表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/8

霧谷町


 十日間の夏季休暇を利用し、私は再び霧谷町へ戻った。東京の喧騒を離れ、緑豊かな河川や田園風景が広がるこの町は、懐かしい気持ちを呼び起こす。バスを降り、肥後霧の谷村駅に立つ。高校への通学に使っていた無人駅だ。だだっ広いホームは、緑が生い茂り、どこか寂しげな雰囲気が漂う。毎朝、駆け足で電車に飛び乗っていたことを思い出す。

「朝課外、懐かしいな」

 私が通っていた霧島高等学校は、この地域で唯一の自称進学校だった。「きりこう」と呼ばれ、地元の誇りだった。他にも霧島工業高校と霧島商業高校があり、それぞれ「工業」「商業」と呼ばれていた。


 私たちが毎朝乗っていた電車は、学生だけの満員電車だった。ド田舎でしか見られない光景だ。二両や三両という少ない車両に、霧島高校、霧島工業高校、霧島商業高校それぞれの学生たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれる。肥後霧の谷村駅は学生が乗り込む最後の駅で、駅に到着した電車の扉が開く頃にはすでに満員だった。駅員さんに

「ほらちゃんとつめて、つめて!」

と押し込まれながら頑張って乗った記憶が蘇る。だが、中にいる学生たちはスマホや参考書に夢中で中々詰めてくれないことも多く、数人の子たちと一緒にホームに取り残されたことが何度かあった。田舎だから電車は一時間に一本のペースでしか来ない。満員で溢れたからとかそんな事情は関係なく、乗り遅れれば遅刻確定だ。電車に乗り込めず、一時間目の前に行われる朝課外がサボれてラッキーだとか思ってたことを思い出す。残された子たちで駅のベンチに座って次の電車を待ちながら国語や英語の単語テストの勉強した。毎日、教科書でパンパンのカバン、重かったな。それに到着した霧島佐良寺駅のホームは学生たちでごった返す。さこんなドのつく田舎にICカードというものは存在しない。だから、紙の定期券を駅員に見せて改札を通らなければならなかった。中には小銭で支払う学生もいたから確認するのに時間がかかっていた。改札の手前で詰まる学生の列のせいで、なかなか降りられずに扉が閉まりかけたこともあった。あれはあれでヒヤッとしたな。そんな思い出に浸りながら、私は駅のホームを後にし、霧谷町の中心へ向けて歩き出した。


 だが、懐かしさの裏で、胸のざわめきが消えない。霧が町を覆い、遠くの山々がぼんやりと霞む。谷霧稲荷神社の不気味な儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。そして、霞谷神社の白蛇や月見市の不審死。あの「弱者を喰らう神」の伝説が、頭の中で渦を巻く。歩くたび、背後に気配を感じる。サラサラ。枯れ葉が擦れるような囁き声が、霧の中から聞こえた気がした。

「弱い子…」

 振り返るが、誰もいない。ただ、ホームの端で、緑の茂みが不自然に揺れている。錯覚だ。そう自分に言い聞かせるが、足元が震える。この町に戻ったのは、真相を突き止めるためだ。こうきを、取り戻すためだ。私は拳を握り、霧の道を進んだ。


 肥後霧の谷村駅から徒歩十分、畑や小さな竹藪が茂る自然豊かな場所に、母方の祖母の家があった。仕事で忙しかった母は、よく私を祖母の家に預けた。懐かしいな。道を歩きながら、記憶が蘇る。道端にぽつんとある古びた自動販売機。塾や学校に行く前に、慌てながらここで飲み物を買ったものだ。その横には、野菜や果物の無人販売のスタンド。祖母が

「最近、お金を払わず持っていく人が後を絶たなくて、出品者が困ってるんだよ」

とぼやいていたのを思い出す。細い裏道は、幼い頃の散歩コースだった。かつては繁盛していたであろう居酒屋の建物が、今は色褪せた看板を残したまま空き家になっている。寂れたその姿が、霧谷町全体の重い空気と重なる。


 祖母の家の前には、大きな犬を飼っている家があった。子供の頃、私はそこの前を通るたびに怯えたものだ。

「抜き足、差し足、忍び足」

 祖母と一緒に、おまじないのように囁きながら、吠えられませんようにと強く願いながら、そおっと犬の前を通った。無事に吠えられずに済むと、祖母と手を叩いて喜んだ。あの温かい記憶が、今は遠く感じる。霧が道を覆い、竹藪の間から冷たい風が吹き抜ける。サラサラ。囁き声が聞こえた気がした。

「弱い子…」

 私は立ち止まり、辺りを見回す。誰もいない。ただ、居酒屋の空き家の窓に、かすかに揺れる影が映った気がした。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。霧谷町の恐怖が、懐かしい思い出にまで忍び込んでくる。私は震える足を叱咤し、祖母の家に向かって歩を進めた。


 祖母の家の前に着くと、懐かしい木造の家が見えた。その目の前には、新しいモダンな家が建っている。対照的な二つの家屋の奥、緩やかな坂を登る石段が、墓地へと続いていた。子供の頃、曽祖母と一緒にお墓参りに行ったことを思い出す。墓地は、木々に囲まれ、静かな空気が漂う場所だった。一人で取り残されても、怖いとは感じなかった。むしろ、秘密基地のような不思議な気持ちにさせられた。住宅が並ぶ土地より少し高台にあるその墓地からは、霧谷町の家々や田園風景が見渡せた。いわば特等席だった。曽祖母が墓地の水道で花の水を替えたり、墓石を丁寧に拭いたりするのを、じっと見つめていた。 

「ひいばあちゃん」

 そっと呟いてみる。


 曽祖母は九十七歳まで生きた。九十歳を過ぎても、朝早くから畑仕事をしたり、夕方遅くまで草むしりをしたりと、働き者だった。色んなところに連れて行ってくれ、色んなことを教えてくれた。元小学校の教師だった曽祖母は、厳しい一面もあった。

「しっかりはねとめをしなさい」

「その字は書き順が違うよ」

 宿題をする私に、よくそう言った。

「ひいばあちゃん、いつもいつも厳しいよ。合ってればいいの、合ってれば」

 生意気にも口答えしたこともあった。お相撲と称して、二人で取っ組み合いをしたことも。曽祖母は小柄だったが、驚くほど力が強かった。そんな彼女は、私が中三のとき、庭で転んで骨折した。

「あれ?ひいばあちゃんは?」

家中を探しても曽祖母の姿がないのに驚いて祖母に尋ねると

「ひいばあちゃん、庭で転んで骨折して入院したのよ。あれだけ気をつけてと言ってたのにね。油断したんだろうね」

それから曽祖母は少しずつでも、確実に弱っていった。

「しっかり勉強頑張るんだよ。応援してるからね」

 お見舞いに行くと、曽祖母はそう言った。その目は、衰えた体に反して、力強さを湛えていた。

「百歳までは元気でいたいね」

「長生きしてはおりちゃんの花嫁姿見てみたいよ」

曽祖母はそうよく言っていた。しかし、それに反して体はますます弱っていった。

その後、自宅に戻ったり、施設に入ったりしたが、97歳の春、静かにあの世へと旅立った。あれが、私が初めて経験した人の死だった。


 今、墓地への石段を眺めながら、あの力強い目が脳裏に浮かぶ。だが、霧が石段を覆い、墓地の木々が不自然に揺れている。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、墓地の奥から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。ただ、新しい家の窓に、かすかに揺れる影が映った。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。曽祖母の死さえ、この町の謎と繋がっている気がしてならなかった。私は震える手を握りしめ、歩みを進めた。


 祖母の家の敷地に入り、正面の玄関に向かった。チャイムを押そうとして、ふと手を止める。やっぱり、あそこに寄ってからにしよう。「下の屋敷」と呼んでいた場所だ。祖母の家から南に五十メートルほど下った、畑に囲まれた一角。近くには湧き水が流れ、澄んだ水音がどこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。子供の頃、その水面に映る空を眺めながら、不思議な気持ちになったものだ。今、霧がその辺りを覆い、水音が遠く聞こえる。サラサラ。囁き声のような響きが、霧谷町の記憶と重なる。


