白金台
母の訃報で急遽帰省してから一週間、霧谷町の重苦しい空気と不気味な出来事に耐えきれず、私は東京の自宅に戻った。東京都港区白金台。目黒通りと外苑西通りを結ぶイチョウ並木沿いに、おしゃれなカフェやレストラン、ショップが立ち並ぶ。プラチナ通りと呼ばれるこの一帯は、「シロガネーゼ」と称される高級感漂う雰囲気で知られている。街路樹の緑が心地よく目を潤し、昼間の喧騒の中でも穏やかな空気が流れる。だが、霧谷町の霧に慣れた私の目には、その緑さえどこか不自然に映る。まるで、表面の美しさが何かを隠しているかのように。
白金台駅を出てすぐ、プラチナドン・キホーテ白金台店の派手な看板が目に入る。いつものドン・キホーテらしい雑多な商品に加え、三重県の松阪肉専門店「朝日屋」が出店しているなど、ほかの店舗とは一味違う品揃えだ。買い物客の喧騒が響く中、私はカバンを握りしめ、自宅へと向かう。プラチナ通りの街路樹の下を歩きながら、霧谷町での出来事が頭を離れない。こうきの失踪、谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの冷たい目。そして、
「弱い子…」
と囁く声。あの声は、東京まで追いかけてくる気がした。
ふと、背後に気配を感じる。振り返ると、誰もいない。ただ、イチョウの葉が風に揺れ、地面に不規則な影を落としている。その影が、一瞬、人の形に見えた気がした。谷霧稲荷神社で見た歪んだ影と同じだ。心臓が跳ね、足を速める。錯覚だ。霧谷町の動揺が、私の頭を狂わせているだけだ。看護師として冷静でいなければならないのに、こんなことに怯えるなんて、なんて弱いんだ。
自宅マンションの入り口に着く頃、街灯が一瞬ちらついた。突然の暗闇に、胸が締め付けられる。玄関の鏡に映る自分の顔が、どこか他人めいて見える。その後ろに、かすかに揺れる影。サラサラ。耳元で、霧谷町で聞いた囁き声が響く。
「弱い子…」
私は目を閉じ、深呼吸する。幻聴だ。疲れているだけだ。でも、はおりが動き出すと、背後の気配がさらに濃くなる。再び鏡を見た瞬間、鏡に映った影が、私の肩に手を置くように動いた気がした。振り返るが、そこには誰もいない。ただ、冷たい空気が首筋を撫でる。
玄関の扉を確認して安心するために再び鍵をかけなおした。安全なはずの白金台の自宅なのに、霧谷町の霧が忍び込んできたような錯覚に囚われる。窓の外を見ると、プラチナ通りの街路樹が月明かりに揺れている。その向こうで、誰かが立っているような影が一瞬見えた。次の瞬間、街灯がまたちらつき、影は消える。私はカーテンを閉め、ベッドに倒れ込む。こうきの顔、ひよりの言葉、母の日記。すべてが頭の中で渦を巻く。あの町を離れたはずなのに、なぜ、恐怖は私を離さないのか。
私の自宅は、白金台の華やかなプラチナ通りから少し外れた路地にある古いアパートだ。1ルーム、三点ユニットバスで家賃七万円。オートロックなし、一階。東京しかも白金台の物価を考えれば破格だが、職場である病院に近いという理由で、すべての条件を妥協した。セキュリティの不安も、大家さんが同じ敷地内に住み、庭や共用部を管理していると聞いて安心していた。白髪交じりの穏やかな老女、大家の佐藤さんは、引っ越し初日に
「何か困ったことがあったらすぐ呼んでね」
と笑顔で言ってくれた。その笑顔が、今はなぜか不気味に感じる。
部屋に戻り、ソファに腰をかけた瞬間、静けさが耳に刺さる。霧谷町での一週間――こうきの失踪、ひよりの裏切り、谷霧稲荷神社の儀式場――が頭を離れない。窓の外では、プラチナ通りの街路樹が月明かりに揺れ、影が壁に不規則な模様を描く。ふと、床下からかすかな音が聞こえた。カタカタ。誰かが這うような、爪で木を引っかくような音。心臓が跳ねる。一階の部屋だから、ただの動物かもしれない。でも、霧谷町で感じた「何か」に監視される感覚が、ここでも蘇る。
