3 啓蟄の関
手にとっていただきありがとうございます。初心者ながら書きたいこと書き連ねています。
ご意見あれば遠慮な書いてください。
「支度をしますよ、薊」
声をかけられ、重い瞼を開けた。
「……ん」
身を竦めても、隙間風が容赦なく肌を撫でる。寒くて熟睡などできなかった。
あくびを噛み殺しながら起き上がり、勘兵衛から手渡された藍染の着物と旅の支度を整える。足の節々が痛む過酷な旅だ。それなのに、どこか胸の奥が昂ぶっていた。令和の世にはなかった、むき出しの空気と時間。……この老飛脚と歩いているからだろうか。
馬小屋を出ると、勘兵衛が家主に声をかけた。
「朝早くから申し訳ない。昨夜はこんな老人一人に厩を貸していただき、ありがとうございました。おかげさまで暖かく眠ることができました。……お気持ちとして、この歌を受け取っていただけないでしょうか」
勘兵衛は昨日懐に収めていた短冊を差し出した。
家主はそれを受け取り、じっくりと文字を目で追った。やがて小さく息を吐き、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……なんだかすまないな。あんたのことを見誤っていたようだ。心ばかりだが、持っていってくれ」
差し出された干し飯と漬物をありがたく受け取る。家主はふと、勘兵衛の後ろに立つ私へ視線を向けた。
「後ろのご子息、よかったらこの着物を持っていきなさい。越後上布で仕立てたものでね。あまり服を持っていないのだろう」
「えっ……」
「このあたりで有名な、苧麻で織られた上等の布ですな」
勘兵衛が代わりに深々と頭を下げた。
お言葉に甘えて羽織らせてもらう。ざらりとした丈夫な質感だが、風を通さず不思議と肌に温かい。
「温かいな……春の訪れみたいだ」
「上布を織る季節ではありませんが……ふふ、春を感じますね」
見えなくなるまで深く頭を下げてくれる家主に見送られ、私たちは村をあとにした。
*
街道を進むにつれ、空が低く垂れ込め、雨脚が強まってきた。
すねを叩く雨粒に追われるようにして、ぬかるむ山道をひた走る。
「次の目的地まであとどのくらいなんだ、勘兵衛」
「そうですね……越中の関所まで、あともう少しの辛抱ですよ」
峠を駆け抜け、ようやく小さな宿場と関所の木柵が見えてきた。
雨の煙る関所の脇に、ポツンと佇む人影があった。二十五、六に見える男が、濡れた笠の庇の下で頭を抱えている。
「……何かあったのか?」
「困っておられるようですね。少しお話を聞いてみましょう」
「え、おせっかいすぎるだろ勘兵衛」
「旅は道連れ、世は情けと申しますから」
勘兵衛は意に介さず、ひたひたと男へ歩み寄った。
「そこの旅人さん、何かございましたか」
「……! ああ、すみません。考え込んでいて周りが見えていませんでした」
顔を上げた男は、しわくちゃの着物を着ていたが、驚くほど整った鼻すじをしていた。
「手形を無くしてしまいましてね。関所を越えられず途方に暮れていたのです。……申し遅れました、私は伊藤鉄蔵と申します。浮世絵で飯を食っている者です」
「それは大変だ。わたくしは飛脚の勘兵衛と申します。……鉄蔵さん、よろしければ私の仕事仲間(荷持ち)として、一緒に関所を渡りましょう」
「本当ですか! 助かります、ぜひご一緒させてください」
勘兵衛は一人で関所の番所へ向かうと、役人と数分ほど言葉を交わした。手慣れた様子で懐から文箱の鑑札を見せ、何事もなかったかのように戻ってくる。
「通ってよいとのことです。行きましょう」
雨の関所を難なく抜け、越中の地へと足を踏み入れた。
「どうです鉄蔵さん、もうじき日が暮れます。今夜は近くの木賃宿でご一緒しませんか」
「いいですね、ぜひ」
*
その夜、小さな宿の部屋で、出された温かい雑穀飯と汁物をかき込んだ。
「美味い……!」
こちらの世界に来てから、久しぶりに「まともな食事」をとった気がした。
「鉄蔵さんや。貴方は絵を描くとき、どのような視点を意識されるのですか?」
勘兵衛が茶をすすりながら尋ねた。鉄蔵は箸を置き、静かに天井を見上げる。
「そうですね……『読み手にいかに考えさせるか』でしょうか。万人受けするかどうかは別として、一回見ただけで満足できるものは、飽きられるのも早いのです」
「興味深いですね……」
私も心の中で深く頷いた。令和の時代、短時間で消費され、次々と流れては消えていく無数のコンテンツたち。一回見れば満足してしまうものは、確かに飽きるのも早かった。
「勘兵衛さんは、何をしたためておられるのですか?」
鉄蔵が紙に筆を走らせる勘兵衛の手元を覗き込む。
「俳句だよ。たぶん今日、あんたとの出会いを詠んだんだと思う」
私が代わりに答えると、鉄蔵は「なるほど、似た者同士ですね」と微かに笑った。
勘兵衛は満足そうに筆を置いた。紙には、静かな文字でこう綴られていた。
『啓蟄や 雨の関所に 画家一人』
「……? どういうことだ、意味がわからねえぞ勘兵衛」
「私は語りません。この句から感じなさい」
「なるほど。貴方は私を理解してくださっているのですね……面白い人だ」
鉄蔵は何かを察したように嬉しそうに頷いた。
啓蟄――虫が冬眠から覚めて地上へ這い出る、春の訪れを告げる季語だ。めでたい節目のはずなのに、なぜ雨の関所に佇む一人の画家という寂しい情景と合わさっているのだろう。矛盾しているんじゃないか……?
私が一人でそんな疑問を巡らせ、長考していると、勘兵衛がそっと行灯の灯りを吹き消した。
暗闇の中、冷たい雨の音がトタンのような茅葺き屋根を叩く音だけが響いていた
啓蟄 仲春
二十四節気の一つで三月六日ころ。「啓」は「ひらく」、「蟄」は「土の中で冬ごもりしている虫」の意で、冬眠していた蛇や蛙などが暖かさに誘われて穴から出てくるころとされる。実際に虫が活動を始めるのはもっと暖かくなってからである。




