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黒い個体

薬ができた時、討伐隊はもう王都を出ていた。

「もう一度言うよ。効く保証はない」

老薬師は、小さな革袋をカイへ押しつけた。

中には濃い茶色の粉薬が入っている。

「昔の処方を記録どおりに作っただけだ。今回の灰狼が本当に毒を持っているかも分からない」

「分かってます」

だからこそ、現物を見る必要がある。

薄灰色の一文を信じたいわけじゃない。間違っているなら、その方がいい。

ただ、正しかった時に何もしていなかったとは、もう言いたくなかった。

カイは薬を懐へ入れ、神殿へ戻らず北門へ向かった。

騎士団の後発便が、食料と治療道具を積んで北街道へ出るところだった。討伐予言に関する確認記録を届けると説明し、荷台へ乗せてもらう。

馬車が止まったのは、街道沿いの古い中継所だった。

騎士たちはすでに武器を手にしている。

間に合った。

そう思った直後、森の奥から警笛が鳴った。

「灰狼だ!」

「本当に来たのか、書記殿」

ガレスが駆け寄ってくる。

「薬ができました」

「効くのか?」

「保証はありません」

「最高だな」

困り切った声だった。

カイは薬と古い記録を治療役へ押しつけた。

黒く変色した舌と牙根。浅い傷。戦闘後に急に乱れる呼吸と脈。

「全部そろった時だけ、これを使ってください」

治療役が記録を読み、薬袋を見る。

「そこまで一致して、それでも効かなかったら?」

「その時は、俺の調べ方が間違ってます」

ガレスが横から言った。

「症状が出るまでは保険だ。それでいいな」

誰も予言を信じたわけじゃない。

それで十分だった。

もう一度、警笛が鳴った。

カイは治療役と後方へ下がった。

戦えない人間が前へ出れば、助けるどころか邪魔になる。

灰色の影が森から飛び出す。

騎士たちは盾で進路を狭め、槍で群れを街道側へ追い込んだ。

一頭。

二頭。

その奥に、口元だけ色の違う個体がいる。

黒い。

「ガレス!」

振り向いた騎士へ叫ぶ。

「右奥! 口が黒い奴です!」

ガレスの視線が走る。

「黒い個体に噛まれるな!」

声が飛んだ。

だが乱戦の中、黒い灰狼が盾の隙間を抜けた。

隊長が横から斬りつける。

刃は肩を裂いたが、獣は倒れない。身をひねった牙が、隊長の左腕へ食い込んだ。

すぐに振り払われる。

「浅い! 続けろ!」

隊長は包帯だけ巻かせ、再び前へ出た。

カイの喉が乾いた。

止めるべきか。

いや。

予言にあるのは討伐終了後の死だ。ここで隊長を無理に下げ、隊列を崩せば別の被害が出る。

今やるべきなのは、傷を見失わないことだ。

黒い個体をガレスが仕留めた。

残った灰狼も次々に倒れる。

最後の一頭が地面へ崩れた。

騎士たちから歓声が上がる。

王都騎士団は北街道の灰狼を討伐する。

表の予言は成立した。

カイは隊長だけを見ていた。

「大した傷じゃない」

隊長は自分の足で歩いていた。

部下へ撤収の指示まで出している。

ガレスがカイの横へ来た。

「元気だぞ」

「まだです」

「何を待ってる?」

答えたくなかった。

人が倒れる瞬間だ。

そう思った時、隊長の足が止まった。

胸元を押さえる。

一度、大きく息を吸った。

次の呼吸が続かない。

「隊長?」

膝が崩れた。

カイはもう走っていた。

治療役が脈を取る。

「速い……いや、乱れてる」

「噛まれた傷を」

包帯を外す。深くはない。

カイは倒れた黒い灰狼を見る。

舌。

牙の根元。

古い報告書と同じ黒変。

「薬を使ってください」

治療役が一瞬ためらった。

「効く保証はないぞ」

「症状も個体も記録と一致してます。このまま他に打てる手は?」

治療役は答えなかった。

代わりに薬袋を開いた。

粉薬を水へ溶かし、隊長へ飲ませる。

すぐには変わらない。

むしろ一度、呼吸がさらに浅くなった。

カイの手に汗がにじむ。

調べた。

間に合わせた。

それでも間違っていたら、もうできることはない。

隊長が激しく咳き込んだ。

一度。

二度。

そして、長く息を吸った。

治療役が脈を取る。

「……戻ってきた」

その場の空気が緩んだ。

だがカイはまだ動けなかった。

裏の一文は、討伐終了から一刻以内と書いていた。

治療役は何度か脈を確かめたあと、空を見上げた。

「もう一刻は過ぎた」

隊長は生きていた。

薄灰色の一文が、初めて外れた。

いや。

違う。

外れたんじゃない。

変えた。

「書記殿」

ガレスが呼ぶ。

「信じるんですか」

「予言の話は、まだ分からん」

ガレスは隊長と、治療役の手に残る薬袋を見比べた。

「でも、お前が薬を持ってこなきゃ、今ここで打てる手はなかった」

治療役も小さく頷いた。

「次に何か見たら、先に俺へ言え」

前に聞かれた「証拠は?」とは、少しだけ響きが違っていた。

カイは頷いた。

これで一つだけ分かった。

白碑の下に見える結果は、絶対じゃない。

王都へ戻った翌日、カイは神殿長室へ呼ばれた。

セドリック・アルダンは騎士団の報告書を机へ置いた。

「次の啓示から、白碑の補助は君が常任で入れ」

白碑の常任補助。

正書官へ一歩近い仕事だった。

「承知しました」

危険のない書庫で、安定して暮らす。

妙な文字に振り回されながらも、その道は少しだけ近づいた。


それからしばらくして。

常任補助として白碑の前に立った朝、新しい黒文字が浮かんだ。

「王国武術選定会で優勝者が決まる」

カイは、その一行を写す。

そして迷わず、その下を見た。

薄灰色の文字が続いていた。

「優勝者は翌朝までに死亡する」

今度は、見なかったことにはしなかった。

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