大家さんの部屋は、敷地内の別棟にある。いつもなら、彼女が庭を掃く音や、テレビの音が漏れ聞こえてくるのに、今夜は異様に静かだ。窓からそっと覗くと、大家さんの部屋の灯りが消えている。いや、よく見ると、カーテンの隙間からかすかに揺れる影が見えた。佐藤さんがいるはずなのに、なぜか人間の動きではないように感じる。サラサラ。
「弱い子…」
霧谷町で聞いた囁き声が、ここ白金台の部屋でも響く。幻聴だ。疲れているだけだ。でも、鍵をかけたはずのドアノブが、かすかにガタガタと動く音がした。
私はベッドに座り、膝を抱える。セキュリティのないこの部屋が、今は、まるで牢獄のように感じる。大家さんが管理しているという安心感は、逆に恐怖を煽る。彼女は本当にただの大家さんなのか? 霧谷町の住人たちが私を敵視したように、佐藤さんも何か隠しているのではないか? 窓の外で、街路樹の影が伸び、まるで手を伸ばしてくるようだ。カタカタ。床下の音が再び響く。霧谷町の霧が、この部屋まで忍び込んできたかのように、私の心を締め付ける。
翌朝、私は一週間ぶりに病院に出勤した。白金台の華やかな街並みを抜け、職場である港区の大学病院に足を踏み入れると、病棟特有の騒がしさが私を迎え入れた。パソコンの乗ったワゴンを押す音、モニターの電子音、ナースコールの断続的な響き。見慣れた光景が、まるで私の全てを受け止めてくれるようだった。霧谷町の霧、囁き声、ひよりの裏切り――あの町での恐怖が、遠い悪夢のように感じられる。だが、心のどこかで、霧がまだ私の背後に漂っている気がしてならなかった。
入院患者の中里和子さんの病室に入り、バイタルを測りながら、私はふと母のことを思い出した。母もまた、看護師だった。彼女のナース服姿は、子供の頃の私にとって誇らしいものだったのに、いつからかその背中は冷たく、遠いものになった。
「あなたは強い子だから」
母の言葉が、頭の中で反響する。中里さんの穏やかな寝息を聞きながら、私は考える。患者の目に、母はどう映っていたのだろう。彼女は日々、病棟で何を見ていたのだろう。患者の苦しみ、命の儚さ、それとも、霧谷町の「弱者を喰らう神」の影を? 今となっては、聞くことのできない問いだ。
バイタルチェックを終え、経過表に測定した値や観察項目を入力していると、病室の照明が一瞬ちらついた。心臓が跳ねる。霧谷町での突然の停電、鏡に映る影を思い出す。すぐに照明は元に戻ったが、窓の外を見ると、曇り空の下で街路樹の影が不自然に揺れている。サラサラ。耳元で、かすかな囁き声が聞こえた気がした。
「弱い子…」
私はキーボードを打つ手に力を入れる。これは幻聴だ。疲れているだけだ。でも、中里さんのベッドサイドにおかれた置き鏡に、ふと視線をやると、私の後ろに一瞬、黒い人影が映った。振り返るが、誰もいない。病室の空気が急に冷たく感じられ、母の冷たい目が脳裏に浮かぶ。あの目が、私をここでも見つめているのだろうか。
勤務を終え、病棟の喧騒から解放された私は、もうすぐ退職する先輩に渡すお菓子を買いに行くことにした。職場から徒歩十分ほどのところにある「コロネル」という店だ。ケーキをはじめ、マドレーヌ、フィナンシェ、クッキーなど、色とりどりのお菓子が並ぶ評判の店。甘い香りが漂うその場所なら、霧谷町の重苦しい記憶を少しでも忘れられるかもしれない。地図アプリを開き、プラチナ通りの街路樹を背に歩き出す。
私は昔から方向音痴だ。高校生のとき、初めて塾に行った日、駅から徒歩たった五分のところにある塾に行くのに迷いに迷って一時間もかかったことがある。あのとき、薄暗い路地を何度もぐるぐる回りながら、自分の方向音痴さに嫌気がさした。霧谷町の狭い道でも、よく道に迷ったものだ。今も、地図アプリを握りしめながら、どこか不安が胸をよぎる。白金台の洗練された通りとはいえ、霧谷町の霧が私の頭を曇らせている気がする。
歩き出して五分ほど経ったとき、ふと気づいた。地図アプリに表示された道から大きく外れている。画面では、コロネルは北に進むはずなのに、私はなぜか南の細い路地に入り込んでいた。自分を信じて進みすぎていたと後悔したが、遅かった。コロネルの閉店時間までそう時間はなかったはずだ。冷や汗が背中を伝う。こんな簡単な道で迷うなんて、なんて情けないんだ。霧谷町の囁き声が頭をよぎる。