 下の屋敷には、屋根付きの駐車場がある。祖父の古い乗用車が、今も変わらずそこに停まっていた。フロントガラスには砂埃が溜まっている。膝が悪く、杖をついてゆっくり歩く祖父。習い事や通院の送り迎えをしてくれた彼を、私は

「じいちゃん、はやくはやく」

と急かしたこともあった。駐車場の脇には、小さな小屋が二つ。一つは観葉植物が並ぶ温室、もう一つは畑仕事の道具が詰まった納屋だ。納屋には畳が敷かれたスペースとロフトに続く階段があり、子供の頃、私はそこを「秘密基地」と呼んで遊び場にしていた。納屋の隣にはビニールハウス。トマトや枝豆を育て、夏には祖父と一緒に収穫に行った。蚊に何十ヶ所も刺され、痒さに泣きそうになったことも思い出す。


 下の屋敷の中央には、大きな栗の木が立っている。秋になると、祖父と栗拾いを楽しんだ。イガイガが指に刺さり、痛い思いをしたこともあった。ふと、足元に目をやると、枯れた花が散らばっている。祖父は花を育てるのが趣味だった。色とりどりの花の苗を買ってきては育て、私の家にもプランターごと運んできてくれた。綺麗な花が並ぶのを見て、いつも温かい気持ちになったものだ。今、その花は枯れ、色褪せている。まるで、霧谷町全体が色を失ったかのようだ。

 下の屋敷の奥、畑を埋め立てて一段高くなった土地がある。かつて祖母が

「ここに三世代住宅を建てるんだ」

と張り切っていたことを思い出す。結局、それは祖母の妄想に終わり、何の話も進まなかった。今、その土地は雑草に覆われ、霧が低く漂っている。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、栗の木の陰から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。ただ、ビニールハウスの窓に、かすかに揺れる影が映った。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。祖父の花や祖母の夢さえ、この町の不気味な霧に飲み込まれている気がした。私は震える足を踏みしめ下の屋敷を後にした。


 下の屋敷からさらに南に下り、颯爽と生い茂った竹藪の森を抜けると、ひらけた場所に出た。どこまでも続く長い道の脇には、用水路を透明な水が静かに流れる。祖母が言っていた。

「この田んぼとさっきの竹藪の一部は、下津家家の土地なんだよ」

 その言葉を思い出しながら、道を突き進むと、緩やかな坂が現れる。登り切ると、サイクリングロードと河川敷が広がり、急流の霧川が姿を見せる。時折、釣り人の姿が遠くにちらつく。子供の頃、大雨の日には濁流が轟々と流れ、氾濫するのではないかと町民の不安を煽った。あの日は学校が休校になり、雨の中、カッパを着てこっそり家を抜け出し、霧川が見える防波堤まで友達とやってきた。スマホで写真や動画を撮り、別の友達と送り合った。喜んではいけないけど、子供にとって休校の日は特別で、胸がウキウキしたものだ。


 広くどこまでも広がる田園風景は、その懐かしさに心が温まる。ここの道は祖母や曽祖母と散歩に来て、田んぼの向こうを走る電車に向かって手を振ったり、声を上げたりした。中には窓から手を振りかえしてくれる乗客もいて、子供心に嬉しくなった。そんな温かい記憶が、霧谷町の重い空気と対照的に胸をよぎる。だが、霧が田んぼを覆い、用水路の水面が不自然に揺れている。サラサラ。

「弱い子…」 

 囁き声が、竹藪の奥から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。ただ、霧川の対岸で、木々の影が不気味に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。懐かしい風景さえ、この町の不気味な霧に飲み込まれている気がした。私は震える手を握りしめた。


 かつて、この先にひっそりと横たわる踏切で、ひとつの悲劇が幕を閉じたという。命を落としたのは、若く、耳の聞こえない女性だった。遮断機は無情にもその役目を果たさず、壊れていたと囁かれている。こんな小さな田舎町で、電車の事故などめったに起こらないものだから、その日は町中がざわめきに包まれたという。ここを通るたびにその話を思い出し、胸の奥に鈍い痛みが広がる。


 サイクリングロード沿いをまっすぐ西に進むと、嫌な思い出が蘇ってきた。霧島高校の伝統行事、「霧川歩行」。一年に一度、丸一日かけて全学年の生徒が一チーム五、六人で市内のお寺や神社を巡りながらひたすら歩く行事だ。特定のスポットには、教員や保護者、地域の人がお菓子や飲み物を用意して待っていてくれる。仲間と励まし合いながら自然の中を歩くこの行事は、普段とは違う特別感があった。だが、それは過酷だった。学校指定の硬いシューズで、時折、舗装されていない砂利道や急な坂を歩かなければならない。足に豆やタコができ、痛みが走った。怪我や体調不良で脱落する生徒も何人かいた。脱落した者は学校に戻され、トイレや校内の決められた場所の掃除をさせられる。制限時間に遅れた者も、車で巡回する教員に回収され、救護の手伝いや掃除を強いられた。それだけは、何としてでも避けたかった。


 私も体力には自信がなかったが、忍耐力には自信があった。友達と励まし合いながらなんとか頑張った。一年生の時、チームの仲間の一人が足を負傷して脱落した。悔しそうな彼女の顔が忘れられない。私たちは彼女の思いを胸に、みんなでゴールすることを心に決めた。だが、足を進めるにつれ、疲れから口数が減り、みんなの表情が暗くなっていった。私は少しでも励まそうと、楽しい話をしたり、冗談を言ったりした。だが、誰も乗ってこない。

「限界、もうやめたい」

 隣を歩く子が、弱音を吐いた。それでも私は諦めず、明るい声で話を続け、みんなを励ました。自分の努力が無駄に感じられる瞬間もあった。どんなに頑張って話をしても返ってくるのは沈黙と重い足音。ずっと降ろしている指先はむくみ、一歩一歩進める足は鉛のように重い。いまにも心が折れそうだった。


やっと学校の校舎が見えたとき、みんなの顔に笑顔が戻った。

「はおりちゃん、本当にありがとう」

「はおりちゃんが色々話して励ましてくれていたおかげで最後まで頑張れたよ」

 仲間からの患者の言葉に、私の努力は無駄ではなかったと、胸が熱くなった。だが、今、サイクリングロードを歩く私の背後で、霧が濃く漂い、木々の間からサラサラという音が聞こえる。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、霧川歩行の記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、遠くの神社の方角で、木々の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。あの過酷な行事で感じた「弱さ」と、町の伝説が重なる。私は震える手を握りしめ、祖母の家へと急いだ。


 祖母の家に戻る道すがら、私の頭に大和霧宮神社が浮かんだ。祖母の家からほど近いその神社は、抜けると小学校の校舎の裏に出る。壊れたフェンスの隙間から校庭に入れたものだ。本来は禁止されていたが、近所に住む小学生たちはよくその近道を使っていた。人気のない境内は、静かでどこか不気味な空気が漂っていた。

「はおりちゃん、危ないから一人で通っちゃダメよ」

 祖母にそう言われていた私は、怯えながらもこっそり通ったことがある。確かに不気味な雰囲気はあるが、ごく普通の神社だ。祖母の表現は大げさだと、子供心に思っていた。だが、祖母が怖がるのには理由があった。当時、小学生だった祖母は、習い事の帰りに近道しようと神社を通ったとき、突然、顔に袋を被せられたという。全力で抵抗し、目の前の人影に向かって思い切りキックしてなんとかその場から逃げ出したが、今思い出しても涙が出そうなほど怖い思いと話していた。犯人は、近くに住む中学生の男子たちだったそうだ。

 そんな大和霧宮神社も、霧宮民謡の女型というようなお祭りや催し物で賑わうことがあった。覚えているのは、クラスのヤンチャ坊主、中山裕也とその弟の浩也が出る幕を見に、担任やクラスの仲間たちと足を運んだことだ。提灯の灯りに照らされ、太鼓や笛の音が響く境内は、普段の不気味さとは打って変わって活気に満ちていた。だが、今、祖母の家に戻る道を歩きながら、霧が境内の木々を覆っているイメージが頭に浮かぶ。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、大和霧宮神社の記憶に忍び込む。振り返ると、竹藪の奥で影が揺れた気がした。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。祖母の怖い経験さえ、この町の「弱者を喰らう神」の伝説と繋がっている気がしてならなかった。私は震える足を踏みしめ、祖母の家の玄関へと急いだ。


