第2話 それでも、優しくされるたび期待してしまう
好きになってはいけないわけじゃない。
でも、好きになっても届かないかもしれない。
亡き婚約者を今も大切にする黒瀬への想いを消そうとする奈々。
そんな彼女のすぐそばで、ずっと奈々だけを見ている俊介の気持ちも、少しずつ言葉になっていきます。
第2話、お楽しみください。
黒瀬さんの婚約者のことを知ってから、私は自分の気持ちをなかったことにしようとした。
朝、タイムカードを押す。
パソコンを立ち上げる。
メールを確認する。
電話を取る。
お茶を淹れる。
笑う。
今までと同じ毎日を、今までと同じ顔で過ごせば、そのうち胸の奥のざわめきも消えると思った。
けれど、恋は思ったよりずっとしつこかった。
黒瀬さんが会社に来る日、私は朝から落ち着かなくなる。
廊下で声が聞こえるだけで、心臓が跳ねる。
目が合えば嬉しくて、すぐに苦しくなる。
彼の心には、大切な人がいる。
分かっているのに、優しくされるたびに期待してしまう自分が嫌だった。
「奈々ちゃん、今日の十四時から黒瀬さん来るから、応接室お願い」
「はい」
佐伯さんに言われた瞬間、胸が小さく痛んだ。
私は資料をそろえながら、心の中で何度も言い聞かせた。
普通に。
いつも通りに。
ただの取引先の人として。
そう決めていたのに、黒瀬さんが私を見て微笑むだけで、心は簡単に揺れた。
「こんにちは、奈々さん」
「こんにちは。本日はよろしくお願いいたします」
私は丁寧に頭を下げた。
「この前、教えていただいた駅前の和菓子屋にも行きました」
「え?」
「豆大福、確かにおいしかったです」
「あ……よかったです」
そんな小さな会話が、どうしようもなく嬉しい。
でも、嬉しいと思った次の瞬間には、胸の奥が冷える。
この優しさは、私だけのものではない。
黒瀬さんは、きっと誰にでも丁寧な人だ。
大切な人を今でも想い続けられるくらい、優しい人だから。
「奈々さん?」
「あ、すみません。お茶、こちらに置きますね」
私は慌てて湯呑みを置いた。
指先が少し震えた。
黒瀬さんがそれに気づいたのか、心配そうに私を見た。
「大丈夫ですか」
「はい。大丈夫です」
「顔色があまり良くないように見えます」
「本当に大丈夫です。ありがとうございます」
そう言って笑うと、黒瀬さんはそれ以上聞かなかった。
優しい。
その優しさが、つらい。
応接室を出て、私は給湯室に戻った。
流し台に手をついて、小さく息を吐く。
「何してるんだろ、私」
声に出したら、余計に惨めになった。
「奈々さん」
入口から声がして振り返ると、俊介が立っていた。
「びっくりした。俊介くん」
「すみません。お茶を取りに来ただけです」
「あ、そっか」
私は慌てて場所を空けた。
俊介は給湯室に入ってきて、紙コップを取った。
でも、すぐにはお茶を淹れなかった。
「体調、悪いんですか」
「悪くないよ」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、心の方ですか」
私は言葉に詰まった。
俊介のそういうところが、少し苦手だ。
彼は、私が隠したいところを静かに見つけてしまう。
「俊介くんって、たまに鋭いよね」
「奈々さんが分かりやすすぎるんです」
「うそ。私、隠すの得意だよ」
「周りには、そう見せてるだけでしょう」
何も言えなかった。
俊介は紙コップにお茶を入れながら、穏やかな声で言った。
「無理に話さなくていいです」
「……うん」
「でも、無理に笑うのもやめてください」
「それは難しいかも」
「どうしてですか」
「笑ってないと、私じゃないみたいだから」
言ってから、しまったと思った。
そんなことを後輩に言うつもりはなかった。
けれど俊介は、からかったりしなかった。
「奈々さんは、笑ってなくても奈々さんです」
「……」
「少なくとも、俺はそう思います」
胸の奥が、少しだけ揺れた。
私は俊介を見た。
彼の目は、いつもより真剣だった。
「俊介くんは、優しいね」
「優しいわけじゃありません」
「そう?」
「奈々さんにだけです」
また、さらりと言う。
私は困って笑った。
「そういうこと言うと、誤解されるよ」
「誤解じゃないので」
言葉の意味を考える前に、給湯室の外から誰かに呼ばれた。
「奈々ちゃーん、電話入ってるよ」
「あ、はい!」
私は逃げるように給湯室を出た。
電話対応をしながらも、俊介の言葉が頭の隅に残っていた。
奈々さんにだけです。
どうして、そんなことを言うのだろう。
深く考えない方がいい。
私はそう思った。
今の私は、黒瀬さんへの気持ちだけで手一杯だった。
その日の夜、会社を出ると雨が降っていた。
天気予報を見ていなかった私は、傘を持っていなかった。
駅まで走れば何とかなる距離だけれど、ヒールで走るのは少しつらい。
どうしようかと入口で立ち止まっていると、背後から声がした。
「奈々さん」
振り返ると、俊介が傘を持っていた。
「傘、ないんですか」
「うん。油断した」
「駅まで入っていきますか」
「え、でも俊介くん、方向違うでしょ」
「駅までは同じです」
たぶん、少し嘘だ。
俊介の家が反対方向だということを、以前何かの雑談で聞いた気がする。
「いいよ。走るから」
「その靴で?」