「弱い子…」
自己嫌悪が胸を締め付ける。
ふと前を見ると、路地の奥に小さな神社のようなものが現れた。古びた鳥居と、苔むした石灯籠。白金台のモダンな街並みに、まるで異物のように佇んでいる。一瞬、霧谷町の谷霧稲荷神社が脳裏に浮かんだ。儀式場の血のような液体、歪んだ彫刻、ひよりの冷たい目。ここに誘導されていた? そんな考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消す。たまたまだ。こんな都会で、霧谷町の恐怖と繋がるはずがない。私は看護師だ。現実的な人間だ。そう自分に言い聞かせ、地図アプリをじっくり見つめ直す。画面の矢印を頼りに、正しい方向へと足を踏み出した。
だが、背後でかすかな音がした。サラサラ。枯れ葉が擦れるような、囁き声のような音。振り返るが、誰もいない。ただ、神社の鳥居の影が、街灯に揺れて不自然に長く伸びている。心臓が跳ね、足を速める。コロネルに着くまで、絶対に振り返らない。そう決めて、霧谷町の記憶を振り切るように歩き続けた。
自宅に戻った私は、落ち着かない気持ちを抑えきれず、ノートパソコンを開いた。コロネルに向かう途中で見つけたあの神社のことが頭から離れない。地図アプリで場所を確認し、「霞谷神社」と入力してグーグルで検索する。それがあの神社の名前だった。画面に現れた公式サイトには、こう書かれていた。
「ここは、古くから商売繁栄、縁結びなどの神様として知られています。当神社には、体長二十センチメートルほどの白蛇が御神殿裏の岩窟の中に棲息しており、今日でもその神縁を得ようと岩窟の隙間に目をやる参拝者の姿を多く目にします」
白蛇。岩窟。穏やかな文面のはずなのに、霧谷町の谷霧稲荷神社で見た血のような液体や歪んだ彫刻が脳裏に浮かび、背筋が冷える。サラサラ。耳元で囁き声が聞こえた気がしたが、振り返ると部屋は静まり返っている。
この情報だけでは足りない。霞谷神社と谷霧稲荷神社、霧谷町の「弱者を喰らう神」の伝説――何か繋がりがあるはずだ。白蛇が神聖な存在だとしても、霧谷町の不気味な儀式場を思い出すと、単なる縁結びの神社とは思えない。私は病院の職員証を使って利用できる大学の図書館に足を運ぶことを決めた。そこなら、もっと詳しい資料や郷土史が見つかるかもしれない。霧谷町の恐怖が白金台にまで及んでいるなら、こうきの失踪やひよりの秘密を解く鍵が、霞谷神社にあるかもしれない。パソコンを閉じると、窓の外で街路樹の影が揺れ、まるで白蛇が這うような不規則な動きに見えた。心臓が跳ね、私はカーテンを強く引いた。
私はソファに沈み込むように座ってテレビをつけた。コロネルのマドレーヌを頬張りながら、ぼんやりと画面を見つめる。霧谷町の恐怖や霞谷神社の不気味なイメージを、甘いお菓子でかき消したかった。テレビからキャスターの声が響く。
「この裁判は二〇一五年に片桐町消防本部でパワハラ行為などを理由に懲戒免職となった元係長と停職六ヶ月となった元職員が処分を不服として市に取り消しを求めていたものです」
私にとってはどうでもいいニュースだ。フォークを口に運びながら、霧谷町の囁き声やひよりの冷たい目を振り払おうとする。
だが、次のニュースにはっとした。
「東京都内に住む十六歳の女子高校生が行方不明になっていることがわかりました。青葉市の高校一年生の平岡桃華さんは七日、十九時五十分ごろにコンビニに行ってくると市内の自宅を出てから戻らず、夜に家族が一一〇番通報しました。平岡さんは身長約一六〇cmで、家を出た時の服装は白のTシャツに黒色のズボン、黒色のトートバッグを持っていました。警察は何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとみて捜索にあたっています」
