間話「呪われし女王」
ツェルニア王国、ルシャンド王宮。
その一室で、一人の女が窓の外を眺めていた。
______ルメスティス・ルノン・ツェルニア。
彼女こそが、ツェルニア王国現女王その人である。
御年、九十五歳。
純粋な人間の生まれでありながら、即位より六十年余りが過ぎた今もなお。
その容姿は、齢十八ほどの少女そのものだった。
長く、艶やかな銀色の髪。
皺ひとつない、白く滑らかな肌。
そして──目元を覆う、漆黒の仮面。
______曰く、『呪われし女王』。
だが、その称号に侮蔑の色はなかった。
恐れを込めて囁かれているわけでもない。
むしろそこには、長きに渡って国を治め続けてきた女王への敬意と、親しみさえ込められていた。
民は皆、女王が老いぬ所以を『竜の呪い』であると謳う。
国賊から国を守り抜き。
悪しき竜族を討滅した、栄誉ある代償なのだと。
(……)
窓の向こうに広がる王都。
行き交う人々、立ち並ぶ建物、遠くから聞こえる喧騒。
そのすべてを、静かに眺めながら。
「……バカバカしい」
誰に向けるでもなく、そう呟いた。
彼女の胸を満たしているのは、高潔な犠牲精神などではない。
______ただドロドロと渦巻く、泥のような生への執着だけだ。
※ ※ ※ ※ ※
ルメスティスという女は、先代国王唯一の落胤だった。
母は元々とある子爵の家に生まれた女だったが、爵位を巡る争いに敗れ、その身分を失った。
そこで先代国王との間に生まれたのが、彼女である。
その出生は王家にとって決して公にできるものではなかった。
ゆえにルメスティスは、王女でありながら、その存在を隠されて生きてきた。
______そして、十五歳のある日。
先代国王を快く思わぬ者たちは、やがてルメスティスの存在に目をつけた。
王の隠し子。
それだけでも、現政権を揺るがすには十分だったのだ。
だが──国王もまた、それを黙って見過ごすことはなかった。
自らの地位を守るため、ルメスティスの存在そのものを消そうとしたのである。
それを知った侍女たちは、密かに彼女を王宮から連れ出した。
向かった先は、王都より遠く離れた──ロンド地方の片隅にある、とある孤児院。
国王の目も、反国王勢力の目も、いずれも届きにくい場所だった。
死の恐怖と、他人の都合一つで己の存在を消し去られる絶望。
暗闇の中で震える彼女に、一筋の光が差し込んだ。
______それは、とある一人の少年。
彼もまた、親を失い、その孤児院で暮らす子供の一人だった。
だが──少年には、他の孤児たちとは明らかに異なるものがあった。
それは、常軌を逸する剣の才。
まだ幼い身でありながら、手にした木剣を振るう姿は、
皆伝を授かった剣士と比べても遜色ないものだった。
あまりの異彩に、周囲の子供たちは彼に近寄ろうともせず、
少年自身もまた、誰かと群れることはなかった。
そんな少年の姿を、ルメスティスは物陰から見つめていた。
恐怖で震えていた彼女の胸に、底知れぬ暗い熱が灯る。
(見つけた……!)
圧倒的な力。誰も寄せ付けない絶対の刃。
あの剣があれば、誰も私を殺せない。
誰も私を消し去ることなんてできない。
震える指先を隠し、ルメスティスは少年の元へと歩み寄った。
十五の少女の風貌にふさわしい、可憐で無害な笑みを貼り付けて。
「ねえ、あなた」
少年が振り返る。
邪魔するなと言わんばかりの、獣のように険しい眼光。
だが、死の淵を見てきたルメスティスにとって、その睨みなど痛くも痒くもなかった。
「綺麗な剣を振るのね」
「……なんだ、お前」
「私はルミス。……一人で寂しくないの?」
「別に」
少年は短く吐き捨て、再び木剣を構えた。
「剣を振ってりゃ、余計なことを考えずに済む」
冷たく拒絶されても、ルメスティスは笑みを崩さなかった。
じっと少年を見つめる。
その瞳の奥に、自分と同じ匂いを感じ取っていた。
世間から孤立し、ただ己の存在を証明するように爪を研ぐ飢餓感を。
「教えてくれたら、あなたの名前を覚えてあげる」
「──ハッ」
少年は鼻で笑った。
だが、その嘲笑には、どこか他者を拒絶し切れない脆さがあった。
「……ヴェノッサだ」
「ヴェノッサ……ふうん」
ルメスティスはその名を口の中で転がした。
仮初の、可憐な笑みを浮かべながら。
______見つけた、私だけの護身刀。
「よろしくね、ヴェノッサ。私を──退屈させないで」
こうして。
二人の揺るぎない主従関係が始まった。
※ ※ ※ ※ ※
それから、十余年。
ルメスティスは、ロンド地方のとある貴族が所有する別荘に身を潜めていた。