「気合いで」
「転びます」
「転ばないよ」
「奈々さん、何もないところでつまずくことありますよね」
「見てたの?」
「見てます」
その言い方が自然すぎて、私はまた返事に困った。
俊介は傘を開いた。
「行きましょう」
結局、私は俊介の傘に入った。
雨音が近い。
傘の中は思ったより狭くて、俊介の肩がすぐそばにあった。
私はなるべく端に寄ろうとした。
けれど、俊介が傘をこちらに傾ける。
「俊介くん、濡れてる」
「平気です」
「平気じゃないよ。肩、濡れてる」
「奈々さんが濡れるよりいいです」
まただ。
俊介は、こういうことを真顔で言う。
「俊介くんって、モテるでしょ」
「急に何ですか」
「いや、そういうこと自然に言えるのすごいなって」
「誰にでも言ってるわけじゃありません」
「またそれ」
「本当です」
雨のせいか、夜のせいか。
私はいつもより少しだけ弱くなっていた。
「俊介くん」
「はい」
「好きになっても仕方ない人を好きになったこと、ある?」
自分で言って、驚いた。
こんなこと、聞くつもりはなかった。
俊介は少し黙った。
「あります」
「え」
「ありますよ」
意外だった。
俊介みたいな人にも、そんな恋があるのだろうか。
「どうしたの?」
「何もしませんでした」
「何もしない?」
「その人が別の人を見ていたので」
「……そっか」
「でも、見ているだけで諦められるほど、簡単でもなかったです」
その言葉が胸に刺さった。
見ているだけで諦められるほど、簡単ではない。
まさに今の私だった。
「その人とは、どうなったの?」
「まだ途中です」
「途中?」
「はい」
俊介はそれ以上言わなかった。
私は雨の落ちる歩道を見つめた。
「私ね」
「はい」
「自分は、恋愛の主役になれないんだと思ってた」
俊介は黙って聞いていた。
「誰かの相談に乗ったり、応援したり、明るくして場を和ませたり。そういうのはできるの。でも、自分が誰かに一番に選ばれる想像が、あんまりできない」
言葉にすると、胸の奥がじんと痛んだ。
「だから、ちょっと優しくされただけで、嬉しくなっちゃった」
「黒瀬さんですか」
名前を出されて、私は立ち止まりそうになった。
「分かってたの?」
「見ていれば分かります」
「そっか」
恥ずかしいより先に、泣きたくなった。
「でも、黒瀬さんには大切な人がいるの。もう亡くなった婚約者さん。今でもその人を大事にしてるんだって」
「……そうですか」
「勝てないよね。勝つとか、そういう話じゃないのも分かってるけど」
私は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「私、最低だよね。亡くなった人にまで嫉妬してる」
「最低じゃありません」
「でも」
「好きなら、苦しくなるのは当たり前です」
俊介の声は静かだった。
「奈々さんが悪いわけじゃありません」
「……」
「ただ、自分を傷つける方向にばかり行かないでください」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「俊介くんって、ほんとに優しいね」
「本当は、黒瀬さんの話なんて聞きたくないです」
思いがけない言葉に、私は俊介を見た。
彼は前を向いたまま、傘を持つ手に少し力を込めていた。
「でも、奈々さんが一人で泣く方がもっと嫌です」
胸が、ぎゅっと痛くなった。
俊介は完璧な人だと思っていた。
いつも正しくて、落ち着いていて、私のことを静かに受け止めてくれる人。
でも、違った。
俊介も傷ついている。
それでも、私の隣にいてくれている。
「俊介くん」
「今のは、聞かなかったことにしてください」
「無理だよ」
「ですよね」
俊介は少しだけ困ったように笑った。
駅の明かりが近づいていた。
改札前で、俊介は傘を閉じた。
「送ってくれてありがとう」
「いえ」
「俊介くん」
「はい」
「私、まだちゃんと返せない。ごめんね」
俊介はまっすぐ私を見た。
「返事がほしくて言ったわけじゃありません」
「でも」
「奈々さんは、脇役なんかじゃありません」
胸が、強く鳴った。
「少なくとも、俺の人生では」
その先を言わずに、俊介は小さく頭を下げた。
「また明日」
私は改札の前で、彼の背中を見送った。
雨に濡れたスーツの肩が、夜の中に消えていく。
その姿を見ながら、私は初めて思った。
俊介を傷つけたくない。
でも、黒瀬さんを好きな気持ちも、まだ消せない。
私はどうしようもなく中途半端で、どうしようもなく臆病だった。
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。
「本当は、黒瀬さんの話なんて聞きたくないです」
それでも俊介は、奈々が一人で泣く方が嫌だと言いました。
そして最後に、
「奈々さんは、脇役なんかじゃありません」
「少なくとも、俺の人生では」
ずっと誰かの恋を応援する側だった奈々にとって、この言葉はまだ簡単に受け取れるものではありません。
黒瀬への気持ちは、まだ消えていない。
俊介の想いにも、まだ応えられない。
そんな奈々に、次話ではさらに残酷な言葉が待っています。
次話「亡き婚約者に似ていると言われた日」も、お読みいただけましたら嬉しいです。




