第1話 私はいつも、誰かの恋の脇役だった
「私はいつも、誰かの恋の脇役だった」
そんなふうに思っている二十九歳の奈々。
優しい取引先の男性と、なぜか自分のことをよく見ている二歳年下の後輩。
ここから、奈々の恋が少しずつ動き始めます。
最後までお楽しみいただけましたら嬉しいです。
奈々がいると場が回るよね。
それは、私がよく言われる言葉だった。
褒め言葉だと分かっている。
悪気がないことも分かっている。
でも、ときどき胸の奥が少しだけ痛む。
場が回る。
安心する。
話しやすい。
友達にいたら最高。
そのどれもが、恋愛の主役にはなれない私にぴったりの言葉に聞こえてしまうから。
「奈々、お願い。今度の飲み会、来てくれない?」
昼休み、同期の真帆が両手を合わせてきた。
「また?」
「お願い。奈々がいると空気が明るくなるんだもん」
「私は司会者じゃないんだけど」
「分かってるって。でも奈々がいると安心なの」
安心。
私は笑った。
「はいはい。予定見ておくね」
「さすが奈々。好き」
真帆は嬉しそうに去っていった。
私は社員食堂のトレーを持ったまま、小さく息を吐いた。
別に真帆が嫌なわけじゃない。
むしろ好きだ。
明るくて、素直で、恋にも仕事にも一生懸命で。
ただ、私はいつもこうだった。
誰かの恋の相談に乗る。
誰かの告白を応援する。
飲み会では話を振って、場を盛り上げる。
そして最後に言われる。
奈々っていい子だよね。
いい子。
その言葉は、選ばれない女の勲章みたいだった。
午後、仕事に戻ると、企画部の篠原俊介が私のデスクに来た。
二十七歳。
私より二つ年下。
半年前に異動してきたばかりなのに、すでに部署内では頼られている。
背が高くて、清潔感があって、仕事ができる。
だけど派手に目立つタイプではない。
余計なことを言わず、必要なことだけをきちんとする人。
そのせいか、社内の女性たちからはひそかに人気があった。
「奈々さん、この資料、確認お願いできますか」
「もちろん」
私は書類を受け取った。
数字に間違いはない。
添付資料もそろっている。
相変わらず、俊介の仕事はきれいだった。
「大丈夫。完璧だと思う」
「奈々さんにそう言われると安心します」
「俊介くん、私が見なくても大丈夫なくらいしっかりしてるじゃない」
「それでも、奈々さんに見てもらった方が落ち着きます」
さらりと言われて、私は一瞬だけ返事に困った。
俊介は、こういうことを普通の顔で言う。
別に甘い言葉ではない。
けれど、不思議と胸に残る。
「はいはい。奈々先輩が確認しました」
「ありがとうございます」
俊介は少し笑った。
その笑顔は、普段の落ち着いた雰囲気より少しだけ幼く見えた。
その日の午後、取引先との打ち合わせがあった。
応接室にお茶を運ぶよう頼まれて、私は給湯室で湯呑みを並べた。
お茶を淹れていると、営業部長の佐伯さんが顔を出した。
「奈々ちゃん、今日のお客様、かなり大事な相手だから」
「はい。失礼のないようにします」
「桐谷商事の黒瀬さん。新規契約の件で来てくれてる」
「分かりました」
お盆を持って応接室へ向かう。
ドアをノックして、静かに開けた。
「失礼いたします」
中には佐伯さんと、見慣れない男性が座っていた。
その人が顔を上げた瞬間、私は少しだけ呼吸を忘れた。
整いすぎた顔というわけではない。
派手な雰囲気でもない。
けれど、穏やかな目元と落ち着いた声に、不思議と視線を引き寄せられた。
三十代後半くらいだろうか。
濃紺のスーツがよく似合っていて、大人の余裕があった。
「ありがとうございます」
私がお茶を置くと、その人は丁寧に頭を下げた。
たったそれだけのことだった。
けれど、その声が耳に残った。
「失礼いたしました」
応接室を出てからも、胸の中が少し騒がしかった。
変なの。
私は自分に言い聞かせた。
ただ感じのいい人だっただけ。
取引先の人。
それ以上でも、それ以下でもない。
けれど、その日の夕方。
黒瀬さんは帰り際、私のデスクの横を通った。
私は反射的に立ち上がる。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。お茶、とてもおいしかったです」
「え、ありがとうございます」
「寒い日だったので、ほっとしました」
たったそれだけ。
それだけなのに、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
黒瀬さんが帰ったあと、私は同じファイルを何度も開いていた。
「奈々さん」
俊介に呼ばれて、私ははっと顔を上げた。
「どうしたの? 俊介くん」
「大丈夫ですか」
「え?」
「同じフォルダ、三回開いてます」