マドレーヌが喉に詰まりそうになる。霧谷町の失踪事件――真由、彩、美穂、こうき――と重なる。東京でも、似たようなことが起こっているのか? 平岡桃華。知らない名前なのに、なぜか胸が締め付けられる。谷霧稲荷神社の儀式場、母の日記の「神への供物」、霞谷神社の白蛇。すべてが、霧のように私の頭を覆う。テレビ画面に映る桃華さんの写真は、笑顔の少女だった。だが、その笑顔の奥に、まるで「弱い子」と囁く影が見える気がした。
私はリモコンを握りしめ、テレビを消す。部屋が急に静まり返り、窓の外の街路樹が月明かりに揺れる音だけが聞こえる。サラサラ。霧谷町で聞いた囁き声が、ここ白金台でも響く。幻聴だ。こんなことに怯えるなんて、なんて弱いんだ。だが、テレビのニュースが、霧谷町の恐怖を東京にまで引きずり込んでいる。平岡桃華の失踪は、ただの偶然ではないかもしれない。私はノートパソコンを開き、青葉市の地図を検索する。霞谷神社と、平岡さんが消えた場所。どこかで繋がっている気がしてならなかった。
次の休日、私は病院の職員証を手に、大学の図書館にやってきた。霞谷神社と霧谷町の谷霧稲荷神社の繋がりを解き明かすためだ。図書館の自習スペースでは、大学生たちが教科書を広げたり、ノートパソコンを叩いたりしている。出入りする学生の数が刻々と増えたり減ったりする中、私は郷土史や神社の資料を読み漁った。静かな空間に、ページをめくる音とキーボードのクリック音だけが響く。だが、霞谷神社に関する記述は、商売繁栄や縁結び、白蛇の伝説ばかり。谷霧稲荷神社や「弱者を喰らう神」との関連を示す情報は、どこにも見当たらない。「やっぱり関係ないのかな」。私は静かにつぶやき、疲れた目をこする。霧谷町の囁き声や儀式場の血のような液体が、頭の中でちらつく。
息抜きのつもりで、ふと思いつき、青葉市の女子高校生・平岡桃華さんの失踪について調べ始めた。ネットで見たニュースが、霧谷町の失踪事件と重なって離れない。青葉市の歴史や神社を調べるが、目ぼしい情報はない。いくつかの小さな神社が出てくるが、谷霧稲荷神社との繋がりを示す手がかりは皆無だった。ページをめくる手が重くなる。いつの間にか、図書館の窓の外は夕暮れに染まっていた。外の街路樹が、風に揺れて不気味な影を落としている。サラサラ。霧谷町で聞いた囁き声が、耳元で一瞬響いた気がした。振り返るが、近くの大学生がノートを閉じる音だけが聞こえる。幻聴だ。こんなことに怯えるなんて、なんて弱いんだ。
この日は何の収穫もないまま、私は図書館を後にした。白金台の夜の街を歩く。街灯がちらつき、影が私の足元で揺れる。霞谷神社の白蛇、平岡桃華の失踪、霧谷町の儀式場。すべてが、霧のようにぼんやりと繋がりそうで、でもはっきりしない。家路を急ぐ私の背後で、かすかな足音が聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。ただ、夜の空気が冷たく、首筋を刺すように感じられた。
勤務を終えた私は、霧谷町の記憶に引きずられるように、再び霞谷神社に足を運んだ。白金台の華やかな街並みを抜け、路地の奥に佇むその神社は、霧谷町のような濃い霧はないものの、どこか谷霧稲荷神社の不気味な雰囲気を思わせた。古びた鳥居の苔、風に揺れる木々の影。すべてが、霧谷町の儀式場や血のような液体を連想させる。私は息を呑み、足を進めた。境内はごく普通の神社そのものだ。賽銭箱、鈴緒、石灯籠。だが、空気が重く、首筋に冷たいものが触れるような感覚がある。
御神殿の裏に回り、白蛇が棲むという岩窟を覗いた。暗い隙間は、懐中電灯の光を飲み込むように黒々としている。白蛇の姿は見えない。ネットで読んだ「神縁を得ようと参拝者が目をやる」という言葉が頭をよぎる。「神縁ね」。私は静かにつぶやいた。その瞬間、カサカサと風の音が聞こえた。いや、風ではない。岩窟の奥から、枯れ葉が擦れるような、あるいは蛇が這うような音。心臓が跳ね、霧谷町で聞いた「弱い子…」という囁き声が脳裏に響く。振り返るが、境内には誰もいない。ただ、木々の間を抜ける風が、不自然に冷たく感じられた。
