第三章 一
その日はF地区のパトロールだった。おなじ河沿いでも南に位置するF地区は、B地区に比べてあまり裕福とは言えないようだ。少しでも敵に覚えられるのを避けるため、地区のアルファベットはばらばらに割り振ってある。
緑は多く目につくが、身を寄せ合うように建てられた家々は小さく、背の高さほどの土壁は崩れたりひびが入っている。舗装されていない道路にはいたるところに窪みがあり、茶色く濁った水が溜まっていた。進むたびに、ハンビーが遊園地の質の悪いアトラクションみたいに上下左右に揺れた。
「ちょっと待って、ここで停めてくれないか」
幅の細くなった路地をしばらく進んだところで、フォックスがハンドルを握るステイシーの腕に手を置いた。再び促されたステイシーがハンビーを停車させると、フォックスはドアを開けて出ていってしまった。
「おい」
こんなところを捜索しろなどという命令は受けていない。土塀に囲まれた一軒の民家へまっすぐ歩いていくフォックスには、わたしの声など届いていないようだった。ハンビーからは土壁と玄関の一部が見えるだけだった。その背後からはナツメヤシが二本よりそうように顔を出している。玄関からひとりの老人が顔を出し、顔見知りのようすでなにやら話している。老人がフォックスを玄関に招き入れた。
「なにやってんだあいつ」
ボブが彼らに目をやりながら自分のM16を引き寄せる。後続のハンビーたちもわれわれが一向に進まないのを不審に思いはじめたようだった。わたしはステイシーとともにM16をいつでも撃てる状態にして近付いていった。
レンガ造りの建物にはあちこち隙間があり、コンクリートを塗って補強してある。玄関を少し入ったところにフォックスと先ほどの老人、ディスターシャ姿の男が話していた。抵抗分子の密告でもあったのかと思ったが、緊迫した気配はなく、三人の間には和やかな雰囲気さえ漂っている。
わたしはステイシーと顔を見合わせた。フォックスが男を連れてこちらに向かってきた。男には目隠しどころか手錠もされていない。
「通訳をしてもらうムスタファだ」
フォックスは友人でも紹介するように、ディスターシャ姿の男の背に腕を回した。フォックスよりも背は高いが、痩せていてちょっと小突けばよろめいて倒れそうだった。細面で、地元の成人した男たちの例にもれず蓄えた髭が、かえって見た目の幼さを際立たせていた。
「ハイ」
わたしとステイシーの不審な目を前に、男はわたしたち風の挨拶をしぎこちなく微笑んだ。
「通訳が不足しているという話は前から聞いていたからね」
フォックスが言った。通訳は中隊全体を通して不足していた。われわれの小隊にも、中隊内でローテーションされているアラブ人通訳が一人か二人いるのは知っているが、使い物にならないかすぐ辞めてしまうかで、おなじ人物を見ることは稀だった。パトロールは通訳なしで行うことがほとんどだった。
「これを持って明日以降基地に来るといい」
フォックスがムスタファに書類を手渡したとき、小隊長のホワイト中尉が部下を引き連れてこちらに向かってきた。
「通訳希望者は基地の所定の場所で手続きを踏むようになっているはずだが」
ムスタファとフォックスを交互に見たホワイト中尉は、あからさまに不審な顔をした。
ホワイト中尉は、なにかにつけ自分のやり方を押し付けたがる面倒な人物だ。前例のないことや指令以外のことは、現状を飛躍的に改善できる見込みがあってもやりたがらない。命令の伝達経路を確認しなければ気が済まず、上からの命令をそのまま実行しているだけだった。「任務」を連発する割に、任務そのものより小隊を統率するという自分の立場に酔っており、それに伴う特権をやたらと振りかざしたがるこの小隊長に、心から従っている者をわたしは見たことがない。前軍曹の強引な性格とパトロールでの検挙率に、めったなことでわれわれの分隊に口を出してくることはなかったが、最近は遠慮なく矛先を向けてくるようになった。
「彼には明日以降基地に来るように言っていたところです。ちょうど家の前を通ったものですから。これから共に働くようになる者ですし」
「フォックス軍曹、ここは小学生が仲良くお遊戯をする場所じゃないんだぞ。いつまでもグリーンゾーンとおなじ気分でいられては困る」
「この地区からは一度も逮捕者は出ていませんし、襲撃も起こっていません。それにこの地区は下水システムに問題があるようです」
転属して来て間もない下士官に意見され、面食らったホワイト中尉の口が半開きになった。
「インフラは後方部隊の担当で歩兵の仕事ではない。そういうことは与えられた任務を全うしてから言うように。一度も襲撃がないからといって敵がいないと言い切れるわけではない」
威厳を保つように言った。しかしフォックスが通訳希望者のバックグラウンドチェックはすでに済んでいると言い、さらに住民の要望に耳を傾けるのも任務の一環だと聞いていると中隊長の名前を出すと、ホワイト中尉の顔があきらかにひるんだ。こんなところに足止めを食ったままではいつ敵の標的にされるか知れない、さっさと済ませるようにと言い残して踵を返した。逃げるように引き返していくホワイト中尉の後ろ姿を見送りながら、ステイシーが賞賛の口笛を鳴らした。
フォックスとホワイト中尉のやり取りを除いて、パトロールは何事もなく終わった。それにしても、フォックスはローレンス中隊長と個人的なつながりでもあるのだろうか。はじめてフォックスに会ったときも、指揮所にはホワイト中尉のほかにローレンス中隊長がいた。たかだか分隊付軍曹の紹介に中隊長がじきじきに出てくることなどまずないのだが。あの通訳希望者とフォックスにどんな関係があるのかは知らないが、ハイスクールのように幼くひ弱そうなムスタファの外見と、素性は調査済みであると言ったフォックスの言葉に、それ以上詮索しようという者は誰もいなかった。
イラク戦争が舞台のフィクションです。
アメリカ在住時に退役現役軍人の方々への取材をもとに、兵士の目線で現代の「戦争」を描いてみました。面白いと思ってくれた方は、評価やブックマークをしていただけると励みになります。