 下の屋敷を後にし、墓地のある高台が見える坂道を登りながら、幼少期の記憶が蘇ってきた。この坂道で転んで膝をすりむいたとき、曽祖母に言われた言葉。

「それくらいで泣かない。強い子は泣かないの」

 厳しいその言葉は、まだ甘えたい気持ちでいっぱいだった私には嫌で嫌でたまらなかった。

「ひいばあちゃんのいじわる」

 心の中でそうつぶやいたものだ。そのとき、曽祖母の隣には花子さんというお婆さんがいた。彼女は曽祖母の親友で、下の屋敷を下ったところに住んでいた。足が悪く、シニアカーに乗って祖母の家にやってくる花子さん。膝が悪く、杖を二本つきながら、ゆっくりと縁側までの道のりを歩いてくる姿をよく覚えている。花子さんのシニアカーが家の前に現れると、私は

「ひいばあちゃん、花子さんがきたよ、花子さんがきた!」

と家の中を走り回って叫んだ。

「はいはい、ありがとう。はおりちゃん、ちゃんと座って挨拶しなさいよ」

 曽祖母は興奮する私をたしなめた。


 花子さんは、曽祖母よりいくつか年下だったらしいが、白髪を染め、いつも綺麗に整え、化粧までして姿勢の良い曽祖母に比べ、真っ白な白髪にシワの多い顔、腰の曲がった花子さんは随分おばあさんに見えた。縁側に置かれた椅子に腰掛け、祖母が作った漬物やおひたし、祖母が買ってきた和菓子とお茶を頬張りながら、二人で何時間も話し込んでいた。曽祖母とはやく遊びたくて、曽祖母を取られた気がして内心「花子さんはやく帰ってくれないかな」と思ったものだ。祖母の家の裏に住む椎名さんという、祖母より少し年上のおばあさんも常連だった。花子さんと曽祖母が話しているところにやってきては、長いおしゃべりを楽しんで帰っていく。私は「椎名さんまで来ませんように」と心の中で願ったものだ。今となっては、そんな子供っぽいことをしていた自分が懐かしい。


 だが、坂道を登る私の背後で、霧が濃く漂い、竹藪の間からサラサラという音が聞こえる。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、幼い日の記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、墓地の石段の方角で、木々の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。曽祖母の厳しい言葉や花子さんのシニアカーの音さえ、この町の不気味な霧に飲み込まれている気がした。私は震える手を握りしめ、祖母の家へと急いだ。


 祖母の家の前の道は、朝になると小学生が集団で歩き、中学生や高校生が自転車で学校に向かう賑やかな通りだった。インフルエンザや胃腸炎にかかると、母は私を家から追い出し、祖母の家で療養させた。みんなが学校に行っている時間、熱や腹痛にうなされながら布団にくるまっていた私に、道を通る児童や生徒たちの元気な声が聞こえてきた。私はまだ布団の中にいるというのにみんなの時間は進んでいる。なんだか不思議な気持ちだった。いつもカーテンが全開の縁側の窓からは、外を通る人たちがよく見えたが、中の様子も丸見えだった。だから、下校時間になると、知っている子に見つからないよう、急いで奥の部屋に引っ込んだ。

 変に真面目な性格だった私は、授業時間やみんなが下校する時間になるまでは絶対にテレビを見ないというマイルールを持っていた。テレビの番をしているかのように暇があればテレビにかじりつく祖父に、よく文句を言った。

「テレビつけないで、つけないで! あっちで観て!」

「うーん、しかし、台所は今、散らかっとるからな」

とぶつぶつ言いながら、祖父は仕方なく私に従ってくれた。


私は優しい祖父が大好きだった。インフルエンザや胃腸炎にかかっているというのにマスクもせず、祖父の膝に乗り、ちょっかいを出した。

「やめい、うつる、うつる!」

と祖父は迷惑そうに言ったが、内心嬉しそうだった。居間や炊事場のテレビの前に座る祖父にイタズラしたこともある。リモコンを遠くから操作してテレビを消すと、

「あれ? 消えたぞ、壊れたんじゃないか」

と驚く祖父を見て、クスクス笑った。祖母はそんな私たちを見て大笑いしていた。そんな余計なことばかりしても決して怒らない祖父が、私は本当に大好きだった。


 休日には、祖母の家に遊びに来ている私を尋ねて、同級生の男子や女子がやってくることもあった。一緒に下の屋敷や家の敷地内を探索したり、虫取り網を使って虫を捕まえて遊んだ。私が不在のときは、祖母からよく

「〇〇くんがきたよ」

「〇〇ちゃんがきたよ」

と伝言が届いたものだ。だが、今、その道を歩く私の背後で、霧が濃く漂い、道の先にぼんやりと人影が揺れた気がした。気のせいか。でも、はっきりとサラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、懐かしい記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、縁側の窓に、かすかに揺れる影が映った。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。祖父の優しい笑顔や友達との思い出さえ、この町の不気味な霧に飲み込まれている気がした。私は震える手を握りしめ、祖母の家の玄関へと急いだ。


 祖母の家の広い座敷の窓側には、ピアノが置かれていた。定期的に調律師が訪れるため、いつ弾いても美しい音色が響いた。私は小学校三年生からピアノを習っていたから、発表会前になるとよくここで練習した。家には電子ピアノがあったが、やっぱり音の響きが全然違った。

 ピアノの横には、叔母でピアノ教師の優子が過去に使っていた楽譜や音楽雑誌が山積みになっていた。その隣には、祖父が中学校の教師をしていた時の生徒の卒業アルバム、そして、祖父が趣味で撮った写真のアルバムがあった。お餅つきや正月の家族の集まり、ピアノの発表会、運動会、何気ない日常の一コマまで、祖父はカメラに収めていた。どこからともなく現れては、

「はい、みんなこっち見て、こっち見て。はおりこっち見らんか」

とカメラを向けてくる祖父。現像した写真は、家族に渡す分と保管する分に分けられていた。その窓側が祖父の定位置だった。庭を眺め、通りかかる人や尋ねてくる人を見つけては祖母に報告するのが日課だった。


 今日もその定位置に祖父が座っている。チャイムを押し、部屋の奥に向かって

「こんにちは」

と声をかける。杖をつきながら、ゆっくりと祖父がやってきた。

「誰だ? ひおりか? 何年生になった?」

 数年前、脳出血を起こし、その後遺症で認知症になった祖父。祖父の中の私は、ずっと高校生のままだ。

「もう学校を卒業して、今は二十四歳だよ」

 祖母も出てきて、穏やかに言う。

「お父さん、はおりちゃんはね、看護師さんになったの。今は東京の病院で働いてるのよ」

「おう、そうか。東京で。看護師さんか…」

 まるで今初めて聞いたかのような祖父の顔に、胸が締め付けられる。私のよく知っている、優しくてどんなイタズラしても受け止めてくれるあの祖父じゃなくなっているのが、たまらなく悲しい。

 でも、それは今に始まったことじゃない。高校生の頃、遊びに来ていたときも、祖父の認知症の症状は確実に彼を蝕んでいた。

「明日は学校か?」

「晩飯はなんだ?」

「今日の新聞はどこだ?」

 同じ質問を何度も繰り返す祖父に、祖母は苛立ちを隠せなかった。

「今日の晩飯は肉じゃがです! これで三回目。いい加減にしてください!」

 祖母の強い口調が家中に響き渡ったのを覚えている。そんな二人を見て、私は心が痛んだ。看護学校で認知症の看護を学んだのに、現実を受け止めるのが辛くて、何もできなかった。優しい祖父がいなくなってしまう気がして、声をかけることさえ、できなかった。