かつて先代国王と対立していた側の貴族だ。
今もなお王家からその存在を狙われる彼女にとって、それは数少ない安全な場所だった。
……実際は、都合のいいお飾りの爆弾として利用され、
半ば監禁されているに過ぎなかったが。
誰もが寝静まった、とある夜のこと。
ルメスティスは一人、鏡の前に立っていた。
「……」
目じりに差し込めた僅かな疲弊。
刻一刻と刻まれていく肉体の衰え。
ただの人間ならだれもが当たり前に受け入れる年月の経過すら、
彼女にとっては発狂しそうな恐怖だった。
______私は衰え、いつか死ぬ。
あの日と同じように、自分の意志なんて否応なしに。
死への狂おしい恐怖と、己を惨めに追いやった王家への怨嗟。
暗い感情が胸中で渦巻き、極限まで煮詰まった──そのときだった。
「──こんにちは」
誰もいないはずの部屋に、声が響いた。
甘美で、心地よく。
それでいて脳髄へ直接染み渡るような──不吉な、女の声。
「……誰?」
ルメスティスが振り返る。
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
そこにいたのは──ただ存在しているだけでこちらの正気を削がれるような、異形の美。
全身から溢れ出る、夜空に浮かぶ淡い月光のごとき、幽かな燐光。
髪も皮膚も不気味なほどに白く、その双眸は死人のようにぴたりと閉ざされている。
異様で禍々しい佇まいながら、そこには人知を超えた神に触れるような神聖さすら漂っていた。
「──ヴェノッ」
叫ぼうとした。
だが、その言葉の続きは遮られた。
「ご安心を。わたくしは、あなたに危害を加えるつもりはございません」
耳元に囁かれる、甘い毒。
口元を覆う、冷たい掌。
女は目にも留まらぬ速さで──否。
空間そのものを飛び越えるように、ルメスティスの背後へ回っていた。
「あら……そう恐れないで。私は、あなたを助けたいだけなのです」
生者の温度を持たない身体が、後ろからルメスティスを柔らかに包み込む。
あまりの圧迫感と恐怖に膝の力が抜け、呼吸すら満足に出来ない。
それでも女は、まるで幼子をあやすような穏やかな口調で囁き続けた。
「あなたは、恐れている。
──身近に息を潜める死と、奪い去ろうとする者の眼差しを。
故にあなたは、求めている。
──悠久を生きる命と、全てを奪い返す復讐の機会を」
女は静かに、しかし抗いようのない確信をもって囁く。
やがて凍てついた指先が、ルメスティスの唇から静かに離れた。
「はぁっ……はぁ……ッ」
崩れ落ちそうになる身体をどうにか繋ぎ止め、
ルメスティスは息を荒げながら背後の異形を睨みつけた。
「何が……言いたいの」
「王家はいま、邪悪なる竜族を迎え入れ、共生の和平を結ぼうとしています。
……愚かだとは、思いませんか?」
女はゆっくりと、それまで死人のように閉ざしていた双眸を見開いた。
そこに現れたのは──虹色に狂おしく明滅する、人ならざる瞳。
神聖な後光のような輝きを放ちながらも。
その奥には骨の髄や思考の隅々まで見透かされ、素手で触られているような、
粘着質な気持ち悪さが潜んでいた。
「もし、その竜族が人間を脅かす惨劇を引き起こしたなら。
共生を謳う王家は一転し国賊となり、民の信頼は失墜するでしょう。
あなたが英雄として立ち上がる隙は、そこに生まれます」
「英雄……? 私が……?」
「ええ」
女は優しく微笑んだ。
「そして何より──竜の胎内に流れる『不滅の血』は、あなたに衰えぬ肉体と悠久の生をもたらします」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
衰えない肉体。悠久の生。
______他人の都合で消されることのない、圧倒的な存在。
「死の影に怯える必要など、もうどこにもなくなります。
──さあ、ルメスティス・ルノン・ツェルニアよ。私と共に、道しるべを立てましょう」
差し出された、透き通るほどに白い手。
ルメスティスは荒い息を吐きながら、己の冷え切った指先を見つめた。
老いない。
死なない。
絶対に、私を消させない。
鏡に映る自分自身の怯えた顔を削ぎ落すように。
彼女は自らの意志で、悪魔とも天使とも知れぬ者の手を、硬く握り返すのだった。
※ ※ ※ ※ ※
純白の女との誓いは、血に塗れた歴史となって結実した。
王家が密かに進めていた、竜族との和平交渉。
その歴史的な会合の場に、ルメスティスは恐ろしい罠を仕掛けた。
裏で引き入れた魔物と工作員を用い、会談の場を凄惨な流血の渦へと叩き落したのだ。
