第二十一話「思い出の欠片」
翌朝。
硬い木のテーブルに突っ伏した姿勢のまま、俺は重い瞼を開けた。
同時に、頭の奥を直接殴られたような鈍い痛みが走る。
「うぐっ……」
思わず額を押さえる。
やっぱり、酒なんて飲むんじゃなかった。
二度と飲まないと誓っていたはずなのに、雰囲気に流された自分が恨めしい。
「起きたか、チハル」
エルマの声をきっかけに、頭をさすりながらどうにか上体を起こす。
部屋の中には、すでに朝の光が薄っすらと差し込んでいた。
周りを見渡す。
俺以外の全員はとうに荷造りを終え、出発の準備を整えている。
昨夜交わした酒と、どこか柔らかく温かかった打ち解け合いの時間は終わりを告げていた。
アジトの中に満ちていたのは、これから決戦の地へ赴くという、ピリピリとした重い空気だ。
だが、その重圧の中でもお互いを突っぱねるような刺々しさは消えていた。
昨夜芽生えた確かな連帯感が、静かに俺たちの背中を支えてくれているような気がした。
「なんだよ、その無様なツラは。酒に呑まれて、机と心中でもしてたか?」
エルマが呆れた顔をしながら、俺の顔を覗き込んでいた。
その頭には、目深に被られた厚手のフード。
「……エルマ、その格好」
「ん? ああ」
そう言うと、彼女はなぜか誇らしげに胸を張った。
「あたしは脱獄を手引きした大罪人サマだからな。
顔を隠しとかなきゃ、街中歩いただけで一発アウトだ。
──ほらよ」
エルマは無造作に、古びた外套を俺に放り投げてきた。
見れば、少し離れたところに立つレントも、すでに似たようなボロ布をすっぽり被っている。
「お前も顔を隠さねえと、すぐ捕まっちまうぞ?
あたしらは皆、一度目をつけられた前科者だからな」
「……あぁ、そうだな」
俺は渋々立ち上がり、渡された外套を羽織って深くフードを被った。
これで俺、レント、エルマの三人がフードで顔を隠した状態になる。
そんな様子を見て、壁際に寄りかかっていたアイヴィスが冷ややかなため息を吐いた。
「……完全に不審者の集団ね」
「はっ、言わせておけば!」
エルマは怒るどころか、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべ、パンと勢いよく手を叩いた。
「よし、決まりだ。今回は『悪徳商人と、買収された闇奴隷集団』って体でいくぞ」
「……は?」
アイヴィスが不快そうに眉をひそめる。
エルマは気にせず、アイヴィスを指さしてノリノリで演説を始めた。
「いいか? お前は今から金に物を言わせた『腹黒い悪徳商人』だ!
で、あたしたちフード三人組は、口を利くことも許されない『訳アリの闇奴隷』!
これなら街中で浮いても、『ああ、そういう不気味な連中か』でスルーされるだろ!」
「……誰が悪徳商人よ。ふざけないで」
冷気すら孕んだアイヴィスの鋭い一睨み。
そんな彼女に怖気ることなく、レントが一言水を差す。
「ハハ、手際の違いとやらを見せてもらおうじゃねえか。
ほら、ご主人サマ、前を歩いてくだせえ」
「……チッ」
彼のもみ手をするような小馬鹿にした演技に、アイヴィスは苛立ちを隠さず盛大に舌打ちを漏らす。
本当にその設定で行くのかよ……。
頭痛を抱えた頭で、俺はそっと胃のあたりを押さえた。
堂々と歩く悪徳商人の背中を、怪しい闇奴隷三人衆がうつむき加減でついていく。
……どう考えても自警団の目を引く気しかしないのだが、言っても無駄だろう。
俺たちは重いアジトの扉を開け放った。
建物の隙間から差し込んでくる眩しい朝日に、目を細めながら。
俺は心の中で、たった一人の名を強く呼ぶ。
______待っててくれ、メルトナ。必ず、助け出すから。
※ ※ ※ ※ ※
路地裏の外へ足を踏み出した瞬間、空気の質が一変した。
まだ薄暗い街路のあちこちに、甲冑を打ち鳴らす衛兵たちの姿がある。
掲示板には、まだ張り出されたばかりと思われる新しい手配書。
すれ違う民衆も、どこか怯えたように視線を低くし、足早に立ち去っていく。
「……っ」
喉の奥がヒリつくような緊張感。
俺は深くフードを被り直し、うつむき加減に視線を落とした。
ここでボロを出せば、メルトナを助け出す前に御用だ。
緊張に身を硬くする俺たちの先頭を、アイヴィスだけが涼しい顔で歩いていく。
だが、その背中は心なしか硬く、どこか殺気立っているようにも見えた。
______そうして向かったのは、街の外縁部にある古びた厩舎。
藁と馬糞の臭いが立ち込める一角で。
頑固そうな中年の馬主が、怪訝な顔でこちらを睨みつけていた。
「おいおい……なんだ、お前ら」
馬主は手にしたブラシを止め、アイヴィスの後ろに並ぶ俺たちフード三人衆を、あからさまに胡散臭そうに見分ける。
「気味のわりぃ連中だな……。
嬢ちゃん、一体どんな危ない橋を渡ってきたんだ?」
「──っ」
アイヴィスの眉間に猛烈な青筋が浮かぶのが見えた。
だが、やがて遠くから衛兵の足音が近づいてくるのを感じ取ったのか、彼女はぐっと奥歯を噛み締める。