この日も、霞谷神社から新たな情報は得られなかった。私は肩を落とし、帰路についた。白金台の街灯がちらつく中、頭の中でモヤモヤが広がる。霞谷神社と谷霧稲荷神社の類似性、平岡桃華の失踪、こうきの行方。すべてが繋がりそうで、でも霧のように掴めない。家路を急ぐ私の背後で、カサカサという音が一瞬追いかけてきた気がした。振り返ると、ただの街路樹の影が揺れているだけ。だが、その影が、まるで谷霧稲荷神社の歪んだ彫刻のように、私を嘲笑っているように見えた。
ワンルームの静寂を、テレビから流れるニュースのキャスターの声が破った。
「昨日午後、十一時半頃、月見市に住む二十四歳の女性と連絡がとれないと同居している女性の親族から警察に行方不明届が提出されました。警察と消防が女性のスマートフォンの位置情報をもとに青葉市の山林の捜索が進められていました。神社近くの山林で今日午後三時頃、倒れている女性を発見しましたが、死亡が確認されました。警察は死亡したのが、行方不明になっている女性の可能性があるとみて身元や死因などを調べています」
ドキドキと、はおりの鼓動が速くなる。女性、神社。霧谷町での失踪事件――真由、彩、美穂、こうき――と、頭の中で繋がる。青葉市の神社、霞谷神社の白蛇、谷霧稲荷神社の儀式場。すべてが、「弱者を喰らう神」の伝説と結びつく気がした。二十四歳の女性。私と同じ歳だ。胸の奥で、恐怖が膨らむ。もしかして、この死もあの神と関係している? 霧谷町の恐怖が、熊本を越え、青葉市にまで広がっているのか? テレビ画面に映る山林の映像は、霧に覆われた谷霧稲荷神社を思わせる。不穏な空気が、狭い部屋に立ち込める。
私はリモコンを握りしめ、テレビを消した。だが、静寂が戻った部屋で、耳元にかすかな音が響く。サラサラ。
「弱い子…」
霧谷町で聞いた囁き声が、ここ白金台のワンルームでも追いかけてくる。窓の外では、街路樹の影が不自然に揺れ、まるで誰かが窓の向こうで私を見つめているようだ。心臓が締め付けられ、息が苦しい。これは幻聴だ。ニュースに動揺しているだけだ。そう自分に言い聞かせるが、部屋の空気が冷たく、首筋を刺す。不意に、床下からカタカタと小さな音が聞こえた。まるで、誰かが這うような、爪が木を引っかくような音。私は膝を抱え、震える手を握りしめる。霧谷町の霧が、この部屋まで忍び込んできたかのようだった。
次の休日、私は再び大学の図書館に足を運んだ。霞谷神社や霧谷町の謎を解く手がかりを求めて、膨大な資料を前に途方に暮れていた。自分では探しきれない。そう思った私は、カウンターに立つ司書に声をかけた。眼鏡をかけた中年の女性司書は、穏やかな笑みを浮かべ、「どのような資料をお探しかしら?」
と尋ねてきた。霞谷神社や青葉市、月見市の失踪事件について話すと、彼女は
「少しお待ちを」
と奥の貯蔵庫に消えた。しばらくして、埃っぽいファイルや古い新聞の切り抜きを抱えて戻ってきた。
「見終わったら声をかけてください。他にも見たい資料があればお出ししますよ」
その柔らかい口調に、霧谷町の冷たい視線や白金台の不気味な空気を忘れ、ほっとした気持ちが広がった。
急いで自習スペースの席につき、資料を広げる。新聞の切り抜きに目が留まった。
「女性 行方不明 不審死」。見出しが大きく踊る。ページをめくる手に力が入る。記事は、青葉市での二十四歳女性の死亡事件を報じていた。神社近くの山林で発見された彼女の死因は不明、警察は事件性を疑っている。別の切り抜きには、青葉市の平岡桃華さんの失踪についても触れられていた。詳細は少ないが、「神社周辺での異常な目撃情報」という言葉が目に入る。心臓が跳ね、霧谷町の谷霧稲荷神社での儀式場、血のような液体、ひよりの冷たい目が脳裏に浮かぶ。サラサラ。耳元で囁き声が聞こえた気がした。
「弱い子…」
私は周囲を見回すが、図書館の静寂の中、大学生たちが黙々と勉強しているだけだ。