______竜族が人間を欺き、屠った。
でっち上げられた惨劇は、瞬く間に王国全土へと狂風のごとく駆け巡った。
昨日まで共生を夢見ていた民衆は一転、猛烈な恐怖と憎悪に狂い立ち、
そして──恐ろしい化け物に手を差し伸べようとしていた王家に対し、苛烈な不信と怒りを募らせていった。
「行きなさい、ヴェノッサよ」
「──はっ」
ルメスティスの命を受け解き放たれたのは、彼女の『護身刀』。
凄絶な才能を誇る少年──否、全盛を迎えた剣士へと成長したヴェノッサの刀が、竜族の肉を裂き、骨を断つ。
咆哮と絶叫が焦土に響き渡り、一つの高潔な種族が惨殺されていく。
痛み分けとなった竜王と、幼き一匹の竜──彼の娘。
そのわずかな生き残りを除き、竜族はあとかたもなく掃討された。
そして、惨劇の最中。
純白の女の手引きにより、ルメスティスは殺められた竜の胎内から、『不滅の血』をその身へ取り込んだ。
灼熱のごとき痛みが全身を駆け巡り、肉体がみるみる若返る。
ルメスティスの身体は、齢十八ほどの美貌のまま、時を刻まなくなった。
「英雄ルメスティス様万歳!」
「国賊たる王家に天罰を!」
竜族を滅ぼし、国民を救った『英雄』。
民衆の熱狂的な支持と、反国王勢力の武力を背景に、ルメスティスは王都へと進軍した。
十五歳のあの日、落胤である己の存在を鬱陶しみ、闇に葬ろうとした前国王と王家の者たち。
命乞いをする彼らを見下ろしながら、ルメスティスの口元には冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「私を消そうとした報いです。……さようなら、お父様」
竜族と裏で通じた国賊として、王家の者たちの首が次々と断頭台に跳ねた。
流血の果てに勝ち取った、絶対的な勝利。
彼女は漆黒の仮面を被り、ついに王国の最高峰──玉座へと君臨したのだ。
※ ※ ※ ※ ※
「……ふ」
仮面を外し、鏡の前に立ったルメスティスは冷めた吐息を漏らした。
そうして露わになった碧い虹彩の中心では──蛇のごとく細く縦に引き裂かれた竜の瞳孔が、妖しく蠢いていた。
「なんて、醜いのかしら」
それは己の容姿に対してか、はたまた異様に歪んだ己の欲望に対してか。
不老の身体と引き換えに刻まれた、竜血の刻印。
ルメスティスは可憐な美貌を保ち続けていたものの、その代償は着実に肉体を侵食していた。
「──人払いは済ませてあるわ。入りなさい」
背後の気配に、ルメスティスは鏡越しに声をかけた。
重厚な扉が静かに開き、一人の老剣士が私室へと足を踏み入れる。
歴戦を思わせる、白銀の長髪。
九十年余りにも及ぶ歳月が刻み込んだ、深い目元の皺。
ツェルニア王国最強の英雄──ヴェノッサ。
「二人きりよ。固い顔をする必要はないわ」
「……失礼いたしました、ルミス様」
ヴェノッサの声から、公の場での硬さが削ぎ落される。
孤児院の泥の中で手を取ったあの日から、およそ八十年。
竜血の真実と、純白の女への誓いこそ隠しているものの。
彼はルメスティスの過剰なまでの支配欲と矜持の形を、誰よりも理解している唯一の存在だった。
「それで……例の件はどうなったのかしら?」
「はっ。公爵が裏で探し求めていた竜の娘──その確保が完了いたしました」
「……そう」
鏡の向こうで、ルミスの口元が不気味に歪んだ。
公爵が竜族の生き残りに目をつけ、捕獲に躍起になっていたのは、
他でもないルメスティス自身が裏で仲介し、巧みに誘導した結果だった。
______すべては、彼女の筋書き通り。
「奴らは、かの竜族の力を利用する腹積もりだったようですが──いかがなさいますか。
この事実を公に明かし、私の手で直々に処罰を下しますか?」
そんなことを、ヴェノッサは知る由もない。
公爵が竜の力で謀反を企てていると察知した女王が、それを制し、反逆者を正当に処罰する。
彼は、そう信じて疑わなかった。
「いいえ、結構よ。ただし──」
ロミエットの街での騒動により。
すでに竜族の生き残りの存在は、公の知るところとなっている。
国民の不安を鎮めるための公開処刑。
そして──処刑の後に回収した竜の遺体から不滅の血を奪い、ヴェノッサに与えること。
悠久の時を共にさせ、その剣を永遠に己の傍らに縛り付ける。
______それこそが、ルメスティスの真の目的だった。
「民の不安を鎮めるため、至急公開処刑を執り行います。
ヴェノッサ、あなたがその手で引導を渡しなさい」
「──はっ」
鏡越しに、老いゆく剣士の頭頂を見下ろしながら。
ルメスティスは己の美麗な貌に、黒く冷酷な笑みを浮かべるのだった。