 今、四角いメガネの奥の祖父の曇った目を見ると、霧谷町の霧が心に忍び込む。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、座敷の奥から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。ただ、窓の外で、庭の木々が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。祖父の認知症も、この町の不気味な霧に飲み込まれている気がした。私は震える手を握りしめ、祖母に微笑みかけながら、座敷に足を踏み入れた。


 祖母の家の座敷に入り、仏壇に手を合わせた。

「ひいばあちゃん、帰ってきました。私は今、東京でなんとか頑張っています」

 曽祖母の遺影が、力強い目で私を見つめ返す。背後から、祖母の声がした。

「はおりちゃん、お抹茶でもたてようか」

 祖母は茶道の先生をしていた。私も高校生の初めまでは習っていたが、高校に入って部活や勉強が忙しくなってからいつのまにか辞めていた。お茶の先生としての祖母の指導はいつも厳しかった。帛紗の扱い方、歩き方、所作。細かい指摘に、反抗的な気持ちになった時期もあった。茶道の練習のために祖母の家を訪れたのだから練習に励むべきなのに、

「今日はなんか疲れたからお茶はしません!」

とかなんとか言って何度かサボってしまったこともあった。年に一度、たくさんの人が集まるお茶会に参加したときは、祖母や先輩方のお手前を拝見する機会があった。その空気は独特で、ピアノの発表会よりも緊張した。お茶碗を受け取る手が震え、長い正座で足が痺れた。着物を着て参加したときは、

「はおりちゃん、似合ってるよ」

「はおりちゃんが着物を着ると映えるね」

色んな人に褒められたが、苦しくて暑くて「早く脱ぎたい」という気持ちでいっぱいだった。今となっては懐かしい。


「どうぞ。いただきものの羊羹があったから出してみたよ」

 祖母が抹茶を立てて持ってきてくれた。泡が細かく、美しい緑が揺れる。懐かしいな。

「頂戴いたします」

と声をかけ、羊羹を切って手前から食べ進める。次に茶碗を両手で持ち、時計回りに二回回して口に運ぶ。抹茶の苦味と深い味わいが、心をうっとりさせる。

「お服加減はいかがでしょうか」

祖母の問いに、私は答えた。

「結構なお服加減でございます」

 懐かしさが胸に広がる。だが、ふと、窓の外の霧が濃く漂っているのに気づく。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、茶室の静寂に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、庭の木々が不自然に揺れ、仏壇の燭台の炎が一瞬ちらついた。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。懐かしい抹茶の香りさえ、この町の不気味な霧に飲み込まれている気がした。私は茶碗を握りしめ、祖母に微笑みながら、心のざわめきを抑えた。


 抹茶の余韻が残る中、ふと、祖母がかつて話していたことが頭に浮かんだ。大和霧宮神社や谷霧稲荷神社、そして「弱者を喰らう神」の噂。この辺りのことに詳しい祖母なら、何か知っているかもしれない。

「ばあちゃん、『弱者を喰らう神』って知ってるよね? 前に、ばあちゃんの知り合いの人の娘さんがそれで亡くなったって言ってなかった?」

「ああ、そんなこともあったね」

祖母の声は静かだったが、どこか重い響きがあった。「その話、詳しく聞かせてくれない?」

「いいよ。ちょっと長くなるけどね」

 祖母は抹茶を数口啜り、ゆっくりと話し始めた。


「和泉京子ちゃんって言ってね、私の仲良しのお友達だったのよ。京子ちゃんは体が本当に弱くてね。あんまり学校には通えなかった。そのせいか、肌が真っ白で、まるでお人形さんみたいに綺麗だった。お尻まである長い髪を、いつも三つ編みにしていたね。そこのお父さんが、弱者を喰らう神に詳しかったのよ。京子ちゃんの家に遊びに行くと、いつもその話を聞かされた。『霧の夜に神が目覚め、弱い者を喰らう』って。子供心に、怖いけど不思議な話だと思ったよ」

 祖母の目が遠くを見るように揺れる。


 私は息を呑んだ。和泉京子。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。青葉市の不審死や青葉市の平岡桃華さんの事件。すべてが、「弱者を喰らう神」の伝説と繋がっている気がした。祖母の話が続く中、窓の外の霧が濃くなり、庭の木々が不自然に揺れる。サラサラ。

「弱い子…」 

 囁き声が、座敷の奥から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。仏壇の燭台の炎が一瞬揺らぎ、祖母の顔に不気味な影を落とす。京子ちゃんの死は、ただの病気だったのか? それとも、この町の霧に隠された何かだったのか? 私は茶碗を握りしめ、祖母の次の言葉を待った。


祖母の話が続く。

「京子ちゃんの二番目の娘、美子ちゃんって言うんだけどね、小さい頃の京子ちゃんに本当にそっくりだった。あの時の京子ちゃんが時代を超えてやってきたんじゃないかって思うくらい。お人形さんのような白い肌に、長い髪を三つ編みにしていてね」

 祖母の声はどこか遠く、懐かしさと哀しみが混じる。「その美子ちゃんが亡くなったのは、小学三年生のときだった。いつも一緒に遊んでいた子たちが家に帰っても、美子ちゃんだけが帰ってこなかった。みんなで町中を探したのよ。美子ちゃん、美子ちゃーんって。でも美子ちゃんは翌朝になっても見つからなかった」

祖母の目が曇る。

「一緒に遊んでた子の中の一人が、ぽつりと言ったのよ。美子ちゃん、谷霧稲荷神社に行ったんじゃないかって。そこのお父さん、宣昭さんって言うんだけど、ほら、さっき『弱者を喰らう神』の話をしてたお父さん。美子ちゃんのおじいちゃんになるね。その宣昭さんが、ぽつりと言ったのよ。『神への供物』だ。美子はもう戻ってこないって」


 祖母がお茶を啜り、沈黙が座敷を包む。私は息を呑み、次の言葉を待った。美子ちゃんの失踪、谷霧稲荷神社、「神への供物」。こうきの失踪、ひよりの裏切り、月見市の不審死、青葉市の平岡桃華さん。すべてが「弱者を喰らう神」の伝説に繋がっている。胸のざわめきが止まらない。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、仏壇の奥から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。窓の外では、霧が庭を覆い、木々の影が不気味に揺れる。仏壇の燭台の炎が一瞬揺らぎ、祖母の顔に暗い影を落とした。美子ちゃんの死は、ただの失踪だったのか? それとも、この町の霧に隠された「供物」の一部だったのか? 私は湯呑みを握りしめ、祖母の次の言葉を待った。


 祖母の話が続く。

「それから何ヶ月か、いや、半年以上経ってからだったかな。美子ちゃんが見つかったのよ。遺体でね。京子ちゃん、それまではどこかで美子ちゃんが生きてるんじゃないかって信じてた。でも、遺体が見つかってから、すっかり弱ってしまって。あんまり外に出なくなって、それからはほとんど見かけなくなった。結局、京子ちゃんも早くに亡くなったのよ」

 祖母の声は低く、座敷に重い空気が漂う。私は息を呑んだ。美子ちゃんの遺体、京子さんの死。谷霧稲荷神社の「神への供物」という言葉が、頭の中で響く。

「そうだったんだね。悲しいね。他にもそういう話、ないの?」

 私は思わず尋ねた。


祖母は茶碗を手に、遠くを見るように目を細めた。

「おばあちゃんが小さい頃もね、いなくなった子がいたのよ。だけど、ただ『あの神社に子どもだけで行くな』って言われて、ずっと避けてたからね。当時のことをよく知ってる私の周りの人は、みーんな亡くなってしまったし。今となっては、あまり詳しいことはわからないね」

 祖母の言葉が途切れると、座敷に沈黙が落ちる。サラサラ。

「弱い子…」

霧谷町の囁き声が、仏壇の奥から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。窓の外では、霧が庭を覆い、木々の影が不気味に揺れる。燭台の炎が一瞬ちらつき、祖母の顔に暗い影を落とした。美子ちゃんの死、京子さんの衰弱、昔の失踪。すべてが「弱者を喰らう神」の伝説と繋がっている。こうき、ひより、月見市の不審死、青葉市の平岡桃華さん。この町の霧は、何を隠しているのか? 私は茶碗を握りしめ、祖母の次の言葉を待ちながら、心のざわめきを抑えた。