ページをめくる手が震える。この事件は、霧谷町の失踪事件と繋がっている。霞谷神社の白蛇、月見市の山林、青葉市の失踪。すべてが、「弱者を喰らう神」の伝説と重なる。だが、確かな証拠はない。資料を閉じると、窓の外はすでに薄暗い。図書館の蛍光灯が一瞬ちらつき、背筋が冷える。司書の柔らかい笑顔が、なぜか霧谷町の住人の視線を思い起こさせた。席を立ち、資料を返却する際、司書の目が一瞬、私をじっと見つめた気がした。錯覚だ。そう自分に言い聞かせるが、図書館を出る私の背後で、カサカサと不気味な音が響いた気がした。
また別の休みの日、私は港区にある郷土資料館に足を運んだ。霞谷神社や霧谷町の谷霧稲荷神社、そして「弱者を喰らう神」の伝説について、もっと詳しい情報が手に入るかもしれないと思ったのだ。事前に電話で連絡を入れていたこともあり、館長の老紳士が穏やかな笑顔で迎え入れてくれた。
「下津家さんですね。資料は用意しておきましたよ」
その声は温かかったが、なぜか胸のざわめきが広がる。霧谷町で感じた監視される感覚、町の住人の冷たい視線が、頭の片隅でよみがえる。
資料室に案内され、木製の机に古い書籍や手書きの記録を広げる。ページをめくる手に、どきどきと鼓動が響く。そこには、霞谷神社の歴史や白蛇伝説の詳細が記されていたが、谷霧稲荷神社との直接的な繋がりは見つからない。だが、ある古い手記に、「霧の夜に神が目覚め、弱魂を喰らう」という一文が目に入った。霧谷町の伝説とあまりに似ている。手記の端には、掠れた文字で「供物の儀」と書かれていた。谷霧稲荷神社の儀式場、血のような液体、ひよりの言葉が脳裏に閃く。サラサラ。耳元で囁き声が聞こえた気がした。「弱い子…」。私は手を止め、資料室を見回す。館長は奥のカウンターで静かに書類を整理しているだけだ。錯覚だ。こんなところで怯えるなんて、情けない。
それでも、資料を手に持つ指先が震える。この手記は、霧谷町の失踪事件や青葉市の不審死、青葉市の平岡桃華さんと繋がっているかもしれない。館長がふと顔を上げ、私をじっと見つめた気がした。その目は、霧谷町の住人やひよりの冷たい視線を思い起こさせる。私は急いで資料を閉じ、礼を言って資料館を後にした。外に出ると、白金台の街灯がちらつき、夜の空気が冷たく頬を刺す。背後で、カサカサと不気味な音が聞こえた気がしたが、振り返る勇気はなかった。
休憩時間、病院のスタッフルームでコーヒーを飲みながら、私はある先輩に声をかけた。千賀広大、三十代半ばの穏やかな看護師。彼が青葉市出身だと聞いたことがあった。霞谷神社、霧谷町の谷霧稲荷神社、そして「弱者を喰らう神」の伝説について、何か知っているかもしれないと思ったのだ。
「千賀さんって青葉市出身ですよね? 弱者を喰らう神って、聞いたことありますか?」
私はできるだけさりげなく尋ねた。
その瞬間、千賀さんの表情が変わった。いつも温和な彼の目が一瞬鋭くなり、コーヒーカップを持つ手が止まる。
「知ってるよ。女の子や若い女性が失踪したり、遺体で見つかったりしてるやつだよね」
彼の声は低く、どこか遠い響きがあった。スタッフルームに不穏な空気が漂う。隣のテーブルで談笑していた同僚の声が、急に遠く感じられた。千賀さんは続ける。「青葉市には、昔から変な噂があったんだ。神社近くで人が消えるって。俺、子供の頃、親から『夜は神社に絶対に近づくな』って言われてた」
彼の視線が私を捉え、まるで霧谷町の住人のように、私を試すような目で見つめる。
やっぱり全部繋がっている。霧谷町の失踪事件、青葉市の不審死、青葉市の平岡桃華さん、谷霧稲荷神社の儀式場、霞谷神社の白蛇。はおりの胸に、直感が稲妻のようにはしった。千賀さんの言葉が、霧のようにぼんやりしていた謎を少しだけ照らす。でも、同時に恐怖が膨らむ。サラサラ。スタッフルームの空調の音が、霧谷町の囁き声に似て聞こえた。「弱い子…」。私はカップを握りしめ、錯覚だと自分に言い聞かせる。だが、千賀さんの視線が離れない。まるで、私が次の「弱者」だと知っているかのように。不意に、部屋の蛍光灯が一瞬ちらつき、背筋が冷えた。




