南区2万人
「勝利の鐘が鳴る時、南区で二万人が死亡する」
カイは、その数字をしばらく見つめた。
二万人。
白碑に浮かんだ薄灰色の文字。
その一行上には、誰にでも見える黒い予言がある。
「王国軍は侵攻軍を王都外へ退ける」
要塞を奪還してから四日。
補給路を失ったラグナ軍は、それでも南下を続けている。
狙いは王都。
誰もが決戦を覚悟していた。
その戦いに、王国軍は勝つ。
正書室の空気がわずかに緩んだ。
だが、カイにはその下が見えている。
勝った時に、二万人が死ぬ。
しかも戦場ではない。
王都南区だ。
カイは薄灰色の一文を書き写した。
その瞬間、第三村で見つけた三枚の資料が頭に浮かんだ。
偽造された王都通行証。
南区の地下図面。
そして、油商会の印。
偶然で済ませるには、揃いすぎている。
*
「戦争そのものによる被害ではないと思います」
神殿長室の机に、三枚の資料が並べられた。
セドリック。
ガレス。
イネス。
ミナ。
国境から戻った四人が揃っている。
「理由は?」
セドリックが聞いた。
「裏予言は『勝利の鐘が鳴る時』です」
カイは黒い予言も横へ置いた。
「その時には、侵攻軍は王都の外へ退けられている」
「敵軍が南区へ攻め込むなら、表予言と噛み合わない」
ガレスが言う。
「はい」
だから、外から燃やすのではない。
すでに中にある。
カイは地下図面を指した。
「国境の敵兵が、王都南区の地下図面と偽造通行証を持っていた。しかも、印は以前調べた油商会と同じです」
倉庫火災を調べた時。
今回の放火とは量も期間も違うとして、保留にした記録があった。
南区の商会が、何年も継続して油を買っている。
「イネスさん」
「確認しました」
イネスが帳簿の写しを置く。
「購入量に急激な増加はありません。逆に、それが不自然です」
「どういうこと?」
ミナが聞いた。
「毎月少しずつ。数年続いています」
戦争が始まってから大量に買えば目立つ。
だが、平時から運び込んでいたなら。
カイは南区の地図を見る。
倉庫。
工房。
河港。
王都の物流が集まる地区だ。
「侵攻する前から準備していた」
ガレスの声が低くなる。
「可能性はあります」
イネスは断定しなかった。
だが、今回はカイも同じだった。
まだ証拠が足りない。
「勝利の鐘を止めれば?」
ミナが聞く。
カイは首を振った。
「意味はないと思います」
「なんで?」
「裏予言は『鐘が鳴ったから死ぬ』とは書いてない」
勝利の鐘が鳴る時。
それは原因ではなく、時刻を示しているだけかもしれない。
「鐘を止めて安心する方が危ないです」
セドリックがしばらく黙っていた。
「何が必要だ」
以前なら、まず証拠を求められていた。
今回は違う。
「南区の地下と、油商会を調べる許可を」
「出そう」
即答だった。
「ただし、南区全体の避難命令はまだ出せない」
「分かっています」
二万人を動かせば、王都全体が混乱する。
まずは原因を掴む。
カイは資料をまとめた。
「見つけます」
*
南区へ入ったのは、その日の午後だった。
表通りだけを見れば、戦争前と大きくは変わらない。
荷車が走り、倉庫では荷運び人が働いている。
ただ、街の外では敵軍が近づいている。
店を閉める者も増えていた。
「例の油商会、表向きは普通だよ」
先に聞き込みへ出ていたミナが戻ってきた。
「工房用の油とか灯火油を扱ってる。昔からある店」
「怪しい動きは?」
「店そのものにはない」
「そのものには?」
ミナが紙を一枚出した。
「三年前から、別の商会名義で倉庫を借りてる」
「別の商会?」
「登記を調べたら住所が変なんだって」
イネスが紙を受け取る。
確認して、すぐ眉を寄せた。
「この住所には商会が存在しません」
「偽名?」
「少なくとも、正式な登録とは一致しません」
カイは第三村で見つけた地下図面を広げた。
ミナが調べた倉庫の位置を重ねる。
南区の端。
河港から少し離れた一角。
そして。
「地下図面の線と重なる」
ガレスが言った。
古い地下通路の真上だった。
*
倉庫の扉は閉まっていた。
看板もない。
セドリックから渡された調査許可を見せ、管理人を呼ぶ。
だが、誰も出てこなかった。
「開けるぞ」
ガレスが確認し、鍵を外させた。
中は空に近かった。
木箱が数個。
古い荷車。
壁際に空の棚。
「外れ?」
ミナが言う。
カイは答えなかった。
地下図面では、この場所の真下を通路が走っている。
倉庫内を歩く。
床。
壁。
棚。
そして一番奥。
古い荷車の下だけ、床板の色が違った。
「ガレス」
「ああ」
荷車を動かす。
床には、鉄の取っ手が付いていた。
地下へ下りる扉だった。
開けた瞬間。
強い油の臭いが上がってきた。
誰も言葉を発しなかった。
ガレスが灯りを下へ向ける。
地下倉庫。
壁際まで並べられた容器。
一つや二つではない。
奥は暗く、どこまで続いているのかも分からない。
イネスが静かに言った。
「これだけの量、帳簿にはありません」
カイは地下図面を見る。
この倉庫は、図面の端にすぎない。
一本の線が、さらに南区の奥へ伸びている。
「ここだけじゃない」
地下にある大量の火油。
勝利の鐘が鳴る時、南区で二万人が死亡する。
ようやく、その二つが同じ形に見え始めた。




