一文は、討伐終了から一刻以内と書いていた。
治療役は何度か脈を確かめたあと、空を見上げた。
「もう一刻は過ぎた」
隊長は生きていた。
薄灰色の一文が、初めて外れた。
いや。
違う。
外れたんじゃない。
変えた。
「書記殿」
ガレスが呼ぶ。
「信じるんですか」
「予言の話は、まだ分からん」
ガレスは隊長と、治療役の手に残る薬袋を見比べた。
「でも、お前が薬を持ってこなきゃ、今ここで打てる手はなかった」
治療役も小さく頷いた。
「次に何か見たら、先に俺へ言え」
前に聞かれた「証拠は?」とは、少しだけ響きが違っていた。
カイは頷いた。
これで一つだけ分かった。
白碑の下に見える結果は、絶対じゃない。
*
王都へ戻った翌日、カイは神殿長室へ呼ばれた。
セドリック・アルダンは騎士団の報告書を机へ置いた。
「次の啓示から、白碑の補助は君が常任で入れ」
白碑の常任補助。
正書官へ一歩近い仕事だった。
「承知しました」
危険のない書庫で、安定して暮らす。
妙な文字に振り回されながらも、その道は少しだけ近づいた。
それからしばらくして。
常任補助として白碑の前に立った朝、新しい黒文字が浮かんだ。
「王国武術選定会で優勝者が決まる」
カイは、その一行を写す。
そして迷わず、その下を見た。
薄灰色の文字が続いていた。
「優勝者は翌朝までに死亡する」
今度は、見なかったことにはしなかった。




