2 焼畑と和歌
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小屋の隙間から、朝の冷たい光がナイフのように差し込んでいた。
「起きましたか、旅の御人」
老飛脚の勘兵衛が、手慣れた手つきで身支度を整えながら声をかけてきた。
「寒っ……」
布団代わりの藁から顔を出し、短く吐き捨てる。自分の吐いた息が白く揺れた。勘兵衛は喉を鳴らして笑った。
「はっはっは、ここは北の方の国ですからな。朝は冷えますぞ。……さて、順序が逆になってしまいましたが、お名を何と申す?」
「……浅葱 薊だ」
「薊、いいお名前ですね。薊という植物は花や棘に注目されがちですが、私は凛と直立する茎の様にほれぼれします」
「名なんてそんな深い意味ねえよ。どうせ親も何も考えてねえ」
投げやりな言葉にも、勘兵衛は気を悪くした風もなく髭を撫でた。
「まあ、そう感化されなさるな。さて改めまして、わたくし勘兵衛と申しまして、この越後から丹波に向かわねばなりません。しかし老人一人では夜道も歩き慣れませぬ。……よろしければ、薊殿も一緒についていきませんか?」
現代の服のまま、この見知らぬ時代に取り残されるわけにはいかない。薊は小さくため息をついた。
「……ああ、連れてってくれ。道中で倒れてぽっくりいかれたら、孫も悲しむしな」
「ほっほ、元気があってよろしい。では荷をまとめてください。あと衣服ですが、私の着替えを使ってくだされ。そのままだと変に噂になってしまいます」
差し出されたのは、使い込まれているが綺麗に畳まれた藍染の着物だった。
着方など分かるはずもなく、勘兵衛に手伝ってもらいながら、おそるおそる袖を通す。ざらりとした、しかしどこか温かい肌触りが心地よく、少しだけ胸が高鳴った。着物を着るのも、悪くはない。
「では、行きましょうか」
引き締まった空気の中、深い山道を下り始める。勘兵衛の足取りは、老体とは思えないほど驚くほど軽かった。
山を抜け、麓の村へ辿り着いた頃には、すっかり陽が陰っていた。膝をガクガクさせ、息を切らせる薊を、老人が平然と振り返る。
「勘兵衛、早いって……」
「翁一人に追いつけないようでは、先が思いやられますな。……まあ、今日はこの村で一泊させてもらいましょう」
心の中で「化け物かよ、あのジジイ」と毒づきながら、薊は必死に老人の背を追った。
村に入ると、鼻を突く焦げ臭い煙が漂っていた。見上げると、遠くの畑の斜面から黒い煙がモクモクと立ち上り、夕闇の空を焦がしている。
「おい、畑が燃えてるぞ! 大・丈夫なのかよ?」
火事ではないかと慌てる薊に、勘兵衛は穏やかに手を振った。
「慌てなさんな、焼畑でしょう。畑を焼くことで害虫を払い、灰が肥やしとなって、次に生えるものの成長を助けるのです」
「ふん……見た目は苦しそうだが、良いことなのか」
一度すべてを燃やし尽くす炎を見つめながら、薊は妙に複雑な気分になった。
勘兵衛はある一軒の農家の門を叩いた。
「突然すみません。わたくし飛脚をしておる者ですが、今夜一泊させてはいただけないでしょうか」
出てきた村人は、薊の顔と、その奥に見える炎を交互に見つめ、険しい顔で首を振った。
「爺さんには悪いが、昔、余所者が来たことで村に病が広がったことがあってね。アンタらが悪い人に見えねえが、疑念は消えん。申し訳ないが、お断りだ」
「(これだから田舎の閉鎖的な空気は……)」と薊がムッとした瞬間、勘兵衛は一歩引いて頭を下げた。
「そうですか……では、あの馬小屋はどうでしょうか。使われていないように見受けられますが」
「……まあ、年寄りを路頭に迷わせるのも寝覚めが悪い。好きに使ってくれ」
「かたじけない」
薊は勘兵衛の後ろから、気まずそうに軽く会釈だけをした。
薄暗い馬小屋の中。
勘兵衛は荷物から干からびた味噌玉と干し飯を取り出した。小屋の外で小さな火を熾し、手際よく鍋で水とともに煮立てていく。
やがて、香ばしい味噌の匂いと湯気が、冷えた小屋の中に広がった。
「今日は簡素ですが、これをいただきましょう」
器に盛られたのは、いわゆる「ねこまんま」だ。
スプーンも箸もない。器に口をつけ、流し込む。冷え切った身体に、濃い味噌の塩気と、ふやけた米の温かさがじんわりと染み渡っていく。幼い頃、体調を崩したときに親が作ってくれたような記憶が、薄っすらと蘇った。
「なんかすまない。俺がついているせいで、飯も少なくなっちまった」
「まあ、気にされなさるな。旅は一人も良いですが、二人もまた良いものです。……とはいえ、次の村では何か腹に溜まるものを頂かねばなりませんな」
「だな。肉とか食いたい」
他愛もない会話を交わすうちに、強烈な睡魔が押し寄せ、薊は馬小屋の藁の上へ横になった。チクチクとした痛みが、ここが現実であることを教えてくれる。
ふと見ると、まだ手元で小さな灯火が揺れていた。勘兵衛が紙に筆を走らせている。また俳句だろうか。
老人は満足そうに小さく頷くと、最後にさらさらと墨を走らせた。
『一年の畑燃やして春よ来む 厩の藁に人のぬくもり』
「なんだこれ、短歌か? どういう意味だ?」
薊が首を傾げると、勘兵衛は灯火に照らされた顔を綻ばせた。
「畑は一年で焼かれます。焼く行為は一見すれば不吉で冷酷ですが、その反面、次の春の訪れを知らせるものでもある。春の生命が息吹く時期、この暗い厩の藁の中にも、不思議と人肌ほどの温もりを感じるのです」
薊は手元の藁をひとつまみして、パラパラと落とした。
「……めちゃくちゃ冷たいけどな」
「ははは、そうですね」
勘兵衛は楽しそうに笑うと、そっと息を吹きかけた。
「ですが、春の訪れを感じたとき、きっと温かく感じると思いますよ。……さあ、明日は朝が早いです」
パッと灯火が消え、厩の中に本当の暗闇が落ちた。
夜風が建付けの悪い壁の隙間を吹き抜けていく。山を下りた泥のような疲労とともに、薊は吸い込まれるように深い眠りへと落ちていった
畑焼く 初春
畦焼く/端やき/やけばた/畦火
田畑や畦を焼くこと。畑の作物の枯れ残り、枯草、藁などを焼き払って害虫の卵や幼虫を絶滅させ、その灰が畑の有用な肥料となる。