「うそ」
「本当です」
私は慌てて画面を見た。
確かに、同じフォルダが開かれている。
「やだ、私ぼんやりしてた」
「珍しいですね」
「そんなことないよ。私、けっこうぼんやりしてるよ」
「奈々さんは、ぼんやりしてても周りに気づかせないだけです」
指が止まった。
俊介は、何でもないように続けた。
「無理しないでください」
「無理なんてしてないよ」
「奈々さんが明るいのは知ってます。でも、明るい人が傷つかないわけじゃないですよね」
胸の奥に、そっと触れられたような気がした。
私は笑い返すのが少し遅れた。
「俊介くんって、たまに鋭いよね」
「奈々さん限定です」
「そういうこと言うと、誤解されるよ」
「誤解じゃないので」
電話が鳴った。
私は逃げるように受話器を取った。
俊介の言葉が、胸に残る。
奈々さん限定です。
その意味を考えないようにしながら、私は仕事に戻った。
黒瀬さんは、その後も何度か会社に来た。
打ち合わせのたびに、私はお茶を出した。
廊下で挨拶を交わした。
ほんの短い会話をした。
「奈々さん、風邪をひかないように」
「この前教えていただいたパン屋、行ってみました」
「豆大福、お好きだと聞いたので、今度試してみます」
いつの間にか、黒瀬さんは私の名前を覚えてくれていた。
それだけで、私は朝のタイムカードを押す瞬間が少し楽しみになった。
平凡だった毎日が、ほんの少し色づいていく。
会社へ向かう道の景色まで違って見える。
コンビニのコーヒーの香りも、駅前の花屋に並ぶ小さな花も、いつもより鮮やかだった。
恋かもしれない。
そう思ったとき、私は怖くなった。
二十九歳にもなって、こんなふうに誰かの一言で一日中浮かれるなんて。
自分でも呆れるくらい、単純だった。
でも、止められなかった。
黒瀬さんの声を聞くたび、胸が温かくなる。
目が合うたび、何かを期待してしまう。
彼が他の社員と話しているだけで、少し寂しくなる。
私は初めて、自分の中にこんなにも子どもみたいな感情があることを知った。
ある金曜日の夕方だった。
黒瀬さんとの打ち合わせが長引き、佐伯さんに頼まれて追加資料を応接室へ届けることになった。
ノックしようとしたとき、中から声が聞こえた。
「黒瀬さん、そろそろ再婚とか考えないんですか」
佐伯さんの軽い口調だった。
私は反射的に手を止めた。
聞いてはいけない。
そう思ったのに、足が動かなかった。
少し沈黙があったあと、黒瀬さんの声がした。
「考えたことはありません」
「まだ、忘れられない?」
「忘れるという感覚ではないですね」
黒瀬さんの声は、いつもより少し低かった。
「婚約者だった人です。もう七年になりますが、今でも大切な人です」
胸の奥が、すっと冷えた。
婚約者。
七年。
大切な人。
「すみません。変なことを聞きました」
「いえ。もう大丈夫です。ただ、あの人がいた時間ごと、今の自分なので」
私は資料を持つ手に力を入れた。
何を期待していたのだろう。
少し名前を呼ばれたくらいで。
優しい言葉をかけられたくらいで。
お茶を褒められたくらいで。
私は勝手に舞い上がっていた。
黒瀬さんの心には、もう誰かがいた。
生きている人ではない。
でも、だからこそ、私は勝てない。
過去にいる人には、触れることも、話すことも、比べられることさえできない。
私は深呼吸して、何も聞かなかったふりでドアをノックした。
「失礼いたします。追加資料をお持ちしました」
声は、ちゃんと明るかった。
応接室を出て廊下を歩く。
足元が少しふわふわしていた。
胸の中にあった小さな灯りが、消えたわけではない。
ただ、その灯りの向こうに、私では届かない場所があることを知ってしまった。
事務所に戻ると、俊介が私を見た。
「奈々さん」
「うん?」
「泣きそうな顔、してます」
その瞬間、笑顔が崩れそうになった。
私は慌てて目をそらす。
「してないよ。俊介くん、心配しすぎ」
明るく言ったつもりだった。
けれど俊介は笑わなかった。
「そうですか」
それだけ言って、彼は自分の席へ戻った。
私は椅子に座り、パソコンの画面を見つめた。
文字が少しにじんで見えた。
恋の始まりは、こんなに苦しいものなのだろうか。
私はまだ何も始まっていないのに、もう失恋したような気持ちになっていた。
第1話をお読みいただき、ありがとうございます。
黒瀬の何気ない優しさに惹かれていく奈々。
一方で、奈々が笑って隠しているものに気づいている俊介。
「奈々さん限定です」
「誤解じゃないので」
この言葉が、これから少しずつ意味を持ち始めます。
そして奈々は、黒瀬の心に今も残る「大切な人」の存在を知ることに――。
次話もお楽しみいただけましたら嬉しいです。