 祖母の話に心をざわつかせながら、この日、中学の同級生の中山あかりに会う約束をしていたことを思い出した。彼女も私と同じ看護学校を卒業し、今は霧島市内の総合病院で看護師として働いている。中学からの同級生だったが、仲良くなったのは高校に入ってからだった。あかりは私と違って明るく、友達が多く、クラスの中心的存在だった。だから、中学時代はほとんど親しくなかった。あかりは覚えていないと言うが、席替えで彼女が私の前の席になったとき、頻繁に話しかけてくれたことが嬉しかった。存在感が薄く、友達も少なかった私に話しかけてくれる人は少なかったからだ。あるとき、クラスの男子に

「下津家ってほんと、友達いないよな。ずっとひとりぼっちでいるの恥ずかしくないの? ぼっち! ぼっち!」と馬鹿にされたことがあった。あかりは即座に、

「お前の方が友達いないだろ。はおりちゃんにはあかりがいるんだから」

と頼もしい言葉で庇ってくれた。後で

「あの時のあかり、すごいかっこよかったよ」

と言ってみたが、彼女は全く覚えていないらしい。何気なくそんな良いことをできるあかりが、羨ましかった。


 あかりはクラスの中で少しチャラいグループに属していたが、素敵な心を持っていることを私は知っていた。高校のとき、一緒に帰る途中で、重い荷物を抱えてゆらゆら歩くおばあさんを見かけた。あかりは真っ先に声をかけて荷物を持った。またある時は、車椅子で店の入り口の段差を登れずに困っている女性を見かけると、

「こんにちは。一、二、三で乗り越えますね」

と明るく声をかけながら助けていた。困っている人にすぐ気づき、動ける彼女は本当に素敵な人だった。私はその場で何もできなかったが、彼女から多くのことを学んだ。声なき声に耳を傾け、動ける人になりたい。そんな思いが、私が看護師を続ける理由の一つになった。あかりの存在がなかったら、こうきの失踪や「弱者を喰らう神」の謎に向き合う勇気も、持てなかったかもしれない。


 だが、霧谷町の道を歩く今、霧が濃く漂い、木々の間からサラサラという音が聞こえる。

「弱い子…」

 囁き声が、あかりとの温かい記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、道の先で、木々の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪。美子ちゃんの死。あかりとの再会は、真相に近づく鍵になるかもしれない。私は震える手を握りしめ、祖母の家を後にし、あかりとの待ち合わせ場所へと向かった。


 この日、中山あかりとの待ち合わせは、高校時代によく利用していた霧島高校近くのファミレスだった。学校が終わると、友達とここに集まって色んな話をした。霧島高校の生徒の中には、テスト勉強や受験勉強のためにこのファミレスを利用する者もいたが、私は違った。塾までの時間を潰すために、よく通った。塾に行っていない友達も一緒になって、笑い声が響き合い、青春そのものだった。この場所は、私の青春の一ページを明るく彩ってくれた思い出の場所だ。


 明るい茶色の髪に、自然なつけまつげ、綺麗なブルーのカラコンをつけたあかりが、笑顔でやってきた。

「やっほ! 久しぶり! はおり、全然変わってないね!」

その明るさに、私も自然と笑顔になる。あかりはやっぱりすごい、と改めて感心する。

「お腹空いてる? ガッツリなんか食べる?」

「うん、割とお腹空いてる」 

と返す。私は親子丼定食、あかりは海鮮丼定食を注文した。

「あかり、仕事はどう?」

「まあ、ダルいこともめんどうなことも色々あるけど、楽しくやってるよ。はおりはどう? なんとか続けられそう?」

「うん、今のところはなんとかね。人間関係は全然問題ないんだけど、課題が本当に面倒で」

「あー、それわかるわかる。課題ほんとダルいよね。せっかく今の病院でラダー修得しても病院ごとに違うから、転職したらあんまり役に立たないって話も聞くし、なんとかしてほしいよね」

 世間話に花が咲き、笑い声がファミレスの喧騒に溶け込む。


だが、話題はふと、あの話に変わった。 

「はおり、失踪事件のこと聞いた?」

「うん、こうきから。でも、こうきもいなくなっちゃった」

あかりの目が一瞬曇る。 

「そうそう、やばいよね。やっぱり弱者を喰らう神?の仕業なのかな? はおりも気をつけなよ」

 その言葉に、妙な胸騒ぎがした。ファミレスの窓の外、霧が濃く漂い、街灯がぼんやりと滲んでいる。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、喧騒の隙間から聞こえた気がした。振り返るが、誰もいない。ただ、窓ガラスに映る木々の影が、不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死。あかりの軽い口調とは裏腹に、霧谷町の不気味な霧が、私の心に忍び込んでくる。私はフォークを握りしめ、あかりの次の言葉を待った。


 あかりとファミレスで別れ、姉のひよりが迎えに来るのを待ちながら、ふと保育園の頃のことを考えていた。幼い頃、私は、外でうまく喋れなかった。喋りたくなかったわけじゃない。喋りたい、喋りたくてたまらないのに、言葉が喉の奥でつっかえて出てこなかった。後になって、それが場面緘黙症という名前だと知った。頭の中ではいつも完璧だった。保育園に着いたら先生にはこう話しかけよう、友達に話しかけられたらこう答えよう。何度も何度も頭の中で練習して保育園に向かった。でも、いつもダメだった。声を出そうとすると、喉が締め付けられるように固まり、言葉が出てこない。喋れなくなってしまうのだ。


でも、家では違った。

「今日ね、わたしね、かおりちゃんとね、お店屋さんごっこして遊んだんだよ。じゃんけんしてね、店員さんになるかお客さんになるか決めたの。私はね、ずっと負けてね、私が三回もお客さん役したの。ブロックのお店でね、それでね…」

友達が家に遊びに来ても、いつも通り普通に話せた。

「はおりちゃん、保育園の時と違うね。いっぱい喋ってておもしろいね」

遊びに来た友達にそう言われた。そんな私を見て、母は言った。

「はおり、わざと喋らないんでしょ? かおりちゃんのお母さんも、そうまくんのお母さんも言ってたよ。はおりちゃんは喋れないの?って。あなたのせいでお母さんがどんな思いしてるか知ってる? 私を困らせたいんでしょ? だからわざと外で喋らないんでしょ?」

母の声は、だんだん悲鳴に変わっていた。私はそんな母に怯えた。

「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい。はおりは弱い子で、はおりはダメな子でごめんなさい」

 本当は母を困らせたくなんかなかった。陰でそんなふうに言われていることも知らなかった。私は一人、声を押し殺して泣いた。普通になりたい。みんなと喋りたい。保育園で元気に友達と話す子たちを見ながら、そう願った。神様、お願いします。お友達とお外でも喋れるようにしてください。


 今、霧谷町の道端でひよりを待つ私の背後で、霧が濃く漂い、街灯の光がぼんやり滲む。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、幼い日の記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、道の先で木々の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死。あの頃の「弱い子」という言葉が、「弱者を喰らう神」の伝説と重なる。私は震える手を握りしめ、ひよりの車が近づく音に耳を澄ました。


 ひよりの車に揺られ、実家に向かう道のりで、窓の外の霧を眺めながら考える。これが私の弱さの根源かもしれない。保育園の頃から小学校に上がって少し経つまで場面緘黙症に悩まされていた私は、毎朝、玄関先で指を折りながら「おまじない」をしていた。

「大丈夫、大丈夫」

 指を折りながら十回呟くと、母に

「大丈夫よ、はおりは強い子」

と言ってもらえた。その瞬間、心に広がる大きな不安が、ほんの少しだけ軽くなる気がした。

「あなたは強い子だから」

 いつか大人に言われたその言葉を、ずっと反芻してきた。幼いなりに、必死にその言葉に応えようとした。自分で「私は強い子」と言い聞かせ、辛さを忘れようとしたのかもしれない。でも、心の底では、ずっと、ずっと辛かった。苦しかった。私は、ずっと、ずっと弱い子だった。


