↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛脚の余白  作者: 煮凝り


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/4

4 尾張の赤

朝、目を覚ますと、すでに鉄蔵の姿はなかった。

夜の闇に紛れて発ったのだろう。静けさだけが残る板間に、雨上がりの冷たい光が射し込んでいた。

「薊、昨日の句の意味は理解できましたか?」

身支度を整えながら、勘兵衛が何事もなかったかのように訊ねてきた。

「いや……正直、わからない」

「そうですか。なら、解説しましょう」

「……いいのかよ。自分から『句から感じろ』って言ったくせに」

「たしかにそう言いましたね」

勘兵衛はふっと細い目を和らげた。

「俳諧の世界において、作者自らが句を解釈する『自句自解』は恥とされます。言葉で表現する者が、言葉ではなく言葉の『解説』で語っては野暮ですからね」

「じゃあ言ったらだめじゃんか」

「貴方には、言っておきたいのですよ」

勘兵衛は草鞋の紐を締め直し、ふっと遠くを見た。

「解釈としては――啓蟄という、生きとし生けるものの生命が息吹く春の時期。雨の降る関所に、一人の絵師が佇んでおりました。一見すれば寂しげな情景ですが、絵師というものは胸の奥に熱い思いを秘めている。佇む姿は一人であっても、その背中には大きな思いの蠢(うご)きを感じたのです」

……見えないものをどうやって感じたんだよ。

喉まで出かかった言葉を飲み込む。令和の画面越しでは決して味わえない「気配」のようなものを、この老人は見ているのだろうか。

「さあ、飛騨を目指しましょう」

越中の平野を抜け、山道へと分け入る。道が険しくなるにつれ空が茜色から黒へと染まり、周囲の気配が一気に濃くなった。

「あそこに小屋がありますね。今夜はあちらで過ごしましょう」

木々に埋もれるように立つ、人気(ひとけ)のない荒れ小屋を見つけ、足を踏み入れる。

室内は塗料を流し込んだような真っ暗闇だった。手探りで進むと、隙間から差し込んだ月明かりが、魚の鱗のような白金の光を帯びて部屋の奥を刺した。

「だれかいるの――」

「ああ、ここにいる。身ぐるみ置いていってもらおうか」

暗闇の中から、低い声が落ちた。

次の瞬間、月光を反射してシャリと刃(やいば)が光る。冷たい太刀筋が私の喉元に届いていた。

「相席、よろしいでしょうか?」

「勘兵衛やめてくれ!」

心臓が跳ね上がる。相手は真剣を持っているのだ。

「肝が据わっているな、老人。心臓を墓に置いてきたか?」

「おもしろいことをおっしゃる。……どこから参られたのですか」

「礼儀として言ってやる。俺は尾張の山賊で、元辻斬りの木蓮(もくれん)だ。身内に裏切られて逃げてきた。……着の身着のままで何も持っていなかったからな、助かったよ。あんたらが来てくれて」

「木蓮さん、よろしければご一緒に夜飯と行きませんか」

木蓮は低く鼻で笑い、頷いた。だが、首筋に向けられた太刀筋は少しもぶれない。

勘兵衛は手際よく土鍋を取り出し、薪に火をつけた。ぱちぱちと小さな火が灯り、黒い影が壁に揺れる。

「ほうば味噌でございます。せっかく飛騨へ入りましたので、味わいましょう」

香ばしい味噌の匂いが狭い小屋に満ちる。

「木蓮さんや。私は俳諧を嗜んでおりましてね。有名な句に、このようなものがございます」

勘兵衛は静かに味噌を混ぜながら口開いた。

『脇差(わきざし)を 横に廻して 雑煮かな』

「なんだよそれは。食うことに集中させろ」

「この句は、正月に雑煮をいただく際、お腹の邪魔になる脇差を横へ回し、ゆったりとした心持ちでご馳走をいただく様子を詠んだものです。食べるときは心を休めると、味が濃くなりますよ」

「とんだお説教だな。……まあいい、食い終わったらさっさと荷を出せ」

……説教どころじゃない、刀に集中して味なんてしない。反抗なんてすれば、こちらの首が飛ぶだけだ。懸命に喉へ食べ物を流し込む。

「ごちそうさまでした。……さて木蓮さん、最後に一首、聞いていってくれませんか」

勘兵衛はゆっくりと手を合わせ、暗闇へ向かって一詠した。

『鯱鉾(しゃちほこ)の 夜もまばゆき 月明り

茶の間の味噌の まだ溶けきらぬ』

「……なに?」

「ほうば味噌へ、あまり箸が進んでおられないようでしたので。……尾張の赤味噌が懐かしいのかと拝察いたしました。少しでも、故郷を思い出せるようにと」

しんと、静寂が訪れた。

木蓮は手元の刀をじっと凝視している。沈黙の圧に耐えかね、息をのんだその時――木蓮がぬっと立ち上がった。

(やばい、切られる――!)

身構えた私の前で、木蓮は無言のまま、鞘へ刃を納めた。カチリ、と冷たい音が響く。

「……俺は腐っても山賊だ。食べ物と少量の金はもらっていく。……あとは好きにしろ」

「ええ、かまいませんよ。元より貴方にお渡しするつもりでしたから。知らない土地で身寄りもなく、一文無しのお人を放っておくわけには参りません」

木蓮は何も言わず、荷物の中から僅かな金目と食料を掴むと、夜の闇の中へと消えていった。

風が吹き抜け、消えかかった薪の火が赤く爆ぜる。

身ぐるみ剥がされ、着ているものと素足ばかりが残された。だが、私の胸の奥には、令和の世では決して感じたことのない「言葉の重み」が、熱く残り続けていた。 何が木蓮の心を動かしたのか、持っていかれた布が恋しく思いながら寒さを耐え忍んだ

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。