そして──覚悟を決めたように、不自然なくらい堂々とした胸を張った。
「……私の買い取った『商品』よ。
口を利くことも許してない、訳アリの連中なの。文句でもある?」
「あぁ~、ご主人様~、どうかお許しをぉ~……」
エルマがわざとらしく身を縮こませ、へこへこと頭を下げて見せた。
……ノリノリだ。
この盗人、完全に闇奴隷のロールプレイを楽しんでやがる。
一方の俺は、冷や汗をダラダラと流しながら、必死に気配を消そうとする。
隣のレントはすでにただの置物と化していた。
「……チッ。捨て馬かよ」
馬主は心底嫌そうに唾を吐き捨てた。
「奴隷商人様だかなんだか知らねえが、うちの馬車は安かねえぞ。
追手から逃げるようなヤバイ客に貸して、乗り捨てられたら堪ったもんじゃねえからな」
「……金なら出すわ」
アイヴィスは懐から重みのある革袋を取り出すと、馬主の胸元へ容赦なく叩きつけた。
ジャラリ、と金貨同士がぶつかり合う重厚な音が響く。
黒い客だろうと有無を言わせないような、相当な額が眠っているんだろう。
……まあ、それもエルマ提供の盗品なのだが。
「一番足の早い馬を出しなさい。……今すぐに、よ」
「ぬぅ……」
金貨の重みを確かめた馬主は、一瞬だけ目を丸くした。
そして、チラリと俺たち『闇奴隷』と、氷のように冷たい顔をした『悪徳商人』を見比べ──大きくため息を吐いた。
「……わぁったよ。裏に幌付きの四輪馬車があるから、それ持っていきな。
ただし、途中で事故ろうが捕まろうが、絶対にうちの店の名前は持ち出すな」
「ええ、勿論。──取引成立ね」
アイヴィスはそれ以上一言も発さず、差し出された手綱と鞭をひったくるように奪い取った。
※ ※ ※ ※ ※
「……乗んなさい、さっさと」
厩舎の裏手、馬車の荷台へ乗り込むよう促すアイヴィスの声は、殺気で低く地響きしていた。
「ひぃ~、おっかないお嬢サマだこと。
悪徳商人になりきるのも楽じゃねえわな?」
「黙りなさい、エルマ。次にその減らず口を開いたら、王都に着く前に唇を縫い合わせるから」
「へいへい」
エルマはそれっぽく肩を竦めながら、荷台の奥へ滑り込み、俺とレントもそれに続く。
俺は御者台のすぐ後ろ、幌の隙間からアイヴィスの背中が見える位置に腰を下ろした。
アイヴィスが御者台に飛び乗り、慣れた手つきでバシッと強く鞭を振るった。
次の瞬間、ガタゴトと車輪が重い音を立てて、馬車が力強く走り出す。
路地を抜け、警戒態勢の敷かれた街の検問を掠めるようにして、馬車は街路へと滑り出した。
冷たい朝風が幌の隙間から吹き込み、二日酔いの頭痛を少しだけ和らげてくれる。
「ハハ、奴隷の真似も案外悪くねえな」
「お前の演技は様になってねえんだよ、エルマ。もっとこう──」
荷台の奥では、エルマがそんな軽口を叩き、レントが苦笑する声が聞こえていた。
______ふと、御者台で手綱を握るアイヴィスの肩が、微かに揺れた気がした。
「……アイヴィス?」
俺が声をかけると、彼女は振り向きもせず、前を見つめたままだった。
だが、その横顔には──いつもの冷徹な冒険者の表情ではなく、
どこか自嘲気味で、けれどどこか温かい苦笑いが浮かんでいた。
「……バカバカしい、なんて思ったの」
風に煽られる髪を片手で抑えながら、アイヴィスはポツリと呟いた。
「悪徳商人と闇奴隷、ね。
……昔、まだ冒険者としては駆け出しだった頃を思い出したわ」
「駆け出しだった頃?」
「ええ。当時はまだ青くて、世間知らずで、無茶ばかりしていたの。
金がないからって難易度の高い依頼ばっかり引き受けて、たまにこんなくだらない変装もしたり、衛兵の目を盗んで街を抜け出したり……」
遠い目をするような彼女の声音には、二度と戻らない時間を愛おしむような、かすかな切なさが混ざっていた。
「あの頃の仲間は、もう誰もいないけれど……。
それなりに実績を積んで、冒険者として名を上げてからは──すっかり忘れていたわ。
こんな、勢いだけで無茶を押し通すバカな感覚を、ね」
「……」
アイヴィスはふっと小さく鼻で笑うと、いつもの冷ややかな、けれどどこか柔らかな視線を俺へ向けた。
「……あいつらも、あなたたちみたいに救いようのない馬鹿ばっかりだった」
「あんまり褒められてる気がしないんだが……」
「褒めてない。呆れてるの」
そう言って、彼女は再び前を向いた。
手綱を握りなおすその背中からは、先ほどまでの刺々しさは少しだけ削ぎ落され、代わりに頼もしい仲間としての静かな覚悟が漂っていた。
「──さあ、飛ばすわよ。舌を噛まないように、気を付けて」
バシッ、と再び鞭がしなる。
馬車は速度を上げ、朝靄の立ち込める街道を一直線に駆け抜けていく。
幌の隙間から見えた街の風景が、急速に後ろへと流れていった。
胸の奥で、熱い何かが静かに脈打ち始める。
______目指すは、王都ルシャンド。
メルトナが囚われている、決戦の地だ。