 自然と頬を涙が濡らす。

「お母さん、ごめんなさい」

 空に向かって呟く。でも、私、変わりたい。強い子になりたい。母みたいに、強くてまっすぐな人になりたい。だから、見てて。私、下津はおりは頑張るから。絶対に強くなって見せるから。決意を胸に刻むが、車窓の外では霧が濃く漂い、木々の影が不自然に揺れる。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、過去の記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、霧の向こうで、谷霧稲荷神社の鳥居がぼんやりと浮かんでいる気がした。ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死、「弱者を喰らう神」の伝説。私の「弱さ」が、この町の霧と繋がっている気がしてならなかった。私は震える手を握りしめ、実家の灯りが近づくのを待った。


 実家に着いた私は、ふと、父方の祖父母のことを思い出した。彼らの家もまた、霧谷町にあった。父から聞いた話では、私の曽祖母はかつて「弱者を喰らう神」の儀式について詳しく知っていたという。その神から逃れようと、曽祖母を訪ねてくる人が後を絶たなかったらしい。実家で荷物を整理し、すぐに父方の祖父母の家に向かうことにした。母方の祖母の家とは正反対の方向にあるその家は、どこか独特の雰囲気をまとっていた。敷地の入り口を木々が覆い、まるで秘密基地のような趣があった。すぐ横には屋根付きの駐車場があり、その先には、今は使われていない物置と化した、かつての子ども部屋がある。小さな扉を開けると、広々とした畑が広がっていた。夏には茄子やゴーヤ、トマトが実り、子供の頃、よく収穫を手伝ったものだ。


 畑の中央には大きな柿の木が立っていて、秋になると美味しそうな柿がたわわに実った。そのそばにはおしゃれなベンチがあり、春先には家族みんなでレジャーシートを広げ、祖母の作った料理を頬張りながらお花見を楽しんだ。畑の奥には竹藪が広がり、春には筍掘りをしたこともあった。だが、その竹藪には蛇がよく出て、蛇嫌いの祖母や私には恐ろしい場所だった。なかなか近づけず、いつも遠くから眺めるだけだった。懐かしいな。いろんな思い出が胸をよぎる。だが、父方の曽祖母が知っていたという「弱者を喰らう神」の話が、頭から離れない。あの儀式とは何だったのか? こうきの失踪や美子ちゃんの死と、どう繋がるのか?


 祖父母の家へと続く道を歩きながら、霧が濃く漂い、竹藪の間からサラサラという音が聞こえる。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、懐かしい記憶に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、柿の木の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、月見市の不審死、青葉市の平岡桃華さん。曽祖母の知っていた秘密が、この町の霧に隠されている気がした。私は震える手を握りしめ、父方の祖父母の家へと急いだ。


 新しい住宅が立ち並ぶ住宅街を抜け、古い建物が数件並ぶ一角に、父方の祖父母の家があった。目の前の田んぼでは、子供の頃、よくおたまじゃくしを眺めたものだ。夏には、車通りの少ないこの道で、従兄弟たちと並んで手持ち花火を楽しんだ。あの頃の楽しかった思い出に浸りながら、敷地に入る。景色は何も変わっていない。まるでタイムスリップしたかのような懐かしさに、心を奪われた。木々が生い茂った通路を進み、玄関のチャイムを鳴らす。

「はい、はーい」

 祖母の元気な声が響く。

「あら、はおりちゃん、よくきたね」

「こうして見ると随分大きくなったな」

 祖父と祖母に迎えられ、靴を脱いで中に入った。


 部屋の中には、懐かしい空気が立ち込めていた。祖父母の家は、私が幼い頃から何一つ変わっていない。居間の入り口にかけられたカレンダーには、祖母のこまめな字でびっしりと予定が書かれている。その横の棚には、綺麗な日本人形と、私や姉のひより、従兄弟たちの写真が丁寧に並ぶ。

「はおりちゃんの好きなピーナッツ煎餅もヨーグルトもあるよ」

 祖母が台所の奥から明るく声をかけてくる。私は仏壇に手を合わせ、曽祖母の遺影にそっと挨拶してから、居間のテーブルの前に腰を下ろした。だが、窓の外では霧が濃く漂い、田んぼの向こうで木々の影が不自然に揺れている。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、懐かしい家の静けさに忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、仏壇の燭台の炎が一瞬ちらつき、日本人形のガラス目に奇妙な光が映った。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死。曽祖母が知っていた「弱者を喰らう神」の秘密が、この家のどこかに隠されている気がした。私は手を握りしめ、祖母の次の言葉を待った。


 居間のテーブルに腰を下ろし、祖母がゆっくりと話し始めた。

「私のお母さん、はおりちゃんにとってひいおばあちゃんはね、霊媒師だったの。それで、全国あちこちから色んな人が訪ねてきてた。はおりちゃんが知りたいのは、弱者を喰らう神のことよね。ひいおばあちゃんはあの儀式にとても詳しかったの。だから、神から逃れようと何人もの人がやってきてた。私は詳しいことはわからないんだけどね。弱者を喰らう神から逃れる方法が、ひとつだけあったみたいなの」

 祖母の言葉に、私は唾を呑んだ。

「逃れる方法?」

 興味津々に身を乗り出し、話に聞き入る。


「うん。弱者を喰らう神に供物をする必要があるのだけど、供物として、身近な人を捧げるのよ。それには適切な手順で儀式をする必要がある。手順を間違えれば、その人自身が供物になってしまうんだよ」

背中にゾクゾクとした寒気が走った。身近な人を捧げる? そんな恐ろしい儀式が、本当にこの町で行われていたのか?

「その手順って?」

と、思わず尋ねる。祖母は少し目を伏せ、首を振った。「うーん、それが昔、一度だけ聞いただけで、それも今から何十年も前、小さい頃だったから忘れてしまったのよ。ごめんね」  

 少しがっかりしたが、この手がかりがあれば、調べれば何か辿り着けるかもしれない。心に希望と不安が交錯する。


 窓の外では、霧がさらに濃く漂い、田んぼの向こうで木々が不自然に揺れている。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、居間の静寂に忍び込む。振り返るが、誰もいない。ただ、棚の日本人形のガラス目に、奇妙な光が一瞬映った気がした。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死。曽祖母が知っていた「供物」の儀式が、この町の霧に隠された秘密と繋がっている。仏壇の燭台の炎が揺らぎ、祖母の顔に暗い影を落とす。私は手を握りしめ、祖母の話した手がかりを胸に刻んだ。


 父方の祖父母の家を後にし、実家に戻って布団の上でうとうとしていると、突然、携帯が振動した。慌てて画面を見ると、着信はなんとこうきだった。

「え? こうき? 無事なの? どこにいるの?」

 思わず声を上げ、電話に出る。こうきは密かに「弱者を喰らう神」の秘密を探っていたらしい。失踪した彼女たち——真由、彩、美穂——の行方を追いながら、彼は奇妙な体験をしたという。

「直接会って話したい。明日、喫茶店に来れるか?」

 その言葉に、私は即座に答えた。

「もちろん。知ってることは全部教えてもらうよ」

 電話を切り、胸がドキドキと高鳴る。真実は、すぐそこまで来ているかもしれない。


 だが、窓の外では霧が濃く漂い、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。サラサラ。

「弱い子…」

 霧谷町の囁き声が、こうきの声に重なるように聞こえた。振り返るが、誰もいない。ただ、窓ガラスに映る木々の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、美子ちゃんの死、曽祖母が知っていた「供物」の儀式。こうきの話が、この町の霧に隠された秘密を解く鍵になるかもしれない。私は布団を握りしめ、明日の再会を待ちながら、心のざわめきを抑えた。


 翌日、喫茶店「霧の里」で、私はアイスコーヒーを片手にこうきの話を聞いていた。

「俺、見たんだ。弱者を喰らう神に供物する儀式。正確には霧の贄って言うんだけどな」

 興奮気味に話すこうきの声に、私の胸も高鳴る。

「俺、夜の十二時前ぐらいに、毎日、谷霧稲荷神社に通ってたんだ。それで一週間ちょっとたったある日、やっと見れたんだ。仮面をつけた高齢男性と中年のおじさんとおばさん、若い男の人、それから供物になる若い女性がやってくるのが」

 こうきの目が鋭く光る。彼の話はあまりにも鮮明で、背筋が冷たくなる。


「午後十一時半、町民数人が松明を手に持ち、沈黙を守る。二〜三人の高齢男性が祭壇の前に立ち、仮面を被り、他の町民を見渡すんだ。この時点で、霧が徐々に濃くなってきて、視界が狭まった感じがしたんだ。午前零時、供物は神社の離れから二人の長老に連れられ、ゆっくりと参道を歩いて広場へ向かう。白い着物と赤い紐が霧の中で浮かび上がって、まるで幽霊みたいだった。供物は無表情で歩くよう指導されているけど、恐怖や抵抗を見せる場合もある。町民は供物に目を合わせず、地面を見つめる——神の嫉妬を避けるため、だそうだ」

 こうきの声が低くなる。

「零時十分、供物は供物台に座らされ、長老が神酒と供物米を供える。長老の一人が霧鈴を三回鳴らし、儀式の開始を告げる。鈴の音は異様に長く響き、霧の中で反響する。長老が巻物から呪文を唱える。『霧よ、喰らえ…魂を…捧ぐ…』。低くて、抑揚のない声で、聞き取れない言葉が混じってるんだ」

 私は息を呑み、こうきの次の言葉を待った。


 喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、街灯がぼんやり滲んでいる。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、こうきの話に重なるように聞こえた。振り返るが、誰もいない。ただ、窓ガラスに映る木々の影が不自然に揺れている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、美子ちゃんの死、曽祖母の知っていた「供物」の儀式。こうきの見た光景が、霧谷町の闇を暴く鍵かもしれない。私はアイスコーヒーを握りしめ、心のざわめきを抑えながら、こうきの話に耳を傾けた。


 こうきの話は続く。

「零時三十分、供物は長老に導かれ、谷霧稲荷神社の裏手の森へ向かう。町民は広場に残り、松明を地面に突き立て、目を閉じる。このとき、町民は『神の歌』と呼ばれる単調な旋律を低く歌い始める。歌詞は意味不明で、恐怖感が増すんだ」

 こうきの声が震え、喫茶店の喧騒も遠ざかる。

「その後、供物は一人で贄の岩まで歩かされる。長老たちは岩の手前で立ち止まり、供物に『神の元へ進め』と告げる。供物が岩に近づくと、霧が急に動き出し、渦を巻くような現象が起こる。零時四十五分から一時頃、供物が贄の岩に触れると、霧の中から不気味な音——囁き、咆哮、または無数の足音——が聞こえ始める。供物は霧の奥へ歩みを進め、視界から消える。この瞬間、松明の炎が一斉に揺れ、風もないのに強い突風が吹く。町民は歌を止め、完全な沈黙に包まれる。霧鈴が最後に一回鳴らされ、儀式の終了を告げる。霧が徐々に薄れ、町民は松明を消して静かに帰宅する。供物の行方は誰も語らず、家族は感謝の意を込めて神酒を飲むよう促される。翌朝、贄の岩には新たな小さな石が置かれ、供物の名前が刻まれる。岩の周囲には、血痕や不気味な模様が現れることがあり、町民はこれを『神の満足の証』とみなすみたいだ」


 こうきの言葉に、私は息を呑んだ。供物、贄の岩、霧の渦、不気味な音。あまりにも生々しいその光景が、頭の中で再現される。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死、曽祖母が知っていた「供物」の儀式。すべてが「弱者を喰らう神」の伝説と繋がっている。喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、街灯がぼんやり滲む。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、こうきの話に重なり、背筋を凍らせる。振り返るが、誰もいない。ただ、窓ガラスに映る木々の影が不自然に揺れ、まるで霧の渦のようにうごめいている。私は目の前のアイスコーヒーを握りしめ、こうきの次の言葉を待った。真実は、すぐそこにあるかもしれない。だが、同時に、この町の霧が私を飲み込もうとしている気がした。


こうきの話はさらに続く。

「この儀式に必要なものは、次の八つだ」

 彼は指を折りながら、目を輝かせて説明し始めた。私はアイスコーヒーを握りしめ、息を呑んで耳を傾ける。


「まず、供物。八~二十五歳の若い女性で、町で生まれ育ち、未婚で『純潔』、かつ『弱者』——身体的か精神的に脆弱な人とされる。儀式当日、白い麻の着物に身を包み、髪は解かれ、素足で臨む。首には『贄の緒』って呼ばれる赤い紐が巻かれる」

 こうきの声が低くなる。

「次に、松明。神社の広場と参道を照らすために町民が持つ。松脂を塗った木材で作られ、燃えると独特の煙と匂いを放つ。この煙は『神を呼び寄せる』って言われ、霧と混ざって異様な雰囲気を作るんだ」


「三つ目は、神聖な鈴、霧鈴だ。神社の祭壇に置かれた古い青銅製の鈴で、儀式の開始と終了を告げる。音は低く響き、霧の中で反響して不気味な効果を生む。伝承じゃ、鈴の音が神の注意を引きつけ、供物を『見つける』手助けをするらしい。

 四つ目は、贄の岩。神社の裏手の森にある苔むした巨大な石碑。表面には古代の文字や模様が刻まれてるけど、風化して読めない。岩の周りには、過去の供物の名前が刻まれた小さな石が円形に並んでる。儀式の終点だ」


「五つ目は、供物台。神社の祭壇に置かれる木製の台で、供物が一時的に座らされ、浄化の祈りを受ける。台には黒い布がかかってて、血みたいな赤い染みが薄っすら見える——過去の儀式の名残か、わざとなのかはわからない。

 六つ目は、神酒と供物米。神に捧げる清酒と特別に栽培された白米。供物が持つ小さな木箱に入れられ、贄の岩に置かれる。酒と米は神の『食欲』を満たす前菜で、供物の魂を引き立てるんだって」


「七つ目は、長老の法衣。儀式を主導する長老たちが着る黒と灰色の法衣。霧を象徴する渦巻き模様が刺繍されてて、頭には神の目を模した紙製の仮面を被る。仮面は町民に威圧感を与え、儀式の神秘性を高める。

 最後に、呪文の巻物。長老が唱える古い呪文が書かれた巻物。文字は町民には読めず、長老だけが解釈できる。神を鎮め、供物を『受け入れる』よう説得するらしいけど、内容は曖昧で、ただただ不気味な響きなんだ」


 こうきの話に、私は言葉を失った。供物、贄の岩、霧鈴、血の染み。これらが谷霧稲荷神社の儀式場で、こうきの見た光景で、曽祖母が知っていた秘密と繋がっている。ひよりの裏切り、美子ちゃんの死、月見市の不審死、青葉市の平岡桃華さん。すべてが「弱者を喰らう神」の闇に飲み込まれている。喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、木々の影が渦のように揺れる。サラサラ。「弱い子…」

 囁き声が、こうきの話に重なり、背筋を凍らせる。振り返るが、誰もいない。窓ガラスに映る私の顔が、一瞬、赤い紐を巻いた白い着物の女に見えた気がした。私はアイスコーヒーのグラスを握りしめ、心のざわめきを抑えた。


 こうきの話はさらに続く。

「俺、儀式が終わってみんなが解散する時に、長老の一人に見つかっちゃって、めっちゃ怒られたんだ。罰としてその人の家に何日か泊まり込んで、掃除やら何やら頼まれて大変だったよ。この話は絶対に外に漏らすんじゃないって、スマホまで取り上げられてさ。だけど、そのじいさんが俺を解放する時に、色々教えてくれたんだ。霧の贄についてな」

 こうきの声が低くなり、喫茶店の喧騒が遠ざかる。私はアイスコーヒーを握りしめ、彼の次の言葉に耳を傾けた。


霧の贄の始まり


 時は数百年前、霧谷町がまだ「谷間の集落」と呼ばれていた頃。山奥にひっそりと佇む集落は、豊かな土壌と清らかな川に恵まれていたが、ある年、災厄が訪れた。空は灰色の雲に覆われ、作物は枯れ、川は濁り、疫病が人々を次々と奪った。集落の住人は祈りを捧げ、獣を生贄に捧げたが、災いは止まなかった。絶望が広がる中、ひとりの旅人が霧の向こうから現れた。


 旅人は名を明かさず、黒い外套に身を包み、顔はフードで隠されていた。手に持つ杖には奇妙な刻印があり、声は低く、まるで霧そのものが囁くようだった。

「お前たちの苦しみを終わらせよう」 

と旅人は告げ、集落の長老たちに一つの提案を持ちかけた。それは、谷の奥深くに眠る「古の力」との契約だった。

「力は飢えている。弱者を喰らい、その魂を糧とする。代わりに、お前たちの集落を守り、繁栄を約束する。ただし、一度契約を結べば、裏切ることは許されない」


 長老たちは躊躇した。だが、子供たちが病で死に、飢えが迫る中、選択肢はなかった。旅人の導きで、集落の者たちは谷の奥、霧が最も濃い場所へ向かった。そこには巨大な石碑が立っていた。苔と蔦に覆われ、表面には今にも動き出しそうな渦巻き模様が刻まれていた。これが後に「贄の岩」と呼ばれるものだった。


旅人は長老たちに儀式を教えた。

「最も弱い者を捧げなさい。純粋で、穢れなき魂を。そうすれば、力は目覚め、汝らを守る」

 長老たちは集落で最も貧しく、病弱な娘、ミツを指名した。ミツは孤児で、誰にも顧みられず、か細い声で歌を口ずさむのが唯一の慰めだった。彼女は抵抗する力もなく、ただ怯えた目で長老たちを見上げた。


 喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、木々の影が不自然に揺れる。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、こうきの話に重なり、背筋を凍らせる。振り返るが、誰もいない。窓ガラスに映る私の顔が、一瞬、白い着物を着たミツの姿に見えた気がした。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、美子ちゃんの死、曽祖母の知っていた「供物」の儀式。こうきの話した「霧の贄」の起源が、霧谷町の闇をさらに深く暴く。私はアイスコーヒーを握りしめ、こうきの次の言葉を待った。この町の霧が、私を飲み込もうとしている気がしてならなかった。


こうきの話はさらに続く。

「今から話すのが最初の儀式だ」

 彼の声が一層低くなり、喫茶店の喧騒が遠ざかる。私はアイスコーヒーを握りしめ、息を呑んで耳を傾けた。


最初の儀式


 秋分の夜、集落の者たちは松明を手に、霧深い谷へと進んだ。ミツは白い布に身を包まれ、首に赤い紐を巻かれた。旅人が低く呪文を唱えると、霧が渦を巻き、贄の岩が微かに震えた。ミツは震える足で岩に近づき、涙を流しながら言った。

「私を…見捨てないで…」

 その瞬間、霧が彼女を包み込んだ。集落の者たちは目を背け、耳を塞いだ。だが、ミツの叫び声は霧を突き抜け、獣のような咆哮と混ざり合った。やがて、音は途絶え、霧が晴れた。贄の岩には小さな血痕が残り、ミツの姿は消えていた。


 翌朝、集落に奇跡が起きた。枯れた田に稲が芽吹き、濁った川が清んだ。疫病は消え、太陽が雲を突き破った。集落の者たちは歓喜したが、長老たちの目には恐怖が宿っていた。旅人は姿を消し、二度と現れなかった。


こうきの話に、私は言葉を失った。ミツの叫び声、血痕、霧の渦。この最初の儀式が、霧谷町の「弱者を喰らう神」の伝説の始まりだった。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、こうきの失踪、美子ちゃんの死、曽祖母の知っていた「供物」の秘密。すべてがこの恐ろしい歴史に繋がっている。喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、木々の影が不自然に揺れる。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、ミツの叫び声と重なるように聞こえた。振り返るが、誰もいない。窓ガラスに映る私の顔が、一瞬、白い布に包まれたミツの姿に見えた気がした。私はアイスコーヒーを握りしめ、こうきの次の言葉を待った。この町の霧が、私を飲み込もうとしている気がしてならなかった。


こうきはグラスのカフェオレを飲み干すと、声を潜めて続けた。

「それ以来、集落は『霧谷町』と名を変え、7年ごとに『霧の贄』の儀式を行うようになった。ミツの魂が贄の岩に宿り、『弱者を喰らう神』として目覚めたと長老たちは語った。だけど、夜の霧の中で、ミツの歌声が聞こえるって囁く者もいた。彼女は神になったのか、それとも神に喰われたのか、誰も知らない」

 こうきの目が一瞬遠くを見るように曇る。


「町民たちは繁栄を享受したけど、儀式を怠ると霧が異常に濃くなり、行方不明者や怪奇現象が続出した。長老たちはそれを『神の怒り』と呼び、町民に恐怖を植え付けた。やがて、儀式は伝統になり、疑問を口にする者は『裏切り者』として追放された」。彼の言葉に、背筋が冷たくなる。「町の古い記録には、旅人の正体についての断片が残されてた。旅人は『霧の眷属』を呼び醒ました呪術師だったのか、それとも神そのものの化身だったのか。贄の岩に刻まれた渦巻き模様は、実は旅人の杖と同じだったって噂もある。そして、ミツの最後の言葉『見捨てないで』は、霧の中で繰り返され、供物たちの魂が神の一部として永遠に囚われていることを示唆してる」


「そして今も、『弱者を喰らう神』に若い女性を供物として捧げることで、霧谷町の平和と繁栄を守ってる。儀式が深夜、午前零時から二時の間に行われるのには理由がある。この時間帯は霧が最も濃く、神の力が最大になるからだ」

 こうきの話に、私は息を呑んだ。ミツの歌声、贄の岩、旅人の謎。すべてが霧谷町の闇に繋がっている。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、美子ちゃんの死、曽祖母の知っていた「供物」の秘密。喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、木々の影が渦巻くように揺れる。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、ミツの歌声と重なり、背筋を凍らせる。振り返るが、誰もいない。窓ガラスに映る私の顔が、一瞬、白い着物を着た女の姿に見えた。霧の奥で、ミツが「見捨てないで」

と囁いている気がした。


こうきの話に耳を傾けながら、さっき聞いた「供物」の条件を思い出した。八~二十五歳の女性で、町で生まれ育ち、未婚で「純潔」、かつ「弱者」——身体的・精神的な脆弱性を持つとされる。私は思わず確認する。

「ねぇ、こうき。最近、行方不明になった子たちって何かあったの? 弱者と捉えられるような何かを持っていたってこと?」


 こうきは一瞬目を伏せ、静かに答えた。

「ああ、犠牲になった一人、佐藤真由。彼女はたった一人の肉親である母親を急病で亡くして、心を病んでいた。二人目の田中彩。彼女は高校を卒業後すぐに上京し、都内の大きな会社で会社員をやっていた。だけど、健康診断で重い病気が見つかり、治療のために地元に戻ってきたらしい。三人目の林美穂。高校卒業後、公務員として地元で勤務していたけど、酷いパワハラに悩まされてた。地元だから辞めたら世間体が悪いって思って、必死に耐えてたんだ。しばらくして、うつ病を発症して休職した」


 彼の言葉に、胸が締め付けられる。真由、彩、美穂。それぞれが「弱者」と見なされ、霧谷町の闇に飲み込まれたのか。谷霧稲荷神社の儀式場、ひよりの裏切り、美子ちゃんの死、曽祖母の知っていた「供物」の秘密、ミツの叫び声。すべてが「弱者を喰らう神」の伝説と結びついている。喫茶店の窓の外では、霧が濃く漂い、木々の影が不自然に揺れる。サラサラ。

「弱い子…」

 囁き声が、真由、彩、美穂の名前と重なり、背筋を凍らせる。振り返るが、誰もいない。窓ガラスに映る私の顔が、一瞬、白い着物を着た女の姿に見えた。私はアイスコーヒーを握りしめ、こうきの次の言葉を待った。真実がすぐそこにある一方で、霧谷町の霧が私を飲み込もうとしている恐怖が、胸を締め付けた。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